残酷な表現が多いためご注意ください。
地上に降りた未知の悪魔は、ある暗い部屋でシーツを引き裂いてそれを身体に巻いていた。
身体というのは、未知の悪魔が現世に降りるために必要だったある若い女の体だ。数分前までは人間が分泌する様々な液体と薬物で塗れてほとんど死に体の状態であったが、今はこの年齢の女性の一般的な健康状態を参考に清潔にしている。
体はそうであっても、精神の方はなんともならない。精神の病を治すことは未知の悪魔が最も苦手とすることの一つだった。
「あ……? おい、エマ! なに勝手に部屋出てんだオマエ」
部屋を出た未知の悪魔を出迎えたのは、髪も髭も伸び放題で全裸の男だった。その男は確か未知の悪魔が乗っ取る前の女性を囲んでいたうちの一人だったと記憶している。
「エマ」と、口の中で未知の悪魔はその響きを転がす。どうやらそれが女性の名前らしい。見たくもないものを見せられたが、知りたいことは知れたという点で、この男にはその分だけの価値がある。
「まだイジメられ足りねぇのかっががはがばはががが」
よって、未知の悪魔はその男を一息に終わらせることにした。
瞬きの間に男のすぐ側に移動した未知の悪魔は、男の胸を細い指先でつんと突くと、その一点を中心に男の体がぼきぼきと音を立てて折り畳まれた。
血や体液や内臓の一部が未知の悪魔に降りかかるが、それらは未知の悪魔の体に付着した瞬間にこの世から無くなってしまったかのようにかき消え、未知の悪魔の体を汚すことはなかった。
「ぃぎっ」
そして、コロンと音を立てて男の体は直径10cm程度の黒い球形状となった。
それは人間の姿形をしていなかったが、まだ人間としての機能を有している立派な人間だ。生き物と言えるかは微妙な線引きの上に立っているが。
ともかく未知の悪魔は運びやすくしたそれを手に取って、すぐ近くにあったドアを潜った。
「あん?」
「おっ」
「……まだ生きてたのかよ?」
ドアの向こうには、4人の人間の男たちがいた。一人一人がどういう素性であるのか未知の悪魔は特に興味がない。
なので未知の悪魔は右手に持っていた男だったものを部屋に投げ込んで、ドアを閉めた。
──!!
風船が割れたかのような凄まじい破裂音がして、びりびりとドア越しに室内を駆け巡った衝撃が手に伝わった。
未知の悪魔は再びドアを開ける。
真っ赤だ。
さっきまで壁や床がコンクリ剥き出しながらも一応は部屋という体裁を整っていた一室は、人間だったものの欠片が飛散してドス黒く真っ赤に染まっていた。
未知の悪魔は室内が一望できるドアの位置から、左手を開いて視界の右隅まで持ってきて、それをゆっくりと視界の左隅までスライドさせた。
平手が過ぎ去った後の視界には、部屋を真っ赤に染め上げたものは綺麗さっぱり無くなっていた。それ以外のものは全て損傷もなく無事である。だからこの部屋に元いた男たちの痕跡だけが綺麗さっぱり消えたことになる。
それは視界的にもそうだし、この世界からこの部屋にいた全ての男たちは最初からいなかったことになった。観測者なき未知の領域に放り込まれた存在は皆そうなる。
未知の悪魔がドアを閉めた時、部屋の中を観測できるものは室内の者以外誰もいなかった。だから、誰も彼らが存在したことを証明できない。証明できないものは存在できないのだ。
未知の悪魔は少々部屋を物色し、クローゼットの中を覗いた。ちょうどいい衣服が見つかればと思ったが、中に入っていたのはズタズタに引き裂かれた女性物の下着類や、倒錯的なデザインの露出度の高い衣装などだった。
その中でも最もマシと思えるものを着用した未知の悪魔はこのまま街に繰り出そうかとも考えたが、恐らく未知の悪魔が“処分”した男たちのリーダー格が何人かの部下と共に上の階にいる。すでに未知の悪魔が起こした異変に気づいているようだ。
未知の悪魔は彼らを放っておこうかとも考えたが、未知の悪魔の位置が“追跡の悪魔”によって暴かれたのを確認して対処することに決めた。
未知の悪魔が瞼を閉じて男がいる場所を感知すると、そこに向かって未知の悪魔は飛んだ。
「うぇっ?」
「だ、誰だテメェっ!?」
「ワニ! 噛みつけ!!」
瞼を開けると、室内には3人ほどの男がいた。突然部屋の中に現れた未知の悪魔に驚いている。
それぞれの契約悪魔はワニの悪魔、バッタの悪魔、追跡の悪魔である。
未知の悪魔は、まず襲いかかってきたワニの悪魔の牙を無抵抗で受け入れると、その牙が顎ごと砕かれてワニの悪魔が激しくのたうちまわった。
「えっ」
若い人間の女性に巨大なワニの頭部が噛みつき、ワニの方が負傷を負うという常識外の光景を見たワニの悪魔の契約者である男は一瞬、思考が止まった。
未知の悪魔を目の前にして、考えることを一瞬でもやめるというのは致命的な隙である。なぜならそれによって出来た思考の空白には未知の悪魔の知覚領域の一部が流し込まれ、これを処理し切れない人間の脳は機能を失ってただの脂肪の塊に溶けてしまうためだ。
