μηδὲν ὅλως σὺ λυποῦ·
πρὸς ὀλίγον ἐστὶ τὸ ζῆν
τὸ τέλος ὁ χρόνος ἀπαιτεῖ.
最初に言葉があった。そして光あれ、と神が言った。そうして光と影が出来て、世界はそのリズムを宿した。
それでも神はその少女を、その御許へと呼び寄せられた。光ある世界から光を奪えば、そこに残るのは影ばかりだ。
そんなもの、誰もが知る道理だろう。それでも道理は残酷な時の流れを私たちに突きつける。
隣に居るのは君が良かった。他には何もいらなかった。
ただ、それだけだったんだ。
◇◇◇
「先生、いま申請送ったんで、確認お願いします」
「ん、ありがとう。確認するよ」
シャーレのオフィスに響いていたタイプ音が止まる。僕が手を止めると、静かなオフィスが余計に静かになった。今の時代、旧式のキーボードを愛用するのもよっぽどのマニアか僕ぐらいなもんだろう。
そう思うと同時に通知音。書類の申請依頼だ。通知をタップして確認する。……うん、大体良し。
電子承認のサインを生体認証で行う。これで書類は連邦生徒会へ自動で送られる。昔の書類を一々取り込んで送っていた方式に比べれば大分楽になった仕事だ。
一息ついてオフィスから窓の外へ目を移せば、空はいつの間にか夜の帳を下ろしていた。この時期になると、陽が沈むのが早いな、と思いながらまた画面に目線を移す。
「……そろそろか」
思えば時代は急に変わってきたなぁ、なんて呑気に考えながらも仕事を全て保存してシャットダウン。
一日中座っていたからか、身体の節々が痛い。着実に迫る老いを自覚しながらそれを伸ばしていると、その生徒と目が合った。
「あれ、先生。今日は早いんですね」
そうして帰り支度をしていると、当番に来ていた生徒がそう言って僕の顔を見る。まるで珍しいものを見たかのように見つめる顔には「本当に、どうしたんだろう。風邪ひいたのかな」という心配の表情がありありと見て取れた。まぁ、今も変わらずいつも夜遅くまで残っているし、コールがあればいつでも出るようにしているからその表情は理解できるけど。
「あぁ、別に体調が悪いわけじゃないよ」
「あぁ、いえ!……なんでわかったんですか?」
「顔に書いてあったよ」と言えば、その生徒はスマートデバイスを見つめて自分の顔を確認し始める。
顔に書いてあるってそういう意味じゃないんだけどな、と思いながらも、よくよく考えればもうそういう表現も使わないらしいと思い当たる。時代の流れなのだろうか。よく使っていた言葉も表現も通じないことが多くなってきたし、下手すればハラスメントだなんだと言われるようになってきたし。
「別に本当に顔には書いてあるわけじゃないよ」
「ん、え? 違うんですか?」
「そういう表現。表情とかから気持ちがわかるってこと」
そう言えば、またスマートデバイスに何かをぶつぶつと呟き始める。大方AIに表現の意味を聞いているのだろう。
もう紙の辞書とか電子の辞書を使うこともない時代に、少しだけ自分が老いて、時代がかわったことを感じた。きっと「辞書を引く」という言葉も既にこの時代の生徒には通じないのだろう。そう思いながらコートを手に取る。ここは空調が効いているが、きっと今夜は冷えるだろうから。
「じゃあ、あとお願いね。多分寒くなるから早めに帰るんだよ」
「あ、はい! ……えっと、どちらに?」
今度は不思議そうにこちらを見つめる目が、何処か懐かしい感じがした。子どもたちはいつも純粋だ。その瞳は彼女と同じ、鮮烈な赤だった。
「友人に、会いに行くんだ」
「友人? 先生の元生徒さんですか?」
「まぁ、そんなもんだ」
チリチリと、脳裏に焦げ付いた記憶が呼び起こされる。でも僕はそれを重ね合わせないようにした。
「今日は特別な日だからね」
だから僕はその記憶を見ないふりをして、足早にオフィスを立ち去った。
