<メンシスの悪夢>
やがて、狩人達が目を覚ました時、眼前に広がっていたのは歪んだ亡者の如き岩が乱立する、おぞましい光景であった。
それはまた、かつて訪れた「悪夢の辺境」と酷似した外見であり、だがその匂いや雰囲気などは相当に異なり、ここが別の悪夢である事を認識させていた。
狩人は鉄兜のずれを直し、装束の弛みを伸ばして意識を引き締めた。
「クククク・・・ようやく辿り着いた」
「ここが、悪夢の最奥という訳か」
マッドマンは半ば興奮気味な口ぶりで早口になりながら、勇み足で先へ進み始めた。
それはまた、既に狂気に触れた者が更なる狂気を求め、深淵の底へ沈む様とよく似ている。
一度上位者の智慧に触れ、狂気の病に罹ってしまった者は、もはや二度とまともな者へは戻り得ぬ。
永き時の果てに肉体が滅び、魂が他者の遺志となろうとも、永劫に狂気の深淵を彷徨う運命に縛られるのだ。
そうして狂人の遺志を継いだ者もまた、相応の資格なくば、再び連鎖を辿るのみである。
狩人は速足で急ぐマッドマンの後を追うべく歩みを進めた。
ここで彼に死なれては、せっかく手にした貴重な仲間を失ってしまう。
一人で狩りに梃子摺る訳ではないが、人は多いに越した事はないだろう。
特に、このような場所では。
やがて亡者の岩壁覆う洞穴を抜けると、眼前に現れたのは「時計塔」に似て、だが細部の異なる高楼であった。
その高楼からは異様な雰囲気がひしひしと伝わってきており、そこに悪夢の本懐が潜んでいよう事が肌身で感じ取れた。
「クキ、クキキキ・・・ギャアォッ!?」
やがて坂道の窪みに辿り着いた頃、突如としてマッドマンの体中から鈍く黒ずんだ血刃が飛び出したかと思えば、それは蛆の如く蠢き始めた。
狩人は一瞬困惑し、だがその光景には奇妙な既視感があった。
そして思い出した、その光景はあの氷精「チルノ」が獣から禁忌の血晶武器「血晶の薄刃」を取り出す際の狩りの様相と酷似している事に。
「・・・ア"ヒャヒャヒャヒャヒャヒャアッ!!!」
マッドマンは発狂の声を上げ、頭蓋の内より夥しい量の血を吹き出し倒れたかと思うと、突如として起き上がった後に軟体生物の如く這いずり回り、辺りを彷徨う銀獣を喰らい始めた。
「・・・ヒヒヒ・・・じゅずるるる・・・」
「ああ、我ら血によって生まれ、人となり、また人を失う」
「・・・かねて血を恐れたまえ・・・ヒャヒャヒャヒャヒャアッ!」
マッドマンは四つん這いになって銀獣の血肉を啜り喰らい、ビルゲンワースの警句を呟きながら、狂ったように笑っていた。
その様はまさに「狂気に触れた獣」であり、狩人は溜息を吐いて、狂人と化したマッドマンを介錯すべく落葉を隙はなった。
だがその時、マッドマンの狂った叫び声につられたのか、岩陰から銀獣が数匹現れ、こちらへ向かって襲い掛かって来た。
狩人は落葉を居合の姿勢に構え、秘儀『古狩人の一閃・連撃』を繰り出し、銀獣を細切れにした。
「・・・ああ、狩人。さあ、更に奥へ進もうか」
やがて狩りを終えた時、マッドマンは既に正気を取り戻しており、まるで何事も無かったかのようにずかずかと奥へ足を運び始めた。
果たして彼は本当に正気を取り戻したのだろうか?
