それからさらに一つ。レイは彼に六つ目の魂を接いだ。
そもそも魂の分割、というのは今あるものを半分にする、という行為だ。ゆえに、後半になればなるほど半分にした魂そのものの大きさはかなり小さなものとなる。比例して負担は小さくなってゆくのである。
そのはずなのに、より丁寧に、時間をかけて彼はレイを求める。砕けた心のすき間を、接いだ魂の合間を互いの魔力で埋めてしまえば。なかったことになんてできやしないのだ。
それがどんなに特別なことか。愛情にあまりに疎い二人は気づくことができない。それこそが最大の誤算だった。
魂を接いで、黄昏の中で各々好きなことをする。読んでいた本から顔を上げればレイの先輩は珍しく目をつむっていた。ここの外では毎日過剰なまでの仕事をしている彼である。疲れ、というのもあるだろう。魂を戻したとて人類として肉体の限界を超えたわけではない。彼の場合そのうち軽く飛び越えそうな趣もあるが、今はまだ人間なのだ。
レイはそんな彼をじっと見つめる。まつ毛の影が落ちる美形。両手の親指と人差し指で額を作って彼を閉じ込めればどうしようもないほど絵になった。
「へっへっへ……美人って凄いな、俺ですら芸術家にする……!」
「……なにが?」
「あれ。おはようございます。うるさくしてごめんなさい」
彼はあくびをかみ殺すとすっかり冷えた紅茶を飲んだ。その所作の麗しさにさえ、溜息が出る。レイとしてはあの指先でつまみあげられたカップになりたいほどだった。
「なんか気持ちの悪いこと考えてるだろ」
「やだぁ、開心術ですか?勘弁してくださいよぅ」
「そっちが勝手に開いてるからしかたないだろう」
彼はレイの額を小突くと指を一つ振る。たったそれだけで紅茶からはふわりと香気が立ち上がった。優しい温度のそれを彼は口に含んで頬を緩める。
最早杖すら必要ないと言わんばかりに行使される鮮やかな魔法。特別な才能。魔法の申し子。もしかすると、有史以来最も美しい魔法使いかもしれない。ここまで上等に魔法を使うことは逆立ちしたってできないからこそ、レイは感嘆の息を漏らす。
「天才っていうのは先輩のことを言うと思います」
「君だって埒外の薬をいくつも作ってる」
「それとこれとは話が別ですよ」
確かに理論は美しいが魔法薬学は、一定の才能さえあれば誰にでも再現できるのが強みだ。時間と丁寧さ、そして少々のセンスさえあればきっと幸運薬すら誰にだって作れるだろう。少なくともレイはそうであると確信している。
「いくらなんでも自己評価が低いな。僕はそんな低レベルなものを手元に置いているつもりはない」
「そうやって俺を甘やかす~!先輩ってば優しーんだから」
褒めてもこれくらいしか出ませんよ、とポケットから小瓶に入った何らかの液体を取り出す。ラベルにはアクロマンチュラの毒、と書いてあった。確かに希少ではあるこれを素材のまま受け取って何をしろというのか。
「僕がそれを貰っても、目の前にいる可愛い後輩に飲ませて致死量を探る実験をする、くらいしか使い道が思いつかないのだけれど?」
「アクロマンチュラの毒か。まだ舐めたことないな。先輩、待ってて。効果がありそうな解毒薬用意してから声かけますね」
「レイ。君はおかしい」
「褒められた?」
「……そう思うならそれで」
彼だって短からぬ付き合いのレイの性根が比較的マッドなサイエンティストであることは承知していた。しかしながら意地悪な冗談を真に受けるとは思っていなかったのだ。それこそ明確な呆れを浮かべてしまうほどに。どうしてこのタイプの冗談だけ不思議とやってみようリストに加えてしまうのか。
目の前で血反吐を吐かれても面倒である。魔法を行使するだけ、とは言っても片付けるのは一体誰だと思っているのか。彼はレイが思い切った遊びを始めてしまわぬよう、気を逸らすことにした。
「アクロマンチュラの毒よりガトーショコラの方が味がいいと思うけど」
「それはそう。だけど、もし美味しかったらどうしよう」
強い毒性を持つ者って案外美味しかったりするよね?と真っ直ぐすぎて焦点がいまいちあっていない目でレイは小瓶に手を伸ばした。始末に負えないのでここはもう暴力で解決すべきだろう。彼はレイが持った瓶の形状をその手の中で、鋭い針だらけのものに変えてやった。