◇◇◇
「うぅ、寒いなぁ」
車の扉を開けて開口一番にそう呟けば息が白く照らされた。
この季節になると、寒い空気が身に応える時期になる。
トリニティから遠く離れたこの小高い丘は、夜になればなおさら温度は下がり切り、寒さが身を包み込むようになる。トリニティは地形的には比較的温暖とはいえ、この小高い丘はもう秋でさえ通り過ぎ、冬の気配を漂わせている。特に、夜になればもう冬と変わらない。
暖かい車内から外へ出た途端に確かな寒さが身を包んだ。
これを見越して着てきたコートの前を慌てて閉めるが、それでも街に居る時とは違う自然特有の冷たい空気が入り込み、身体の体温を瞬く間に奪っていく。
「おお、さむ」
だだっ広い駐車場は自分の車以外に駐車している車両はなく、そして人工物は駐車場のひび割れたアスファルトを、一つだけ立っている街灯が薄く照らすだけの寂しい場所だった。
ここには誰も居ない。隣にはいつも当番の生徒や連邦生徒会の役員が張り付いている日々――来たばかりのころは緊張しっぱなしだったが――だったが、それももう何年も続けていれば慣れてくるものだ。
だからこうして一人で歩くのも、久しぶりな気がした。
薄く照らされるその小さな門を通り過ぎて、幾分か長い道をまた歩いた。重い足取りが動きを何度も止めそうになる。だけどまた足を進める。
そうしてたどり着いた丘は小高く、街を見下ろせる場所にあった。広葉樹が周りを囲まないように綺麗に整備し、街を見下ろせるようにできていた。
そこから見下ろす街は色とりどりの光で溢れていた。それがまるで闇夜に抗うかのように存在を主張しているようだった。綺麗というよりは自己主張の激しいそれを、ただ僕は何となくうるさく感じてしまう。
――年老いたんだな。
そう自然に思うようになったのもいつからだろうか。白髪が目立ち始めたその髪の毛が風に揺れた。
街がやたらと明るいな、と思ったら雲が空を覆っていたことに気づいた。その曇天は鉛のように街明かりを反射するから、まるで頭の痛くなるような光が余計に感じられる気がした。
でもどれだけ街明かりが照らし出しても、それでも街は遠い。
その寂しい場所で僕は一人だった。
「先生」
それなのに、声を掛けられる。
振り返ればそこには少女―――守月スズミがいた。あの頃と変わらない姿で、またいつもみたいに僕の隣にいて。でも少しだけ伸びた身長と、長く地面につくようなその銀の髪の毛が、時の流れを暗に示していた。
だけどその美しい銀は、あの頃と変わらず輝いていた。
「お久しぶりです、先生」
「……あ、あぁ―――久しぶりだね、スズミ」
ずっと変わらぬその銀の輝きに、僕はただ何となく気の抜けたような返事しかできなかった。
そんな風に言われるなんて、とても久しぶりな気がした。
「なん、で」
「ずっとここに居たのに、気づかなかったのですか?」
「いや、だって―――あぁ、そうだね。気づけなかったのは僕の方か」
どうしてだろう、緊張してしまう。確かにスズミに会いに来たのは確かなんだが。
はて、目の前の彼女はどうして。
「こんな夜に、どうされたのです?」
困惑している僕をまたからかうように、スズミは笑いながらそう聞いてくる。
そんなわかり切った質問をしなくてもわかるだろうに。
「もしかして、寂しくなった、とか?」
……いや、驚いた。そんな冗談を言うようになったんだ。
「もし、そうだと言ったら?」
だから、それにおどけたように返せば、スズミは微笑んで僕の顔を覗き込んだ。
「相変わらず、先生は嘘が下手ですね」
「……そんな風に顔に出てたかい?」
「ふふ、冗談です」
「私と会うときはいつも嬉しそうな顔をしていましたから、からかってみました」そう笑う顔は何処か大人びていて、その仕草には子どものあどけなさはなくて。
