時は少々戻って競技場。
自由を奪われた少年が二人、闇の魔法使いに追い詰められていた時の話である。
「クィディッチの競技場に連れてきてどうする気だ」
「第三の課題の会場だ……」
押し殺したようなスコーピウスの声にアルバスも事態が呑み込めたらしい。タイムターナーは今や彼女の掌の上。自分たちは自由を奪われ彼女に付き従うしかない状況だ。
「っ、デルフィーニ!」
「なぁに?」
優し気なほほ笑みは自分にエクスペリアームスを教えてくれた彼女と同じもの。アルバスはまだ彼女の変貌ぶりに納得することができなかった。彼女にも何か事情があってこんなことをしているのだろう、と。
「冗談だよな?それに、さ。たとえ、君が本当に悪いヤツだったとして。それなら一人でやればいいじゃないか。なにも僕たちを巻き込んでやる必要はない、そうだろ?」
だから、解放してほしいとばかりの希望を持った瞳の揺らぎにデルフィーニは随分と意地の悪い気持ちになる。こんなのがあの英雄様の息子だなんて到底信じられない。
彼女としても父の愛したスリザリンを揶揄する気持ちは微塵もないのだが、これだからこの少年はグリフィンドールに入ることができなかったのだろう。決定的な悪を前にして、義憤にかられることもなく、まだこちらを信じようとするだなんて。反吐が出る。
「そうね。アルバス。冗談だって言って欲しいわよね。悪い夢だって。私もそう思うから」
幼子を安心させるための甘い甘い表情。人を惑わせるために蕩ける瞳。その色彩がゆっくりとアルバスの脳を焼く。都合の悪いことを考えるくらいならば、この特別な女の子の話に浸ってしまう事こそ、正しいのかもしれない。そんな風に思い込もうと思考が今を否定し始める。
しかし、彼の額にキスが落とされる寸前、スコーピウスが声をあげた。
「アルバス、夢じゃない。これが夢なんかじゃないって、君が一番知ってるはずだ。そうだろ!」
見たくない現実から目を背けるのは悪い癖。彼女から顔を背けてスコーピウスをみた。そう、今目の前にいるのは、世界で一番大切な友達をこんな目に合わせているひどい女。優しいディゴリーさん、なんかじゃない。
強がり混じり、しかし精一杯の怒りを乗せて彼女を睨み付けた。
「とっても残念」
デルフィーニは背景にそびえる校舎を見やる。生徒が二人、居なくなっているというのにざわつくそぶりすら見せない薄情な学び舎。ホグワーツだなんてお高く留まっていても所詮そんなものだ。
「よかったわね。だぁれも助けに来なくって」
誰かが来ていたら。何者かに邪魔をされたら。デルフィーニはすっかりそいつのことを殺してしまうつもりでいた。ことごとく邪魔をしてくれたあの教師なんかうってつけだったのに。
「可哀想なアルバス。パパにもママにも見捨てられた」
「そんなはずない」
「大好きなパパは手のかからないお兄ちゃんといい子の妹ばかり可愛がる。わかってることじゃない?お前はいらない子供なんだ、アルバス、セブルス、ポッター」
胸を杖で突かれ、アルバスの顔が悲しげに歪む。デルフィーニはその表情の変化を見逃さない。愛を知っているから痛いのだ。
どれほど反抗的な態度をとったとて、愛してもらえると心の奥、その深いところで思っているちっぽけな子供。そんなガキに私が負けるはずない、と彼女はほくそ笑む。
全てを持っている男の子。自分の人生から母も父も奪った男の息子。因果が応報であるならば、嵐よ来たれ。
「セドリックを救い、スコーピウスが見てきた世界を取り戻す。純血で強い魔法の復活だ」
「ヴォルデモーの復活を望んでるの?」
アルバスに浮かぶ驚愕。闇が栄える世を是とする人間がいるだなんて、アルバスにとっては到底考えられない話だった。そして同時に途方もなく腹立たしかった。自分たちを脅かす敵であると、きっちり理解できてしまったのだ。
「僕らはもう二度とセドリックの邪魔をしない!」
「邪魔するだけじゃない。屈辱を与えるんだ。やつを苦しめて、魂を曇らせる。そうすればやつはロングボトムを殺す」
