前書き
2014年秋イベント『渾作戦』その第二次作戦のボス「駆逐棲姫」。春雨に似ていると各所で噂になり、しかも史実においては春雨は二次作戦中に沈没している…と物議を醸すには十分。そんな春雨似の駆逐棲姫を倒した次のMAPにて春雨をドロップしてしまった事で思いついた、ただそれだけのそんなお話。 ▼独自の解釈と設定が多々出てきます。▼基本的に秘書艦である那智と提督が会話してるだけです。
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荒れ狂う波に呑まれて彼女の手が沈んでいくのを、俺はただ見ていた。
「……ふむ、やはり戦艦棲姫は一筋縄ではいかんな。まだ複数回は叩かねば駄目か」
扉の外から女性の声が近づいてくる。
気配が扉の前で停止、代わりに扉が軽快な音を二回たてた。
「司令官、失礼する」
凛とした声音を連れて、執務室の扉が開く。
旗艦を預かるに相応しい意志の強さを秘めた声の主が室内へと歩を進め、書類が乱雑に積まれた執務机の前、つまり俺の前で止まる。
那智は小さく敬礼した。
「艦隊帰投。作戦結果の報告が入っている。聞くか?」
「おつかれさま。あらかたは俺も見てたよ。いつものことだろ?」
艦隊が出撃する際、進撃や撤退指示の為に俺たちの様な司令官が別働隊として護衛艦で遠方待機している例は、少なくないらしい。中には、完全に艦娘たちに一任しているところもあるようだが。
力なく肩をすくめて笑う俺に、那智もわずかに口許を緩ませて続ける。
「被害状況だが、大破なし。中破、比叡及び叢雲。小破、潮。加えて、比較的軽微な損傷で済んだ艦が複数。戦艦棲姫を相手に初回の戦闘としてはまずまずだろう」
南西方面海域への連合艦隊の投入、第三次渾作戦。史実の渾作戦になぞらえたこの作戦で立ちはだかるのは戦艦棲姫だった。彼女の怨嗟を孕んだ声が今も耳の奥に残っている。
あれは、海に生きる俺たちからすれば忘れられるはずもない。
「既に入渠指示は出し終えている。他の者達は先に補給へ向かわせた。入渠中の者達も修復が完了次第、順次補給へ向かう様に伝達済みだ」
那智が左わきに抱えていた資料の束を机に置く。
膨大な量の資料のせいで、それだけで机の上の小物類が軽く振動する。積まれた書類の一部が傾き、小さな雪崩と化した。片付けても片付けても次の書類が回されてきて、減る気がしない。
大概の場合、気付いたら那智が手伝ってくれているが、那智が艦隊に加わって留守にすることが増えるとすぐこれだ。他の鎮守府はどうやって処理しているんだろうか。
ちなみに艦隊が帰投した後の指示もおおよそ那智が出している。
「……相変わらず、那智さんは指示が早いというか何というか」
「貴様が無能なだけだ」
切り落とされた。
我が秘書艦殿は、いつものことながら容赦が無い。
「そして、それが秘書艦たる私の仕事でもある」
彼女は事もなげにそれだけ言うと、今度は本棚の方へと足を向ける。……今のはもしかして、俺に気を遣ってくれたのだろうか?