目の前にいるスズミはもう僕の知る彼女ではない。当然か。僕と彼女が離れてもう何年も経ったんだから。
そのことに少しだけ寂しさを覚えて、でもそうであることを僕は素直に嬉しいと思った。
「僕も、スズミに会えてうれしいよ」
「……そう、ですか」
そういえば、まるで生徒だったころと同じように羽で顔を隠してしまった。それにまた脳裏に記憶がチリチリと焦げ付いた。
「やはり、そう言われると……なんだか、不思議な気持ちがします」
「そっか」
「でも、嬉しいです。またこうして先生と会えて、お話が出来て。まるで
奇跡か。確かにそうかもしれないね。
知らないうちにキミは知らない何かを知って、知って居ることさえ僕は忘れてしまう。
時の流れは残酷だ。こうして僕たちは何処までも離れてしまうから。
「スズミは
「……それを言うなら、先生は随分と変わりました」
「そりゃそうだ。僕ももう若いとは言えないよ」
この街に来てから、もうずいぶんと時がたって、そして担当していた生徒たちは皆無事に卒業して、みんながそれぞれの道を歩き出した。
そうしてまた新しい生徒が来て、卒業して。また新しい生徒がやってきて。それを幾度となく繰り返してきた。
「もうずいぶんと時間が経ってしまったよ。僕はもうおじさんだし、他のみんなはもう大人になってさ」
青春はたった三年だ。
たったの三年間のかけがえのない時間。人が自分の意思を作り上げて、そしてこの箱庭みたいな町から巣立っていく準備をする時間が、それだけ。
大人になればわかる。短いその時間がどれほど貴重で、そして大切なものだったのかを。きっとその真っただ中に居る彼女たちはそれを自覚していない。でもそれは悪いことじゃない。
そんなことは自覚しなくてもいい、きっと時間が積み重なって、その人の中で後付けで価値を作り上げる。
そうして生徒たちは一人の人間として、新たな自分だけの道を歩むことが出来る。僕はそれを何よりも愛おしいと思うから僕は生徒がその道を歩めることを望むのだ。
だからこそ、こうしてここに生きている。年老いても、命を燃やすような感覚を感じていても。
強い風が吹いた。僕たちはつられて上を見上げた。
「……星が」
「あぁ。雲が流れたんだ」
薄暗い鈍色を湛えている空の合間に星が垣間見えた。ヘイローが空に聳え立ち、そこに薄く輝く光が見えた。
「もう歳だな。良く見えないよ」
だけど老いは誤魔化せず、その輝きももうはっきりと見ることはできなかった。綺麗に光る星も、僕の目には滲んで見えて、その美しさは遠くに消えてしまったかのように感じた。
それが少しだけ寂しい気がした。
「私には綺麗に見えます」
「若いんだよ……羨ましいことだ」
「そういうと、本当におじさんみたいですよ、先生」
「実際おじさんだよ。もうあの頃みたいに若くない。時が流れればいずれみんなそうなっていくもんだ」
そういって、白い息がまた空気に溶けていく。若い生徒たちを見ていると、自分が本当におじさんになってしまったな、なんて思う。
「でも、星は変わらないよ。ずっと、僕たち人間の事なんて知らないくらいに長い時を光り続けるんだ」
星をみて、ふとそんな言葉が零れ落ちた。
僕たちは変わっていくけど、それでも変わらないものだってある。体は老いていくけど、でもその気持ちも記憶も色あせることは無い。
いつまでも、いつ何度でも思い出してはそのころに戻ることが出来る。
「ずっと変わらない光がそこにはある」
「……そう、ですか」
「あぁ」
手を伸ばした。空の星を掴むように、そして僕は何かを間違えたと思った。
「僕も、きっとそんな風に」
なれるんだろうか。そう思ってしまった。
その時はもう遅かった。
僕はこの場所で、スズミの瞳を見ることが出来なかった。その赤い瞳は、どうしても思い出してしまうから。戻れないその場所を、もう動かないその過去を。
「……先生なら、きっとなれますよ」