それを聞いてアルバスより先に怒りを露わにしたのはスコーピウスだった。その剣幕はアルバスが驚いてしまうほどのものである。
「魂を曇らせる?屈辱を与える?そんなことさせない。僕はこれ以上、レイが傷つくのはダメだと思ってる。ううん。誰も、もう誰も。今の傷の形が一番マシなんだ」
怖くて震えてるだけじゃない。何も言えなくて押し黙るだけじゃない。嫌なことは嫌ってはっきり言っていい。スコーピウスはそう学んだのだ。あの闇の中でも細く鋭く輝く一筋の光に。その言葉を援護するようにアルバスの声も返る。
「お前には従わない。何を命令されようと。約束があるから」
純粋な正義が固められた二対の瞳にデルフィーは舌打ちをした。アルバスの芯を折ってやったつもりだったのにまだ反抗できるなんて思ってもみなかったのだ。
ならば、与える苦痛の質が間違っていた、という事。人の感情というものは正しく利用すべきである。
「やれよ、なんでも。デルフィーニディゴリー!」
デルフィーニは高笑いをすると、スコーピウスを蹴りつけた。けれどその杖先はアルバスに向いている。虫けらには魔法を使うまでもない、という明確な悪意に違いなかった。
「あんた、まだ私がエイモスの姪だと思ってんの?」
苦痛にあえぐスコーピウスをみてアルバスは顔色を変える。彼女に対する怒り、は勿論ある。けれど、自分の選択一つで、大切な人がこうも簡単に傷つく。その脅威に少年の心は追いつけない。
「わかってないんだから。これはね、子供のゲームじゃないの。お前には利用価値があるけれど、こいつにはない」
デルフィーニはスコーピウスの手の上に足を置いた。勢いよく踏みつけられれば骨だって折れるだろう。常であれば、そんな怪我も薬で即座に治る。苦痛は長く続かない。けれど、今は違う。彼女が治療をしてくれる保証はない。いいや、彼女はそんなことをしないに決まっていた。選択を一つ誤ることが命にすら届く。彼女が戯れに圧をかければ簡単にスコーピウスの表情が歪んだ。
「デルフィーニ!」
「アルバス。知ってる?ほんの些細な行動の違いが異なる結果を呼び寄せることをバタフライエフェクトっていうの」
「やめろ、やめてくれ……」
「優しいのね、アル。そういうところ好きよ」
憧れの女の子の顔と極悪非道な魔女の顔を行ったり来たりする。何が彼女の本当なのか、どうしてもアルバスには分からない。
「でも。もう一声」
デルフィーニは彼に向けていた杖先、その標的をゆったりと変える。強者の所作、というのは鮮やかであるべきだ。決して忙しなく動いたりしない。
踏みつぶされた無能のマルフォイ。彼の祖父も、父もヴォルデモーの役に立たなかった。純血の名折れ。闇の世界に無能はいらないというのに、よりにもよってポッターと仲良しこよしを演じている、だなんて。恥知らずにもほどがある。
ほほ笑みを絶やすことなく、デルフィーニはスコーピウスを見た。線が細くて、ひ弱そうな少年。彼を殺めることなんて赤子の手を捻るよりも簡単だろう。
彼女は一歩、さがる。苦痛に暴れたことで向こうの手がこちらに触れでもしたら、嫌悪感で間違って殺してしまいそうだったから。
「やっぱり。思ったとおり、こっちのほうが効き目がありそう」
軽やかな声色に、アルバスは彼女が何をしようとしているかを悟った。それを防ぐ手立ては、彼にはない。
「クルーシオ」
絶叫。喉から漏れるのはひだまりみたいな声を持っている彼から聞いたことのないような音。最早声だと認識するのも難しいような悲鳴だった。
アルバスを心配させないように耐えようと抗ったが、肉はおろか精神すらも抉る苦痛に温室育ちの彼が耐えられるはずがない。
「ねぇ、殺すよ?もうわかったよね?私はやると言ったらやるし、こいつの命に興味がないの」
呪文が終わると同時に硬直していた身体が弛緩する。ちっとも動けそうにないのに、スコーピウスは大事な友達を勇気づける。今にも消え入りそうな声で。
「かま、わないで、アルバス……。すぐに、先生を呼んで、誰もいい、誰でも……っ、ぁ……ぇう……」