こつこつと規則正しい足音は彼女の律儀さを表しているようにも思えた。
純白の手袋に包まれた彼女の白い指先が、本棚に整列されたファイルをなぞるように動く。右から3番目、5番目、8番目と、背表紙に振られた番号を確認しながら小脇に抱えていく彼女の手が、ふと宙で止まった。
「あぁ、そうだ司令官」
彼女らしい直線的な口調が俺を捉える。
「今回の出撃で保護-ドロップ-した春雨は、先に宿舎へ行かせた。部屋だけ確認したら執務室へ来いと伝えてある。今度の子は、随分おとなしい子だぞ」
俺の呼吸が、一瞬止まる。
あの砲撃飛び交う海上で、俺たちは確かに春雨を引き上げた。二人目の春雨を。
そう、この鎮守府に既に春雨はいる。夏の作戦で保護した元気な子だ。
同じ艦娘が複数個体存在すること自体は珍しくない。別の鎮守府に居る艦娘がうちにも居ることを考えれば、ある種当たり前でもある。同鎮守府内でとなるとその割合は格段に下がるが、稀にこういうことも起こるのだろう。
俺が今の那智と出逢う前にも、一度だけそういうことがあった。
「元は同じ艦艇、艦娘になった今も容姿はほぼ同じだというのに、個体によって性格が異なるというのは、我が身ながら面白いと思うよ」
彼女は静かに苦笑している。同じ艦艇の娘たち曰く、艦艇だった頃の記憶は共有しているらしい。ただ、性格に違いが出る理由だけは分からないそうだ。
性格、つまり、感情の差異。
普段なら気にも留めないほどの些細な問題だが、しかし俺の思考は淀んでいた。
黒い霞のような嫌な感覚が、思考を覆っていくのが自分で分かる。一度疑念に囚われてしまえば、そこから抜け出すのは難しい。俺の中に生まれた一つの小さな仮説が、思考の沼と化して静かに口を開けていた。
那智は書類を手に取りながら更に続ける。
「構成情報が同一の別人、という表現がしっくり来るのだろうが、やはり違和感もあるな。私とは別の“那智”もいるのだろう。一度は逢ってみたいものだ……どうした?」
数冊の書類を抱えて執務机へ戻ってきた那智が怪訝そうに俺を見下ろしていた。
俺はすぐに彼女を見上げることができない。なんでもないよと笑って誤魔化せたら良かったのに、押し黙ってしまっていた。
彼女の瞳はどこまでも真っ直ぐだ、しかし俺には彼女に正面から向き合えるだけの意志の強さは無い。
だから今もこうして負の思考に囚われている。
「待っていろ」
ため息を残して、那智は静かに踵を返していった。数分して戻ってきたとき、彼女の手には二つの湯呑。茶葉の香りと共に湯気が立ち上っていた。
片方を俺の前におき、もう片方は自分で持ったまま応接用のソファへと深く腰を落とす。湯呑を傾けた彼女の口許から、液体を啜る音が小さく漏れる。
「また何か余計なことを考えているな?」
応接机に湯呑を置いた那智の呆れた半眼が、俺を捉えていた。
吹き込んできた潮風が、カーテンを揺らす。俺の思考も揺れていた。
「……今回の、渾作戦」
時計の秒針が刻む音を背景に、俺は自身の思考をまとめようと舌を動かす。
「史実において、第二次作戦時に春雨が沈没してる」
那智は黙している。
沈没――船としての「死」が、彼女たちにとってそれがどれほどの意味を持つか、わざわざ想像するまでもない。
彼女は、静かに顎を引いて続きを促した。俺は俺の仮説を紡いでいく。
「そして深海棲艦側に新たにその姿を現した駆逐棲姫……彼女は、あれは多分、史実の方の春雨“だった”ものだ」
各所に春雨の面影を思わせる駆逐棲姫の青白い肌が、脳裏に思い出される。
那智の鋭利な視線。
「只のつまらない推論だな。本題は?」
彼女はいつも、俺に悩む隙を与えてくれない。彼女は回りくどいことを嫌うし、俺はいつだって迷っている。
手元にある湯呑を揺らしながら、言葉を組み立てていく。目線を落とすと、緑色のお茶が湯呑の中で濁って渦を巻いていた。
「第三次渾作戦に移行してからすぐの戦闘で春雨を保護したよな」
偶然かもしれない。
偶然だと思いたい。
しかし偶然にしては少々出来過ぎではないのか。
「――なんで、あの時、あのタイミング、あの場所で、“春雨”を見つけたんだ?」