そうだね。君ならわかってくれるだろうね。
ずっとそうやって僕の事をわかったふりをして。僕は君のこと、何もわかっちゃいなかったのに。
それでも、見ないふりをしていいわけじゃない。だから見えるふりをした。
見たふりをした。見たような気になってしまった。でも今日はそれが
不誠実だ、と言われてしまえばそうなんだけど。でも、僕は結局スズミみたいに強くはなれなかった。それが事実で、僕はただの凡人だから。
「先生、星の光は何年も前から来ているんですよ。何年、何十年。何千何万もの時を超えて」
スズミの声が聞こえた。その声はまるで何かを見てきたような確信を含んでいるように感じた。
「だけど、その星は光を出していても、既に死んでいることもあるんです。光が届くまでに時間がかかりすぎているから」
スズミの手が、空を指さす。それは本当に星を掴めてしまいそうだ。
いつの日か言っていた。星が掴めそうだって。
でもその星も、死んでいるかもしれないなんて―――なんて残酷な話なのだろう。
時間は、距離は、なんとも冷酷でつまらないものなのだろう。
「もしかしたら今のこの光も、もう死んでいるものかもしれません」
「……そう、だね」
そう言って、風が雲を運んでくる。再び僕たちは闇に包まれる。
「もう死んでいても、だけど光だけがこの暗い宇宙に残るんです。残響のように、ずっと」
「……何が言いたいんだ?」
だけどスズミは何も語らない。
「スズミ、この場所はずっと静かだ。何も響かない、何も残っていない……今更何があるんだ」
「そうですね。ここは
何事もなかったかのように呟く少女に、僕は「だろうね」と呟いて、また街へ視線を戻した。
ここは暗くて静かな場所だ。時が止まった場所だ。賑やかな時代の流れに取り残されたようなその場所は、暗くて曇天が立ち込める場所だった。
この丘はそういう場所だった。忙しなく時か流れ、時代に置いていかれないように必死に動き回るものたちも、結局はここに行きつく。
「でも、それだと少し寂しいです」
そう言ってスズミは前に少し出る。小高い丘の先は暗い。まるでこの場所を切り分ける暗い森が、何かを隠そうとするように街と隔て、立ちはだかるように見えた。
時代の流れも、その中を濁流のように流れていく時間を切り離そうとするように。
だから、その視線を先回りするかのように、スズミが僕の前に立った。
だけど、僕はその赤い瞳を見ることが出来なかった。
「私はこの静かな場所が好きです。時間から切り離されたような、この落ち着いた場所が。でも
「ダメだ」
スズミの声を遮るよに、僕は声を出していた。自分でも驚くようなその声に、でも止めようとは思えなかった。またチリチリと、脳裏に焦げ付いたそのかさぶたが痛みを訴える。
「ダメなんだ、スズミ」
「……」
「ダメ、なんだ」
何かを言おうとしたのだけど、でも何も出てこなかった。
ただ沈黙を埋めるような無味乾燥な空白があった。スズミと僕に横たわるその空白は、既にどうしようもないほどに広がっていて、僕たちは何処までも
からからに干上がった喉は小さく唸って、声を出すことだってできやしない。
細かく震えるその手は、きっと寒さだけで引き起こされたものじゃない。体が熱い。だけど心の奥底はとても冷たい。
鼓動を刻む心臓。それでも僕はずっと寒くて、苦しくて、今すぐにでもこの場から離れたいと思った。
―――それが叶うのなら、そうしていたかもしれない。でもできない。
―――君が目の前に居る奇跡。多分これは神の慈悲だ。それを不意にすることなんて出来ない。
辞めてくれよ、なんて言葉が、焦げ付いた記憶を覆い隠そうとしてずっとリフレインする。
だけど、それを救ってくれるのも結局は彼女だった。
「遊園地へ行った時のこと、覚えていますか」
「……遊園地」
あぁ、覚えている。覚えているさ。