あるいは、初めから瘴気など残っておらず、見せるすべてが狂気の産物であるのか・・・。
歪んだ亡者岩樹の生えた坂を上り、道中の銀獣を斬り伏せながら先へ進む一行。
道中の雲海を覗き見ると、下には「悪夢の辺境」で垣間見た、旧神たちの石碑が顔を出しているのが確認でき、ここが悪夢の最上部に位置する事が理解できた。
恐らく助言者の言っていた「逆さまの悪夢」とはこの事であり、その考察が正しければ、このすぐ頭上に上位者達の塒、すなわち宇宙と繋がる深海があるに違いない。
やがて亡者岩樹の坂道を越えた狩人たちは、おぞましく歪んだ斜塔の前に辿り着いた。
斜塔の壁には輝く軟体生物がへばりついており、彼らの伝った後は、文字の如き軌跡を残していた。
狩人は半ば錆付いた大扉に手を当て、ゆっくりと押し開いた。
金属の擦れ合う音と共に扉は口を開き、狩人達に冷たい黒霧を纏わせた。
暗闇に紛れぬよう、腰にランタンを付けて明かりを灯す。
屋内には蜘蛛の巣が張り巡らされており、それと対を為すように壁のあらゆる場所に、蜘蛛肢の生えた瞳が張り付いていた。
瞳の生えた蜘蛛とはすなわち、白痴の蜘蛛ロマを人工的に再現しようとした名残、あるいはその前段階で生み出された失敗作の産物であるのかもしれない。
現に、隠し街ヤハグルに於いても瞳の生えた獣は幾匹か存在しており、再誕者もまた、この実験の一部として儀式的に再現された「上位者」であったのかもしれない。
「・・・狩人、上を見ろ」
狩人が考察に耽っていると、不意にマッドマンが息を殺して上へ視線を向けるよう指を差した。
見ると、階段を昇った先の広場には無数の巨大な首無し蜘蛛が天井を埋め尽くすかの如くぶら下がっており、その形貌はだが、あの蜘蛛のパッチと酷似しているようでもあった。
恐らく蜘蛛のパッチはこの首無し蜘蛛に人の頭を移植して生まれたある種の人工生物であり、その実験はかつてのビルゲンワースが率先して行っていたとされる、非道な人体実験の一環であったのやも知れない。
狩人は月の石を強く握り、一時の神秘に身を任せた。
肉体が見る見るうちに肥大化し、魔物の似姿を悪夢に写し出す。
「なん・・・と・・・これが、神秘の・・・クキキキヒヒヒヒィィィッ!」
マッドマンは上位者の似姿と化した狩人に驚愕し、だがその顔は、狂気の笑みに満ちていた。
その瞳からは赤黒い血が滲むように垂れ落ちており、恐らく脳は愚図愚図に蕩け、発狂に近い状況にある筈だ。
魔物と化した狩人は翼の捕食器官を大きく広げ、首無し蜘蛛を一掃した。
紫色に輝く蜘蛛の体毛は尖った羽毛針のような食感であり、その味わいは丁度、獣と眷属の中間的なものであった。
数分後、狩人の肉体は溶け始め、やがて、人間の姿を取り戻した。
「・・・キヒヒヒ・・・」
「狩人、それは一体何なんだ・・・?」
「神秘の邂逅、遺跡の遺物か・・・どこでそれを?」
脳が蕩け、興奮冷めやらぬマッドマンは、人間に戻って間もない狩人に詰め寄り早口で次々と質問を捲し立てた。
息を荒げながら言葉を繰り出すマッドマンの眼は酷く血走っており、狩人はその場をやんわりと収めた後、先を急いだ。
床や壁にはどす黒く滴る粘液を纏った軟体生物が蠢きあい、無数の糸にくるまれた瞳が規則的な回転運動を行っている。
広場奥の階段を昇った突き当りには祭壇があり、壇上には緑に濡れた骨の刃が置かれていた。
窪んだ祭壇の壁面には小さな黒紫の蜘蛛が群がっており、骨の刃の傍にはおぞましく捻れ回るひも状の臓物が二重螺旋を描いていた。
【祭祀者の骨の刃×6】