「いいわねぇ。甘くて、ちょろくて、可哀想で。大人がいれば助けてもらえると思ってるんだ。誰かが来たら二人で助かるって。アルバス、能天気で平和ボケした素敵なお友達じゃない」
その言葉に目の前が真っ赤に染まる。世界で一番大切な人を馬鹿にされてどうして黙っていられようか。冷静に状況を見極めなくちゃならない、なんていう思慮はそれだけで吹き飛んでしまった。
「僕の友達に何してんだよ!」
噛みつく余力があったことにデルフィーニは呆れる。手段も、対応策も一つだってないだろうに、一体どこからその自信が生まれるというのだろうか。
大人しくしていればこいつだけは生かしておいてやろうと思ったのに。躾のなっていない犬は面倒を起こすから嫌なのだ。
「へぇ……?お友達、本当に大切なのね。勇気があって素敵よ、アルバス」
デルフィーニはスコーピウスから照準を逸らさなかった。無論、アルバスに杖なし魔法が使えるだなんて思っていない。とはいえ、魔法というのは意志の力。こういう場で気を抜くのは二流のすることだ。
「ある、ばす……」
「大丈夫。僕らは助かる。二度あることは三度あるっていうだろ」
睨んだ先にはデルフィーニ。その態度はどうにも彼女のお気に召さなかったらしい。喉の奥からひゅう、と息を漏らすスコーピウスをそのままにアルバスへと近づき、弱く唱えたのはデパルソ。思いの乗らない中途半端な魔法はアルバスを勢いよく転がす程度物のだった。しかし、それでいいのだ。彼女は受け身をとることもできず倒れた彼を踏みつける。
「なぁに、あんたになにができるっての?魔法界をがっかりさせること?家の名前に泥を塗ること?」
彼女の体重がこれでもかとかけられた肩がミシリと嫌な音を立てる。けれど、アルバスにとってはそれくらいどうってことない。許されざる呪文を正面から食らったのに、それでも自分の身よりこちらを心配してくれたスコーピウスの痛みに比べれば、こんなもの。
「なにもできないし、何もしない。そう約束したんだ」
「あら……そう。ならいいわ、アルバス。悲しいけれどここでお別れね……。なんて言うと思った?たったひとりのお友達を傷つけられたくないんでしょ。だったら言われた通りにしろ」
転がされて二人。地面とこんなに仲良しだ。本当は口から心臓が出てしまいそうなほど恐ろしい。助けて、と叫んでしまいたい。
スコーピウスのきちんと手入れされたプラチナブロンドが、太陽と友達には到底なれそうにない白い肌が、自分のせいで土に汚れているのだ、とアルバスは思った。それが途方もなく悔しい。悔しくて、情けなくって。あぁ、もしももっともっと魔法が上手に使えたら。こんな意地悪な奴、僕がやっつけてやるのに!
「さぁ、時間だよ。お前たちにはちゃぁんと働いてもらわなくっちゃ」
魔法で無理やりに立たされる。肩は疼痛を訴えるが関節が外れたり、筋を痛めることはなかったらしい。それだけでも運が良かった。
「あるばす……」
君だけでも逃げて、とでも言いたげな視線をあえて無視する。世界で一番大切な友達が苦しんでいるのを見捨てて逃げるようなことがアルバスにできるはずがないのだ。
これは、デルフィーニが怖いから、なんかじゃない。友達のためであればどこまでも強くなれる、蛇の資質に他ならなかった。
「僕らにできることをするだけだ」
デルフィーニがタイムターナーを起動する。それに巻き込まれるように二人も時間旅行に誘われた。アルバスは内ポケットに入れていたお守りが一瞬熱くなったのを感じる。
輝くタイムターナーが世界を巻き戻す。レイとの約束を破ってしまったこと以上に、アルバスはスコーピウスに出会えない未来を危惧してしまった。
前回の失敗で、スコーピウスはアルバスがいない世界にたどり着いてしまった。今度は自分の番かもしれない。初めて気づいたのだ。いいや。気づいてはいた。見て見ぬふりでしかなかった。繋いだはずの手が、失われる可能性に。
「スコーピウス!」