二人で街を歩いて、パトロールをして、そして最後の目的地の遊園地でふたりで話したんだ。
「……あぁ、覚えているよ。忘れるわけがない」
いつまでも、この時間が続けばいいと思っていた。
僕たちは無邪気に、それがいつまでも続くと思っていた。
「なら、わかる筈ですよ」
だから君がそう言ってしまうのが、そう言わせてしまったのがとても苦しくて、悲しいんだ。
「……いや」
「わからないんですか?」
「違うんだ」
「先生!」
語気が強まる。その鋭い声が僕を射抜いて、それがまた、脳裏に焦げ付いた記憶をチリチリと剥がそうとする。まだ乾いていないかさぶたをかきむしるようなその不快感と痛みが僕の身体を突き抜ける。
「先生、
赤い瞳が、また僕を見つめる。
そして焦げ付いた記憶がどんどん剥がれ落ちていく。痛いその感覚に、でも僕は抵抗することなんて出来なくて。
「ごめん、それは……できない」
痛くても、それはとても大切なものだったから、壊すことも、また覆い隠すことも出来ないままで。
だって君はもういないんだから。ここにはいない。いや、居てはいけない。
異怪の類か、あるいは亡霊か。何でも構わないが、でもここにはそう在ってはいけないのだ。
でもそこにはスズミが確かにいて、それを僕はずっと見ないふりをしていた。
「……スズミ」
「はい」
だけど、その事実を前に、僕はようやく言葉を紡ぎだした。
「ずっと、いい先生に、なってみたいと思っていたんだ……君のように、意思を貫けるような」
だけど口を開けば投げやりな言葉が零れ落ちていく。
違う、こんなことを言いたいわけじゃない。
「もう何年もたってしまった。みんな卒業して、それぞれの道を歩いている中で、でもスズミだけはずっとそこに居る。そう思えてならないんだ」
時の流れは残酷だ。既に死んだ星の光を、それでも届いてしまう時があるから。
「不運だった、仕方がなかった。そんな言葉が何の慰めにもならないことも」
死んだ光、かわいそうな光たち。
焦げ付いたその記憶は今もずっと、何かを言おうとチリチリと焦げ付いているんだ。
だから。
「君がいれば、この世界はもっと輝いていたかもしれない」
なんて言ってしまったのも、全部君のせいなんだ。
「そんなことはありません!」
そうしてスズミが僕の手を取ろうとして。
「先生は、先生です。ただ一人の……私を覚えていてくれる人なんです」
その手がすり抜ける。僕の手は動かないで、そしてスズミは手を包み込むような姿勢で止まっていた。
まるでよくできたホログラムのようなそれが、物理的限界として実体には触れられないようにそこに静止した。
「あ……これは」
「いいんだよ。スズミ」
だけど結局その引き金を引くのは、君だった。
君は何処までも先へ行ってしまう。置いていかれて、こうして何も言えないままの僕を突き動かすのも君だから。
「……いいんだ。君がいなくなって、もう何年も経つんだ」
剥がれ落ちた記憶を、僕は拾うように言葉を紡いだ。
「忘れられるわけがないだろう。だって」
だって君はもう。
「―――君が、守月スズミが死んだ日の事を」
風が一段と強く吹いた。草が音を立てて、木々が大きく騒めいて、そして雲が晴れる。
切れ間じゃなくて、雨雲も何もかもを運んでいって、その空は満点の星を映し出す。
そして溢れんばかりの月光が街を照らした。
丘に光が溢れて、そして石碑が姿を現した。
『守月スズミ』と名前が刻まれた、その墓標を。
不慮の事故だった。トラックの多重事故、うち一台は燃料を満載にしたタンクローリーだった。生徒が多数巻き込まれ、一歩間違えれば街の一角丸ごと爆発して消えていたかもしれない事故。そしてスズミがその場に居合わせたのも、今思えば不運だったのかもしれない。でもその事故で助けられた生徒にとっては幸運だったのだろう。
燃え盛る炎も、漏れ出る燃料も、だけどスズミはそれに怯まなかった。できる限りの救助活動を行った。
