短縮に短縮を重ねて、あっという間に地下へ誘われる。正直言ってグリフィンドール生たちはこの教室にあまりいいイメージがない。それでも、スネイプの根城だった頃よりは随分と明るい教室になっていた。
レイは扉に鍵をかうと机と椅子を横に避ける。全ての説明責任をはしょっているのでそのうちロンあたりに突っ込まれそうだが、本気で時間がないのだ。
「いいか?今から君たちに魔法をかける」
「どういうことだよインチキチキチキスリザ、」
「「ロン?」」
嫁と妹の声は彼にもよく聞こえるらしい。すっと視線を逸らしてレイに小さく「続けて」というではないか。ちょっとだけ気持ちがいい。
「思ったんだよ。二人が何か間違って過去を変えた場合、僕らはそれに気づくことができない。ローズとヒューゴがいなくなったときみたいに。だから、今から全員に魂保護の魔法をかける」
「そうね、そもそも二人が生まれてこない世界になってしまったらもう二度と、誰も」
さっと青ざめたのはドラコとハーマイオニー。頭の回転が速い二人は現状という概念の危うさに気づいたのだろう。現在、なんていうものは砂上の楼閣。嵐が巻き起これば途端に平らになってしまうものなのだ。
「レイできるのか」
「任せろってんだ。こちとら魂運用のプロだぞ」
レイが杖を一振りすると基礎的な魂保護がかかった。圧縮という力技を使ってからこっち、魔力の運用が抜群にうまくなった自信があるのだ。
「基本保護終了。あとは応用編。ちょっとみんな近くに寄ってくれる?」
レイに言われるがまま、一所に集まる。そして、レイは彼らに向かってもう一度杖を振った。が、レイの手が止まる。
「どうしたんだ!?」
「まさか、アルバスに何か!?」
「うっさいパパズ。ちょっと黙って」
ネガティブ魔法を用いた魂の運用が何より得意だった。ほんのついさっきまで。それがこの一瞬で変わってしまう。杖先から魔法が出せる気がしないのだ。レイは舌打ちをして別の手段に出ることにした。
「わが魂に銘ずる。陰と陽との交雑をば何人たりとも破ることなかれ。変容を避け、魂を守り給え。この場にて久遠の守りを発動す。陰陽の七、仮囲い」
レイは日本語でそれらしいことを言いつつ淡く光る液体を教室へと撒いた。小瓶の中身とは思えない光量のそれはひと時まばゆくなり、すぐに落ち着く。しかし、効果は確かなようで教室内の人間は自分の中に薄膜が張ったような、見知らぬ感覚に気おされていた。
「今のは……?」
「日本で使ってる古いタイプの魔法だよ。魂運用して、願って祈って言葉で世界を変える。これであの子たちが世界を変えちゃったとしてもこの効果が薄れるまで現在地点に関する認識が変わっちゃうようなことはない」
無論、大嘘である。マホウドコロに通っていないレイには陰陽道の知識も神道の心得だってない。
これはムーンカーフ成分の入ったあの薬を応用したものだ。保護することで【今】から存在を浮かせる。その副作用として薬が効いている間は時間感覚が恐ろしく狂うかつ、魂への一切の干渉ができなくなってしまうが。
いわば今の自分たちはどこにも所属していないゴーストに近い。無論、体にいいわけがないので自分の魔法が使えるようになるまでの一時しのぎである。
「容量は多少オーバーだけど、みんな我が強いから大丈夫。むしろ丁度いいかも」
見知らぬ薬品をバーっと撒いて、はい守りました!記憶保持もパーフェクト!というより効果がありそうな気がするだろう。演出というやつだ。大概の場合この男は適当である。
それに、相手がグリフィンドールばかり、というのもある。こういう単純なかっこいい振る舞いに騙されやすいだろう。
「へぇ、確かになんかポカポカする」
ロンは胸元に手をやると興味深そうにソワソワしていた。効果覿面すぎていっそ怖い。そんなんだから双子の兄に面白いように遊ばれるのである。仮にもジョークショップのオーナーとしてどうなんだ、と柄にもなくレイが心配してしまうほどだった。
