それは、とても長い闇の穴であった。
実に数十分もの間、下降を止めない昇降機は徐々に湿り気を伴い始め、上を見上げても、既に光は極小の点と化していた。
狩人が小さく溜息を吐いた時、突然アンナリーゼが語り掛けてきた。
「貴公、既に感づいているだろう」
「闇の向こう側、無数の獣がこちらを狙っている事に」
「十分に気を付けたまえよ」
アンナリーゼの言葉は的を射ていた。
昇降機が深淵の海に沈んだ頃から、無数の小さな悪夢の獣が、影に溶け込んだ実体のない目で、じっとこちらを見張っているのだ。
実体がないゆえにこちらへの干渉は出来ないが、それでも尚、常人であれば発狂するほどの狂気を送り続けている事は事実であり、警戒を続けるのは賢明な判断であった。
やがて昇降機が止まると共に狩人は扉を開いて闇にその身体を晒し、先へ進んだ。
深淵の泥濘を暫く進んだ後、目の前に広がっていたのは、蒼白い光に包まれた遺跡のような空間であった。
壁の随所には太い触手が這っているものの、それを除けばごく普通の遺跡といった印象であり、光の元となる粉も、周囲のカビが放つ胞子であるようで、狩人は大扉を開いて先へ進み始めた。
大扉の先には長い廊下と、壁際に蜘蛛の糸に包まれた瞳が埋まっており、幾つかには細く長い脚が生えていた。
足元は生暖かい泥に埋まり、水面はランタンの明かりで銀色に輝いていた。
それは、悪夢の館とメンシスの悪夢を融合したような印象を受ける外見であり、だがその泥は僅かな死臭と共に、甘い血の匂いを纏った肉の泥であった。
その時、不意に泥の底から巨大な人喰いネズミが泡を立てながら浮上してきたかと思うと、思いがけぬ速度で牙を剥き、狩人に噛み付いた。
ネズミの瞳孔からは灰色の虫が飛び出し、牙をガチガチと鳴らして威嚇していた。
何かしらの虫に寄生されているのだろうか、耳の薄皮の裏には無数の寄生虫がひしめいており、それが肉の泥の本質を示しているようでもあった。
狩人は静かに落葉を抜き、ネズミを一刀のもとに斬り伏せた。
鼠の肉塊から、無数の虫が這い出て来たかと思うと死肉を喰らい始め、やがてネズミの死体は骨すら残さずに泥と同化してしまった。
どうやらこの泥を生産しているのはあの虫達であるようで、それはまたある種の副産物、すなわち腐葉土のようなものなのだろう。
暫く肉の泥を進み、扉を開いた先は円形の広場のような空間が広がっていた。
天井には金網のようなものが貼ってあり、その中からは鈴のような、金属の擦れ合う音が絶えず聞こえている。
足元には鏡の如き銀色の水が溜まっており、何かのサインを描くように虫が蠢いていた。
「貴公、足元に溜まっているのは水銀。劇毒の類だ」
「・・・待て、何かが来る」
不意にアンナリーゼが警告を発し、狩人は身構えた。
先程と同じようなネズミ如きの雑魚であればよいが、本命の上位者に近付くという事は、それを守る守護者が登場する可能性も高いという訳である。
すると、天井から金属を引き斬る甲高い音がしたと同時に金網が落下し現れたのは、巨大な身体を持つ顔のない鴉羽の異形であった。
四対の腕は逆立った鴉羽色の鱗羽に覆われ、銀色の装飾が随所に見受けられる。
骨張った五本の指は骸のように干乾びており、指先には刃の如く長い爪が備わっている。
