目が覚めた。
天井は高く、消毒液の香りがツンと鼻をつく。懐かしの医務室。マダムポンフリーの砦。
「わはー、生きてる……」
思考がある、魂がある。指先の感覚はシーツを捕らえているし、なによりベッドの中はぬくぬくと心地よい。私室でないから流星群はレイに降り注がないけれど、レイにとってここは通い詰めた第二の私室。無事に帰ってくることができたことに深く息を吐きたくなるのも仕方がないことだろう。
ひとつひとつ、体の感覚を確認していたら体調不良がレイに追いついてきた。ぐんにゃり、世界が歪み始めたので酔わないようにそっと目を閉じる。
それにしても、大事な場面で気絶した後にここで転がっている、という状況はあまりにも嫌な記憶を呼び覚ます。唯一の救いはここがあの瞬間よりうんと未来で、泣き叫ぶエイモスがいないということだ。
しかし、できることならもう二度と味わいたくないあの光景も、記憶の統合が進めば消えてなくなるだろう。
「もう少し頑張りたかったなぁ……反省……」
あんなに頑張っても最終的にアバダ一撃でこうだもんなぁ。恥ずかしいったらありゃしない。やはり、トレーニングはした方が良いのだろうか。体力も落ちてくるお年頃であるのは間違いない。薬でひたすらにドーピングするのも限度があるだろう。長く楽しく教師を続けるためにも、たまには太陽の下で思いっきり走り回ったりするのがいいかもしれない。
「……。やだぁ……、俺は湖の下がいい、水面大好き、直射日光大嫌い……陰の四十路は太陽の下に出た瞬間に砂か灰になる……」
運動着に身を包み良い汗を流す自分を想像してちょっぴり吐きそうになったレイである。人間というのは楽な方へ楽な方へと流れる弱い生き物なので、まかり間違ってもランニングなんかしたくかなかった。禁じられた森への採集散歩くらいが自分の運動レベルとして丁度いい。
「でもま、あ、うん。目が覚めちゃったな。んで、スネイプ先生も居ない、と。あー、あの薬の効果はこれで証明されたってわけね……証人もいるからこりゃいいや」
久方ぶりの壮大な人体実験は見事成功。指を折ったり開いたりすれば確実な肉体感覚。なんなら、小指の引きつりもそのままだ。史上何人目かの、死の呪文を食らって生きていた人物に名乗りを上げたわけである。とはいえ天然物はハリーポッターだけなので静かに暮らさせて欲しい。
おそらく、この薬の存在とセルフ人体実験を恩師に感知されたら死んだ後に死ぬほど怒られるのだろう。敬愛する大先生のところへ行く前にもうひと瓶飲んでおくべきかもしれない。魂にアバダをぶつけられたら今度こそ消滅する気がしないでもないが、それは追々わかることだ。今考えるべきことでもないだろう。
それにしても、あの後、何がどうなっただろう。上手に彼女を捕らえることはできたのだろうか。もっとも、特段心配はない。いかんせんあの場にいたのは我らが英雄様。彼がしくじるとは思えなかった。実に不愉快なことではあるが、彼の物語に振り回された世代として、当然の感覚でもあった。世界は、時間はつつがなく進み、今ここに戻ってきたと考えるのが妥当だろう。
闇は栄えず、正義は勝った。お定まりの英雄譚だ。そうならないことも多々あれど、現実世界においても意外と正義の勝率は高い。
「アルバス、怒られてなきゃいいけど……」
乾燥してパスパスの喉でそんな独り言たちを口にしていたら仕切りカーテンの開く音がした。
「意識が戻ったみたいだね、起き上がることはできそう?」
「……んー、やー、うん、まだもう少し目をつぶってないと死ぬ」
「マダムポンフリー呼ぼうか?」
瞳を閉じた暗闇の中で誰かの声を聴く。なじみ深いそれはレイの鼓膜を優しく揺らした。聴覚はしっかりしているので、三半規管に置かれましては本当に早急に元に戻っていただけないでしょうか、と自分で酷使したくせに懇願することしかできない。
本来であれば声の主ときちんと対面すべきべきところだが苦肉の策だ。目は瞑ったままに彼に言葉を返す。
「うん、そうしてぇ……元気爆発薬の処方されたい」
「処方って言っても学校の薬はみんな君が作ってるんじゃなかったかな」
「俺はねぇ、俺用だと用法と容量をぎりぎり無視した薬事法違反な薬を作っちゃうから、今の身体には多分向いてないですよぅ」
「しょうがない子だなぁ」
