夢を見た。
きっと、久しぶりに彼の笑顔を見たからだ。
誰もいないクィディッチ競技場で一人、カーディガンを抱えている。裾には黄色のライン。胸元にさりげなく入っている刺繍は親愛なる先輩の名前。
夢の中の自分は随分小さくて、まるきりあの頃の姿だった。六月だと認識しているのにこんこんと雪が降っている。意味が分からない天気でも不思議だと思わなかった。それこそがこの場が夢であることの証左だ。
カーディガンを着れば温かいことはわかっていた。あの人であればきっと袖を通すように言いつけるであろうことも。
それでも、これは返すものだと思っているから。彼の許可なしで羽織ることすらおこがましい気がして。
鼻先はすっかり冷たいのに眼前に広がるのは青々と茂る緑の迷宮。入ろうか、入らまいか悩み続けている。
視界に入った掌は少女のようなそれ。小さく、頼りない。杖と羽ペン、そして鍋を混ぜるための棒しか持ったことがないような線の細さだ。
あぁ、今の自分はあの日の自分。何もできない自分。魔法の使えない魔法使いだった。だから、もし奇跡的に先輩に追いつけたとして先輩を助けることなんてできるはずがない。この自分では、どうにもできない。それを突き付けられるのだ。あの時、同じ時間を生きてしまった自分では。
なにか、他の手立てが必要だ。でも、そんなのどうやって見つけたらいい。すべてを作り変えることのできる究極の一手が欲しい。
「夢の通い路っていうけど、相手が死んでる場合ってノーカン?」
正直、彼に関する夢なんか幾度となく見ている。良夢から悪夢まで、考えうる限り全部。友情という一時の快楽に溺れたこの肉体は繰り返し魂に幻を見せるのだ。そうでもしないとレイという魔法使いの心臓は今にも止まってしまうとでも思っているのだろう。
そう考えたら癪に障った。
レイはカーディガンを抱えたまま、迷路の入り口に向かう。一歩、一歩と足を進めればそのたびに体が痛んで視線が上がる。
迷路の入り口。レイはそこに立った。入ることは勿論、選手以外がのぞき込むことすら許されていなかった深淵。これは夢だ。自分の脳が思い出しているだけの幻想。だから、自分の思い通りにできるはずなのだ。
レイが入り口に寄れば無音だったはずの世界に音が混ざり始める。ルードバグマンの声とホグワーツマーチ。知っているのに知らない歓声。人の脳はタイムターナーにも負けない時間跳躍力を持っている。
特に、ホグワーツマーチはレイのトラウマを刺激する一級品の音楽だ。これほど素晴らしいものもない。首の後ろが痛くなって、早くなり続ける心音に思考が呑み込まれかける。
それを抑えるためにレイは呼吸を深くした。これは、本物のあの日じゃない。俺の脳が作り出した幻覚。だから、ほら。俺の意識で改変できるはずだ。この魂は誰にも縛られてなんかいないから。
「よし」
レイはカーディガンに袖を通した。このカーディガンは本来レイのクローゼットにしまってあるものだ。もはや、セドリックが着ていた時間より、自分が持っている時間の方がうんと長い。そろそろ所有権が自分に移るころ合いかもしれない。何が何でも絶対に返すけれど。
「本物はクリーニング済みなんで、夢の中でだけ。もう一回貸して、セド先輩」
ぶかぶかだったはずのそれは、少し大きい程度になっていた。それでも背の高いスポーツマンであった彼のこれは不健康魔法薬学教師にはいまだに大きい。
レイは空っぽになってしまいそうな心を宥めて迷路に向き直る。夢、というものは本当に適当でカーディガンの上にいつの間にかローブを着込んでいた。
いける。どこへだって。この迷路の一番奥にまでも。だってもう自分は魔法の使えない子供じゃない。彼に手を伸ばすためにありとあらゆる手段を備えた大人なんだから。
見慣れた学生ローブの内ポケットには杖が一本。それと沢山の薬品。ボンボニエールと手帳。彼がいなくなってからレイが手に入れたものの全てだった。
「あー、夢なんだけどなぁ、手が震えるや。かっこ悪い」
彼の代わりに死ねたらよかった。この命と引き換えに彼をこの世界に生かしておいてくれるのならそれでよかった。この自己犠牲の精神をかってくれる神様が居さえすればレイは喜んでこの身を捧げるだろう。
