夜。レイは彼にとっての楽園を訪れる。
ノックに返ってきた、おいでの声は途方もなく優しい。
魔法の扉を一つくぐればレイのチグハグさは集約され彼の思う正しさに還元された。もう、この学校では誰も着ていない緑のローブは彼の体に沿ってぴったりとフィットする。
時の流れに合わせて無理やり大人になった自分は今ここにはいない。ここにいるのは普通で普遍で世界で一番幸せなスリザリンの男の子だ。
「ゴーント先輩」
談話室の真ん中で優雅に本を読む愛しの先輩。彼は本から目を上げて手招く。その隣に座れば美味しいカフェオレとガトーショコラが勝手にサーブされた。好きなもののことをなに一つとして我慢する必要がない。だって自分は、ただの学生で、大好きな先輩の後輩だ。
夢だ。全部夢。本当に欲しかった世界の幻を見ているだけ。みぞの鏡と一緒。死ぬまでの間にたったひと時、見せてもらえてるだけの悪夢みたいな稀夢。
だから、レイは幸せなまま彼におしまいを問う。
「今日で、俺のやること終わるわけですが」
「もしかして、捨てられるとか思ってる?」
十九年懇意にしてもらっといてあれですが、正直そろそろ飽きられてる可能性あるなってぇ、とレイがふざけた調子で言えば彼は笑った。ちょっと気分を害したらしかったがまだ仏スマイルである。それでもこの人は仏よりは明らかに短気だ。気をつけよう。
「だ、だってさぁ、ゴーント先輩。先輩の目的は魂の回復でしょ。で、それが達成された今、俺をお気に入りにしておく必要はない、あってるよね?これは覆らない事実、で……」
机の上。読んでいた本を置いて彼は腕を組んだ。栞を挟むだけの動作すらあまりに鮮やかであったが、独り相撲を演ずるレイの目には入っていないようだった。
「俺はほら、可愛がられるタイプじゃないし、ねぇ」
「僕がとるに足らないものを手元に置くと思うのか君は」
緋色の瞳に映り込んだが最後、動けなくなる。レイは身を固くして何かを踏み抜いたことをようやく自覚した。
「それとも何かな。君には僕以上に欲しいものがある?」
この指輪とか?手を取ってわざと触れさせればレイは小さくごめんなさい、と呟いた。今この場での謝罪がどんな意味を持つか理解しているのだろうか。
十五の姿に戻った彼はひどく不安定だ。不遜に笑ったかと思えば卑屈になり自己肯定感が地の底まで落ち込んだりする。
それもこれも彼の調整が効いているのだ。彼という人格を塗り替えてしまうために様々な手段で追い詰めた。今の彼からは何をせずとも明確に精神の揺らぎを感じられるほどである。
自由こそが人の魂のあり様だと紡いでいた唇すら、最早そうだとは口にも出さないだろう。おそらく、もう何もわかっていないのだ。肉体という意味にだけ縛られた哀れで矮小な僕の後輩。好都合なので直してやるつもりなんて彼の心の内にはない話であった。
今だってそうだ。魔法薬に関すること以外で自分に向けられるどんな情もありえない、とでも言わんばかりの振る舞いをしている。
それは、自分の役目とされていたほとんど二十年にわたる大実験が完了するから仕方のないことだろう。そうであることはヴォルデモー本人も理解している。けれど、闇の帝王として、彼としてしまった約束が彼の心をいらだたせるのだ。
「君の先輩は僕だけだよね、レイ」
優しい先輩のまま。笑いかければレイは指輪ごと彼の手を握る。泣くのを必死にこらえた声で、捨てないでと呟いたのは日本語。彼はなぜだか可哀想がいやに似合ってしまう。
「レイ、何が欲しいの、君は」
真実薬みたいに思考を犯す声。どんな毒薬よりも深い毒であるのに、レイはそれを飲み込む。これしかなかった。すべてを自分に向けてほしい。何もかも自分だけにしてほしい。そのためだったらどんな対価だって渡せてしまう。
「せんぱい。先輩だけ。ゴーント先輩、」
だからこそ、ヴォルデモーは気づけない。心中で渦巻くこのおかしなほどの執着こそ、レイという人間を一番よく表す感情なのだと。そんなもの持ってはいなかったはずの自分がいかに彼に狂わされてしまっているか、を。
君と望む永遠なんてもの、そもそも誰の欲望だったのか。今の彼にはもうわかりやしないことなのである。
「ちゃんと言えて偉いね。僕に捨てられると思ってたんだ」
空いている手で頬を撫でればレイはついに泣き出してしまう。けれど、それを拭ってやって永遠を捧げれば表情は途端に明るくなる。そんなレイを甘やかす口実が欲しくて、彼は用意していた最後の魂の欠片をレイに渡した。
こんな精神状態とはいえ、魂についての研究においてその分野では最早並び立つ者すらいなくなったレイだ。完璧すぎる処方で薬の分量などを決めているので、もはや苦痛はほぼない。