「これはどれくらい持つの?」
ジニーの問いかけにレイは追加の小瓶を差し出した。先ほどの薬は超高濃度であるため経口摂取は絶対にできない。ただ、その効果を限りなく薄め、持続力だけに特化したものがこれだ。さっきのをブースターとして、効果を引き延ばすための薬である。
「あれで丸一旦。正直そんなに体にいいもんじゃないから多用は不可。記憶の改変は、すなわち歴史の改変だからそうとわからぬうちに勝手に書き換わる。おかしいと思う間もない。だから、この瓶一本を三回に分けて飲んで。それでもリミットは最長二日。その間に僕らはスコーピウスとアルバスを救い出さなきゃならない」
言い切ったところでレイは自分が冷や汗をかいていることに気が付いた。心臓が締め付けられるように痛い。鼓動を感じるたびに苦痛が募るのに早く、早く、と脈速が上がり続けている。
「っぅ……、」
アイロンをかけてぴっちり折りたたまれていた薄布が元の形に戻ろうと必死に暴れる。意識を手放せば楽だが、それを許すつもりはなかった。肉体の痛覚を捨てて思考がありえない速度で回る。
この状況から導き出される答えに行き着く。でも、でも、もう少し。俺のこと待たせたんだから、その気持ち、ちょっとでも味わっててよ。
「レイ、レイ!?」
「すごい汗だ、胸が苦しいのか?!」
「だ、じょ、ぶ……ぃ……」
「痛み止めは!?」
「んぶ……、」
吐き出す物のない胃が痙攣して裏返った様な心地。彼の記憶の中で一番近しいのは、脱狼薬を味見した時くらいの拒絶感だ。レイは目の前が真っ黒になりそうなのを何とか耐えて杖を構える。後輩女子に情けない姿を晒しているけど、もうそんなの気にするもんか。
「ステラカスカディア……」
杖先から魔法は出ない。その代わりにびりっ、と右手に衝撃が走る。久しく魔力が通っていなかった回路に無理矢理にそれを流せば内側を電気が走ったみたいに痺れたのだ。いっそ死にたくなるような苦痛。なんなんだよもう。俺って魔法使えるようになるためには絶対に死にそうなほど痛い思いしなきゃなんないのかよ。
「いっっってええ!もう!いやだもうばか!嫌い!痛いのホントきらいっ!」
魔力回路の形が変わる。今までのズルはこれで帳消しだ。おそらくこれは世界で唯一自分にしかわからない感覚。骨が軋み、肉が戦慄き。体の形すら変える。
何事もなく順当に育った自分、という"もしも"がこの身に強制的にインストールされているのだ。それはとんでもない肉体的負荷。まさか、世界線の変更をこの身で感じることになろうとは。
朦朧とする意識の中でアルバスの痕跡を追う。大丈夫、まだ第三の課題だ。どのタイミングから五分なのかはこちらからではわからない。けれど、すぐに帰ってくるはず。
そしたら、そしたら、ああ早く。君たちのことが大切だから。ちゃんと俺の手元に帰ってきて。
「!」
彼らの無事を祈ったと同時に、ブチン、と魂のかけらとのリンクが無理やり引っぺがされた。その痛みは今まで受けたどんな責め苦よりも鋭く、レイを貫く。ちょっと形は違うけど、これを七回経験した闇の魔王ってどんな剛の者だよ、と喚こうにも肺腑は吐息を漏らすばかりで声帯を揺らすことすらできなかった。
血の気が引いて音が遠くなる。ドラコが支えてくれた気がするけれど、それが現実かどうかわからない。
何もかもが遠い世界で目の前が白くなっていく。暗転はこの人生において幾度となく経験したが、明転は初めてである。死まで覚悟したレイはそこでようやく体の感覚と精神とが乖離していることに気づいた。
「やっべ、死んだかも」
つぶやくも、肉体は動かない。幽体離脱、と呼ばれている状況だと認識できたのは数秒後だった。白い世界に溶ける、恐ろしいまでの喪失感。嫌すぎる、まだなんにもできてないし、お迎えなら先輩か先生ください!とうずくまって耐えていれば、ふと香りが戻った。