「いっ!!!」
それでも驚いて取り落としたりしないのがレイの凄いところである。そっと毒液入りの瓶を机の上に戻した。万が一にでもこの場で瓶を割るようなことがあれば二人で中毒は免れない。
「内ポケットに戻せ。今すぐ」
「はぁい……え?棘のまんま?」
彼は舌打ちを一つすると瓶を元通りにしてやった。そして苛立ちを隠すかのように、今度こそレイの好物を机の上に用意する。とんでもない味の物でも出してやろうかとも思ったのだが思い留まる。品質の守られていない菓子を出したが最後「先輩が出すものでもこんな味なことが……ううん、食べれるよ、食べれる……」と死んだ目でグルメな一面を披露するに決まっているのだ。
彼にとっての自分は全てにおいて完璧でなければ、天才の名が廃る。これは不思議な感覚であったが、先輩という機能をもってここにいる以上、レイの味覚にそこまでの意地悪ができないのである。
レイはおやつを提供されたのが嬉しかったのだろう、けらけらと笑いながらフォークでケーキをつつく。オレンジのジャムと生クリームを添えたチョコレートケーキは確かに口に合ったらしかった。
「先輩、将来的にはケーキ屋さんやるの?」
「は?」
「すっごい美味しいよ、これ」
その能天気な様子に、いっそ彼の方が自分の正気を疑いたくなる。確かにここまで壊したのは自分だ。そうなるように徹底的に砕いてやった。それはそれとして、あまりにも能天気が過ぎるのではなかろうか。
毎日のようにこの部屋に入り浸って子供として過ごすうちに丸く削れてしまったのだろうか。まるで、外なんて存在しないかのように、今の自分にとってはありもしない未来だとでも言わんばかりに。レイはこの場所を今であると定義しているようにすら見えるのだ。
「……。僕の将来の夢がケーキ屋だったらどうする」
「闇の帝王ではなく!?なぁに、そんなに可愛い夢あったんです、か……ごめんなさい、ごめんなさい、クルーシオは嫌です!」
「どうする?」
「先輩がケーキ屋さんならきっと、ブラックココアを使った真っ黒なお菓子ばっかり作るんでしょうね。闇より深い漆黒のレアチーズケーキ、死すら超越する混沌のショートケーキ、お前のおなかにエンゴージオ、ダークネスシュークリーム……」
「……」
「名付けてケーキショップ死の飛翔。帝王様のお墨付き」
「クルーシオ」
「ひっぎ……!」
「魔法、というものはイメージの力。そう教えたね」
「っ、ぎぃ……あ、ぁぐぅ……」
「無言呪文というものは敵に何を使ったか解され難い代わりに精度が少し落ちる。僕レベルともなればほとんどの場合は誤差だけれども、呪文を口にし、正確に効果を思い描くと、一声でこれだけの効果が出せるというわけだ。低コストハイリターン。上級者同士の戦闘ならまだしも、日常においては呪文は唱えた方が効率がいい」
覚えたかな?とレイに微笑みかけてクルーシオを解いてやれば息も絶え絶えに、よくわかりました、と素晴らしいお返事が返ってきた。レイはげっそりした様子でおやつに戻る。
しばらくの沈黙。それに耐えられなくなったのはレイだった。基本的にはお喋りなのだ。
「あ、そうだ。先輩。なんかあだ名付けていいですか?」
「あだ名?今まで通りの先輩だと不都合でもある?」
「だ、だって!なんだかあだ名呼びって特別感あるじゃないですかぁ。誰も呼んでない、特別な呼び方。そうしたいと思うの先輩に世界で一番可愛がられてる俺の特権じゃありません?」
それはレイの持っている独特なロジック。彼は特別な関係というものに異様なこだわりをみせるのだ。
確かに、名前というのは一番最初の魔法である。かつて、自分も元の名前を捨て新たに生まれ変わった。強大な魔法を行使するためにはそれ相応の名前が必要だということは知っている。
「なら……またアナグラムでもしようか」
「またって?」
「そうか。まぁみてて」
そういうと彼は虚空に杖を走らせた。紡がれたのは美しくもなんともないマグルの父親の名前。それを、彼が考えうる中で最も偉大な名前へと組み替えたのである。