だけど、ヘイローを頂く生徒がいくら弾丸に強いとは言え、血液が失われれば生き物は生命を維持できない。
感染症に対するその免疫だって万能じゃない。
火に焼かれれば普通の人より長く苦しみながら死ぬ。血を失えば生命は命を維持できない。その道理は医学が急速に発展した今でも覆すことはできなかった。
「そうですね―――私はもう、ここにはいないのですから」
月に照らされたその姿は16歳で止まったまま、もう二度とその針を動かさない。
自警団の制服を着て、髪を腰辺りまで伸ばしたあの時のままで、スズミはそこに立っていた。
唯一、祝福たるヘイローがそこにはなくて、そして月の光が彼女の身体を透過しているのを除けばだけど。
「寂しかったんだ」
それを前に立つ僕は、白髪交じりの少しやつれたおじさんだ。彼女と出会った頃の若さはもうない。そこに流れる時間はとても大きく僕たちを隔てる。
「だから僕は、さ」
―――そこにキミがいてくれないと。
「ずっとずっと、苦しいんだ」
―――隣に居てほしかった。
「スズミとずっと話していたかった。スズミがどんな風に生きるのかを見たかった」
―――この世界でどう生きていくのかを見たかった。
「生きて、隣に居て欲しかった」
僕の隣で、いつまでもその笑顔を見せてほしかったのに。ただそれだけが望みで、希望だったんだ。
それが潰えたあの日に、僕の時計も止まってしまったような気がした、でも気がしただけ。
今もこうして鼓動を打つ心臓と、そして老いた体だけが現実というものを突き付ける。
「先生は」
スズミが悲しそうに言う。
「……居なくなりたいのですか」
「君みたいな天使に連れて行ってもらえるなら、いくらでも」
終焉に立つ天使が、君のような綺麗な子だったのなら、この人生もいいものだったと言えたのだろう。そう思って、赤い瞳を見つめた。
「―――そんなこと」
「―――でも、君なら言わないだろうね」
そういうと、彼女は悲しそうに表情を歪めた。
僕は何処か歪んだ笑顔を顔に作る。あぁ、笑顔の作り方も忘れてきてしまった。
「貴方のそういうところが、嫌いです」
「僕は君のそういうところが好きだったんだ。強くて、真っすぐで。きっと―――僕がそっちに行くのを止めるだろうから」
それはもう考えうる限り最低の感情だった。僕の持っていない何かを投影して、それをあまつさえ試すような真似をして。
「先生失格だよ」
ただ一人、正義の為に、誰かの為に戦えるその意思を。僕はそれを持っていたかった。
君の事をただ、一人の生徒として以上の感情を持っていた。だけど結局そんな風には慣れなかった。
「それでも貴方はここで息をしている」
「でも君はもういない。いなくなって、居なくなったこともみんな忘れて、そしてみんな死んでしまう」
残響のように響いた声は減衰しきって消えていったように。
「……そうですね、もうわたしはここにはいません」
「なら、意味がないだろう」
そうして視線をずらすようにスズミの石碑を見た。それは丁寧に掃除された跡があった。あの事故の死者はスズミただ一人。だけどその献身を持って、多くの人を救った。
残された人に、消えない傷を残していったままに。
「いいえ、意味はありますよ」
そう呟くスズミに、僕は今日初めてその瞳を見つめた。
赤い瞳だ。でもそれはあの時と変わらない目をしていて。だから僕は直ぐに目を背けてしまった。
思い出しても、その感傷にも意味なんてないんだから。思い出すだけ、辛くなるだけだから。
「なんで、そう言えるんだ」
辛うじて紡いだ言葉が、だけど投げやりなその言葉がまた零れ落ちていった。
「先生が生きているからです。先生だけじゃない。レイサさんも、イチカさんも、助けた人たちも」
死者から掛けられる言葉ほど、無意味で空虚な言葉はない。ずっとそう思う。