怪訝に眉をひそめた那智だが、しかし俺の言いたいことに気付いたらしい。彼女が何か言おうと唇を開く前に、俺は疑問を口にする。
彼女との声が重なる。
「もしかしてあの春雨は、俺たちが倒した駆逐棲姫だったんじゃないのか?」
「艦艇春雨だった駆逐棲姫が、艦娘の春雨に生まれかわったと? ばかな」
開いた窓から風が吹き抜ける。昼間とはいえ秋も半ばの潮風は冷たく、室内の温度を奪っていく。
俺たちの間の空気も急速に下がっていた。那智が俺を射殺さんばかりに睨んでいる。続く言葉を僅かでも間違えれば、俺は彼女の怒りを買うことになるだろう。
ゆっくりと、確かめる様に言葉を紡ぐ。
「……人の感情は表裏一体。昔、少しの間だけ上司だった人が言った言葉だ」
那智は俺の思考を汲み取れず眉根を寄せていた。
「駆逐棲姫との戦闘、その過程で駆逐棲姫の中にあった負の感情が反転したという可能性は……無いか?」
以前、那智から聞いた話だ。深海棲艦との戦闘は、その根源に少なからず感情のぶつかり合いがあると。
そして彼女たちは戦闘が長引けば長引くほど、ふと憎悪にも似た感情を抱いていることがあると。
それはまるで、自分たちが深海棲艦の怨念に徐々に侵されていく様に。
「……つまり、普段我々が感じている侵食現象の、逆ということか」
那智の言葉に顎を引いて肯定する。
彼女は瞑目していた。
彼女にとってみれば深海棲艦は殲滅の対象だ。ずっとそう信じてきたはずだ。
しかし、今回の駆逐棲姫と春雨の関連性に少しでも可能性があるなら、今後の認識はおそらく変わる。
深海棲艦は、艦娘に――我々の味方になり得る、と。
「……かつて海に消えた戦場の遺志が、こうして今の私たちを形作っている。それはきっとヤツらも変わらない」
那智の瞳は、執務室の外、水平線へと向けられていた。
「味方を愛する心も、敵を憎む心も、それらの気持ちは元々一人一人の人間が持っていたものだ。そこに境や隔たりはなくて、私たちが“たまたま”、勇気と呼ばれるものを多めに配分されて生まれてきただけなのかもしれない」
彼女の独白が、吹き込む潮風に攫われていく。
その視線は過去を眺めていた。大戦中に幾度も旗艦を努め、悲憤も喜楽も多くを目にしてきたであろう彼女は、今、何を思って再び海へと出撃を繰り返しているのだろう。
「深海棲艦の艦娘への反転現象か……。貴様にしては珍しく面白い仮説だな。もし今後も起こり得るなら、我々にとっても、“私たち”にとっても、大きな希望になる」
水平の向こうから那智の視線が帰還。双眸が執務机を挟んで俺を見ていた。
違う。俺を通して、微かに覘いた希望を見ているのだ。
それは俺が今見ているものと、同じようで実は違う。違う。違うんだ、那智。
「あ、いや、俺が言いたいのは――」
俺の訂正を遮って、控えめに扉を叩く音が転がってくる。
「む。春雨か、早いな。すまん司令官、この話は一度置こう。また後でな」
那智がソファから立ち上がり、扉へと踵を返す。
ふいに彼女の背中がそのまま遠ざかっていく錯覚。その一瞬、俺は彼女の背中から微かに絶望の輪郭を見た。
実現してほしくない可能性を。
駆逐棲姫は“沈んで”春雨になった。
反転現象が、“沈む”過程を経るのだとしたら。
艦娘が“沈んで”、深海棲艦に変わる可能性もまた、等しく否定できない。
もしもこの先、かつて沈んだ艦娘が深海棲艦となって現れたら、そのとき俺は今と変わらず指揮を取り続けられるだろうか。
扉の取っ手へ手をかけた那智の背中と、あの日最期まで勇猛に敵を見据えて腕を掲げ続けた“彼女”の傷だらけの背中が重なる。
白い手袋に覆われた五指が何も掴めずに黒い海中へと呑み込まれていく。
俺にはただ見ていることしか出来なかった“あの時”のフラッシュバック。
那智さん、俺は。
君に似た影が現れることに怯えている。
暗い波の底から“彼女”が這い出てくることを怖れている。
今の君と出逢うより前。
俺は一度“那智”を失っているのだから。
「白露型駆逐艦五番艦の春雨です。ゆ、輸送作戦はお任せください、です……はい……」
頭を下げた少女の傍ら、優しい笑みを浮かべる彼女から目を逸らす様に、俺は春雨を見つめ続けた。
冷たくなった湯呑の底で、茶葉の欠片が沈んでいた。