レイは促されるままに彼の制服の胸元を寛げた。そうして、新雪のごとく美しいそこに魂のかけらを差し込む。小さなそれを逃してしまわないように欠けている部分に沿わせて、縫い合わせる。後は彼が薬を飲んで、これが固着したらそれでおしまい。
彼の苦痛が少しでもなくなれば、と手を当てたままレイは真剣に魂の姿を見つめる。
すでに潤沢にその体には魔力が戻っている。元より、彼のかけらではあるし、なじみは早いはずだ。これだったら今晩中には全てが終わるだろう。
待ちわびた瞬間、なのに。もうレイには明るいところへ戻る資格なんてなかった。
「魂は、これで元通り。だから、次は。不老不死。こっちは何となく算段がついたんですよねぇ」
胸元から手を離して彼のボタンを留める。ネクタイだって丁度いい位置に戻した。完全無欠。美しき闇の帝王。でも、いまはレイだけの先輩。
「ほんとに優秀だな君は。この僕でもたどり着けなかった極致にどうやって手をかけたの?」
「聞いてくれます!?ついさっきなんですよ気づいたの!万能くっつけ薬の有用性について今なら一晩語れんだから!」
いままでに何匹の羊を費やしたことか!レイは大騒ぎで彼に研究結果を語る。先ほどまでの影はどこかへ失せて、無邪気で、できばえを褒めてほしいといわんばかりの子供っぽい態度。
彼にレイの魂の形を見る術があったのなら、きっと。それを形よく整えてやったに違いない。けれど、その技はレイだけが持っている神秘の形だ。元の形なんてもうわかりやしないガラス片は月の光に愛されて鋭く輝く。
「いいよ。聞かせて」
「うん!」
心臓が甘やかに痛むから、そのたびに口を塞いで。恥じらうレイから滲む、自分と同じ色した魔力に満足して。レイの精神性なんてまるで無視したお人形遊び。レイの最奥に秘された記憶にすら嫉妬するこの身は限りなく浅ましいはずなのに、それが心地よいのだ。
ほんの戯れだったのそれに炎がともる。くすぶる欲で絡めとる。時間はいくらでもある。だから、僕を見て。その美しい瞳で。
「ねぇ、先輩」
彼の腕の中で、レイは扉の外の話をする。それは、来てしまう明日で、レイが持っている、最後の砦の話でもあった。
「多分明日。あの子を元の世界に帰してあげるんだ。最初で最後の先輩面だからさ、手出ししないで見ててくれる?」
俺の新たな一面見れちゃうかも。
空っぽのわりにきれいに微笑んでみせるレイはどこまでも甘い。今、自分が行ってはいけないと言えば彼はすぐに行かないという選択をするだろう。そこまで丁寧に堕としてやったのだ。
けれど、レイに残るわずかばかりの希望が彼にとっては邪魔で仕方がないのだ。レイの中に自分以外がいるなど到底許せる話ではない。たとえ当人にそれが分かっていなくても、いつの日にかノイズになるだろう。であれば、リスクは早々に潰しておくに越したことはない。
「なら。君には特別をあげる」
彼は杖をとってレイの右手の甲にあてた。そして、レイには理解できない何事かを呟くと触れた箇所が熱をもつ。じわじわ浸食されることにさえ恐怖など覚えず、レイはそれをじっと見ているだけだった。
刻まれたのは今まで見たことのない意匠。てっきり、髑髏に蛇のあれかと思っていたレイは首をかしげる。
「闇の印じゃないんだ?」
「特別だって言っただろう」
ウロボロスに白い花。その意匠が一体なんであるかレイにはすぐに分かった。円環の蛇に林檎で失楽園。彼らしい文様に笑みが深まった。
きっと。約束を破ったら蛇に内側から食われるのだろう。どんな形になるかはわからないが。少なくとも無事ではいられない。なのに、随分とつぶらな面持ちの蛇である。
明確に刻まれた所有の証に喜ぶレイをしり目に彼はほくそ笑む。今まではレイの身体に悪意を持って傷をつけることなどできやしなかったのだ。特に、彼にとっては諸悪の根源たる自分は。触れることさえ拒まれるほどだったのに。緩やかに慣らして、馴染ませてついにここまでたどり着いた。
あの教師の守りは生きている人間が戒めたにしては根深く強いものだった。けれど、それはいつしか綻んでしまったのである。レイがもう戻れない所まで来てしまったと自覚したときに。
「えへへ、嬉しいなぁ」
愛情とは純粋な呪いだ。純粋ゆえに融通が利かない。守るべきものとして固定した領域からはみ出してしまえば最後。その形はあっけなく崩れる。
あとほんの少しで、レイのための守りそのものすら引き剥がしてしまえるだろう。
「ちゃんと帰ってくるんだよ」
君の居場所はここだから。
優しく頭を撫でる。深い赤紫は緩いウェーブ。自分が手入れしてやってようやく言うことを聞くようになった髪。爪の形に至るまで自分好みに変えた可愛い後輩。
分け合うぬくもりが心地よいのか、ゆっくりと目を閉じる。
「ちゃんと。本当に、あなたの俺になるから」
「うん。おやすみ」
額に受ける口づけは安眠のお守り。レイはひとり、黄昏の夢に溶ける。