「あれ……?」
ハーブと、紅茶と、ミルク。それから出来のいい魔法薬。それは今はあまりにも遠い思い出。優しい香りで肺腑が満たされる。いつの間にか耐え難い痛みはちっともなくなったのに、今度は他のところが鈍く、甘くレイを締め付ける。
それは、かつて確かに存在していた楽園の記憶。大好きな先生と自分、二人ぼっち惑星。
鼓動が早まり、鼻の奥がぎゅうと痛む。これが臨死体験、もしくは死後のお迎えならば一等素敵な記憶を引き寄せたに違いない。
「ハセオ」
記憶の再放送でもいい。あの人が自分に声をかけてくれたことがこんなにも。今やペンシープの向こう側でしか聞くことができなくなっていたその声色。密やかで、すべらかな大理石みたいにまろい。
「はい、先生」
「ふっ、」
「え、今笑いました?先生、笑いましたか?」
先生の笑顔が見たくってレイは顔をあげた。けれどそこにいるのはいつもの仏頂面。美しい黒の化身。大好きな先生。最後にその顔を見たのは二十年以上前。遠い遠い記憶だ。
「俺って死にましたか」
「まだ生きている」
「ぎりぎり~、でも痛いから帰りたくねぇ~」
「しでかしたことの責任を取らずに教師を辞めるなど言語道断ですな」
即座に活を入れてくるあたり本当に先生なのだろう。臨死体験にしては手厳しいセリフにレイは笑ってしまった。
「こういうのって、慰められるのが相場ですよね」
「憐憫が欲しいのかね」
「先生から貰えるならなんだって」
「欲しくないものまで欲しがるものではない」
「なんだって欲しかったんです!」
ねぇ、なんで俺を置いてったの。そう聞いてしまおうか。でも、先生は秘密主義者だから。少なくとも今の自分になんか何一つとして教えてくれないのだろう。
「死にかけて望むのが師の言葉、とは。変わっていない偏執ぶりで安心した」
「それはどういう?」
「吾輩以外に迷惑をかけていない、そうだろう」
「へへ、今や迷惑をかけられる側ですからね」
どこか嬉しそうな顔の彼にハニーミルクさえねだろうと思った。きっと、頼めば用意もしてくれるのだろう。色々ありすぎてぐちゃぐちゃの魂はそれを欲している。
でも、なぜだかそれができなかった。それはもう少しだけ後の方がいい。どうせあと十数年もしたら浴びるほど飲める気がするのだ。今はまだその時ではない。
「あの俺が寮監ですよ。信じられます?」
「監督生から点を引かれることがないといいがな」
「ひん、手厳しい……」
こんなやり取りが無暗に懐かしい。そんな過去のものにしたつもりはなかったのだけれど。それでも彼はもう記憶の中の人だ。懐かしさは本来、側に居る愛おしい人に抱く感情ではないのだから。
せっかくだからきちんと見ておこうと思った。こちらを見て喋って動く親愛なる教授殿はまたしばらく見ることができなくなるだろう。多分、次こそ本当に彼に呼ばれる時だ。
であれば余すことなく見ておきたいのが弟子としての性。今すぐに何か調合してくれないかな。そうしたらもうずっとそれだけ見てるんだけどな。
そんな視線を感じたのだろう。スネイプは久方ぶりに呆れで痛む目頭を押さえた。馬鹿が間違ってこちらに来ようとしているから追い返すつもりだったのは確かだ。魔法使いにとって、死は特段恐るべきものではないのだが生き急がれるのは話が違う。
それに、だ。スネイプとしてはせめて渡した薬にくらい手を付けてほしいのだ。今確実にあれは彼の助けになるはずだから。
「一つ問おう」
「え!先生から俺になんて珍しい。なんでも答えちゃうんだから!なんですか」
「それを、飲もうとは思わなかったのかね」
「それ、って?あぁ。もしかして、これのことですか?」
レイはローブの中で存在感を放っているダンブルドアからの贈り物を撫でた。この中にはスネイプに貰った薬が入っている。