三対の腕には湾曲した薄刃の大曲刀が握られており、刃が薄く細い銀の装飾品を擦るたびに軽い鈴のような音がこの中広い空間を包み込む。
首を伸ばしたように曲がったローブの内はがらんどうであり、その装束はまた、中東の民族的衣装を彷彿とさせる外見である。
全身から滴り落ちる薄桃色の粘液はまた、眼前の異形が悪夢の上位者に関連する決定的証左であり、それを証明するように狩人の背後の鉄扉が大きな音を立てて口を閉じ、退路を塞いでしまった。
刹那、遺跡の奥底から赤子の鳴き声が響き始めたかと思うと、眼前の異形もそれに反応して姿なき首を後ろに向け、人ならぬ声で鳴き叫ぶ。
やがて赤子の声が収まるとすぐさま烏羽の異形は狩人に向き直り、四対の腕を広げて襲い掛かって来た。
薄刃の大曲刀を備えた三対の腕から繰り出される無数の斬撃は素早く、そして鋭かった。
狩人は鴉羽の異形の繰り出す無数の斬撃を埒が明かぬと判断し、二対の触手を生やしてこれに対抗した。
最上部の触手対には群青色の粘液を纏わせ二刀に分けた落葉を、中ほどの腕にはレイテルパラッシュと小アメンの腕を、最下部の触手対には回転ノコギリと大アメンの首を持たせ、最後、秘かに背中に生やした一本の触手にはルドウイークの長銃を忍ばせた。
今ここに、凄まじい速度で繰り広げられる異形対異形の剣戟が幕を開けた。
大アメンの首から発される神秘の光線が刃を弾き、回転ノコギリが火花を上げながら装束諸共鱗羽を削り落とす。
レイテルパラッシュから繰り出される水銀弾が鴉羽の異形の姿なき頭を撃ち貫き、刃を叩き落として攻撃をいなす。
小アメンの腕が大爪を振るって銀の装飾を引き裂きながら同時に足を掬って装束を斬り裂き、群青色の粘液を纏った二刀の落葉は真空斬撃波と共に残りの刃を弾き返し、打ち払う。
次の瞬間、烏羽の異形が武器持たぬ一対の腕を天に向けて伸ばした後、闇の霧を放出して姿を消したかと思うと、あらゆる方向から分身体による攻撃を敢行してきた。
狩人は左掌に暗黒小宇宙を展開して深淵の眷属を召喚し、分身体の対処を試みた。
ノコギリのような大爪を振るう狩人の眷属達が闇を徐々に斬り払ってゆく。
やがて霧が晴れた頃、無数の鴉羽玉と共に、鴉羽の異形の本体が再び姿を現した。
鴉羽の異形は舞うように刃を振り、狩人の眷属を相手に有意な立ち回りを取ってゆく。
ノコギリのような大爪が振るわれるたび、飛燕の如き連撃がそれら全てを弾き返して地に落とし、水銀の遅効毒で彼らの肉体を蝕んでゆく。
そして、眷属達の動きが鈍った次の瞬間、流れるような剣捌きで彼らの首を一刎してしまった。
滝のような血飛沫が上がり、霧と化して狩人の胸中へ戻る眷属達。
狩人は小アメンの腕を展開して鴉羽の異形を捕えようとするが、まるで空を掴むようにそれは失敗してしまう。
無数の抜け落ちた羽が産み出す分身体が狩人の攻撃を次から次へと躱し、受け流しているのだ。
流石に獣の愚鈍とは異なる、上位生命体である。
その叡智により攻撃方法も変化を見せていた。
数分間の一進一退の後、攻防の停滞を感じた狩人は徐に回転ノコギリの発電装置を最大出力で稼働させた後に落葉を押し当て、刃に青き強力な雷光を纏わせた。
そして回転ノコギリを水面に突き立て、雷光の波を広げる。
同時に自らが感電せぬよう、ローレンスの獣頭蓋を用いて一時的獣化に身を任せる。
次の瞬間、鴉羽の異形は感電したように動きを止め、体を小刻みに震えさせ始めた。