二、三度柔らかく頭を撫でられる。カーテンの外に誰かが出ていく気配があって、それで。レイはゆっくり目を開けた。予想通り、目は回っていてちっとも現実の姿を捉えることができない。最早天井が足元にすら来ようとしている。ここまでくるととんでもなく愉快だ。
「体は絶不調なのに魂が歓喜に震えてる。あーもう、俺ってばいつもこう。ちゃんとバランスとれってんだよ、ばーか」
世界は変わっている。それはわかっていた。あの瞬間、自分がかつて薬を飲んだことがなかったことになったから。
魂の圧縮をしなくていい、ということはその原因となる事件が起こらなかったということ。それでも彼の姿を見るまでは信じないことにしていたのだ。だから、まだ。レイの中でこれはほとんど夢の中である。
「どちらかを選ばねばならない、ってのがね。罠だよ。あの物言いに丸め込まれてた。どっちも救うミラクルプレー、したって誰も怒らないのにさ」
それでも。教師としての正しさはレイを確実に救っていた。なにせ、あの瞬間。スリザリンの可愛い生徒たちを取り戻すことで精いっぱいだったから。二十年以上をかける悲願だったあの人のことを一瞬おいておくことさえできるほどには。無意識でそう考えたことに気づき、喉の奥が震えた。
「あっはは、悲願だって。なぁんにも諦められてねーじゃん。マクゴナガル先生に怒られたほうがいいな、俺のようなやつは!」
朝の光が色を変えたわけじゃない。昼だってそう。それでも、あの柔らかで暖かな放課後の橙。俺のお星さま。ハッフルパフのプリンスがいる世界にようやく追いつくことができた。
視界が定まって、天井が見える。一つあくびをすれば乾いたそこが潤ってじんわりと熱い。
長らく貪っていた午睡は間違いなく悪夢。そこから自分を呼び戻したのは懐かしい声。
「目、開けれたんだね。大丈夫?」
「だいぶましになりましたよ」
「よかった。おはよ」
「……おはようには遅すぎない?」
「目が覚めた瞬間はおはようでいいんじゃないかな」
仕切りのカーテンから顔をのぞかせた、知っているけど知らない、愛しの先輩。少年の姿でも、青年の姿でもない彼は雲一つない青空に浮かぶ太陽みたいだ。
キラキラまばゆくて開けた目がつぶれてしまいそう。きっと、宇宙の果てはセド先輩の目の灰色をしているに違いない。なんかもう、この視線にだったら引き込まれた末にバラバラになって正も誤もなく砕け散るだってやぶさかでない。表現がホラーになるがこれがレイにとっての事実。他者の言い分なぞ知ったことか。
こんなにつやつやと甘やかに輝く灰色を、レイは他に知らない。
「マダム呼びに行ったんじゃ?」
「行こうと思ったら声が聞こえたから。他にも欲しいものがあるのかと思って待ってたんだ」
「欲しいものぉ?今も昔もあなたの笑顔だけですねぇ」
「またそんなこと言って。喉は?乾いてない?」
「このホスピタリティの高さよ……、正直かっさかさですが、視界が非常にフレッシュなんで大丈夫になりました」
「大丈夫ではないね」
きっと。魂保護の魔法薬の効果がなくなったら当たり前になる光景。知らないことを知ってる自分になる。それは不思議な感覚だけどまぁ、いいや。
レイは出ていこうとするセドリックを引き留めた。喉の渇きも現実で、彼がいることも本当。何もかも大切なことだけれど、もう一つ。確認しなければならないことがある。
「あの、さ。俺って、学校の先生やってる?」
「ホグワーツの魔法薬学の先生は面白いこと聞くね」
「うっふふ、よかったよかった。俺はまだあの子たちの先生やってていいんだぁ……」
先輩に会えたら泣くものだと思ってた。いつかみたいにべちゃべちゃになるのだろうと。けれど不思議なもので、安心感が勝ってしまったのだ。ふんわり柔らかくて。切ないのに嬉しくって。勝手に瞼が落ちてくる。
「セド先輩。やっぱさっきのなし。もうちょっとお昼寝させてぇ」
自然と口から出た彼への呼びかけ。それが過去と今を繋ぐ。今も昔も、ずうっとこうだ。何一つ変わっていない。それが今でありレイの望んだ未来。
「なら、そう言っておくから。ちゃんと寝るんだよ」
「あ、でも待って。セド先輩」
「ん?」
「ちょっと、俺の名前呼んで」
今一度薄く目を開ける。すれば不思議そうな顔でこちら見つめてくるとんでもない男前。目や口なんかの柔和なパーツに眉毛なんかが男らしくてバランスが最高だ。丁寧にセットされた嫌味のない髪形もいい。完璧だ。全てが。もう何もかも。これを男前と言わずしてなんと呼ぼう。