おまけに、名前の周りに火花や蛇なんかを散らせばそれだけで何かの見世物のようだった。レイが思わず拍手をする程度には。
「ははーなるほど。それでこんなみょうちきりんな名前に」
「今なんて?」
「ぐぅえ、チョーカー引っ張らないで、ぐえぇえ……」
彼はレイを解放すると煙る名前を散らしてしまった。そもそもあだ名、だなんて今更おかしなことを言いだしたのはレイである。
「僕を不愉快にさせたいならそう言ってくれればいいのに」
「そーいうつもりじゃないんですけど。結果的に先輩が勝手に不機嫌になったんでしょ……」
もう一回引っ張ってやろうか、と指先でジャスチャーすればレイは激しく首を左右に振った。
「意外だなって思っただけです、父方の名前をアナグラムにしたの」
「それはどの点から?」
「だって、マグルの名前ってことは人間の名前じゃないってことでしょ」
「はは、君、そういうこと言うタイプだったっけ?」
「父方の名前が嫌なら、母方の旧姓を使えばいいと思うんだけど」
そうレイが問えば彼の顔は歪んだ。確かに魔法族の名字だ。それも、スリザリンに通じる由緒正しい名前。
とはいえ、長らく蔑んでいた母の名前なぞ、果たしてこの自分にふさわしいだろうか。没落した家。純血を穢しマグルの血を継いだ子供を産んだ忌々しい女の名前など。
それでも、レイは気になるらしく妙に目を輝かせていた。その視線に負けて普段であれば口にしないその名を告げる。
「ゴーント」
「え、ゴーントってあのゴーント?」
その名前に驚いたような反応を見せるレイである。それに少しだけ不快感を覚えた。もし、この名前を笑うようなことがあったらもっと苛烈な呪文でその身を貫いてやろうと。けれど、レイの口から漏れたのは全く別の言葉だった。
「ペベレル家から続いてる、由緒正しいゴーントでしょ?先輩にピッタリでは?」
彼は、レイのある種わざとらしい物言いを訝しく思い、心を覗く。けれどその心中にはそれ以上の感情はないようだった。
「予想外のビッグネームに震えてるよ俺。いいんですか?そんなスーパーお貴族様な先輩が日本の商家の息子でしかない俺になんかかまけてて」
レイは自虐的に笑う。すっかり闇に覆われた世界では特段意味のない括りではあるが、自分が所詮成金の息子であるという自覚はまだ残っているのだ。貴族は貴族とつるむもんじゃないの?そんな風に問うてしまうのも無理はない話だろう。
「先輩が呼びたいなら俺のこと友達って呼んでくれてもいいんですよ?」
「僕には友達なんて必要ない」
「ちぇ!友達だったら永遠なのに!」
拗ねたみたいに口を尖らせたレイの子供っぽさにゆっくりと絆される。永遠、など。彼にとっては最早造作もないことだった。レイが望めば与えてやれる自信がある。けれどまだその時ではないのだろう。蛇の化身はそれを見誤らない。
「まぁ。先輩には俺という献身的な後輩がいますしね。友達に変わって俺が一騎当千してあげましょう」
「友達、でなければ隣にいられる、と?」
「……なんか前にもこんな話しませんでしたっけ。友達ってなんだろう、みたいな?デジャヴ?」
「したけれど関係ない話だ」
「そっか、ならどうでもいいか」
レイはまるで小さな花でも見つけたかのように楽し気に笑っていた。本当にそれがどうでもいいことであり、言葉の意味すら遠いとでも言わんばかりの態度である。
「これは確認。君はゴーント家がどうなったか知ってる?」
「えぇ……?俺別にイギリス魔法界に詳しいわけじゃないから知らない、」
「じゃあどうしてペベレル家の名前を?」
「俺、本読むの好きでしょ。留学当初、英語学習の一環で図書室にある童話系の本読み漁ったんだよね。吟遊詩人ビートルの物語とか。それに出てくるじゃん。ペベレル家。で、本当にいたのかしら、って気になって調べたら実在だっていう。ポッター家とかゴーント家はその子孫なんでしょ?そういう知識はあるけど、今を生きてる人に関しては興味なくってぇ」
まぁ、さ。先輩が生きてるってことは脈々とその血は続いているってことだけはわかりますけどね。