その声は時の狭間に掻き消え、眼前に広がるのは鬱蒼と生い茂る森。立ち上がるペトリコール。左右を取り囲まれる無類なる圧迫感。数歩先が見えない霧と、悲鳴のように聞こえる声。手を括られた二人は五分の制限の中、彼女から離れるまいと必死にその姿を追う。それと同時にセドリックが見つかってしまわないよう祈ることしかできないのだ。
「どこだ、セドリックは!」
一の課題、二の課題ではあんなに響いていたルードバグマンの明るい声が聞こえない。ただでさえ恐ろしい空間が彼らの心をジワリと蝕む。お互いから目を離したら最後。もう二度と家へ帰れない気さえした。
焦るデルフィーニの後ろをついて歩くが、アルバスは彼女に気づかれぬように歩みの速度を緩める。それに気づいたスコーピウスも彼に倣った。
「いいか、よく聞いてくれ、スコーピウス」
「っ……なに?」
あたりを伺いながら、それこそ彼女が角を曲がった時にアルバスは彼を振り向かずに声をかけた。見失うわけにはいかないが、彼女からなるべく離れなければこの会話をすることはできない。今の彼らにとって、このお守りはたった一つ残ったエルピスに等しかった。
「僕は先生にお守りを持たされたんだ。時間移動したらすぐに先生に伝わる。何なら発動した瞬間もわかった」
「それって……!」
「先生は第三の課題、何がどうなるのか世界で一番知ってる人に連絡をするだろうな、だから、大丈夫」
がさり、と壁が揺れた。その物音にさえ身を震わせたスコーピウスの側に寄る。手さえ自由だったらしっかり繋いで離さないのに、今の自分はこんなに不自由だ。練習して魔法が使えるようになったって、杖がなければ自分たちはただの子供でしかない。そのもどかしさで心が潰れそうになる。
「スコーピウス。必ず、僕らは帰らなくちゃいけない」
パパも、ママも、先生だって。僕らのせいで悲しむなんて嫌だから。そう言い切ったアルバスの目には光。この森の中でさえ鮮やかな緑はスコーピウスの心さえも奮い立たせる。
とんでもない冒険をしている。こんな、時間と運命と未来をかけた戦い、きっとハリーポッターだってしたことがないに違いない。これは、自分と親友との、人生で唯一最後の大冒険だ。
「こんな無茶、もう二度としないからね」
「僕は、君がいればしてもいいって思ってる」
「ダメだよアルバス。もう二度としない」
「……。わかってるよ。それに、戦うだけが道じゃないって僕たちは知ってる。死ななかったら大勝利だ」
残り時間が分からないが、たったの五分だ。これから先の長い人生の中で見れば刹那の時間。これをどうにか二人でやり過ごせればいい。二人は浮かんだ笑顔を引き結んで、デルフィーニが消えた角を見やる。
「ねぇ、それって、何の相談?」
迷路の形が変わり、二人の間を割ってデルフィーニが現れた。反射的に身を引いて二人は離れる。木々の囁きは彼らの会話をうまく隠してくれたが、同時に彼女の発する様々な音もかき消してしまっていたらしい。
彼女は秘密事って女の子の特権よ。そう言って余裕のない、けれど底が見えない笑みを浮かべる。
カリカリと神経を引っ掻くような威圧感。そこにいるだけで他者を害するカリスマ。それが闇の玉座に手をかける者の宿命なのだろう。デルフィーニにもその素質が間違いなくあった。
「まだ私に勝てると思ってるのか」
「いや。勝てない。でも歯向かうことはできる」
「口の減らないガキだ、クルーシオ」
闇の魔法使いの禁じられた呪文に暴露したスコーピウスの声。それはもはや人の物とは思えないような音となっていた。全身が引きつり、肉体があり得ない挙動を示すほどの苦痛。一生の内で一度だって経験しなくていい責め苦をこんなに短期間で二度も浴びてしまった。せめて代わってやることができたら。でも、そうはできないからほかの方法を見つけるしかない。
アルバスはどうにかその呪文をやめさせようと彼女に体当たりを試みるも、簡単に躱され、強かに肩を打つ。
ただ、気はそがれたらしく、魔法の効果が止み、スコーピウスも同じように地面に倒れこんだ。