【生きているヒモ×2】
それらの遺物を回収した狩人はマッドマンを引き連れ、右の廊下を先へ進みだした。
やがて渡り廊下に出た狩人達は、中央付近に佇む、謎の人影の存在に気が付いた。
謎の人影はメンシスの檻を被った何者かであり、だが狩人たちの存在に気が付くと同時に、高笑いを上げながら霧と化して消滅してしまった。
その時であった、マッドマンが体を震わせながら狩人の肩を叩いたのは。
「あれは・・・月が、形を変えてゆく・・・」
その言葉に違和感を覚えた狩人は左手に向き直り、そこには先程の黄金の獣が現れた時と同様の現象が起こっていた。
空に浮かぶ蒼白い光を放つ白銀の月がゆっくりと形を変え、地上に降り立ち始めていたのだ。
その様は獣のそれではなく、上位者ゴースや悪夢の獣と酷似したある種の海棲生物の様相であり、次の瞬間、狩人とマッドマンの周囲を青紫の血煙が覆い包み隠した。
「グヌッ・・・なんだ、この煙は・・・狩人!」
マッドマンは驚いて声を上げるが、その姿はどちらも見えずに互い離ればなれとなる。
数分後、血煙が晴れた事に気が付いた狩人は、眼前に広がるその光景に既視感を覚え、すぐさま戦闘態勢を取った。
<乳母の月見台>
先程居た廊下とは異なる広場はまた、堅牢な囲いを施した塔の最上部であり、中央に死体の溜った足場に佇んでいたのは、蒼白く、それでいて濃血の滴る触手を蠢かせた、神秘の獣であった。
「アッハハハ!ようこそ、神秘の探究者、大いなる狩人よ」
「我らに見えた月の神秘、今こそ儀式がはじまるのだ!」
その時、彼らの背後よりメンシスの男、ミコラーシュが不意に現れたかと思うと、煙に姿を変えて手の届かぬ位置へ姿を移した後、何かに祈りを捧げ始めた。
それは人の言葉とは程遠い表音であり、それこそが、悪夢の上位者を呼び起こす為の未知なる言語であろう事は想像に難くなかった。
「ホオオオオオオオオオアアアアアァァァアアアア!」
ミコラーシュは絶頂し、それに呼応するかのように、眼前に佇む神秘の獣がゆっくりと動き始めた。
薄銀に輝く軟体の巨躯を備えた眼前の異形は、メンシスの新たなる知見・儀式に呼応した上位者の先触れとでも呼ぼうか。
獣の胸部には不規則に蠢く巨大な瞳があり、その周囲より肋骨の如き触手が鈍い光を反射させながら、ひゅるひゅると風を斬って揺らめいている。
外套の如き翼膜に包まれたその姿はまた、身籠った聖母を彷彿とさせており、まさしく母なる上位者、神秘の獣に相応しい形貌である。
狩人は落葉を抜き放ち、蒼き神秘の刃を纏わせた。
マッドマンは教会の杭を伸ばし、遺跡に芽吹く死血花の汁を擦り付け、死穢の香りを纏わせた。
互いに加速を用いて、眼前の獣に接敵を図る。
次の瞬間、神秘の獣は槍の如き骨を伸ばし、マッドマンを刺し貫いた。
「グゥッ!?」
体内で骨が茨のように枝分かれし、全身から深紅の血が噴水の如く吹き上がる。
だがしかし、マッドマンは苦悶の表情を浮べながらも肘で骨を叩き折った後、肉体を引き裂きながら枝分かれした骨槍を腹の内から引き抜いた。
すぐさま輸血液にて傷を癒した後、全身の筋肉に力を込めて残った骨の欠片を排出し、手にした骨槍の折れ口から骨髄を啜り飲み干してしまった。
一方その頃、狩人は神秘の獣の背後に回り込んで居合の構えに移り、秘儀『古狩人の一閃』を繰り出し、ベール状の翼膜を斬り裂かんとした。
刃が翼膜に当たると同時に、鋭い金属音と共に火花が飛び散る。
狩人の刃が弾かれた音であった。
薄いベールの如く柔らかに揺らめく翼膜は伸び切り、刃の衝突した部位には、僅かな傷と蠢く繊維状の触手があるのみであった。
