音を立てないように進めば、背後にレイが来る。思ったより広い横穴は確かに教会の外へも繋がっているようだった。
「ところどころぼんやり明るいところが出入り口になってるんだろうね」
「距離と角度的にあの一番近いところが丁度僕が寝てた椅子くらいになるはず」
「じゃあ、そこだ」
気配を隠して、息を殺して。まるでネズミになった気分だ。二人は床下から様子をうかがう。タイミングを見誤れば死の呪文が飛んでくるのは百も承知だ。ハリーには限界まで粘ってもらうよりほかない。
「君のパパは文字通りの死線を何回も潜り抜けてるけど、君は違う。絶対に無理しない事、いいね」
「……僕はパパみたいにはなれないって言ってる?」
「なれるもんか、別の人間だ。だから、獅子の王とは違った蛇の勇気、見せてやろうぜ」
アルバスは肺の空気と一緒に緊張を吐き出す。そうだった。自分はスリザリン。勇猛果敢な父や兄とはちょっと違う生き物だ。だからこそ、別の道が見える。
「先生。デルフィーニは闇の帝王の娘、だね?」
「ほぼ黒確定」
「という事は、スコーピウスを悩ませてる噂の出どころってことだ。捕まえたら大事な友達の大きな悩みが一つ解決する、ってわけ」
にやり、うす暗い笑み。実にスリザリン的な表情に呆れたのはレイの方だった。むき出しのグリフィンドールであるハリーと、ウィーズリー家の血を引いて、どうしてここまで清く正しくスリザリンなのか。まったく、可愛い後輩である。
タイミングを見計らっている二人の頭上から聞こえたのは武装解除呪文。単純に考えて魔力量が桁違いなデルフィーニが全力で呪文をぶつけたのであれば吹き飛ばされるのは間違いなくハリーだ。
これ以上、隠れているわけにはいかない。レイはスコーピウスから受け取った予備の一本をアルバスに握らせる。
「アルバスがやることは二つ。自慢のパパ上殿にこの杖を渡す。後は、扉の解錠、できるね?」
「先生は?」
「正直、肉の壁以外であてにしないで。でも、デルフィーニはそれを知らない。それに今の俺は、可愛い後輩のためならなんだってできちゃう」
「悪い魔法に当たって敵にならないでね」
「よーし、先生、頑張るぞー」
三、二、一でゴーだ。
二人は覚悟を決めて頭上の扉を開けた。目に入ってきたのは窮地のハリーポッター、そして愉悦のデルフィーニ。椅子の陰から飛び出して、彼らの視線を奪う。
「パパ!」
「アルバス!?どうして!」
「どうしてもこうしてもあるか、敵から目ぇ離してんじゃねぇよポッター!」
「あーら、ネズミがちょろちょろとうっとうしいこと!」
口ではそういうものの明らかなる数的不利。無策で突っ込んでいくほど愚かではない彼女の優秀な頭脳は、即座に別の案をはじき出した。それは、戦闘狂いの母ではなく、狡猾な父から譲り受けた能力である。
この場で最も揺らしやすい弱者を即座に見抜き、脆弱な穴に指をかけて引き裂く力。誰に教わらずとも、吐くべき甘言が分かる。人たらしの才能が彼女には生まれながらに備わっていた。
制空権を握ったままに、闇の帝王の娘はレイに笑いかける。どんな花より芳しく、どんな毒より陰惨な表情にニュクスさえも息を飲む。
「知ってる。レイハセオだ。可哀想なセドリックのお友達。ハリーポッターのせいで死んだ哀れなセドリック。取り戻したいでしょう?私ならできる。父上に会わせてくれたら私、あなたの役に立ってもいいわ」
思いがけない提案にレイの瞳、その奥。友を想う宝石が揺れた。初対面の相手では到底透かせないはずの仮面の底に触れられて、歪みが明らかになる。
「へぇ?どうやって?」
教師の弾んだ声色に目を丸くしたのはアルバスだ。レイの表情を伺えばそっとするほど冷たい視線。まるで、デルフィーニしか見えていないとでも言わんばかりに細められている。
「父上に掛け合ってあげる。あんたには才能がある、使い道がある。闇の世界は能力が高いものにはきちんと道を与えるの。魔法が使えなくたって」
「あっは、それはそれは。お優しいことで」