「なあふォォォんっ」
「世良!? て、テメェ!!」
「よせ近藤!!」
ついで襲ってきたのは襲って来たのはバッタの悪魔の契約者だ。バッタの大群が部屋中を満たし、未知の悪魔に襲いかかる。
大量の羽音と飛び回るバッタという光景は、人間にとって生理的な嫌悪感と恐怖を象徴するものなのだろう。バッタの悪魔の契約者ですら、その恐怖から完全に逃れる術はない。
「ブブッ」
そのため、未知の悪魔は男のバッタに対する恐怖心を許容量を遥かに超えて高めた。その結果、男の体は人間のものではなく人間サイズの巨大なバッタとなった。
「えっ」
部屋を満たしていたバッタが消え、男も消え、代わりに巨大な一匹のバッタだけがその場に残された現状を、追跡の悪魔の契約者は真っ白になった思考で徐々に認識した。
そして、バッタが羽音と共に飛び立った。
「おっ、ぶ、ぶぅええぇぇぇぇ」
男は吐いた。現実を受け入れ切れずに。
「ぅぇええええぇぇえぇぇぇ」
吐き続ける。胃の中の吐瀉物を全て吐き出してもまだ吐き続ける。
「ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ」
胃を吐く。腸を吐く。肝臓を吐く。肺を吐く。心臓を吐く。
「えひゅッ」
そうして吐くものが無くなった男は、自らが作った血溜まりの中に倒れた。
血溜まりの中に倒れた男にバッタが取り付き、死体を頭から顎で砕いていく。その様相にかつて人間だった頃の知性は感じられず、ただ生物的な本能だけに満たされていた。
これで、建物内にいた人間は全員が無力化された。わずかに残った痕跡もバッタが全て処理してくれるだろう。そしてさらに餌を求めたバッタは人間たちを襲い始め、やがて誰かに殺される。
未知の悪魔が今回手を下した男たちは、全員がとある組織の構成員だった。その組織のやっている仕事というのは、主に人間の女性を誘拐して他国に売る商品にしたり、あるいは人間を商品にするための薬物を売買したりといった内容だ。
未知の悪魔は人間がどこでどんな活動をしようが知ったことではなかったが、放っておくことで未知の悪魔の今後の活動に支障をきたす可能性があったので排除した。
彼らがいなくなったことで周辺の治安は少しの間落ち着くだろうが、それもまた新しい組織が取って代わりやがて元に戻っていく。
建物から外に出た未知の悪魔は、道路脇に蹲って座る小さな少女を見かけた。5歳くらいの小さな女の子だ。
「……ママ?」
その女の子が未知の悪魔を見上げてそう言ったので、未知の悪魔は彼女に近づいて、頭に手を置いた。
「私はママではない。あなたのママはこの場所にある児童養護施設の院長である。そこに向かいなさい」と。
「うん、わかった」
女の子が立ち上がり、歩き出したのを見送る。雨が降っていたのだろう、地面は水で濡れていたが、女の子が腰を落ち着かせて座っていたコンクリートの部分だけ乾いていた。
未知の悪魔は少々考えて、近くにあったアイス店に入ると一番人気のメニューであるバニラアイスを頼んで、ふらふらと未知の悪魔が指定した場所に向かっていた女の子に追いついて渡した。
「ありがとう、お姉ちゃん」
未知の悪魔は女の子の感謝を受け取ると、立ち上がって歩き出そうとした。
「ちょっといいかな、お姉さん」
しかし、そんな未知の悪魔に背後から声がかかる。
「今、あの子になんて話しかけてたの?」
未知の悪魔に声をかけてきたのは、人間が治安維持のために創設した“警察”という組織の制服を着用した男性だった。それが、なぜか未知の悪魔に厳しい目を向けている。
未知の悪魔は自身の格好が、一時的に借りた倒錯的な衣装を身に纏ったままであったことを思い出した。どおりでアイス店に寄った時もギョッとした目で見られたものである。
しかし誤解だ。未知の悪魔は警察の男性に懇切丁寧に釈明した。
未知の悪魔は声をかけた女の子にママと呼ばれ、放っておけず、あのような女の子がたくさんいる施設にアイスを買ってあげてから向かわせたこと。
また未知の悪魔の現在の格好はクローゼットの中にこのような衣装しかなかったので、仕方なく一番マシなものを着用した結果であること。
他には周りに何人かの男たちがいたが、全員いなくなってしまったかバッタになってしまったので衣服を調達できなかったこと。これらのことを未知の悪魔は順序立てて説明した。
未知の悪魔は警察署に連行された。
そして何とか出て来れた時には、すっかり陽が沈んでいた。
全く理不尽な目に遭ったものだ──と未知の悪魔は憤慨した。しかし、これも未知の悪魔が求める未知なる体験であると前向きに捉えた。
現世に降りて早々の貴重な体験。未知の悪魔をこれから迎える現世での出来事に、俄然期待が高まる歩み出しと言えた。
さしあたって、まともな衣服を調達するために未知の悪魔は近くの呉服店に入店したのだった。
倒錯的な衣装 → バニースーツ