どうやらこの翼膜は一見脆弱な外見ながら、その防御力は極めて堅牢なものであると見える。
その強度はまさしく「鉄壁」に相応しく、これまであらゆる存在を文字通り「断ち斬って」きた狩人の秘儀さえ、軽々と去なし弾き返してしまったのだから。
「ほう、獣風情が、よくもまあ・・・」
「いや、あるいは・・・フフフ、面白い」
アンナリーゼは独りでに何かを思案している様子であり、状況の打破を臨む狩人は月の石を強く握り締め、一時の神秘に身を任せて肉体を魔物のそれに変化させた後、人ならぬ咆哮を上げて神秘の獣に飛び掛かった。
「おお、素晴らしい!神秘の邂逅を、再び見えようとは!」
大いなる種族同士の邂逅。
その光景にただ一人、ミコラーシュは歓喜していた。
恐ろしい異形の姿を成して襲い来る狩人に対し、神秘の獣は柔らかな翼膜をベール状に広げ、強固な防護壁を展開した。
鎌状の大爪と翼膜が衝突し、激しい閃光と共に鋭い音波が鳴り響く。
魔物と化した狩人は大きく飛び上がった後、蛇の如く這い回る刃状の尾を大きく伸ばし、神秘の獣を覆う防膜に幾度も斬り掛かった。
金属の弾ける音と目も眩む閃光が幾度も、幾度も繰り返し飛び交い、その光景は正しく「死闘」であった。
やがて、互いに間合いを離した上位者達は人ならぬ声をあげた後、獣の如く吠えた。
すぐさま骨槍と刃状の尾による、遠距離同士の剣戟が繰り広げられ始める。
その衝撃は凄まじく、周囲へ真空斬撃波が無差別に飛び交い、柱や壁にぶつかる度、粉々に砕け散っていた。
「はあ・・・」
「ああ、ゴース、あるいはゴスム」
「我らの祈りが聞こえぬか・・・・・・ホワアァッ!?」
その余波は高台で祈りに耽るミコラーシュにも及び、足場の崩れた先には堆く積み上げられた亡者の死体溜りがあり、凄まじい轟音と主に周囲に腐臭が撒き散らされた。
すぐさま立ち上がったミコラーシュであったが、次の瞬間背後から襲い来るマッドマンの存在に気が付き、呼吸を整える暇すら与えられぬまま、エーブリエタースの先触れによる応戦を強いられた。
一方その頃、剣戟での突破に確実性を見出せないと踏んだ狩人は加速を用いてするりと間合いを詰め、神秘の獣と手四つにて組み合い、力比べを始めていた。
互いの掌から生み出される暗黒空間、神秘の小宇宙がじりじりと混じり合い、群青色の粘液となって足元に底なしの沼を作り上げてゆく。
刹那、一瞬の隙を見出した狩人は翼の如く羽搏く四つの捕食器官を大きく伸ばし、神秘の獣の脇腹に喰らい付かせた後、仮面の如き貌の内からおぞましく蠢く赤桃色の触手を伸ばし、防膜をじっくり味わうように撫で回した。
防膜の隙間から捻じ込まれた捕食器官、その傷口から灰褐色の血が流れ出し、泡立つ水音と共に神秘の獣の身体を覆う水疱が次々と破裂してゆく。
魔物と化した狩人の挑発にも思える行為はおよそ数刻に渡り、遂に痺れを切らした神秘の獣は防膜の内側より無数の骨槍を伸ばし、異形の巨躯を余す所なく串刺しに処した。
再び骨槍は枝分かれし、全身から茨の如く切先が肌を貫き、飛び出し始める。
魔物と化した狩人は跳ねるように痙攣した後、力の抜けた人形のように動かなくなり、それを見た神秘の獣はゆっくりと防膜を解除した後、心臓の内から赤い触手を無数に伸ばし、ぽたり、ぽたりと滴り落ちる深紅の血液に触れた。
血の雫に触れる度、体を覆う水疱が消えてゆき、肉体の変異がゆっくりと進行し始める。
そして神秘の獣は触手の器一杯に溜った血を顔に近付けた後、一息にそれを啜り飲み干した。