一歩、踏み込む。本来であれば選手以外を拒絶するであろう森も、この場の支配者が誰であるかはわかっているらしく、大人しくレイを通した。
どこかへいけるはずがないと頭でわかっていながら、レイは進む。これは妄執だ。二十年以上たった今でもあの友情に固執している。
だって、初めてだったのだ。外のコミュニティからこちらに向かって笑いかけてくれた人が。友達と呼んでくれた人が。小さく狭いレイの世界に差し伸べられたその手が。これを永遠にしたいと願った事の何が悪いのか。
会いたいのだ。一目だっていいから。名前を呼んでもらうだけだって構わない。この世界ではにかんでいて。ちょっと照れたみたいに。
醒めない悪夢の中、レイは彼の口から紡がれる目覚めの言葉を待ちわびている。
暗い森の中、レイはここで何が起きたか知らない。知らない話を脳は描けない。だからこそ、知っている話で埋めようとするのだ。レイが持っているのは、迷路中央にある優勝杯がポートキーになっていて、その先に忌々しい墓場があった、という事だけ。その情報を繋げて勝手に処理される。
「俺の頭ならもっとハッピーな夢見せてくんない?」
こんな場合でも主人公にはなれそうにない自分に呆れる。そりゃ確かに、自分はセドリックが死にさえしなければごくごく一般的なモブだろう。もしもこの世界が誰かのための物語であれば確実にただの背景にすぎない。それこそ、ハリーポッターのための英雄譚であれば、なおのこと。
けれど、今のここは自分が転寝のすきに見ている脳内世界に他ならないのだ。なんでも思い通りの主人公になりたい願望があるわけではないが、それだって、どうせ見るなら幸せなそれがいいだろう。
こんなにむかつく夢を見させるならこっちにだって考えがある。
レイは深く息を吐いた。肺の中に残っていた、現実の名残を外へ押しやって夢の世界に浸る。そして、腹が立ったので迷路の中央向かって走った。
その途中、黄と黒の競技用シャツを着た誰か、とすれ違う。見間違うはずもないその姿。声をかけようにも早すぎて追いつけない。もとより早くはないけれど夢の中はどうしてこんなに足が遅くなってしまうのか。
「セド先輩!」
呼んだ声が届かなくたって、何度でも。それで変わる未来があるのなら、喉が潰れてしまったって構わない。
彼の背中を追って最奥へとたどり着く。舞台、そのゼロ番の位置にはポートーキーなんてものはなくて、薄汚れた小男と彼が抱く闇の帝王の成れの果てがいた。
彼らは薬の力を持って復活せんと仇の血を呼び込む。それがハリーポッターただ一人であると、未来を知るレイは理解している。
ポケットから杖を取り出す。誰も、自分のことを見ていない。それはそうだ。本来の自分はこの英雄譚の外側。この場にいることなんてありえないのだから。
観客席から茶々が入るだなんてこいつらは一切思いやしないだろう。あぁ、もしかして。もしかすると。このまま歴史さえ変えてしまえるかもしれない。
あの大鍋をひっくり返すだけで、きっと。何もかもが変わるだろう。
行ってしまえ、知らない未来へ。自分にはその権利があるはずだ。今なら、飛び出せる。
舞台は恐ろしい墓場。主人公はハリーポッター。敵役と、その従者。役者はそれで十分だろう。哀れな被害者なんて役どころセドリックディゴリーには役不足。そんな端役、俺の先輩にやらせんじゃねぇよ。
先輩はヴォルデモーに殺された哀れな子供じゃない。英雄譚の犠牲の一人じゃない。そんな数字として消費してくれるな。だってセドリックディゴリーは。
「俺の友達なんだから」
彼がいないと突き付けられるたびに、自分が彼にならねばならないと思い込んだ。だって、悔しいじゃないか。あんなに素晴らしい人が、この世界にいないだなんて。自分なんかよりもっとずっと価値のある人がどこにもいないだなんて。
あの人が居ない世界こそ、夢になれ。
「あぁもう!意志が弱いったら!」
マクゴナガル相手にもう終わりにすると口にした。アルバス相手に大逆転なんてないと言い切った。それは紛れもない事実。でも、いいだろ夢の中でくらい。
呼びかけても、彼が振り返る様子はない。あぁ、畜生。ハリーの心配ばっかりして。自分の心配しろよ。もういいよ、優勝杯持って帰っちゃえよ。これは知っているから言えること。何が起きたのか知らない二人にとっては何もかもが未知の恐怖。