無論、考えなかったわけではない。アルバススコーピウス事変はレイの教師人生の中できっての難しい問題だ。なんたって生命を脅かされるレベルでとんでもない目にあっているわけだから。
「これに触ると、まだこれは人生マックスの困難じゃないな、と思っちゃうんですよね。それで乗り越えられる。なんかお守りみたいになってて、逆に口がつけられないんですよ。多分、ほんとに死ぬときに飲みます」
薬は手を付けたらなくなってしまう。スネイプから受け取った目に見える愛としてのこれを易々と服用する気になれないのだ。中身が何だか分からない、というのも相まって。
「ちなみになんなんです、これ?」
「飲めばわかる、が一気に全量を服用はしないように」
「えっ」
「吾輩の特別製だ。君が欲しいのは記憶でも記録でもないものだろう。我々には我々にしか理解しえぬ言葉が流れている」
「頑なに教えてくれないじゃないですか」
「今が飲み時だと思うがね」
君のためだけを思って作った。
いつもより明るい表情。声色はいつも通り、耳の中に残っているものと寸分違わない。それがたまらなくて。せっかく固めてあったのに全部がまるきり崩れてしまう。
「どうして今そんなこと言うの」
「君が僕の可愛い後輩だからだ」
百合の花を一輪、愛しただけの人生に差し込んだ細くも眩い光。手元を照らし、その花がいかに大切だったかを思い出させてくれた。愛、なんて小さなものではその情を言い表すことができない難儀な少年。
ハリーに記憶を残し、彼に何も残さなかったのは言葉を残して往く方が彼にとっては酷だと思ったから。縛りたいわけでも、縛られて欲しいわけでもない。彼は自由を何より愛していたから。
「こちらへ来るにはまだ早い」
「早くなんかない」
「いいや、許さない」
レイは、どこまでいっても子供だった。友達のために大人になったふりをしているだけで。あの薬で時を進めた気になっているだけで。結局、セドリックが死んだあの日。ユウトの青いローブの中で蹲っているままなのだ。
だってまだ、人を愛するってどんなことなのかもちゃんとわかっていない。心の奥底では大好きな人たちが死んでしまったことがどうやっても認められない。
ざらざら、ぴりぴり。感情が、魔力が暴走する。まるきり子供の癇癪だ。ネガティブ魔法一辺倒の人生で何とか作り出した処世術すら今のレイには意味をなさなかった。
「俺が行くのがダメなんだったら先生が帰ってきてよ。ずっとずっと俺の側にいてよ」
やだよ。全部返してよ。本当は前なんて向きたくないし、手を引いてくれなきゃ歩けないよ。
賢明なる青いローブがレイの目から隠したのは死という概念。ユウトのあれは友としては正しくて、人としては間違った身の振り方だったのかもしれない。
蹲る彼にスネイプは近寄る。そして彼の肩を抱いた。彼はレイのことをよく理解している。だからこそ、そのたっふりとしたローブの中に彼を招いたりしない。
「言いたいことはそれだけかね」
「え、」
「言えるうちが花だ」
スネイプの言葉にレイは肩を揺らした。漏らすまいと必死に耐えていた感情がほどける。
「俺、大好きな人が居ない世界なんてやだ。みんながいてくれるならそこがいい、おれもそっちがいい。それに、それに。気づいたんだ。世界が変わったら、もしも、本当に俺の望む奇跡が起こったら、そこに……」
本音を吐き出してしまえば、レイの姿は見る見るうちに小さくなってしまった。狭間の世界では魂の姿が優先される。親愛なる教師の前でついに取り繕えなくなってしまったのだろう。
それは何もかもが起こる前。彼の世界がとんでもなく狭くて小さくて居心地のよかった頃。レイにとっての楽園に魂が呼応してしまったのである。
であれば。今の彼と自分は教師と生徒。教授と助教授でも、ましてや校長と教師でもない。
レイという極めてめんどくさい子供の相手はスネイプの得意とするところだった。