刹那、魔物と化した狩人の肉体がゆっくりと動き始めたかと思うと、骨張った肩部より蝙蝠の如き巨大な翼が生え広がり、それは熱を持っているかの如く蒸気を上げ、独立した生命体のような振る舞いを見せ、蠢き始めた。
呪われた色の翼は大きく羽搏き風を起こし、翼より立ち上る黒煙は風に乗って骨槍を包み込んだ後、煤色に蝕んで瞬時に溶かしてしまい、狩人の肉体に空いた穴がそれを一滴残らず吸い上げてしまった。
神秘の獣は翼膜の裏より化膿した肉片の逆立つ腕を伸ばし、腐敗し切って膿んだ血を滴らせながら拳を強く握り締め、地面を叩いた。
上位者の神秘が産み出した、淀んだ底なし沼と化した地面からおぞましい濃厚な香りが漂い始めたかと思うと、やがて沼底から、腐敗した獣皮を纏った狩人が姿を現した。
それは狩人の血の遺志から神秘の獣が召喚した、異形たる狩人の眷属であった。
異形の古狩人たちは自らの臓腑を引き摺り出して振るい固めた後、それを血の滴る大鎌たる狩り道具として、魔物と化した狩人に飛び掛かってゆく。
一方その頃、マッドマンはミコラーシュと死闘を繰り広げていた。
教会の杭でエーブリエタースの先触れを捌き、呼吸を荒げながらルドウイークの長銃で一定の距離を死守する。
最初は奇襲により先手を取ったマッドマンであったが、いつの間にか劣勢に立たされていた。
ミコラーシュはエーブリエタースの先触れを駆使してマッドマンの振るう教会の杭をいなし、嘲笑いながら余裕の表情で戦いを続ける。
「アッハハハ!」
「神秘の探究者、夢の中でも狩人とは!」
本気を出さずに小手先の業で揶揄うように立ちまわるその姿は、明らかに相手を格下と見ている証左であり、それはもはや戦いとすら呼べぬ蹂躙劇であった。
しびれを切らしたマッドマンは教会の杭を変形させて地面に突き刺した後、自らをも蝕む呪いの武器、千景を抜いた。
もはやこれを用いる他は、ミコラーシュに太刀打ちできる術はないのだと。
「これは、人狩りの刃・・・使用者を蝕む呪い」
濁った声を絞り出してマッドマンは千景を腹に突き刺し、赤く波打つ血の刃を纏わせた。
劇毒に侵された手や口からはおぞましい色の血が溢れ出し、ミコラーシュは思わず後退りをした。
それはかつて穢れた血族と恐れられたカインハーストの騎士が用いた、呪いの血刃であるからだ。
古い時代の文献に残された伝説ではあったが、改めて呪いの血刃を目の当たりにすると、そのおぞましさと劇毒の凄まじさが見えてくるというものである。
呼吸を濁らせたマッドマンが千景を振ると、血飛沫が斬撃波の如く飛翔し、加速で剣戟を避けたはずのミコラーシュの腕を斬った。
波打った刃で斬られた傷の痛みと共に、劇毒の波が胃の内から喉をせり上がってくる。
思わず吐瀉物を吐き散らしたミコラーシュは傷口から流れ出る血の雫を眺め、気味の悪い笑みを浮かべた。
回復する数秒の間も与えず、マッドマンは間合いを詰めて千景を振りかざし、ミコラーシュを袈裟懸けに斬り伏せた。
歪んだ血の刃から、肉と骨を断つあの感覚が伝わってくる。
勝利を確信した次の瞬間、マッドマンの背後に悪寒が走ったと思うと、腹から無数の触手が顔を出した。
口一杯に鉄の味が広がり、大量のどす黒い血が噴き出す。
確かに斬り殺したはずのミコラーシュが、何故背後に立っているのか。
そして、この腹を貫く触手と、背骨を伝う電撃のような痺れる痛みは何なのか。
「ああ、君は賢く、そして愚かだ」
「我らの儀式の邪魔はさせぬ、ここで果てるがいい!」