もういっそ、夢だと言われたほうが納得いくようなその姿。どうか夢じゃありませんように、次に目が覚めた時にもセド先輩がいますように!とレイは必死に信じてもない神様にお願いをしておいた。
「レイ」
「うん、あは、へへ、オールオッケー。これが夢でも、もう大丈夫」
「相変わらず変わった子だな、君は。おやすみ」
「おやすみぃ……」
この数週間の疲れもきれいさっぱりなくなってしまいそうなほどによく寝れる気がして。レイはもう一度意識を手放した。
◆
今度こそしっかりと目が覚めて医務室。
そこに彼の姿はない。
代わりになんだか左右の手が温かくて、よく見ればスコーピウスとアルバスが片手ずつ握って昼寝に勤しんでいた。
おいおい、ここが天国かよ。清少納言は最早パーティを開く余裕もなく美しい光景にむせび泣いていた。をかし、を超える表現が今まさに生まれるかもしれない。
「アルバス、スコーピウス」
小さな声で生徒の名前を呼ぶ。先に反応を示したのはアルバスだった。ゆるり、と目が開いて美しい緑がレイを見つめる。
「せんせ……」
たっぷりと溜まる涙。飲み込もうにもそれができなかったらしい。あぅあぅ、と言葉にならない音を喉から吐き出して、ぎゅうと手を握った。
「へへへ、熱烈ですねぇ……」
これじゃあ君を慰めらんないなぁなんて軽口を叩いていたらスコーピウスも目が覚めたらしい。同じだけの力をがかかって両の掌が圧迫感を訴える。
「もう二度と、会えないのかもって思った」
「会えたねぇ」
「怖かったんだからな!」
「そりゃ申し訳ない。あ、そうだ。新学期にセストラルが見えるか先生と賭けしない?」
「そんな冗談、面白くないぞ」
アルバスは明確に怒っているが、何もかも終わってポヤポヤしているレイの前では効果なし。
ただでさえ垂れ気味の眦がニコニコと柔和な笑顔のままだから何も言えなくなってしまう。それは長からぬ付き合いとなりつつある四年間の内でだって見たことない表情だった。
いつもであればそんな、憑き物が落ちたみたいに柔らかい表情をしている彼にスコーピウスは何も言えなくなっていただろう。けれど、今は違った。一つ、明確に言ってやらねば気が済まないことがあったのだ。
「ママに、レイを連れて行かないでってお祈りした僕の気持ちは考えてくれる?」
それは自分と同じくらい深いはずの傷。それを引き合いに出した、という事はスコーピウスはまず間違いなく怒っている。本来なら真摯に謝罪すべきだ。それでも、あぁ、良かったと。安堵の方が先に来てしまったのだ。
「きみを守れた」
口をついたのはそんな言葉。
きっと。自分と同じような思いをさせたに違いない。可愛い後輩がしていい体験じゃないのに。それでもこればかりは不可抗力というか。あぁ、身体ってああやって勝手に動くんだ、と知るきっかけになった。
先生以前にこれが先輩になるということなのだろう。可愛い後輩がまかり間違っても死んでしまうなんてこと、避けたかったのだ。ある意味で初めて、セドリックの気持ちが真に理解できた気さえする。
これこそがあの人が持っていた正しさの神髄。どうしようもなく公平で公正で、優しい。そこに正しさなんてありやしなかったのだ。ハッフルパフという空間で磨き上げられたあの人という宝石は唯一無二の物。頑張って模倣しようとしていた自分が馬鹿らしく思えてくる。
それでも。そのおかげで守れるものがあった。二度目の悲劇を起こさずにすんだ。それがどうしようもないくらい嬉しいのだ。彼らの前で教師の仮面を外してしまうくらいには。
「俺の手、今度こそ届いたんだよ」
レイの言葉を聞いて二人は彼に抱き着いた。体調不良であることをすっかり忘れて。強く、強く。わんわん声をあげて泣き始めた二人の子供をなだめる。静かにしないと怒られちゃうぞ、と声をかけるも、それどこれではないらしい。
それに、今日に限ってはポンフリーも見て見ぬふりをしてくれているのかもしれない。
彼らの気持ちを落ち着けるために何を言ったものかレイは思案して、答えにたどり着く。こういう場合に言わなければならない言葉はたった一つだ。
「ただいま、二人とも」
「「っ、おかえり、レイ!」」
「あっはっは!少しはあの時の俺の気持ちが分かったか!」
「もう二度としないで」
「ほんとのほんとに二度とダメだからな」
「次は流石に本当に死んじゃうと思うからなぁ、気を付けるね」
