未知の悪魔は未知を識り、味わうことを至福の悦びとしている。
しかし未知の悪魔が知らない未知というのは、正確には存在しない。なぜなら未知の悪魔は、知ろうとすれば未知の悪魔が知覚している知覚領域の範囲内に目と耳を飛ばす能力を使って情報を得ることができる。
そうでなくとも未知の悪魔の脳内には、膨れ続ける宇宙の情報が絶えず流れ込んで更新され続けている。知らないことが知覚領域外に存在したとしても、それは次の瞬間に分析され解析され理解されて既知に至る。
ゆえに未知の悪魔には永い間、自我と呼べるものは存在しなかった。更新され続ける情報とそれらを整理する整然としたシステムの働きが未知の悪魔の全てだった。
だからこそ、未知の悪魔は困った。
未知の悪魔はその在り方からして、生物の感情を理解することが出来なかったのだ。
あらゆる生物は矛盾を孕む。生き残り種を次世代に残すことを最優先に動いているにも関わらず、時に真逆の行動を取り自身の生存確率を下げて危機が訪れてから焦り出す。意味不明である。
意味不明。すなわち未知。
未知の悪魔にとって生物の行動原理とは非合理さと未知の塊であった。
未知の悪魔はこうした非合理性を理解するためにどのような方法を取るべきかと悩み、一つの結論を得た。
彼らと同じ目線、同じ環境を生きる自身の分体を放ち、情報を収集させるのである。
まさに、今回と同じように。
「では、未知の悪魔の本体は……」
「地獄にいる」と、未知の悪魔は答えた。
地獄の最も奥深いところ。闇の悪魔も虚無の悪魔も、死の悪魔すらも知覚していないだろう地獄の底の底に、ひっそりと未知の悪魔は存在している。
誰かと関わることもなく、ただ一人で何千、何万、何億年と未知を観測して整理し続ける作業に身を置いている。
「……」
その境遇を憐れむ必要はない。そもそもあれに苦しみや辛さといった感情は存在しないのだ。
ただ、未知の悪魔はそこから動くことができない。それをすれば未知の悪魔の力は大きく減衰してしまう。
だから未知の悪魔が──“私”がいる。
人間の感情を収集し、理解をするための分体である私が。
「では、あなたの今の状態は」
支配の悪魔の問いに、私はしばらく答えなかった。
ただ、眼下の砂浜で揉みくちゃになっている人と悪魔達を眺めて言った。
「彼らはすでに、私の存在を覚えてはいないだろう」と。
カフェのマスターや岸辺。そしてデンジとレゼもきっと、未知の悪魔の存在が記憶から消えている。
それこそ現世にいてまだ私を覚えているのは、物事を掌握する力を持つ支配の悪魔くらいのものだ。
だがそれも、時間と共に薄れて消えていく。
最後には現世に未知の悪魔が存在したという全ての物的証拠が無くなるだろう。
未知の悪魔は未知に潜む。
ゆえに現世で情報収集に徹した分体も、その役目を終えて地獄にいる未知の悪魔の元に帰還する時には、関わった全ての存在の記憶と痕跡を消さなければならない。
未知の悪魔に繋がる全てを消し去ったら、最後に未知の悪魔の分体を、私自身をこの世界から消さなければならない。
それが未知の悪魔が未知の悪魔として存続するための重要な一線。
未知の悪魔が未知の悪魔たる所以だ。
「だからあなたは消えるのですね」
私は支配の悪魔に頼み事をした。
私が乗っ取っているこの体の持ち主は不幸な身分である。私が消えた後、しばらく公安の施設で預かってもらい、精神的な療養期間を設けさせたい、と。
「……わかりました。彼女が社会復帰できるまでは、私が彼女の面倒を見ます」
「ありがとう」と私は言うと、グラスを手に取って飲もうとした。
それをするための力は、すでに残っていなかった。
夕陽が沈んでいく。
支配の悪魔の目には、私が夕陽の中に溶けていくように見えているだろう。
私にとってもそうだ。それほど眩しくはないはずの夕陽が、視界を覆い尽くすほどに眩しくてたまらない。
「未知の悪魔」
呼びかけられた気がした私は、唯一まだ動かせた視界だけを向けて……光の向こうにいる誰かを見た。
「あなたのことは嫌いです。ですが……」
その誰かは、私がこの現世で好きになったもののうちの一つだった気がした。
「感謝しています。ありがとうございました」
それを聞き届けて、私はふっと笑った。
まるでこれが最後かのような口ぶりだ。未知の悪魔は死ぬわけでも消滅するわけでもない。