その思考の間も空しいままにミコラーシュは両手を挙げ、地面の底に小宇宙を展開した後、そこから糸操り人形状と化した、傀儡の亡者達を呼び出した。
傀儡の亡者達はマッドマンの腹を引き裂き、内臓を引き摺り出して貪り喰らい始めた。
腸の内から褐色の汚物が噴き出し、亡者達の顔を汚す。
見る見るうちに体から熱が引いてゆき、マッドマンは死を実感する。
傀儡の亡者達は柔らかな腸を食い尽くすと、次は装束を引き裂いて皮を剥ぎ取り、肉や骨、そして脳を啜り砕い始めた。
その時にはもはやマッドマンの意識は消えており、数分後、亡者達の去った後には何も残らず、ミコラーシュは高笑いを上げながら狩人に一言残し、霧と共に消え去った。
「大いなる狩人!」
「我らが見えた神秘、月蝕の獣を打ち倒し、私を止めてみたまえ!」
「しばしのお別れだ、アハハハハッ!」
一方、魔物と化した狩人は月蝕の獣の眷属、獣血の狩人と死闘を繰り広げていた。
こちらも眷属を召喚すれば勝負は容易いが、敵の眷属がそれを妨害してくる。
獣血の狩人は大きく飛び上がった後、大鎌を振りかざし、狩人の首を縊り取らんとした。
そのたった数瞬に隙を見出した狩人はすぐさま頭上に暗黒空間を展開した後、眷属及びエーブリエタースを召喚した。
魔物と化した狩人の眷属は深く、また冷たく濡れたどす黒い瘴気を纏っており、ノコギリ状の大爪を伸ばしていた。
星の娘、上位者エーブリエタースは甲高い鳴き声を上げた後、口から濃厚な神秘の血液を噴出させ、獣血の狩人に浴びせた。
魔物と化した狩人に喰われ、取り込まれる事で血の遺志を分け与えられた彼女の攻撃はまた、尋常の眷属であれば瞬時に溶解してしまうほどの神秘を含んでいる。
だがしかし、獣血の狩人は一時の獣性を発現させてそれらを全て退けた後、眷属達に飛び掛かった。
魔物と化した狩人の眷属が大爪を振り、獣血の狩人の被る獣皮を切り裂いた。
獣皮の裏から覗く狩人の瞳は人のそれではなく、瞳孔が7つに分裂した上、淀みの寄生虫が無数に蠢いていた。
獣血の狩人は大鎌を振り下ろしてエーブリエタースの触手を断ち切り、彼女が怯んだ隙に頭部に獣の爪を突き刺し、抵抗する身体を抑え込みながら、その一際巨大な脊髄を引き摺り出した。
頭部を破壊され、脊髄を喪失したエーブリエタースは絶叫して仰向けに吹き飛び、倒れた。
傷は深く、破壊された頭部は花弁のように抉れており、その内から、喪失した脊髄の管を通って灰褐色の血液が滝のように流れだしている。
だが獣血の狩人は無慈悲にも回復する暇すら与えんという意志を持って鎌を振り上げた。
触手の一本一本が、次々と斬り取られてゆく。
やがて達磨となったエーブリエタースの首を刈り取ろうと大きく飛び上がり、獣血の狩人が鎌を振り下ろした、その瞬間であった。
鈍い金属音、弾ける火花。
獣血の狩人が振るった鎌は、狩人の眷属の振るう、鋸の如き大爪によって挟み取られていた。
エーブリエタースを蹂躙していた一人を除いて、その他の眷属達は既に殺害されていた。
その骸も魔物と化した狩人に食い尽くされており、もはや劣勢、敗北は目に見えていた。
獣血の狩人は急いで刃を引き抜こうとするが、眷属の大爪は鎌を噛み挟んでおり、万力の如き力で離さない。
その隙にエーブリエタースは破壊された部位を再生し、触手を上空に伸ばして小宇宙を展開。
輝く神秘の光を無数に呼び出し、獣血の狩人の身体を串刺しにして斃した。
獣血の狩人は獣の如き断末魔を上げ、その骸は宙に舞い、魔物と化した狩人の胃袋へ直行する。
全ての眷属を蹂躙された月蝕の獣はベールの如き翼膜を大きく逆立て、魔物と化した狩人を威嚇した。