そのはずなのに、セドリックは後輩のために凛としていた。その高潔さが眩しい。
流石ミスターパーフェクト。流石、俺の先輩。ねぇ、お願い。このまま二人で帰ってきてくれよ。
動こうにも、体の自由が利かないことに気づく。アクシオもいまなら一撃で決められる。まだ二人が気づいていない煮込みヴォルデモーを作るための大鍋に穴だってあけられる。杖腕をあげて、磨いた呪文を放てばいいだけなのに。
レイが言うことを聞かない肉体と戦っていれば、この場の支配者が声を上げる。今にも死んでしまいそうな老人の声色。やせ細った哀れな赤子のような体躯の彼を恭しく、それでも恐怖に支配された表情で抱えた小男のいやらしい笑い声共に。
「ワームテール、客人はそろったのか」
「はい、帝王様……」
開幕のベル代わりのオーグリーの鳴き声が一つ。レイを観客に、緞帳が巻き上げられた。
ここから先を知っている。何があって、どうしてあの悲劇に行きあたるのか。こんな脚本くそくらえだ。
誰かを守りたいという思いが、圧倒的な悪の前に容易く砕け散るなんてつまらない芝居、滅茶苦茶になってしまえ。そんなバッドエンド、ちっとも欲しくない。
夢から醒めたように上がった杖腕。レイの口をついたのは武装解除。しかし、それが杖先から放たれることはなかった。それより前に声が聞こえたから。レイは思わず振り返ってしまったのだ。そこには誰も居ない。
しかし、確かに呼ばれた。良く知った誰かの声で先生、と。
視線の先には穏やかな光。迷路の奥の暗がりではない場所を淡く照らしている。とたん、あの場にあったはずの意識が自分の持っている現実に引き戻された。
覚醒。指先からじわじわと夢の世界での肉体を失う。残るのはきっと、また何もできない自分だ。いつでも、遅い。どうあがいても手だけが届かない。そんな無力感がレイの心の中を一杯にしてしまう。
自分は魔法使いになったはずだ。無理を通して道理も通す、そんな埒外の存在に。なのにどうして、先輩だけ救えないんだろう。
もしも、魔法が使えたら。
魔王の言葉なんか聞き入れないで、世界の半分と言わず世界丸ごと手に入れてみせよう。自分は野心溢れる蛇の子だ。失楽園すらお手の物、そのはずなのに。
「あーーーー、最悪!」
アラームの音に引き上げられて世界を開く。次の授業まではあと十五分。二度寝の余裕は勿論ない。くちゃくちゃの目元を拭って、スペアミントの効いたハーブティを入れた。
「四十は不惑じゃないのかよ」
正しさとは何なのか。そんな青すぎる疑問は子供の頃に決着をつけておくものだろうに。心の中の十六歳はいまだに答えを出せないでいる。だから、惑うのだ、
人生経験と、培ってきた仮面のおかげで、岐路に立たされた時に何を選ぶべきかはきちんと理解できるようになった。選ぶべき道は一つしかない。それこそが友達に恥じない生き方だから。
それでも。そんなの嫌だと心が叫ぶ。他の道を探そうと足掻く。諦めるだけで楽になれるのに。足元がいつまでたっても固まらないのはきっとそのせいだ。
ハーブティーをすすれば鼻も通った。幾分かすっきりしたので、レイは授業の支度を進める。魔法というのはこういう時に便利で、どんなにボロボロであっても杖の一振り、薬の一滴で調子のよい自分に戻れる。
そして、ひとつ。思っていたことを実行に移すことにした。レイはじっと左の小指を見つめる。これは約束を守るための指だ。意味もちょうどいい。
いくつかの薬品を口に含み、レイはアルバス専用のお守りを作る。痛みのマスキングをする薬品は肉体が発する危険信号まで押しとどめてしまうからなるべく使いたくないが、致し方なし。
レイは呪いにも似た祈りを込めて、サシェに偽装したお守りを仕上げた。我ながら最高に怖いし、気色悪い。けれど最善手がこれしか浮かばなかったのだ。魔法理論が発達した今だって古典的なおまじないが一番効果を発揮する。
「あっはー、これにはプラナリアもびっくり~」
自作の薬はあまりに有能。だから、あっという間に小指の先に感覚が戻ってくる。
「授業に私事を持ち込まない、それは先生のすることじゃない、よっし……授業です」
引きつる小指を携えて翻した重たいローブ。蝙蝠のとばりで夢の世界に別れを告げる。
鑑の中に結ぶのは先生の顔。こうしてレイは準備室を後にした。