冗談めかして言ったつもりなのだがアルバスにポコポコと叩かれてしまった。体調不良者相手に容赦のないことだと思うが、甘んじて受け入れよう。それだけのことをしでかした自覚はある。
「にしても本当に、埋められちゃってなくてよかった。倒れる直前に考えたのが棺桶からの出方、とかだよ?それにまかり間違って起きたら僕の葬式中だった、なんてシャレにならないじゃん?」
起床と共に泣いてる親の顔のアップとかさ、気まずすぎて本当に死んじゃうよね、なんて冗談に冗談を重ねるほど不謹慎になってしまうこの現象は一体何なのだろうか。明らかに生徒の視線が厳しくなっているのでこれ以上の戯言お喋りはやめよう。
「でも、死んでるかもしれない人、よく運ぼうと思ったね?」
「……パパが」
「うん、ドラコが?」
「レイにアクシオ唱えたんだ」
「ごふぉ、んぐっふ、ふふ、ふっひ……そしたら動かなかったわけか、よかったー!冗談って言っておくもんだね!」
笑ったら喉痛くなっちゃった、水貰っていい?とレイがサイドボードの水差しを指さしたのでアルバスは常温の水をコップに注ぎ入れて、ストローと共に差し出した。
レイは数秒ほど考えたのち、コップのふちを叩いて幾分か冷たい水にしたようだった。アルバスが渡したストローは長いタイプであったため、寝っ転がったまま水分補給をする。酷い怠惰だがこれくらいは許されたい。
「あー、沁みるぅ……キンキンの水で胃がびっくりしてるぅ……ホントはね、こういう場合って身体冷やさない様に生暖かい水飲んだ方がいいんだよ。だからこれはマダムには内緒にしといて」
「もちろん。レイは仲間だからね」
「仲間を売るような真似はしない」
「もしかして、それって」
「「全てはスリザリンなれば」」
「うん、うん……そうだねぇ。あー……、それってとってもいい言葉。そんな素敵なこと言ったの一体どこの誰?」
「生徒に心配かけない最高の先生かな」
「いたずらっ子のサラブレッドは言うことが違うねぇ」
レイは上体を起こしコップをサイドボードに置いた。さすがにもう、それくらいはできる。いつまでもベッドと平行になっていては体がおかしくなりそうだった。
それに、だ。今からするのは教師としての仕事。寝たままなんてのは流石に格好がつかないだろう。できることなら、もっと演出を効かせてに厳かにやりたいところである。
けれど、いつ消えるとも分からない記憶。病棟着で申し訳ないが今回ばかりは勘弁してほしい。
「さぁ、てと。僕に先生としての仕事をさせてね。これは学校で言うことに意味がある言葉。かの有名なダンブルドアはこういうご贔屓大好きだったから。俺も真似したっていいはずだし、これは、俺だけが世界で一番褒めていいと思うんだよね」
レイの言葉に二人は顔を見合わせた。褒められるようなことをしていないのだ。世界をギリギリ破滅させかねないトンデモはやらかしたけれど。そんな自分たちにレイは一体申し付けようというのだろう。
「スコーピウス・ヒュペリオン・マルフォイ」
フルネームで呼ばれたことでスコーピウスの表情が硬くなる。褒める、と言われているので悪いことは起こらないはずだが、それでも。
「えっ、な、なんだろう……そんなに改まって」
「君の優しさと知識はどんな窮地からも戻ってくるための道しるべになる。それこそ隠し持ったパンくずであり、月の光で輝く石だ。それを友を守るために正しく使う勇気はまさにスリザリンの鑑。よって君に五十点」
「ご、じゅってん……?」
「そう。五十点」
寮監や教師が一年で加算していい点数には、実は上限がある。自寮愛が強くとも無茶苦茶をしない、理性と良識のある人間が教職についている。とはいえ、人は欲や利益に弱いもの。生徒の親から出される要求に目がくらまないとも限らないからだ。
今回、レイが与えるのは一年分の内でもかなりの比率。それを二人への大盤振る舞いした形になる。
スコーピウスの白い頬が歓喜と興奮で赤く色づく。子供ってのはこれくらい顔色がいい方がいい。レイは何かに納得するようにうんうんと首を縦に振りながら、次はアルバスの方を見た。
「アルバス・セブルス・ポッター」
「っ!」
「あはは、流れ的に褒め言葉なんだからそんなに固くなんないでよ。英語圏のフルネーム呼びイコール叱られの文化って慣れないんだよなぁ。アルバス、おかえり。冒険は楽しかった?」
「……ちょっとだけね。でももう二度とやらない」
「なんか少し前にそんな言葉聞いた気がするんだけども?」