ベールの下に隠されし獣の肉体は爛れ、膿の滴る赤黒い肉片の逆立った肌があり、胸中にはぎょろぎょろと巨大な瞳が蠢いている。
その周囲には鋭く伸びる肋骨と水疱に塗れた青白い触手がうねるように蠢き、背部からは、関節により自在に稼働する、煤色の骨槍と大鋏が飛び出し、怪しく音を鳴らしている。
狩人の眷属たちは獣の咆哮を上げた後、大きく飛び上がって大爪を振るい、「鉄壁」の如き翼膜を引き裂かんとした。
弾ける閃光と巻き上がる煙、響き渡る高周波にエーブリエタースは怯んだ。
煙の内から肉の裂ける音と、金属の砕けるような甲高い音が響き渡る。
数分後、煙が晴れた時に見えたのは、狩人の眷属が串刺しとなって絶命している光景であった。
彼らの大爪は粉々に砕け、月蝕の獣の大角に胸の核を貫かれていた。
月蝕の獣は眷属の遺骸を肉片になるまで引き摺り回し、魔物と化した狩人に向けて投げつけた。
魔物と化した狩人はそれを避けた後、異形の大腕を月蝕の獣の胸中に蠢く瞳に突き刺し、引き摺り出した。
【月蝕の瞳】
肉の千切れる音と、紫色の体液が霧となって吹き出し、周囲を包み込む。
月蝕の獣は甲高い絶叫と共に、魔物と化した狩人に飛び掛かった。
再び手四つで組み合う上位者達。
魔物と化した狩人は月蝕の獣の膿んだ剛腕を真正面より掴み、膠着状態に持ち込んだ。
互いに握り込み合う掌に爪が食い込み、血が滲み出る。
月蝕の獣は鋭く伸びた大角を魔物と化した狩人の胸中に突き立て、力を弱めんとする。
だがしかし、胸中より這い出た巨大な獣の腕が大角を根元から千切り抜いた事でその試みは失敗に終わり、月蝕の獣の腕も捕食器官の翼に食い千切られて腐敗した緑色の血を吹き上げ、体幹を崩しながら仰向けに倒れてしまった。
【青ざめた獣の大角】
魔物と化した狩人はこれを好機と取り、蛇の如く這い回る刃状の尾を大きく伸ばして月蝕の獣の振るう大鋏と骨槍を斬り砕いた。
深紅の血飛沫が霧のように吹き上がり、その内から青ざめた色の霧が、神秘の小宇宙を形成するように滲み始める。
魔物と化した狩人は止めを刺さんと背部より翼の如く羽搏く四つの捕食器官を大きく伸ばし、件の肉体に食らい付いた。
ノコギリ状の歯で関節部の軟骨を削りながら肉を削ぎ落とし、泡出つ水音と共に膿んだ血液を舐め啜り、ベールの如く薄い翼膜を剥がし噛み砕いて味わう。
鋭い鈎爪で引き摺り出され、暗い瘴気に濡れた臓物は生きているように跳ね回り、汚物を吹き出している。
無貌の洞に汚物諸共吸い取り、最後の一滴まで遺志を取り込む姿は鳥葬のそれであり、上位者と化してなお、弔いの狩りの様相は全く変容していなかったのである。
数分後、月蝕の獣は魔物と化した狩人に食い尽くされ、後には紫色に輝く水晶珠が残るのみであった。
【HUNTED GUARDIAN】
やがて、力尽きたように倒れた狩人は神秘の肉体を脱ぎ捨てた後、紫水晶を拾い上げて懐へ仕舞いこんだ。
【神秘の紫水晶】
それはただの水晶ではなく、極めて強い魔力の込められた「生きている水晶珠」であった。
刹那、狩人を再び青紫の血煙が覆い、包み隠したかと思うと、暗黒宇宙の渦が再びその身を闇へ解き放つ。
数分後、血煙が晴れた事を確信した狩人は目を覚まし、そこは最後に立った月見橋であった。
ふと足元に目をやると、橋の中腹から眼前の塔に向かって死体を引き摺った様な跡が付いており、それはまた、乾ききったような古い痕跡ではなく、新鮮で暖かな血痕であった。
狩人はその血痕を落とした主を追うべく、塔に足を踏み入れた。