そのセリフに魂の上でケロイドになった傷が引き攣れるのを感じた。彼女が何をどこまで知っているかは知らないが、そんな下手糞な勧誘でなびくと思われているのなら実に癪な話だ。気が昂らない様に細心の注意を払いつつ、レイは彼女との距離を詰める。
「そうしたら、黄昏の向こう側からセド先輩を呼び戻してくれるって、そう言ってる?」
「父上は死すら超越するのだ。取るに足らないガキ一人をこの世界に呼び戻す、それくらいわけない」
レイは杖を構えたままにデルフィーニの真正面に立ち、見上げる。流石、天然物の美形の娘だ。高貴なるブラック家と混ざりあって得も言われぬ美しさと気位の高さを醸し出している。
もしも、闇が栄えた世界になれば彼女は確かに光り輝くだろう。けれど、今は目ばかりがギラついていて、まるで餓鬼のようだった。
「嬉しいでしょう?なんなら、記憶だって肉体だって思いのままだ。お前が欲しいものをその通りに、どんなに俗な願いだって父上は叶えてくれる」
「願った通り、ねぇ。悪くない話。でも、他にも一つ。ここには俺の大切な人もいるんでね。彼らを傷つけることは許さない。君が必要なのはポッターただ一人、だろ?」
「なぁに、そんなこと?私と父上を見逃してくれれば、なんだって」
「今の僕にかかれば大人五人の捕縛くらいわけないね。そして僕は君を見逃せばいい、簡単なミッションだ」
レイはハリーとアルバスの側を向く。背後の女がどんな愉悦の表情を浮かべているか気になって仕方がないが、今は芝居に興じるよりほかないのだ。
「レイ、君はそれでいいのか!?」
「はぁ?なにがぁ!?今も昔も、欲しいのはセド先輩だけですけど!?」
俺から友達奪っておいてよくそんなこと言えたもんだなハリーポッター。そう本音交じりに怒声を飛ばせばハリーの視線はさらに鋭くなる。その思い込みの強さは素晴らしいと思うが、相変わらず視野が狭すぎやしないだろうか。
レイは狼狽えているアルバスに目配せをする。左右の扉と彼の持つ杖を見れば、さきほどの会話を思い出したらしかった。
それに、あんな風に言っても今のレイは魔法を使うのなんて到底無理な体調のはずだ。となればトロールでもわかる。
アルバスはごく小さな声、そして後ろ手で杖を振るった。下手な自覚がある故に渾身の力を込めて。
「アロホモラ」
「余計なことを!」
「まぁまぁ、慌てなさんな闇のお姫様。ドラコと子供二人、傷つけたら僕の杖はそっち向くぜ?これでも英国一番の魔法学校で教師をしてるんだ。その実力を買ってくださってるんだろ?それにこういう時のスリザリンの結託って凄いんだから。ねぇ、ドラコ?」
レイは喉の奥で笑って、困惑しているほかの面々に分かるよう、言葉に意味を含ませる。物語、とはこう使うためにあるのだ。
「僕は所詮、はみ出し者だからさ。アンブリッジの時みたいに」
そのセリフは、二重の意味で、しかし正しく伝わる。グリフィンドールには影の協力者として。ドラコにはあべこべ薬のイメージとして。同じ時代を生きた自分たちだけに分かる符号。そのなかに、半分だけ本音を解かしてこの場が破綻してしまわないように彼女の隙を探る。
「だから、いいんだよ。闇とか関係ない。俺にはあの人が居ればそれでいいんだ」
「レイ、話を聞かないで!どうせ嘘に決まってる」
スコーピウスの声が耳に届き、ニタリと悪い笑みを浮かべる。正しくレイの感情を記せば、スコーピウス、これ信じちゃったの!?可愛いんだからさぁ!であるがそれを押し殺した結果、大層悪い顔になったのだ。
アルバスは状況と表情を読んでそれに乗っかる。レイの計略が全て読めたわけではないけれど今必要なのはデルフィーニをその気にさせることだと理解した。
「そいつは悪い奴だ!」
「そりゃそうなんだけどさ。セド先輩って名前に弱いのよ、俺。ごめんねぇ」