雷光が効果をもたらすのならば対面の異形は上位者の眷属に相違なく、これで勝負の駒は大きい一歩を踏み出した。
狩人は一瞬の隙を好機と捉え、水銀蠢く巨大な虫を足場に大きく飛び上がって居合の構えを取り、秘儀『古狩人の一閃・雷電』を繰り出した。
空中より繰り出される雷光の残滓は光陰の矢の如き鋭さで地に下り、鴉羽の異形に致命傷を負わせた。
鴉羽の異形は何かを守るように蹲った後、腕を全方位に伸ばして回転しながら虫を活性化させ、自身の身に喰い付かせ始めた。
水銀蠢く大型の虫達は喉の奥から消化液を吹き出しながら悶え苦しみ、やがて桃色の粘塊に塗れて形状崩壊を始めた。
やがて、そうして死んでいった虫の体液を薄刃の大曲刀に纏わせた鴉羽の異形は大きく飛び上がった後、無数の分身体を作り出して全方位からの総攻撃を繰り出してきた。
狩人は静かに雷光の残る落葉を鞘に納めた後、秘儀『古狩人の一閃・千重波』を繰り出して分身体諸共鴉羽の異形を斬り伏せた。
雷光の一閃を受けた鴉羽の異形は絶叫と共に力なく地面に墜落した後、水銀の浸食を受けながら燻り始め、やがて霧と化して消滅してしまった。
【YOU HUNTED】
鴉羽の異形を滅した狩人は広場の最奥へ移動し、鉄扉を引き上げ道を開いた後、静かに先へ進み始めた。
先程までとは一変して暗闇に包まれた道の中を進みながら、ランタンの明かりを頼りに道を切り開いてゆく。
やがて道を塞いだのははおぞましいまでに厚く張り巡らされた蜘蛛の巣であり、だが糸はあれどもそれを張り巡らした筈の蜘蛛は存在せず、子蜘蛛すら見当たらなかった。
狩人は蜘蛛の巣を発火ヤスリによる炎纏いし落葉で斬り払いながら進み、やがて異形の触手で形作られた、深き悪夢の祭壇へ辿り着いた。
<深き悪夢の祭壇>
祭壇の上には糸に包まれた繭状の何かが置かれ、それは、ごくゆっくりと胎動していた。
それは狩人の悪夢に祀られていたローレンスよりは小さかったが、それでもなお、人の身を超える大きさを誇り、不意に懐に仕舞い込んだ悪夢の獣の心臓が、呪われたように熱を帯び始めた。
糸は厚く、中までは覗けないものの、狩人はそれが悪夢の根源、上位者「甘き夢を見せるもの」であると直感した。
あるいは、それを直感として伝導したのは、不死の赤子たる悪夢の獣の心臓に宿った遺志だろうか。
狩人は蒸気を上げて発熱する悪夢の獣の心臓を懐より取り出した後、繭の上にそっと置いた。
すると、何処からともなく寂しげなオルゴールの音が流れ始め、それを皮切りに悪夢の獣の心臓がゆっくりと動き始めた。
悪夢の獣の心臓は血管状の触手を伸ばし、厚く覆われた繭を包み込んだ。
見る見るうちに繭は解けてゆき、やがて狩人の眼前に、甘き夢を見せるものが姿を現した。
女性的な体躯を備え、悪夢の獣の心臓だった赤桃色の粘液をベール状に纏うそれは、美しくもおぞましい異形の存在であった。
それは黒い靄に覆われた、蠢く触手のみが確認できる存在であったが、その頭蓋から伸びる触手の先には蠢く瞳があり、ゆっくりと瞬きながら、狩人をじっと見つめている。
顔にはごく薄い繭状のベールを纏っており、白い長髪のような触手で覆われた貌の向こうには、赤く輝く瞳のようなものが確認できる。
耳までばっくりと裂けた口の中には赤桃色の粘液を纏った無数の舌が蠢いており、心なしか、笑っているようにも見える。