「今度こそ!今年度はもう!」
「来年度は?」
「来年度も!」
レイが少し意地悪を言えばそれだけでさっと頬を赤くしたアルバスである。そう、平和が一番。来年度、どころか今年度もつつがなく暮らしてほしい。そのためならレイは彼らのために何だってしよう。
レイがサイドボードに置かれた自分の腕時計を見れば三時前。なるほど、これなら完璧だ。
「お茶の時間には帰ってきてくれたね。信頼っていうのは約束を守ることでより強固になる。君は僕の信頼を裏切らないでくれた。逃げることも、戦うこともみんな勇気。君はスリザリンで一番勇敢な男の子だ。だから特別に、君にも五十点」
今度は耳まで真っ赤にしてアルバスは言葉を探している。何を言うべきなのだろうか。感謝を伝えるのはなんだかおかしい気がしたし、気の利いたジョークも思いつかない。ただ、胸の中があまりにもいっぱいでどうにかなってしまいそうだ。
「ふふふ、今のは寮監からの加点。それからもう一つ!これは魔法薬学の先生としての加点。天才的ひらめきと、学んだことをしかるべきところで思いだし、きちんと行使できる能力。天才!本当に天才!チンキ液と真珠の粉の関係性を思い出したこと。そしてきちんとチンキ液を製造できたこと、お見事!二人に五点ずつ、一人につき合計五十五点!」
「そっちにも!?」
「今年のスリザリンには是非とも優勝を掻っ攫ってもらいたいもんですね」
優勝杯はね、あると嬉しいもんだからさ。そう言ってレイはまたベッドに倒れた。実にいい気分である。自寮の生徒を褒めちぎるのは最高だ。できればこの調子で高得点投げまくりたくなる実績を積み続けて欲しい。正当で知的で勇気ある行いには容赦なく加点したい。
「よーし。これで思い残すことなし!君たちを正しく評価できました」
「思い残すことなんて、そんな変な言い回しすることないだろ」
「いいやぁ。僕にとってはこれが一番大切だったから。君達をきちんと評価しないと、ね?後からじゃ遅いんだよ」
レイの言葉に二人は首をかしげた。しかし、それは一瞬のうちにスコーピウスの「あっ!」に飲まれる。気づいてしまえばこんなに簡単な問題もなかったのだ。
「レイ。レイは僕らと一緒に時間旅行をしたわけじゃないよね」
「スコーピウス、どういう事だよ」
「レイは、僕らと時間移動しなかった。なのに、どうして僕らの話が理解できるの?」
その言葉にアルバスも合点がいったらしい。世界を変えた特異点にならなければ記憶は継承されない。それは二人が経験から学んだことだ。レイは綻んだままの表情でに二人に声をかける。
「魔法薬にできないことはないって、そういう話だよ」
「あぁ、よかった、じゃあ、先生はこのまま全部を覚えてるんだね」
明らかに緩んだ顔のアルバスにレイは容赦なく告げる。ある意味では、これこそがアルバスとスコーピウスが取るべき責任だ。
「でも、魔法薬には効果のおしまいがある。世界が変わった以上、そこに関わらなかった僕はいずれ世界の変容を認識できなくなるだろうね」
「か、変わらなかったのかもしれないだろ!セドリックに薬は渡した!でも僕らはそのあとあの人がどうなったかまだ知らない」
何事かに気づいてしまったアルバスの必死な様子にレイは笑ってしまった。それが不適切な感情表現であることは理解していたけれど、あまりに可愛らしく思えたのだ。
「変わったよ。君達のおかげで、世界はほんのちょこっとだけ」
「だったらなおのことおかしいよ。歴史を変える、と世界も変わる。それは僕らが一番よく知ってる。僕らがそれを覚えているのは僕らを起点に時間を移動したから。僕らの行動で世界が変わったからだ、と思うんだ」
「だ、だから何なんだよスコーピウス!僕にもわかるように説明してくれ」
スコーピウスはアルバスが理解できていないわけがないと思った。この説の真相を信じたくなくってこんな態度をとっているのだろう。そうに違いない。アルバスは決して馬鹿じゃないのだ。信じたくないことを徹底的に脳内から排除してしまうだけで。
「いいか、一回しか言わないよ。今、僕たちの目の前にいるレイは、僕たちと冒険してくれた先生は、」
保健室で許されるギリギリの音量。スコーピウスは自分の声が、思考が耳に入って息がつまる。子供のころから側に居る人が、大切な話し相手が、大好きな先生が。よく似た別の誰かになってしまうかもしれない、なんて。
「それもみんな、僕のせい?」