「……そうか。ところでハセオ、禁書の棚の本の置き場はわかっているだろう」
「えっ、どうして急に、」
「借りてきた禁書本の処遇は?」
「えっ、と……読むときは必ず先生の前で。保管は俺用に用意された本棚で、」
さぁ、君の居場所へ帰りたまえ。
そう促されれば自分の視線がとんでもなく低くなっていることに今更気づく。身に覚えのある視界は彼を青き春の心にすっかり戻してしまった。
悲しいことは考えられない、幸せな季節。ある種強制的に引き戻されたが、悪い気持ちにはならない。
「ここに来たこと、脱狼薬舐めた時くらい怒られるかと思った」
「死にたがりは変わらずですな」
「あ、聞いてくださいよ。美味しい脱狼薬なんですけどね。いまや天下のピレオス社の販路に乗ってるんですよ。フレーバーも三種類。薬さえ飲めば犬歯や爪、感覚が鋭くなるだけで、変身までしてしまう人狼は皆無。もう満月に怯える人はほとんどいない。ようやくここまで漕ぎつけました」
脱狼薬の開発は勿論、彼の功績として大きいのはツゴモリ調剤薬局及び、私塾の設立だろう。ここから発売される薬は長らく魔法使いを苦しめてきた人狼症への画期的なアプローチとして脚光を浴びた。話題になれば金が回る。金が回れば優れた人材が集まる。味のいい脱狼薬は勿論、体内のウィルスを殺すための薬の研究は確実に進んでいた。
「本当にやってのけるとは、私も鼻が高い。スリザリンに五十点」
「合計八十三点!」
「きりが悪いので三点減点」
「それならあと二点欲しかったなぁ~」
ちぇ!と唇を尖らせ、いそいそとレイは定位置に着いた。自分用に用意された本棚。大鍋の湯気。形容しがたい良い香り。先生が天秤で薬草を測っているのを読書の途中で盗み見るのが好きだった。懐かしい空気に侵されて悲しいこと全てに靄がかかる。
「ねぇ、先生。どうして奇跡って一つしか起こせないんでしょうね」
「二つ目を奇跡と呼ばないだけだ」
「へへ。先生っぽいなぁ」
人生はいわば奇跡の連続。それを忘れているだけなのだ。自分にとって一番都合のいい事象を観測し【奇跡】と呼んだだけのこと。他のものはそうではないと勝手に結論付けている。
この身に降り積もる幸運を全て奇跡と呼ぼうものなら、それは陳腐なものに変わるだろう。理由があって手のうちに入ってくると思い込んでいるだけで、全てはの自然の成り行きだ。
つまり、奇跡には押しなべて理由などないのだ。人の手で生み出された数々の薬が後から物語を帯びるのと同じように。
スネイプとレイには近しい言葉が流れている。同じものを貴ぶ感性がある。だから、この言葉も彼に真に届くに違いない。
「君と僕とがすれ違ったのは必然だ」
友達とは。愛とは。それらがなんであったか。似た者師弟である彼らにはついぞ分からない。
それに、彼らの出会いは運命ではないのだ。だって世界を革命する力なんて一つも有していなかったから。越えがたい線のあちらとこちら。いつでも二人はきっちりきっかり隔てられていた。
それでも。彼らはお互いを尊いと思うのだ。
「……今度来たときは追い返さないでくれますか」
「なすべきことをきちんとなした後であれば」
「もしも、それが俺じゃなくても?」
「これ以上、胃痛の種を増やすつもりはない」
「えっへへ。確かに。先生にとっての愛弟子は俺だけですもんね!」
「教職に飽きたら手伝いにくるがいい」
「……俺の生徒が飽きさせてくれないんでぇ。もう少しだけ、先生やってきますね」
ことこと、ふつふつ、鍋が煮える。この香りは生ける屍の水薬。先生の、完璧な薬。テンポよく刃物が何かを刻む音。とろり、瞼が重くなる。もうちょっと、この心地よい場所にいたいけれど。ここで禁書の棚の本を読む生活に戻りたいけれど。いつかこの場所に戻ってこれるなら後でも大丈夫。
「先生、学校って楽しいねぇ」
意識がヒュプノスに攫われる直前。
今度こそ、大好きな先生の笑顔を見れた気がした。