生徒二人の必死な声があんまりにも可愛いので身が震えそうになる。謀の末端までは見えていない、あまりの純真無垢な様子に清少納言がうんぬんかんぬん。その迫真の反応がより一層彼女のを警戒を解くだろう。レイはそれっぽい顔をしながら、さらに彼女に近づいた。
「本当に僕の欲しいものをくれる?」
ふぁさり、空から黒い天使が降って来た。冷たくも美しい顔面。こちらになんてちっとも興味がないだろうに、それでも微笑みかけてくる。お前、営業職とか向いてるよ。
「私の言葉を父上がきいてくれないはずがない」
「自慢の娘に、なるんだもんね?」
アルカイックスマイル、肯定、思わせぶりと堂に入ったルーピンメソッド。持てるもの全てを使って煙に巻く。彼女は肯定されることを知らない哀れな少女だ。十人十色の生徒の中で一番扱いやすい人種。賢い彼女に策を悟られさえしなければその喉元に手が届くだろう。
「君と僕はちょっぴり似てる。たった一人の誰かが欲しい者同士。君と仲良くなれる気はしないけれど、理解はできる」
たまたま、セドリックのいる側が善だっただけ。彼本来の素質だけで言えばどちらにでも簡単に染まれるのだ。けれど、今は違う。レイには記憶と記録があった。教師として、情けない姿をどうして生徒に見せることができよう。
「だから僕らの道は一つだ」
レイは振り返ると杖を床に落とした。からん、と軽い音。完全降伏の姿勢をとって、最後に問いかける。
欲望に負けた教師をあざ笑うかのように彼女は触れることができそうな距離までやって来る。人生経験半分の子供に随分と舐められたものである。やっぱり、タヌキ顔ってのはこういう場合に役に立つものだ。おっかない女ばっかり寄って来るけど。
「ねぇ。一つだけいい?」
「なにかしら?」
食らいつけ、この疑似餌に。それがお前の最後だ。そしたらマジでボコってやる。顔面をタコ殴りだ。生徒の前とか女の子だとか関係あるもんか。
何が取るに足らないガキ一人だ、なぁにが願った通りだ。セド先輩を馬鹿にした報いは受けてもらうぞ、闇の帝王の娘。
「やーい、
最後の抵抗、とばかりにネガティブ魔力の暴走を意識的に許す。本当は腕を掴んでやるつもりだったけれど、その思惑は通らなかった。
ならば、と一点に集中して飛び上がって逃げた彼女の頬を切り裂いたのだ。狭い教会の中だ。避けるのも難しいだろう。
滴る鮮血。父親由来の美貌を歪めて彼女はレイを睨みつける。
ここから先はハリーポッター案件だ。ホグワーツの加護なしにレイができるのはここまで。今の彼の魔力量は人並以下。ロクな状態でない中、ここまでの大見栄を切れただけでも褒めて欲しいくらいである。
「丁度、箒なしで空を飛ぶ妖精の鱗粉が欲しかったところでね!」
それでも煽れば彼女の瞳が燃えた。身がすくむけれど、これはレイを脅かす赤じゃない。背筋を冷や汗が伝うが、体調不良由来。何もわかっちゃいない哀れな小娘一人に何を怯えることがあろう。
彼女にとって状況は悪くなるばかり。どれほど才能があろうとも実践不足は否めない。敵の戯言を聞いてたった一人にかかずらった結果がこれである。
けれど、そこは腐っても闇の帝王の娘。覇気は失われず、むしろ窮地に陥ったことで一層研ぎ澄まされている。下手に手を出せばこの場で一番大切なものが消えうせるだろう。そんな圧があった。親たちは、子供を背に隠し、様子をうかがう。
その様子が彼女の逆鱗に触れたのだろう、彼女の纏う魔力が殊更邪悪なものへと変質した。彼女の気位の高さで何とか押さえつけているだけで、今にも爆発してしまいそうなネガティブ魔力の渦が見えるほどに。そして、彼女の持つ寂寥感がこちらにまで深く染みてくるようだった。
だからこそ。この世界で誰よりも深く彼を知るハリーは口を出さずにはいられない。
「ヴォルデモーに愛されるって本気で思ってるのか」
「そうに決まってる、私は特別なんだ。父上だって、」
認めてくれる、と。彼女の目に浮かぶ狂信。会ったこともない父親を。幾度となく夢想した自分の理想の父を。この世界にどこにも居やしない存在を彼女は本物だと信じていた。