コーヒーの味を知った。スイーツの甘さを知った。クレープの待機列の長さを知った。落ち着いた雰囲気で過ごす時間も知った。少年と少女の恋の甘さも知った。それを見届ける時間の穏やかさも知った。
人間が嫌いなように見える彼女が、実際には人を愛していることも知った。
私も彼らのことを愛している。
だから私はもう少しだけ、この世界に留まるつもりだ。
「もう少し、だけ」
あと、ほんのちょっとだけ。
もう少し──
──陽が沈んだ。
◆
「んぅ……」
月明かりが眩しくて、少女は目を覚ました。
体を起こすと……すぐそばに、大きないびきをかいて眠りこける少年が寝ていることに気づいて頬を緩める。
少年の首筋に唇を落として、少女は暖かな温もりを脱して外に出た。
「……わぁ」
窓の外には綺麗な満月。どおりで月明かりが眩しいはずだ。
旅行に行った皆は、今頃楽しんでいるだろうか。
本当なら、私も行きたかった──。
「……あれ」
いや、違う。私は自分の意思で残ったはずだ。彼と一緒に夜を過ごすために。だから私は今、こんなにも幸せで──。
「え?」
何故だろうか。
少女は知らず知らずのうちに涙を流していた。
幸せなはずなのに。
幸せにしてもらった、はずだ。
──誰に?
「……誰だっけ」
少女は目から流れる涙を止めないまま、ただずっと火照る体を冷ますように月を見ていた。
夜が明けるまで、ずっと。
……
…………。
「よし、今日も閉店作業終わり……っと」
「……? あれ?」
「……なんでこの店のメニュー、こんなにスイーツ増えたんだっけなぁ」
「──あっ、思い出した!」
「レゼちゃんにお願いされたんだった!」
◆
かつ、かつ、かつ──と。
光が何物も通さない、本当の暗闇を硬く響く音が横切っていく。
本当の意味での暗闇とは、自身が何者であるかすら見通せないほどの深いことを言うのだ、と。
誰かが言っていた気がした。
しかし、それを理解することは困難を極める。
本当の意味での暗闇に足を踏み入れて、再び光ある世界に帰ってきたものは存在しないからだ。
かつ、かつ、かつ。
音だけが暗闇では頼りになる。暗闇の中でどれだけ目を凝らしても何も見ることができなかったとしても、音だけはいつも正直に存在を証明してくれている。
しかし暗闇を超えて、全ての境界が混じり合った世界──虚無の世界に於いてはその限りではない。
虚無の世界では全てのものは混じり合い、溶け合って、ただ純然たる世界そのものとなって唯一の指標たる音すらも取り込んで訪問者を彷徨わせる。
──。
光と音が無くなった世界で、前でも後ろでも上でも下でもない方向に進む。
この世界においては方向は意味を為さない。世界は全て一つの虚無の元に統一されており、どこに向かって進んだとしても辿り着く場所は同じなのだ。
だから、大事なのは進み続けること。何も指標などなくても、世界が歩みの記録を残さなくても、ただ前に進み続けるという意思だけで足を前に進めれば、この虚無の世界で停滞することだけは避けられる。
停滞はしてはいけない。それは虚無の思う壺だ。ただひたすらに歩を進めて、進めて、進めて。
その先にそれはある。
闇を越えて、虚無を越えて、停滞という死を越えて。
ようやくその世界に辿り着いた。
名前のついてないその世界に。
「初めまして。──の悪魔」
その世界で、音にもならない声が反響して響いた。
それはゆっくりと──こちらに意識を向けた、気がした。
「あるいはお久しぶりですと言うべきかもしれませんが……あなたからの頼まれごとの顛末の報告と、あとは──」
何もない世界に辿り着いたのは、きっと彼女が識りたがったからだ。
彼女の行動、意思に理由はない。
“面白そうだ”と思ったら、彼女は招く。そう確信していたからこそ、ここに来た。
「新作のスイーツを持ってきました。一緒に食べませんか」
この、知りたがりな悪魔の元に。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
映画を見て昂った熱のままに書き殴った本作ですが、思っていたよりたくさんの感想・評価等の反応をいただけて大変励みになりました。
元はもっと短い短編のつもりでしたが、作者の筆が進んだ結果全8話となりました。これも皆様のおかげです。
またいつか、お会いできることがあればお会いしましょう。それでは!