「アルバス」
「過去を変えたから、先生は、セドリックのために頑張ってた先生はいなくなる?僕のせいで?」
「アルバス」
「僕は、僕はなんてことしたんだ。最低だ、最悪だ。僕があんなことしなければ、」
「ストーーーップ!」
「ぁ痛っあ!!なんで頭にチョップするんだよ!」
「ありがとな!最高の生徒なんだよ!だから、僕なんか~って僕の前で言うのを禁止します!今この瞬間から。君達を悲しませるっていうのならば僕は今すぐに付随する記憶を君たちの中からオブビリビエイトするのも辞さないですけども」
セドリックが生きていた世界。間違わなかった世界。それだけでよかったのだ。自分はそこに行きつくためにここにいて、長すぎるモラトリアムを謳歌している。
それはエゴだ。途方もない自分勝手。にもかかわらず教師、というものは酷く面白くて初めて魔法薬学以外の道を見つけた気がした。
ただの研究者では決して味わうことのできない様々な経験はレイの人生に沢山の花を降らせてくれた。
もちろん、みんな大切だった。二十年の中で何人もの子供たちを送り出してきた。ダイアゴン横丁を歩いていれば卒業生に先生と呼ばれることだって増えた。可愛い生徒たち。それ以上でも以下でもなかった。そのはずだったのに。
「あぁ、もう、君らってば本当にすごいんだから」
鼻の奥がじったりと重くなって、正直今にも泣き虫が顔を出しそうだ。それでも大人の威厳ってやつでどうにかこうにか滂沱の涙を涙腺ではなく喉の奥に押し込んでやった。
「確かに。先輩が死ななかった世界に僕の居場所はない。僕の物語はセド先輩を救うための物語だ。生憎、この物語のヒーローは先輩なんでね。スポットライトを浴びるべきはあの人だ。俺は板の下から応援してるファンでしかない。いつまでも、どこまでも。だからここに繋がる物語を忘れようが構わない」
究極の自己犠牲の上に成り立つ物語。どれほどの密度の時間を、それこそ魂すらもかけたとて。今を生きる自分の意識が手に入れるものはない。その可能性に気づいたとき。それでもレイは笑ったのだ。それがレイにあって彼女になかったものに他ならない。
「今なら間に合うよ。記憶を瓶に詰めて見返せるようにして、それで、」
「待った。僕、その記憶の取り扱い嫌いなんだよね」
レイがきっぱり断ればスコーピウスの瞳が悲し気に揺れる。可愛い子にこんな顔をさせるのは本意ではないけれど、それでも。これはレイの曲げられぬ思いだ。
「今を生きるのにようやく手いっぱいになったんだ。過去なんて振り返ってる時間がないったら」
記憶は、見返さなければ意味を持たない。それに、トライウィザードトーナメント以降の三十年近い記憶を丸ごと再インストールなんかしたら間違いなくハードであるレイの脳は壊れるだろう。それくらいにこのメモリは重いのだ。人生はどうあがいたって一周分で十分なのである。沢山あるのは金貨だけでいい。
「それにね、僕は僕と付き合いが長いから断言できるんだけど、どうせ見返さないよ。どんな生き方をしたってそこの感性は変わらないと思うな」
だから、忘れちゃっていいよ。そんな風にほほ笑む。生徒たちの沈んだ表情にこちらの心まで痛むけれど、こればかりはどうしようもない。成長に痛みを伴う別れは必要不可欠だ。
確かに、忘れることができない側からすればたまったものではないだろう。それでも。
「どっちも僕だからさぁ。君達のことを大好きな先生としての本質か変わったりしない。違和感はあると思うけど、まぁ見なかったことにできるなら見なかったことにして」
一層朗らかに笑うレイにアルバスすら何も言えなくなる。それでも、どうにかならないか、と彼の頭は回り続けているようだった。それくらいの集中力が普段の授業中からあると良いんだけどなぁ、と茶化せば睨まれてしまう。
「待てよ……じゃあ、パパとママの記憶も?」
「そらぁ、変わるだろうねぇ。君達のどちらも欠けていないってことは大筋に問題はないんだろうけどね。それでも君たちはとんでもない過去改変を一個やってるんだよ。そこに関しての歴史と、世界の空気は確実に変容してる」
「ローズとヒューゴの時みたいに?」
「そう。いなかったはずの人が存在する歴史、にね。一つ取り落とさなかったら、二つ。二つが大丈夫だったら四つ。四つは八つで、八つが十六。倍々ゲームの果てに今が少しだけ優しくなったんならいいんじゃない?」