「私はもう何もできません。未来も何も、もう見ることはできません。でも先生、貴方は違う。先生や今を生きている皆さんは、どんなことでもできるんです」
「……」
「貴方は生きている、祈ることが出来る。またやり直すことが出来る」
「………」
「だから!」
「…………」
それでも生きている人にしか出来ないことがある。死者に祈りはできない。でも生きている僕たちがその祈りをすることはできる。
世界は新たな世代へと受け継がれていく。もう僕に残された選択肢は多くはない。
そしてスズミはもう選び取ることも出来ない。
こんな先生失格な僕に、時代に乗り遅れた僕に何が出来るというのだろう。
もうやめようと、そう思った。
「先生」
声がして、そして冷たい、氷のような感覚を感じた。
その気配がした。
鈴が転がるような声を確かに聴いた。
そのひんやりとした、小さな手を感じた。
「それでも好きでしたよ、先生の事」
あぁ、神はきっとこの美しい魂を御許へお呼びになったのも、きっと少女がこんなにも美しいからだったのでしょう。
でも、もう少しだけ待っていてくれたら。なんど恨んだかもわからない、その運命の枷をもう少しだけ遅らせてくれたなら。
数舜の後、そのひんやりした感覚は嘘みたいに消えてしまっていた。
「……そんなの、いまさら意味なんてないよ」
そんな僕を、神は憐れんでくれたのかもしれない。これはただの幻想だったのだろう。でも。
「なら、その意味を先生が作ってください」
僕はまたその赤い瞳を見つめる。
チリチリと焦げ付く記憶も、その痛みもまだ苦しいものだけど。でもようやくその目線を合わせることが出来た。
「ずっとそうだったじゃありませんか」
でもスズミの赤い瞳越しに、それを透過するように街明かりが見えた。
……あぁ、そうだ。もう彼女は生きてはいない。
そうして僕はその生と死の狭間に、そのスズミを通した光の重なりに意味を見つけた。
「……そう、だね」
たった三年間の青春の意味を。
僕はこの時、ようやくその本当の意味を知ったような気がした。
「はは、そうだね。本当に……僕は先生失格だよ」
彼女の場合、その三年間すらなくこの世界から神の世界へと旅立ってしまった。
やり残したことだってたくさんあったはずだ。未来は大きな可能性に満ち溢れていたはずだ。
でもそれは他の生徒も同じだ。
「……あぁ、そうだ。意味はこれから作り上げなくちゃいけないんだね。みんなと同じようにさ」
記憶のかさぶたを拾い上げるように、その愛おしいものを、でもその何十倍もたくさんの思い出と、記憶を受け取っていた。
それもまた無くさないで、見ないふりをしないようにしなくちゃいけないんだ。
「スズミは、まだ時間はあるかい?」
僕はスーツやコートが汚れることを厭わずに、その場所に腰を下ろした。スズミも同じように、僕の隣に腰を下ろす。
「えぇ、今日中なら、何とか」
「なら、話をしようか。君がいなくなった後の世界を。みんなが作り上げた未来を」
それから話をした。
トリニティは今も続いている事。この前ゲヘナと平和条約を結んだこと。連邦生徒会がついに電子文書を導入したこと。連邦生徒会が全学園が一票を持つ合議制の連邦生徒総会とその事務局という組織に変わったこと。
そしてこの星はついに宇宙までを勢力圏にしたこと。新しい軌道エレベーターがD.U.に出来たこと。ヘイローを頂く空は、気づけばもっと高くまでその軌道を伸ばしていた。そしてアビドスはその広大な土地を利用して宇宙往還機の発射拠点が出来たこと。それに伴い街はまた活性化しだして、ついにアビドス高等学校の生徒数が300人を超えたこと。
そして生徒たちの事。スズミがあの時助けた生徒は今もシャーレとトリニティ、そしてこの墓地を訪れている事。皆元気に生きている事。