胸部からは心臓のような粘液塊が飛び出しており、それは鋭く飛び出した肋骨状の骨に抱えられながら、狩人に交信を試みるように、血管状の触手を伸ばしてきている。
二対の腕には指が六本備わっており、その指は触手のように揺らめいており、爪は鋭く研ぎ上げた刃物のように長く伸びている。
胸に近い腕の中には赤子のような肉塊を抱いており、恐らくはそれがミコラーシュの日誌にあった「未熟な仔」であり、へそと思しき部分には黒い、三本目のへその緒を繋げている。
徐々に目が慣れてくると全貌が垣間見え、ランタンの火に照らされたその脚は白黒の斑点に覆われた、軟体生物の如きものである。
尻尾は無数の寄生虫で覆われており、神秘の蒼くぼんやり光る粘液に覆われている。
黒靄に包まれた上位者、甘き夢を見せるものは不意に起き上がると、狩人に未熟な赤子の肉塊と共に三本目のへその緒を手渡した後、じっとしたまま動かなくなった。
【三本目のへその緒】
狩人は助言者に手渡された星の短刀と薄銀の雫を取り出して窪みを隠す蓋を開き、黒い霞に包まれた甘き夢を見せるものの首に隕鉄の刃を突き立て、するりと腕を降ろした。
次の瞬間、切り開かれた首筋の傷から赤く輝く血の雫が零れ落ちたかと思うと、甘き夢を見せるものは霞となって狩人の身体に取り込まれ、それと同時に、薄銀の器に透き通った赤い血が満たされた。
【HUNTED NIGHTMARE】
狩人は手記に従って三本目のへその緒と共に、器を満たす血を全て啜り、飲み干した。
一滴に見えたそれは止めどなく溢れ出す血の泉の如きであり、その味は官能的なまでに甘く芳醇な、蜜の如き瑞々しい味わいと共に、僅かな腐臭と肉の味を伴う、青ざめた神秘の雫であった。
次の瞬間、狩人は意識を失い、次に目覚めたのは紅蓮に燃え盛る夢の屋敷の前であった。
<狩人の夢>
「狩人様。お待ちしておりました」
数分後、目を覚ました狩人を人形が出迎え、衝撃の事実を口にした。
「間もなく夜明け・・・夜と夢の終わりですね」
どうやら悪夢の元凶は狩人の遺志となり、本当の夜明けが訪れるようだ。
狩人は何とも言えぬ心境のまま、人形の話を聞いた。
「・・・大樹の下で、助言者の狩人様がお待ちのはずです」
「さあ、狩人様・・・」
これまで繰り広げた死闘の数々が、頭を過る。
狩人は意を決し、足を進めた。
「いってらっしゃい。狩人様」
「あなたの目覚めが、有意なものでありますように」
最後の礼をする人形の髪には、狩人の贈った氷血の薔薇細工が留められており、それはまた紅蓮の炎を反射し、虹色に輝いていた。
月の大樹の下に着いた狩人は、助言者に遭い、こう告げられた。
「狩人よ、君はよくやった。長い夜は、もう終わる」
助言者は立ち上がり、狩人の肩を叩く。
「悪夢を捕らえていた上位者が死んだのだろう?」
助言者曰く、悪夢を除けないまま無為な時間を過ごしていた時、おぞましい悪寒と共に、悪夢の霧が晴れたのを感じ取れたのだという。
・・・同時に、新たなる赤い月の接近を感じ取りながら。
「君ならば、夢の月のフローラを目覚めの救いへ導けるやもしれん」
「あるいは、君が悪夢の主となるか・・・」
「さあ、狩人よ。最後の狩りを全うしたまえよ」
「ローレンスの月の魔物、青ざめた血の邂逅と共に・・・」
そう言って助言者は立ち去り、庭を後にした。