ぜひゅ、だか、かひゅだか。呼気が声帯を揺らしただけの音。それすらもひどく苦しそうでアルバスの目に涙が滲む。
「スコーピウス!」
「大丈夫、アルバス。大丈夫だよ、へへ……これは試練だ。一緒に乗り越えよう」
それどころじゃないだろうに気丈にふるまう彼を今すぐにでも抱きしめて、恐ろしい魔女から隠してしまいたかった。それができない悔しさ。もどかしさ。全部全部、ネガティブ魔法の糧になる。
「絶対に許さないぞ」
アルバスの怒りが空気すら歪ませた。びりびりと周囲の全てが電気に覆われたかのように逆立つ。それは、迷路の形を変える高度な魔法にすら作用する。ざわり、と木々が揺れて彼らの運命と縁を結んだ。
デルフィーニは知ってか知らずか今一度スコーピウスに杖を向ける。本能がちりりと恐怖を訴えたがどこかへ押しやった。どうせ、この【お友達】を盾にしたらこの弱虫は何もできない。武装解除すらまともに使えないような出来損ないのグズに、闇の帝王の娘である私が負けるはずなんてない。
それでも、本能的な恐怖が、小指の先から這い寄って来る。ならば、今すべきことはこの場の制圧。デルフィーニは心を閉じて呪文を唱えた。
「クルーシ」
「エクスぺリアームス!」
寸前、彼女の手の内から杖が弾き飛んだ。唖然としたのはアルバスだ。昂っていた感情はすっかり萎みいつもの彼に戻る。
二人の前に躍り出たのは黄色と黒の背中。明らかに敵意が滲んでいた彼女を遠ざけるために彼はさらなる一撃を飛ばす。
「デパルソ!」
迷路の奥へと引きずり込まれる肉体。戻ってくるには少々時間がかかるだろう。図らずも彼らを守った彼は緊張を解くことなく、振り返った。
目に映ったのは茫然としている二人の少年。迷路には魔が潜んでいる。そうわかっていても、傷ついた彼らに声をかけずにはいられない。
「っ……、君たちも課題の一部?」
学生服こそ着ていないものの、明らかに後輩であろう見た目の子供が自由を奪われて困り果てている。セドリックはこれを放っておけるような人間ではなかった。彼らに杖を向けているものの、瞳の奥には心配が滲んでいる。答えあぐねている彼らに向けたままの杖。一度だけ深く息を吐いてそれを降ろした。
「もし、そうでないならここで一体何を?」
歴史を変えてしまうかもしれない恐怖に身をすくませるアルバスの横でスコーピウスが機転を利かす。
「そ、そう!僕たちを解放することも課題の一つだよ!怖くて声が出せなかったんだ、助けて。第二の課題みたいに」
迷路に眩まされ、どこか疑いを捨てきれていない目は刹那揺らぐ。しかし、彼は二秒ほど目を瞑ってから彼らの手元を見る。光の形と色でどんな呪文が使われているかは判断がついた。であれば反対呪文はおのずとわかる。
「エマンシパレ、エマンシパレ」
セドリックは彼らの拘束を解くと二人の様子を確認した。攻撃をしてくる様子はない。彼らのために赤い花火を上げる必要があるかもしれないと思ったが、課題の一部なのだとすると、運営側で手は回してあるだろう。
「あ、ありがとう、助けてくれて」
「もう行っていいかな?」
その言葉に二人は身を固くする。今この場で引き留めれば変わる未来があるかもしれない。ただ、それがいいものになるか、悪いものになり果てるかはわからない。そんな博打、今の二人に打てるわけがなかった。
しかもこれは第三の迷路の課題。もし、未来がひどいものになってしまっていたとしてもう一度この場に戻り、世界を元に戻すことができるか、と言えばかなり難度が上がってしまうだろう。
いかんせん、自分たちのタイムターナーは五分で限界を迎えるのだ。
目の前の命一つ。彼が生きる未来を作り出した代償に失ったものの大きさを知る二人はその天秤を再度傾けたいとは思えなかった。
「あっ、でも待って!その!僕、レイから預かりものしてる!セド先輩ならきっと飲んでくれるから、絶対に渡してって」
「スコーピウス、さすがにそんな怪しいもの飲んでくれないだろ!それにっ!そんなことしたら!」