それでも納得がいかないアルバスは明確にむくれている。記憶、というものが歴史とひと続きである以上どうしたってその時間軸においてあり得ないものは淘汰されるし、そうあるべきなのだ。
「でも、パパたちも時間を移動したじゃないか!」
「そう。それなんだけどね。ハリーポッター物語のきっかけを変えなかった。変えなかった以上、歴史は変わらず進み、あの墓場に行きつく。でも、君たちは先輩に薬渡した。そうだろ?ここはその分だけずれた世界だ。そして、僕はずれる原因となった旅行には参加していない」
これ以上の説明が必要だったらできればスコーピウスにお願いしたいんだけど。そう言ってレイは同じく表情を曇らせている彼を見る。申し訳なさそうな、悲しげな表情を彼らにさせるのはレイの本意ではないのだけれど、これは仕方のない話である。
「それにね。後悔だって少しはないと。人生つまんないもんだよ」
「子供に後悔させないために先生がいるんじゃないのかよ」
「甘苦い思い出が一つもない青春を僕は青春だなんて呼びたくないね」
全部に迷って、多少痛い思いも苦い思いもして、それを糧に大きくなってください青少年。それが先生の願いです。と言うものの、空気は重いまま。だからこそレイはほんの少しだけ意地悪な気持ちでさらに言葉を続ける。
「まったく……。俺は、ようやく世界一の友達と一緒に遊べるんだよ?この先何年も、飽きるまで、いいや飽きたって。これがどんだけ嬉しいか分かる?盛大に祝って欲しいね!」
クラッカーとかくす玉案件でこそあれ、嘆かれる立場じゃないのだ。子供の心に傷をつけるのは本意でなくとも、これは彼らの行動が招いた結果だ。全てが全て丸く収まる形で終わらないと学ぶのに良い教材になろうではないか。
誰かのハッピーエンドが自分のビターエンド、だなんて往々にしてよくある話でしかない。
「ずるい。そんな風に言われたらレイのこと止められないよ」
「じゃあ成功だね」
「あーもう!わかったよ!はい!この話おしまい!」
「へへへ。ご理解、感謝します」
それに、だ。人は愛された記憶で形作られる。だから、レイは同じだけを返したつもりだ。彼らから向けられたものも等しく愛だった。それに報いることはできたと思う。だからこそ、もう彼らはきっと大丈夫だ。
「あ、そうだ。アルバスに一つお願い。もう必要ないとは思うんだけど、もしもそのままお守りを持ちっぱなしにしたい場合は、まかり間違っても四十年くらい過去に飛ぼうとか思わないでください。僕が死にます。多分今度こそ本当に死ぬ」
「なんで?」
「お守りを機能させるために僕の魂とリンクさせてるんだけど、あんまり過去にぶっ飛ばれるとリンクが強制解除さっるっぽくてぇ。今はもう機能復活してるけど……。それがまぁもう、なに?死後の世界からお迎えが来るくらいの苦痛を伴うんだよね」
「え」
レイからの告白にアルバスはお守りを入れている胸ポケットのあたりに手を伸ばした。そんなに恐ろしいものを持たせないで欲しい、という気持ちとある種の呆れがまぜこぜになった珍妙な気持ちだ。
何が入っているのかついぞ知らないままだが、そこまで魔法的制約が高いものだとは思ってもみなかった。
「いらないなら返してくれてもいいんだけど、どうしたい?」
「先生。あのさ」
「んー?」
「先生って痛みがないと何もできないの?」
「そういう事じゃない!なんか僕がやると痛いことが多いだけ!そんな、人が好き好んで痛がってるみたいに考えんのやめてくんない!?」
哀れみを含んだ目で見られてお冠であるが、そこは病み上がり。自分の声が頭蓋の中をトゲトゲスパイクで駆けずり回った。間違いなく脳にダメージを負っている身の上で間違った反応だったと言わざるを得ない。
「先生、そんなに騒ぐと頭痛くなるよ」
「っぐぅううう……ってぇ……」
「言わんこっちゃない」
スコーピウスに危うくポンフリーを呼ばれそうになったがギリギリ耐えた。世界で一番力ないサムズアップはいささか説得力に欠けるが、まだ話の途中。保健室のアストライアに彼らを追い払われるわけにはいかないのだ。
アルバスは頭を押さえて唸っているレイを笑いながらお守りを握った。どんな魔法か分からないけれど、これは彼が自分にくれた特別なものだ。だったら、返したくなんてない。
「絶対、一生、開けようなんて思わないから僕が持っていてもいい?」