「お前が奪ったんだ、ハリーポッター。私から父上を、母上を、お前さえいなければ!」
まるで彼女の全身から発散されたかのように炸裂する攻撃魔法。追い詰められた闇の眷属に見境はない。この場を切り抜けるために必死に回る頭。袋小路から逃れるためならきっと、彼女は父親譲りの美貌と杖腕以外であればどこでも失っていいとすら考えているのかもしれない。
「あぁ、もう。俺はお前が嫌いだよデルフィーニ」
もう空っぽなのに、レイはそれでも笑った。痛いところを串刺しにされるみたいで。近い傷を持っていると自覚させられるようで。実に腹立たしかったのだ。
デルフィーニの物言いはレイの心にザラリと引っかかる。
それは正当な怒り。きっかけは違う。それでも、誰かによって大切なものを消し去られた。その歪みは自分によく似ていた。
「それで、運命を変えるための努力をしたと?」
自分と彼女がやっていることは同質だ。それでも、持っているものがあまりに違った。だからこそレイは彼女を撃ち落とせる。
「優しい過去に縋って、未来を諦めた俺たちの結末がこれだよ」
「お前が勝手に諦めただけだ」
「ぁは、そうかもねぇ……」
愛された記憶一つで人は生きていける。何年も、何十年だって。人には物語があるから。物語があるから人生に意味が生まれる、意義が備わる、善悪が生じる。けれど、彼女にはそれすらない。わかっていてレイは彼女の心を揺すぶった。
「私はお前とは違う。優しい過去なんてない!だから、手に入れるんだ、私が作るんだ、正しい未来を」
愛してはくれぬ育ての親。特別であるはずの自分が受けた様々な仕打ち。そんな中で思い描いたものは、なんてことないごく普通の幸せでしかない。
英才教育を受けた完璧な娘。世界で一番素晴らしい、自分を認めてくれる父親。魔法の一振りで掃除をこなし、その白く細い指先で髪を結ってくれる母親。
でも、そんなものはどこにもなかった。したくもない家事で割れる爪。褒めも貶しもしない、無関心な視線。厄介者で、空気が読めなくて、つまはじき。
大空を羽ばたくことができるはずのオーグリーは檻の中で飼い殺される。死ぬまで、空の高さを知らず。
本当は、本当は違うのに。私は、デルフィーニは、もっと素晴らしい女の子なのに。お前たちなぞ、杖の一振りで皆殺しにできるのに。私を馬鹿にした汚らわしいマグル生まれを殺して、父に褒めてもらえるのに。
そんな理想と現実との乖離の中で自我を育てれば言わずもがな。彼女の中身は空っぽだ。穴が開いているわけではない。けれど、誰もそこに何かを注ぐことはしなかった。デルフィーニ本人さえも。
揺らぐ魂にレイはわざと意地悪く笑った。生憎、全てのヘイトを一身に受ける態度の取り方は嫌というほど心得ている。
「あぁ、それは本当にごめん。なら根本からして違うや」
今、この場で魔法使いとしてちっとも役に立たない自分にできるのはデコイになること。だから、もう少しだけかっこつけさせてくれ。
「ない過去は作れない、可哀想に。デルフィーニ、なんて可哀想な女の子だろうね」
「ふざけたことを言うな。変えてみせただろう、そいつらが。父上が死ななかった未来を呼び込んだ。闇に侵された美しい世界を」
デルフィーニの怒りがレイに向く。狭まった視野は彼女の勝ち筋すら黒く塗り潰す。この機を逃すまいと大人たちはそうとわからぬように動き出した。
「何が美しいんだよ。俺は聞いたぞ、闇の世界でもセド先輩いなかったって、マジで許さん。殴るから降りてこい馬鹿鳥!」
自分の物言いが子供の喧嘩過ぎて笑えてくるけれど、これこそが本来の彼だった。誰かのために作られた仮面ではない。ひたすらに面倒で、子供っぽくて到底教師になんか向いてない。そんな《ただのレイ》は大好きなものを、愛しい先輩はおろか可愛い後輩を愚弄した彼女を許してやるつもりは、ない。
「変えたんじゃない。可能性が増えただけ。お前の過去は変わらない。あっちのお前に成り代われるわけじゃないんだよ」