「でも、レイが、レイが言ったんだ。あの人は大好きな友達に悪いことなんて絶対しない」
「レイ、ってレイハネのこと言ってる?」
友人の名前が出たことでセドリックの緊張がほんの少しだけ和らいだ。それと同時に彼との約束を思い出し、気持ちがはやる。優勝、しなければならないのだ。彼にまた笑いかけるために。
スコーピウスが慌ててポケットをまさぐれば紫の小瓶はすぐに見つかった。
「これっ、僕も中身はよくわかってない。なのに飲んでなんて正気の沙汰じゃないよね、本当に。でも、」
差し出されたそれをセドリックはすんなりと受け取った。そして、蓋を開けて躊躇なく中身を飲み干してしまう。その様子に驚いたのは二人である。
「もっと、葛藤とかない!?そういうの飲む時って!」
「得体のしれない薬だよ!?」
「薬品っぽいリンゴ味だったよ」
「「味の感想は聞いてなくて!」」
珍しくあんまり美味しくないなぁ。セドリックはそんな風に笑っていた。さっきまでの緊張感も今はちょっとだけ出かけているらしい。急にふんわり暖かくなった空気にスコーピウスとアルバスの方が困惑するのも無理ない話だ。
レイから聞いていた印象と相違ない人物だったが、こんなに甘くていいのだろうか。いくら何でも危機感がなさすぎると思うのだ。アルバスは思い切ってセドリックに問いを投げかける。
「なんでそんなに簡単に信じてくれるの?」
「セド先輩って言っただろ。それはレイしか呼ばない名前だから。これで違ったら僕が間抜けだったってこと。それならそれで仕方ない。帰ったらありがとうって伝えておいて」
蜂蜜みたいにはにかんでセドリックは小瓶をポケットへとしまった。友からの応援で少しばかり重くなったそこを愛おしげに撫でる。
「いいや。お礼は自分で言うべきだね」
その言葉に二人はどうしてレイがあんなにも彼を好きなのかを理解できた。スリザリンの談話室にはあまりいない、優しくて穏やかな光。これに焦がれてしまったに違いない。彼らは真に友達なのだ。自分たちと同じように。
もうすこしだけ、もう少しだけ引き留めてしまおうか。許されないことだと分かっていても、それでも。
「そうだよ。レイはセドリックの言葉をを待ってるよ」
「アルバス……」
「でも、一応。僕からも伝えておくね」
「ありがとう」
凛々しい顔がふにゃりと緩む。けれど、迷路のさざめきですぐに表情は引き締まった。
これ以上の言葉は未来を不確定にするだろう。だって、彼に行かない方がいいよと言ってしまいたいから。二人は何とか口をつぐむ。たぶん、先生は優勝してくれなんて思ってないよ。帰ってきてくれればそれでいいんだよ、なんて口走りそうだったから。
さらに硬くなった二人の表情にセドリックも思うところがあったのだろう。完全に競技中の緊迫感をなくして二人を慮る。
「君たちは大丈夫?二人で帰れるかい?凄く疲れた顔をしてるよ」
「大丈夫、セドリックは優しいね」
「おせっかいなだけさ」
救護用の呪文はわかる?そんな風に問われて首を縦に振った。彼はその様子に安心したように微笑む。その表情はどこまでもレイにそっくりだった。
スコーピウスはそれですべてを悟る。この笑顔は本来彼の持ち物であったのだ、と。
行かないでと、言ってしまおうか。極限の葛藤がスコーピウスの中に芽生える。変えられる過去がここにあって、あの寂しい人を救うことができる。世界の全部に匹敵するくらいに大切な人を失うあの気持ちをこの世界のレイは味わず済むだろう。
いま、ここで、彼を止めることができたら。
「セド、」
スコーピウスが口を開こうとした瞬間。アルバスはスコーピウスの手を取った。そして、ぎゅう、と握る。痛くはないけれど力強いそれは彼の理性となる。少しの変化で未来は変わる。それを嫌というほどわかっているのが自分だろう。
スコーピウスはアルバスの手を握り返した。大丈夫。だって、もう、レイの薬は渡したのだ。友達の運命を切り開くのって、結局友達だ。そうやって相場は決まっている。自分たちが何かしなくてもセドリックはもう大丈夫。