なぜか得意げに胸を張ったレイである。彼のために再度暖かなカフェオレを入れてやれば喜んで飲んだ。
古来より、魔法使いはマグルに比べれば数多くの記録方法を持っていた。ゆえに、童話の人物であっても血脈を辿ることが容易いのだ。他者の記憶をそのまま再生できる憂いの篩などはよい歴史的資料である。
魔法貴族たちはこぞって肖像画を残すし、それらは口をきく。絵具と記憶である彼らだが、物によっては生きている人間とほとんど変わらないような思考をする者さえあった。
簡単な肖像画ですら読み手によって受け方が変わる本とは比べ物にならないほどの情報量を有しているのだ。魔法界において、昔話として語られるものの正当性は様々な記憶と記録が担保していた。
「その指の石も、先輩の家の家宝だったってことでしょ。納得。死の秘宝って三つあるんでしたっけ?」
「珍しく覚えがいいね」
「座学という座学の成績は良かったんですよ」
まぁ、どうでもいいけどね。そんなものなくても俺が先輩のこと殺させてなんかあげないからさぁ。だなんてレイは生意気なことを言っている。死から逃げる、ではなく真っ向から時間を止めにかかっているのだ。もう、どうだっていいから。手の中にある最後に残ったものをもう二度と失いたくないだけだった。
「リドル、もトム、も。先輩にはふさわしくない。安直につけられた借り物の名前なんて。そう思ったからこそ先輩は自分に新しい名前を付けた。でしょう?」
淡い桃色の虹彩が彼を射抜く。自分にほど近い色彩に心を掴まれる気がするのはどうしてなのだろう。
「だったらなおのことゴーント先輩、でいいと思う」
レイは彼に手を伸ばした。そしてその胸元に触れる。その随分と大胆な行動に、珍しく心を揺さぶられたのは彼の方だった。
「これは、ない話なんだから。実際の時間の流れの中では俺と先輩が学生服で会うことは絶対にありえない。だから過去でも今でも未来でもない」
これはずっと囚われてくれるという契約なのだ。
存在するはずのない過去、あり得ない未来。でも、この箱庭の中でだけはそんなおままごとを自分たちに許した。自分は十七歳で、レイは十五歳。何者でもなかった、何者にもなれなかった黄昏の夢。
「子供のころ欲しかったものがずっと側にあった世界。ただの一つも失敗しなかった物語、そんな幸せな物語の主人公でいいじゃん、ゴーント先輩はさ」
この部屋から一歩でも外に出れば世界はまるで様子が違うのに。それでも。ゆっくりと魂が混ざり合う感覚に酔いしれた。欠け違えたボタンなんてなかったと言わんばかりに。
そして、ついに六つ目のかけらが固着して十八年。
残ってるのはたった一つ。今は亡きハリーポッターの魂に引っかかっていたごく小さなそれだけだ。
「レイ」
「なんですか、ゴーント先輩」
「今日は、今日だけはリドルって呼んでいい」
「その名前、嫌いなんじゃ?」
「今日で本当に捨てるから。最後に君の声で呼ばれたい」
「あはは!それでもトムは嫌なんだ?」
「それは僕の名前じゃない」
「リドル先輩」
きゅう、と年の割に小さなレイの体を抱きしめて、まるで懇願するように触れる。何かを言いかけたレイの言葉すら飲み込んで、今となってはどこも痛まない体でレイに情を注ぐ。魔力の容量が人並み以下の彼に目いっぱい。いっそ殺してしまうんじゃないかというほど膨大な魔力を。
内から他者に書き換えられる感覚、というのは、自我が強い人間ほど酷い苦痛を伴うはずなのだ。しかし、今のレイにとっては快楽に等しかった。
この場所には欲しかったものによく似た何か、があった。彼の側に居れば自分なんかなくてもいい。情を傾けた誰かに望まれるのであればその通りに形を変えることも厭わない、献身と呼ぶにはあまりにも破滅的な友情を、レイは彼に対して感じてしまったのだ。それは紛れもない特別な情。
全て受け入れて、自我でさえもとろかし、混ざりこむ。それこそ、レイの瞳の色が深紅に変質してしまうほどに。
七つ。ついにあと一つで魂が元に戻る。致命的な敗北から長い時間をかけて。
愛すら手中に収めた、欠けたるところのない闇の帝王は死すら超越しようとしていた。