やがて門扉が締まる音が聞こえると同時に、大樹の下へ強い風が吹き下ろし始め、空気が一変したのを感じた。
花弁がうねり、濃血の香りが漂う。
狩人が空を見上げると、そこには、赤く輝く月を背景に、形容し難い異形の上位者が、おぞましく蠢く尾をくねらせながら、ゆっくりと地上へ降りて来ていた。
ローレンスたちの月の魔物、青ざめた血と呼ばれる、最後の悪夢の上位者。
月の魔物は白い花咲き誇る庭に降り立ち、狩人はそれに惹かれる様にゆっくりと手を伸ばしながら一歩、また一歩と歩み寄る。
それはまるで光に惹かれる蛾のような、死肉に惹かれる蛆のような、本能からじっとりと呼び寄せられるような、強靭な精神を誇る狩人をすら甘く浮ついた心持にさせる、不思議な感覚であった。
月の魔物は異形の指で狩人を包み込んで形容し難い無貌を近付けた後、無数の尾を前面に伸ばし、抱擁するように丸くなり始めた。
血の遺志が吸い取られる、脱力感が襲い来る。
頭が蕩けるような感覚が広がり、意識が遠のき始めた。
このまま、静かに上位者と同化するのだろうか・・・。
次の瞬間、狩人の体を蒼白い光が包み込んだかと思うとそれは爆発を伴い、月の魔物を大きく後退させた。
刹那、濁流のような衝撃と共に意識を取り戻す狩人。
狩人は大いなる上位者、甘き夢を見せるものと同化した影響で完全に人を捨て去っており、ゆえに月の魔物は血の遺志を吸い取る事に失敗したのであった。
月の魔物は人ならぬ声をあげ、狩人を、その深淵の洞の如き無貌で睨み付けた。
獣狩りの夜明け、最後の上位者狩りの火蓋が、今切って落とされた。
月の魔物は骨張った異形の腕を振り回し、狩人を引き裂かんとする。
狩人は月の魔物の連撃を紙一重で躱し、骸の如く裂け、血の滴る胸部にルドウイークの長銃を押し当て、引き金を引いた。
銃口より閃光が迸り、神秘の血晶弾が月の魔物の骨肉を抉り取る。
月の魔物は怯み、後方へ大きく上体を逸らす。
隙を逃さず狩人は落葉を変形させ、舞うような剣捌きで月の魔物に攻撃を繰り出した。
痩せさらばえた四肢から血肉を削り取り、鬣状の触手を斬り裂き、剥き出した骨を断ち斬ってゆく。
月の魔物は力を失って地面に手を突き、頭を垂れた。
これを好機と捉えた狩人は一切の躊躇なく月の魔物の頭目掛け、奥義『螺旋波紋貫通打』を繰り出し、無貌の仮面へ螺旋の力を通して内部組織を腕に巻き取り、蹴りを締めとしておぞまし色の腸に似た肉塊を引き摺り出した。
全身から血飛沫を上げながら仰け反り倒れた月の魔物は、仰向けの態勢から鞭状の尾で狩人を吹き飛ばした後、おもむろに起き上がって月に交信をする素振りを見せ、蒼白い泡の如き靄を、内臓のひもを垂らす無貌の仮面から吹き出し始めた。
それは赤黒い血の泡へ変化した後、見る見るうちに巨大化し、分裂して拡散した。
次の瞬間、無数に分裂した血の泡は一斉に弾け、周囲におぞましい血の雨を降らせた。
血の雨に恐ろしいものを感じた狩人は加速により回避を試みたが、次の瞬間、月の魔物の放った閃光により体の動きを止められ、血の雨を真面に浴びてしまった。
血の雨を浴びた狩人は体中から汗を吹き出し、胸を搔き毟り悶えながらその場に倒れ伏した。
恐らくは劇毒、あるいは侵蝕の類であり、身体中から見る見るうちに血の遺志が剥離していくのが感じ取れた。