「黙れ!お前に何が分かるんだ!」
「だからさぁ!誰も他人のことなんかわかんないんだってば!」
「過去を変えられずとも、今ここで父上を救うのだ。それが私の未来になる!」
人間には誰しも幸せになる権利が平等にある。彼女が彼女の思い描く幸せのために奮闘することが悪だなんてどうして断じられよう。彼女だって父と母に愛されて成長したかっただけの子供だ。むしろ、愛されたいだけの子供に寄ってたかって杖を向けているこの状況こそ悪だろう。
それでも、レイは私怨としてこの血脈を許してやるつもりはないのだ。善でも悪でもない。そんなのはどうでもいい。相手がどんなに偉大な魔法使いであったとしてもレイの態度は変わらない。
「未来は君のためにあるだって?思い上がり甚だしいね」
そう言って彼が浮かべたのはセドリックの物でも、ルーピン物でもない。これはレイその人の持っている底意地の悪さ。正しさの仮面を外したあまりにも人間らしい悪辣な表情だった。
「誰にも愛されなかった癖に」
結局のところ運命は因果に集約する。魔法族がいかに優秀であろうとも。ゴブリンの金にどれほどの魔力を注ごうとも。人はなかった過去を新たに作り出すことはできない。
「そんなはずない!私は、私が、父上と」
「認められないよね。せっかく頑張ったのにね。でも、その頑張りには何の意味もないんだよ。新しい世界になったって君の居場所も俺の居場所もないんだから」
明らかにひるんだデルフィーニに追い打ちをかけるため、レイは言葉を紡ぐ。人が言葉に意味を感じるのはそれを信じているから。だったら、この意地の悪い棘をあの女の心臓に突き刺してやろうではないか。
「もし、世界を変えることができたら。その因果は発生しなくなる。親に愛された歴史に方向転換するだけ。賢い君ならわかると思うんだけど」
「違う、そんなことはない。私が父上の隣に立つ未来を私の手で勝ち取るんだ」
「残念だったね。その幸福の真ん中にはお前が立つことだけはありえない」
言葉を重ねることに彼女から魔力が漏れる。制御できていない感情的な昂り。それでは他者を傷つけることすらできない。じりじりと心理的間合いを詰めれば彼女は目に見えて慄いた。恐怖は、玉座に近いものにとって唾棄すべき感情で、格下相手には見せることは厳禁。けれど悲しいかな彼女はそれを知らない。
「哀れな孤児のデルフィーニは存在すらしないんだから」
「違うわ、ちがう、ちがうったら!」
彼女が望むのは自らが主人公になる物語。一方でレイが願ってやまないのは主人公を取り戻すための物語だ。似て非なる二つのどちらの引力が強いか、だなんて自明の理。
運命が残酷な女神の領域である以上、より大きな犠牲を払った方に天秤は傾く。
「自分ではない自分の幸福ために死ねる?」
俺とお前の決定的な違いはそれだよ、デルフィーニ。
レイの満面の笑みに彼女の脳が燃え、毛細血管が怒りで破裂する。こちらに杖を向ける何もかもが憎かった。お前たちが持っているありきたりな幸せが欲しいだけなのだ。どうしてわかってくれないの。
「ねぇ、わかってよ。アルバス」
今にも泣きだしそうな女の子の声にアルバスの肩が跳ねる。無論、わかっているのだ。彼女はそうやって人に取り入るのだと。でも、もしもこれが本当の嘆きだったとしたら。この心を無視することで彼女は可哀想な女の子、にすら二度と戻れなくなるかもしれない。
世界の分岐点にすら見える。けれど、アルバスの手は彼女に伸ばせなかった。だって、片側には親友が。もう片方には母がいたから。
「デルフィーニ、僕は君が分からない。多分、一生」
「あらそう、それは……残念」
演技だった、とでも言いたげに彼女はアルバスに向けて呪文を放った。それは赤い閃光。スコーピウスから手を離して何とか避ける。
しかし、今の一撃でアルバスの心が揺れてしまった。どうして、死の呪文ではなかったのか。彼女の嘆きを本当にここで、そんなものはないと断罪してしまっていいのか。本当に、本当に?