「さぁ、もう行って!僕らに時間をくれてありがとう。ここから先は僕ら二人で何とかしなくちゃいけない」
二人の引き締まった顔にセドリックも頷きを返す。そして、今一度、迷路の奥を見た。呼吸を整える。森なのに深い深い海みたいに息が詰まるのだ。
それでも、先ほどの薬のおかげだろうか。どことなく胸の中が温かい。緊張はほぐれて指先が柔らかくなる。
相棒である杖を握る。セドリックの勇気に呼応するように魔力が廻ったのを感じる。さぁ、行こう。帰ったら彼にお礼を言うことが増えてしまった。
「っ!セドリック!!」
「まだ何かある?」
「君のパパは、君を心の底から愛してる」
その言葉を聞いてセドリックの表情は驚いたものになる。しかし、すぐに噛みしめて、口角をあげた。
アルバスはその表情を見てたまらない気持ちになる。あぁ、どうして。この人はこの後殺されてしまうのだろう。どうしてそれを知っているのに見送らねばならないのだろう。
初めの気持ちは自分のためだった。次はレイのためだ、と言い張った。でも、出会ってしまったらもうダメなのだ。この優しげな人が。死ななければならない運命を憎らしいと思った。
「……ありがとう。じゃあ、もう、行くね」
彼は一歩を踏み出した。疑心の森の奥深くへ。
二人の視界からあっという間にセドリックが消えた。本当にこれでよかったのだろうか。引き留めるべきだったのではないだろうか。
アルバスはすれ違っただけの彼のことがすっかり好きになってしまったのだ。そして、こんなに素晴らしい友を失ってしまったレイのことが悲しくて悲しくて仕方がない。
ぽたり、と涙がおちた。慌ててシャツの袖口で拭い取り、なかったことにする。泣いたって何かを変えることはできないのだ。だったら、見せない方がいい。それに、この気持ちはスコーピウスも同じ。彼はごく小さな声で本当に良かったのかな、と零した。
「良いに、決まってる」
歴史を変えてはいけない。目の前にあっても手を出すことはできない。それでも自分たちは禁を一つだけ破った。薬の小瓶一つ。本来この場にはないはずのものを彼に渡したのは時に対する冒涜に他ならない。それでも。
アルバスは顔をあげる。そして、その瞬間に気が付いた。デルフィーニが少しだけ離れた場所に佇んでいることに。しかし、こちらに襲い掛かって来る様子がない。その異常さに彼は目を凝らした。理解した瞬間に後頭部を殴られたみたいな衝撃が走る。起動しているのだ、彼女の手の内で、タイムターナーが。
「アルバス、あれって」
「走れ!」
もしも、この場に置き去りにされるようなことがあったら、そんな恐ろしい想像ばかりが心の中を駆け巡る。彼女が抱える時をかける輝きに二人は無理やり手を伸ばす。すればぐわり、ぐわりと頭が揺れて時の渦の中に引きずり込まれた。
「どうなったんだ!?」
叫んだアルバスと対照的に、涼やかなデルフィーニの顔。まるでこちらへの一切の興味を失ってしまったかのような表情にアルバスはうすら寒い心地になる。
タイムターナーから手を離してはいけない、と本能的にわかっているのに時間旅行をしたことで揺れた体と魂がアルバスの思考に追いつかない。上手く力が入らない指先は、持ち主すらあざ笑うようにタイムターナーから離れてしまう。
そしてそれはスコーピウスも同じだったらしく、彼もまたデルフィーニを捕らえておくことはできなかった。
「これ以上お前たちに貴重な時間を使っていられない。別の手に出る」
箒もなしに飛びあがった彼女に驚く間もなく、ガラス細工が砕かれるような音があたりに響いた。二人に降りかかる銀の粒。それが何であるかは言うまでもない。
状況を理解し、二人。顔を見合わせる。飲み込んだ息の音が、早くなった鼓動がお互いに聞こえてしまいそうな静寂。絶望している暇なんてないのに、それでも。震えるスコーピウスの唇が致命的なことを呟いてしまう。
「粉々だ、僕たち出られなくなった。この時間がいつであろうと、デルフィーにが何をたくらんでいようと」
もう二度と、元いた場所へは帰れない。