レイは首の後ろを揉みながら視線をあげる。可愛い生徒の掌の上には、自分が作ったにしては地味な布小物。内容的にはほとんど闇の魔法だが、少なくとも愛情ではできている。
「もしも開けたくなったら先生が死んでからにしてください。今は絶対に開けちゃダメ」
「死んだって開けないよ。でも、そんなに言うって何が入ってるんだよ。ダメダメ言われ過ぎて気になりはじめた」
「カリギュラ効果っ……」
できれば回収したかったが、アルバスがそこまで大切にしてくれるならいいだろう。それに、少なくとも彼らの卒業まではこのままリンクさせておくのもいいと思うのだ。何も起こらなかったらそれで僥倖。もし、何かあったらまた彼らの手助けになれる。
「じゃあ、それはアルバスのものだ。肌身離さず持ってろとはもう言わないけれど、近くに置いといてよ」
「うん。そうする」
お守りはまたアルバスの内ポケットへと戻っていった。
これでこの二人にレイから伝えなければならないことは全てだ。後は日常に戻ってもらうだけ。新学期からここまで、異様に長くかかってしまった。
「さぁ、君達。授業の時間じゃない?僕を理由にさぼりなんて先生悲しくなっちゃうぞ」
そう言ってやれば二人は視線を時計に移す。確かに次の授業まで残り十五分といったところ。変身術の授業に遅れるわけにはいかないだろう。
二人して水っぽい顔面をハンカチで拭って意識を切り替える。この世界ではあの大冒険はなかったことになるため、レイが死にかけた事実もなくなるのだろう。いくら懇意にしている教師とは言え、ただの体調不良者に泣いて縋っていた、と言うのは中々におかしな話になる。
「何も今生の別れってわけじゃないしさ。そんなに悲しまないでよ。それにあと二、三日はまだこのままでいるつもりだし」
「どうして?」
「前にも言ったろ。一番大切なのは終わった後の後片付けだって。いくら歴史が変わるって言っても何もかも手放しでぶん投げるわけにはいかないんだよ、大人は」
そのための準備くらいはしてて当然。そんな風に言いながら、レイは二人の前に小瓶を出した。魂保護薬の残りである。きつい副作用が出てしまわぬように薄くのばしたそれは多く見積もっても三日分。すべて消える前にまとめておかねばならないもろもろのためのアディジョナルタイムだ。
「君らのパパとママは今日明日中には完全統合される予定です。もし、何か困ったことがあったら僕に言ってね。できる限りのことはするよ」
色々差異があって混乱しないとも限らないし、とレイが微笑むとアルバスは何かに気づいたようだった
「あれ、あ、そうか……先生!もう一つだけ!今気づいたんだけどさ!」
「どしたのアルバス」
「歴史が変わったんならさ、もしかして、僕ら罰則は、ない?」
これはアルバスの言う通りだ。いかんせん、彼らが時間旅行をした、なんて事実はこの世界においては存在しない。原因がどこにもないのだ。ハリーのもとにエイモスが訪ねてくることも、彼がデルフィーニと出会うこともあり得ない。
いつも通り、反抗期で思春期の息子が父親と口喧嘩をして、その上でホグワーツ特急に乗って今年も五体満足で学校にやってきている。そこに何の罰則が発生しよう。
「覚えている教師としては是非とも年内いっぱい謹慎しててほしいですけど、今ここにはその因果がないですからねぇ……」
ぱっと晴れた二人の顔。週末に友達と楽しく遊びに行くホグズミードくらい楽しいものもないのだ。それをアルバスも知ってくれたのであれば素晴らしいことである。
「でも罰則は罰則。週末のホグズミード、僕にハニデュでおやつを買ってきて、それで週明けにお茶会なんていかがかな、アルバス」
思わずハイタッチをした二人である。罰則なんてないならない方がいいし、なんだか口が無性にバタービールを求めていうのだ。教師にちょっとしたお土産を渡すだけでそれが叶うのであればそんなに嬉しいことはない。
けれど、そこはレイ。流石にそれだけで済ませるつもりはなかった。聡いスコーピウスはすぐに気づく。
「でも、レイが名指しでお茶会に誘ってくるときには」
「お察しの通り。補習です」
「ぎっ、でも、ま、しかたが……ないか……」
美味しいミルクティを用意しておくからねとレイが笑いかければアルバスも諦めたようで笑みを零す。もう何の心配もないだろう。
ようやく、訪れた平和。少なくとも今のホグワーツにおいて生き死にに関わる問題は起きないはずだ。
こうして、生徒二人は日常へと戻っていった。