「アルバス!」
はっと振り向けば少しだけ引きつった笑顔のスコーピウス。怖がりな癖に、瞳からは怯えを消せていないのに。彼はアルバスに笑顔を見せた。絶対大丈夫、そんな風に。
「パパ、デルフィーニを捕まえる。僕がしでかしたことは、最後まで面倒見る。それが責任の取り方ってやつなんだろ」
「アルバス……もちろんだ。パパも一緒に謝ってあげるから」
「いい、僕はもう一人で謝れる!」
「……そうか!」
「茶番は終わった?」
吐き捨てた彼女の目は燃えるリコリス。どこにも心を預けることのない独りよがりを抱える。妬みと呪いで鈍くきらめく孤独を研ぎ澄ませば、もう一手だけでも道が見えるかもしれない。そんなことがないと分かった上で、それでも羽ばたくことをやめられないのだ。
「あたしに勝てると思ってるのか?」
「いいや無理だ」
「仲間と一緒じゃないと戦えもしない、卑怯で弱いハリーポッター」
「僕は今まで一度だって、一人で戦ったことはない。これからもだ!」
逃げ場なく鳥かごみたいに張られた様々な呪文。デルフィーニにはわかっているのだ、もはや勝ち目などないと。
であれば、一目でもいい。私に空の青さを教えて欲しい。この翼は空を羽ばたくためにある。凡夫に撃ち落とされるためではないのだと、思わせて欲しいだけだ。
この窮地から抜け出して、彼の瞳に映ることができたのならば。それだけでも構わない。
一目で彼は私が特別だと見抜くだろう。そうしたら、こんな有象無象はすぐに蹴散らしてくれる。この世界で最高の魔法使い。彼を父に持つ誉。私を透明にしない大人。とくべつなひと。
愛を知りたい。愛されたい。褒めてほしいだけなのだ。立派な娘として。あの偽物を信じて浮かんだ心の処遇をどうしてくれよう。
デルフィーニはアルバスに目を向けた。とたん、反らされ拒絶される。誰も彼もがその態度。私はここにいるのに。まるで、見てはいけないものを見るみたいに。
その目はよく知っている。忌々しい育ての親と同じだ。怯えではなく、恐怖でもない、かといって無関心ではない。哀れなものを見る目。愛をくれやしないくせに憐憫を湛えたいやらしい目!
何でも持っているくせに。何もかもを持っているくせに。父も、母も、友も、その手のうちにあって世界に愛されているくせに。どうして自分は不幸だみたいな顔をしているのか。
「愛よ、愛。そう、あい。私は私。私が、愛されたいのは、わたし」
彼女が捉えたのはスコーピウスの姿。
あれを殺すことができたら。愛を失ったら。アイツの息子も絶望に落ちてくれるだろうか。求めても求めても満たされない空っぽの奈落に。
「あは、あはははは!そうよ、私がオーグリー!」
頬を流れた雫。それが落ちきる前に彼女は杖を父の仇、その息子の親友に向ける。
「アバダケタブラ!」
それは綺麗じゃない緑。
きっと時間にしたら瞬きの合間。レイはこの場で自分だけがひどく冷静であることに気づいた。
良かった。たったの二歩だ。深い深い、先も見えない森の奥じゃない。今回は手が届く。もう誰も死なせやしないさ。だって俺も死なないし。
周りがスローモーションの中、レイだけはいつも通り。震えるスコーピウスの手を取って腕の中に収めた。くるりと回して、まるで舞踏会のダンス。
あーあ、すっかり成長しちゃってさ。すっぽり包み込むのも一苦労だよ。でもこれなら、ドラコとの約束も守れちゃうね。
スコーピウスに当たるはずだった緑の閃光は代わりにレイを貫いた。皆の声が一挙に遠くなる。そんな中で見えたのはアルバスの見開かれた目。ただでさえ大きくて可愛らしい目元をしているのに、そんなに見開いたら乾いてパリパリになっちゃうぞ。
「こいつ!先生を!先生、先生っ!」
アルバスの目が憎しみに燃えた。それでも、彼にはまだ彼女を圧倒するだけの力はない。漏れ出したネガティブ魔法が教会中を駆け巡る。
あぁ、ごめんね。こんな嫌なもの見せて。
そう言いたかったのだけれど、唇の神経がなくなったみたいに、どうしても動かない。
魂が引きはがされる際に生じる痛みは痛烈。それでも、今度はどこへも行けない。肉体の中に押し込められてぐちゃぐちゃにかき混ぜられる。
肉体という監獄の中で、自由なはずの魂が暴れまわった。無理やりにくっつけている境目が常軌を逸した痛みを訴える。意識を保っているのも不可能なほどに。
あれ、そういえば自作の薬を飲んだ話って誰かにしたっけ?してない気がする。しくじった。
どうしよっかなぁ、目が覚めたら埋められちゃってたら。でもあれか。魔法使いの埋葬って杖も埋めてもらえるもんね。まてよ、日本式だと火葬か?ま、尻に火が付く前には起きられるでしょ。俺がいくら寝坊助でもね。いざとなったらどうにかしよう。だって俺は魔法使いだ。
レイは闇に引っ張られるままに目を閉じた。もう少しだけでもカッコいい先生でいたかったけれど、物語の主人公ではない自分はこれが限界。
ああ、くっそ。生徒をたぶらかしたクソ女をぶん殴ってやるつもりだったのに。