過去の記憶の奔流が収束し、意識が現在へと戻る。
「……ッ!」
体がはっと息を飲む。背中には冷や汗。これも、いつもの反応だ。
「全く、いつまで経っても慣れないわね、この感じ……」
口から出た言葉は、いつもの私の口調だ。私は自嘲気味に呟きながら、身支度を整える。
懐には、永琳から渡されたメモが入っている。そこには薬の材料リスト、そして「食材を多めに」「人里の偵察」「不審な月のウサギがいないか確認」といった指示が簡潔に記されていた。永琳は多くを語らないが、この簡潔な指示こそ、事態の切迫度を物語っていた。
「さて、行くわよ」
鈴仙は永遠亭の門をくぐり、人里へと続く、獣道のような細い道を歩き始めた。竹林を抜けると、少し開けた草原が広がり、その先に小さな人間の集落が見えてくる。
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人里の賑やかな通りに出る。
朝の支度で忙しない人々の様子は、一見するといつも通りだ。
鈴仙はまず、馴染みの薬屋へと向かった。
店主の老人が「こんにちは、」という陽気な挨拶に対し、
鈴仙は無言で会釈を返し、懐からメモを取り出して差し出した。
店主が奥へ引っ込む間、鈴仙は店先に並んだ品々、
そして通りを歩く人々を冷静に観察した。彼女の視線は鋭く、周囲の情報を取り込んでいる。
彼女の意識は、人里に紛れ込んだ不審な「月のウサギ」がいないかを探していた
。感情を抑え、冷徹な兵士のように、一人ひとりの人間、
あるいは妖怪の微細な挙動、
月の兎特有の「波長」のようなものを感じ取ろうとする。
だが、人里は穢れた地の住人たちの、混沌とした温もりに満ちていた。
月のウサギのような、冷たく秩序立った気配はどこにもない
。皆、平和な朝を過ごしている。
(いないようね。まあ、当たり前か。もしいるなら、もっと隠密行動を取るはずだもの。こんな偵察、あまり意味ないか)
薬を受け取り、代金を支払う。無言で頭を下げ、次の店へ。
食材を売っている店でも、鈴仙はほとんど口を開かなかった。
必要なものを指し示し、無言で頷き、支払いを済ませる。
米、味噌、乾物、保存がきく野菜。永琳の指示通り、
数週間分の量を買い込む。
(全ての情報は、戻ってから整理する今は、迅速に帰還するのが最優先)
両手に重い荷物を抱えたまま、鈴仙は足早に竹林へと戻っていく。
重みはあったが、月の兎として鍛えられた体にはどうということはない。
ただ、食材の匂いが鼻をくすぐり、少しだけ空腹を刺激した。
竹林の奥深く、結界に守られた永遠亭の門が見えてくるあたりに来た、
その直前のことだった。
鈴仙の鋭い兎の耳が、微かな、しかし決定的な「音」を捉えた。
それは、まるで月の都の空気そのものを纏ったような、冷たく、無機質な足音だった。人里の混沌とした気配とは全く違う、秩序立った、見慣れた気配。
(まさか……!)
音もなく竹藪の影に身を隠した。
息を潜め、意識を集中させる。
少しだけ早鐘を打った
。
竹林の切れ目から見えたのは、
やはり、見慣れた白い詰襟の制服を着た少女だった。
月のウサギ。鈴仙がかつて属していた、月の防衛隊の隊員だ。
彼女——青蘭は、
辺りを警戒しながら、ゆっくりと永遠亭とは逆方向、
人里方面へと歩を進めていた。その表情は硬く、任務中であることが伺える
。
(本当にいた……永琳様の懸念が的中したのね。偵察ではなく、もう潜入が始まっている)
鈴仙は動けなかった。
声をかけるべきか?
捕らえるべきか?
いや、今はまだその時ではない。
私は荷物持ちの身分。単独行動で月の兎と接触するのはリスクが高い。
それに、青蘭はこちらの存在に気づいていない。
鈴仙は、冷徹な判断を下した。
(泳がせるしかない。私がここにいることがバレる方が面倒だわ)
青蘭の姿が竹林の奥へと消えていくのを、鈴仙は無言で、感情の乗らない目で見つめ続けた。
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昼間だというのに薄暗い、
湿気の多い竹林の中を、青蘭は警戒しながら進んでいた。
この「幻想郷」と呼ばれる穢れた地は、月の都とは何もかもが違っていた。空気は重く、得体の知れない気配に満ちている。
(本当に、こんなところにいるのかしら?)
青蘭の任務は、数百年前に月を裏切って逃亡した先任兵。鈴仙の捜索だった。
永琳様という元・月の賢者と共にこの地に隠れているという情報は掴んでいる。
今回の作戦は、その二人の動向を探り、可能であれば捕縛、あるいは無力化することだ。
(彼……なぜ逃げた?)
青蘭は、かつての同僚の顔を思い浮かべた。
いつも真面目で、訓練の成績も優秀だった。だが、時折見せるその瞳は、
月の兎としてはあまりにも「感情」に満ちていた。
(感傷的すぎるのよ、あなたは)
月の都では、感情は排除すべき弱点とされていた。
青蘭自身も、その教えを忠実に守り、任務を遂行してきた。
だからこそ、任務は完璧なのに、感情が死にかけ何度も泣いていた鈴仙の行動が理解できなかった。
人里へと続く道を偵察しながら、青蘭は周囲の気配に神経を尖らせる。
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青蘭の姿が竹林の奥へと消えていくのを、鈴仙は無言で
、感情の乗らない目で見つめ続けた。
(青蘭……)
かつての同僚。真面目で、任務に忠実。あの冷たい都の中では
、彼女なりに私のことを気にかけてくれていたのかもしれない。
青蘭が見せた、任務以外の時の少しだけ緩んだ表情を思い出す。
(彼女は、まだあの冷たい世界にいるのね。私を追って、こんな穢れた地まで……)
鈴仙は荷物を持ち上げながら、青蘭との違いを痛感していた。
青蘭は秩序と効率だけを価値とする世界の住人。
一方、自分(私)は、この永遠亭という閉鎖的だが温かみのある場所で、
てゐのいたずらに付き合ったり、輝夜のお嬢様の相手をしたりして、感情を取り戻しつつある。
いや、感情を取り戻したのではない。憑依者である私の意識が、この鈴仙の体に、人間的な感情を教え込んだのかもしれない。
(もし、あのまま月にいたら、私も彼女のようになっていたのかしら?
私を撃とうとする彼女を、私は……)
鈴仙は小さく首を振った。もう過去は関係ない。
私は今、ここにいる。
(泳がせるしかない。私がここにいることがバレる方が面倒だわ)
冷静な判断を下した後、鈴仙は再び荷物を持ち上げた。心の中は、再び冷静な分析モードに戻っていた。
(情報は得た。青蘭が単独で行動しているようには見えなかった。他にもいる可能性が高い。これを永琳様に報告するのが先決だわ)
鈴仙は、足早に永遠亭の門をくぐった。門の先には、
いつも通りの静寂と、少しだけ焦げたような、薬草の匂いが漂っていた。
永琳の指示通り、荷物は多く、背中には汗が滲んでいた。
(帰還完了。迅速な行動ができたわ)
鈴仙は、重い荷物を抱えたまま、永琳のいる薬室へと向かって歩き出した。
彼女の心は、この偽りの平穏が長く続かないことを予感しながらも、冷静に、次の永琳からの指示を待っていた。