レイサが結婚したこと。ナギサが画家になったこと。ミカは女優になってオスカーを取ったし、セイアは今国連で働いている。スイーツ部の面子は皆ミシュランガイドで星3を取る一流パティシエだ。そしてウタハたちはミレニアムと共同で宇宙戦艦を作った。軌道エレベーターや宇宙往還機は彼女たちの数多くある成果の一つだ。
ユウカは財務官僚になったし、ノアは文学賞を取って詩人になった。今季のベストセラーはノアの詩集だ。マコトが政治手腕の才能を開花させ国務大臣になったこと。イチカはモデルや舞台で引っ張りだこの売れっ子女優だし、ツルギに至ってはいまや保育士だ。
世界はどんどん進み続ける。最近になって量子コンピュータが実用化され、AIが全ての管理を行うようになった。アロナでさえ、旧世代AIに分類されるくらいに技術は進んでいった。
そのAIの理論と技術はヒマリとリオが構築した。その功績により、この前史上最年少でノーベル賞の受賞が決定した。
そしてシャーレは今もあって、キヴォトスは今も続いていて、そして新しい未来を作り出している。
キヴォトスは続いている。世界は回り続ける。
青春が終わっても、それでも世界は広がり、そして僕たちは無限の可能性を秘めている。
君がいない世界、スズミと出会って、共に過ごした日々よりも、君がいなくなってからの方が何倍も長い時間を過ごした。だけどその時間がいくら増えようとも、その過去を超えるような新しいものが生まれ続ける。それは死んでも誰かがそのバトンを受け継ぐという希望だったから。
そんな時間に意味を見出せなくて、それでも先生であろうとして生きていた。だけど教え子たちが巣立って、立派に世界に生きているのを見ると、世界はもう君たちのモノなんだっていやでもわかるんだ。
「もう、こんな時間ですね」
「あぁ、本当にね」
月が天頂を通り過ぎそうになる。もうそろそろ日付が変わっていく。
「ありがとうございます、先生」
スズミの姿はもうほぼ消えかかっていた。まるで蜃気楼のような、その姿を僕はもう触ることさえ出来ないだろう。
だけど、いまならそれでもいいと思える。
「先生の祈りは、確かに私に届いています。だから――――」
「スズミ」
時が近づく。夜が満ちていく。
「祈り続けるよ。今夜はそういう日だ。そして祈るのは
「……なら、私は空から、見守ることにします」
「じゃあ僕は、もっと面白い話を持っていくよ」
「ふふ」
スズミの姿が、月明りによってどんどん薄れていく。
「楽しみにしています。もっといっぱい、いろんな話を聞かせてくださいね」
風が強く吹いた。草が音を立てて、木々が大きく騒めいて、そして空は相も変わらず月がその場にあり続けた。
ただ一人、死者はもういない。
そして生きとし生けるものが、その街に光をともし続ける。輝きを。
「あぁ、楽しみにしててくれ」
だから今夜だけは、死者の弔いを許してほしい。弔うことは死者を想うことだけじゃない。その祈りによって、僕たちはその意味を問い直すのだ。
輝きを曇らせないように、そして未来を切り開くために。明日を、輝く為に。
「祈るのは、僕の役目だから」
そして光り輝くのも。
生きとし生けるものへ、祝福があるように。
そうして僕はまた歩きだす。
「じゃあ、さよなら」
銀の輝きが、一瞬見えた気がした。
万聖節。
死んだ魂を弔い、そして祈りをささげる日。
そして祈りによって、その魂は許され、天国へと昇っていく。
君はただ、空を目指したんだ。
何物にも成れないけど、それでもただ一人になりたくて。
僕はその一人にはなれない。そして君はその一人にもう成れない。
それでも生きる者にしか、輝くことはできない。
それだからこそ生きている限りは輝き続ける。
生きている者にしかできないその輝きを。
―――生きている間は輝いていてください
思い悩んだりは決してしないでください
人生はほんの束の間ですから
そして時間は奪っていく物ですから。