月の魔物は横たわる狩人にゆっくりと接近した後、食事をするように掴み上げ、肉体から剥離した膨大な血の遺志を吸収し始めた。
数分後、月の魔物の肉体は完全に修復され、更に背部からは翼竜の如き翼が生えていた。
血の遺志を失った狩人は抜け殻のように動かず、宛ら絞り粕と表現するのが相応しい代物と化していた。
新たな翼を生やした月の魔物は狩人を放り投げた後、大きく吼えて宇宙の果てに浮かぶ月の元へ飛び立とうとした。
翼竜の如く腕を備えた翼が地面を押し上げ、月の魔物は羽搏きながら地上を離れ始める。
次の瞬間、甲高い悲鳴と共に月の魔物は地上へ墜落を始め、土埃と共に地面に打ち倒れた。
上空に居たのは先程絞り粕にしたはずの狩人であり、小アメンの腕を伸ばしたその手には月の魔物の翼が、圧し折られた状態で握られていた。
圧し折られた翼は血の遺志となって狩人の身体へ戻り、肉体強度を増加させる。
上位者の翼を展開した狩人は落葉を抜き放ち、群青色の粘液を伴う神秘の刃を纏わせた後、居合の構えを取って滞空する。
背中の傷を癒した月の魔物も触手を逆立て、大きく威嚇する。
両者はそのまま数刻以上睨み合い、間合いを保ち続けた。
先に動いたのは、月の魔物であった。
月の魔物は体を大きく持ち上げた後、その深淵の洞の如き無貌の仮面から赤い光を放ち、おぞましい咆哮をあげた。
その方向はあらゆる存在から生きる意志を奪う「滅」の光であり、人であるなしに関わらず、その光を受けた者は血の遺志を剥離させてしまうのだ。
だが狩人は次の瞬間、蒼白い波動を放って「滅」の光を相殺した後、加速を用いて一気に彼我の距離を詰め、秘儀『古狩人の一閃・連撃』を月の魔物に喰らわせ、更に追撃として獣の爪を展開して頭部を砕き、鬣の如き触手と共に内部組織を引き摺り出した。
致命傷を受けた月の魔物は呻き声をあげ、霧と化して倒れながら青ざめた波動と共に爆発四散し、狩人におぞましい血と臓物を浴びせて消滅した。
【HUNTED NIGHTMARE】
悪夢を支配する、最後の上位者を狩った狩人は月を見上げ、しばしの感傷に浸っていた。
これで狩人は正真正銘の、悪夢を支配する上位者となる資格を得たのだ。
肉体が徐々に人のそれを捨ててゆく奇妙な感覚を感じながら、既に色の抜け落ちて青い輝きを取り戻した月を眺める。
数時間後、庭へ助言者がやって来た。
「なるほど、やはり君は素晴らしい狩人だ」
官憲隊の装束の上から煤けた狩装束のマントを身に纏った助言者は冷たく、禍々しい印象を受けた。
助言者は右手に月光の聖剣、腰には千景を差し、左手には血族の銃、エヴェリンを携えていた。
「ローレンスたちの月の魔物、夢の月のフローラを狩る事が出来たのだな」
「狩人、君はよくやった」
刹那、途轍もない殺気を覚えた狩人は身構え、同時にアンナリーゼが語り掛けてきた。
「貴公、悪夢の狩人よ」
「助言者は悪夢の上位者と化した貴公を狩るつもりでいる、迎撃したまえよ」
その言葉に従い、狩人は輸血液と恢復剤で傷を癒し、落葉を変形させて構え、迎撃の態勢を取る。
それを見た助言者は静かに月光の聖剣を振り、神秘の刃を現出させた後、静かだが、よく通る声で呟いた。
「素晴らしきかな、悪夢の狩人よ」
「これで君は、この忌々しい狩人の悪夢を支配する、悪夢の上位者だ」
「ゆえに、すべからく夢を終わらせよう」
「ひと時の、神秘の悪夢を・・・」