夜の鐘が鳴った。
街の灯りは遠く、ここだけ時間が止まったようだった。
古い教会の中に、煙がたまっている。
焦げたロウソクの匂い。祈りの残り香と硫黄が混ざる。
藤本しろうは、祭壇の前に立っていた。
黒衣の裾を捲り、片手で祓魔銃《ベネディクト》を構える。
礼拝堂の床に描かれた封印陣が、赤く明滅している。
神父がひとり、そこに膝をついていた。
その口からは血とも炎ともつかぬ光が漏れている。
「……くそ、完全に喰われてやがるな」
しろうは舌打ちして、銃を構え直した。
増援は来ない。
結界が歪んで、外界との通信が切れていた。
「おい、まだ戻れるぞ。聞こえるか」
返事はない。
代わりに、祭壇の奥で何かが割れる音がした。
封印陣が軋む。
空気が押しつぶされ、光が収束する。
「ちっ、まずい……!」
引き金を引く。
詠唱と銃声が同時に響き、
教会の空気が裏返った。
光が吸い込まれる。
封印陣が破れ、床が割れた。
穴の奥は闇ではなかった。
血と火を混ぜたような、異界の色。
そこから、何かが落ちてくる。
重い衝撃音。
煙が巻き上がり、しろうは思わず後退した。
「……人、か?」
煙の向こうで、赤いコートが翻る。
銀髪が炎を反射して、淡く光った。
背中に長剣。腰に二丁の銃。
「……おいおい、どこの世界に落ちたんだ俺」
声が軽すぎて、異様な光景がかえって現実味を帯びる。
「お前、何者だ。悪魔か」
「顔見りゃ分かるだろ。イケメンの方だ」
「悪魔ってのは嘘つきの代名詞だぞ」
「じゃあ確認してみろよ、神父さん」
そのとき、黒い翼が煙の中から伸びた。
憑依された神父が、歪んだ体を持ち上げる。
腕が鎖になり、壁を叩き割った。
「ちっ、間に合わなかったか……!」
「おい、そいつ何者だ」
「人の成れの果てだ。下がってろ!」
「下がるのは嫌いなんだよ」
銀髪の男が動いた。
剣を抜く音が短く響く。
一閃。
炎が横に裂け、鎖が粉砕される。
悪魔の身体が宙に持ち上がり、そのまま塵に変わった。
煙の中で、ダンテは剣を軽く回した。
その動きは、まるで退屈を紛らわせるようだった。
「……何だ、これで終わりか?」
「馬鹿な……祓魔師の一撃でも倒せねぇ奴だぞ」
「あんたの神が休憩してる間、俺がやっといた」
ダンテはリベリオンを背に戻す。
肩口から、白い煙が立ちのぼっていた。
血ではない。焦げた布の匂い。
「名乗っとくか。ダンテだ」
「……聖人みてぇな名前だな」
「皮肉だろ? 俺、悪魔殺しだ」
「そりゃ確かに仕事熱心だな」
ふっと笑いがこぼれた。
炎がまだ床の隙間を舐めている。
けれどその笑いで、ようやく空気が少しだけ落ち着いた。
「あんた、どこから来た」
「質問の順番、間違ってるぜ。ここがどこか、先に教えてくれ」
「……日本だ。地球の片隅」
「悪くねぇ響きだな。地獄の隣町か?」
「近いようなもんだ」
石が崩れる。天井が割れて、月の光が差し込んだ。
しろうは銃を下ろし、男を見た。
全身が焦げ、コートは裂けているのに、立ち姿はまるで舞台の上のようだった。
「お前、何者だ、本当に」
「さっき言ったろ。掃除屋だ」
「随分と荒っぽい掃除だな」
「けど、ピカピカだろ」
しろうが笑った。
その笑いに、ダンテも少しだけ口角を上げた。
教会の中に、ようやく風が通り抜ける。
二人の影が祭壇に並ぶ。
今夜、悪友が生まれた。
⭐︎
教会の奥で、再び封印陣が鳴った。
低く、金属を擦るような音。
血の匂いが強くなる。
先ほど倒した悪魔の残骸が、ゆっくりと蠢き始めていた。
「おいおい、死体のくせに再起動かよ」
ダンテが剣の柄を軽く叩いた。
刃が音を返す。
「再封印が間に合わなかった……!」
「つまり、二回戦ってことだな」
「ふざけてる場合か!」
「俺はいつでも本気だぜ」
封印陣が赤から黒に変わる。
礼拝堂の壁が軋み、祭壇の背後が裂けた。
そこから這い出したのは、無数の腕を持つ影。
かつて祈りを捧げた者たちの“残響”だった。
「悪魔だけじゃねぇ、人の未練も喰ってやがる」
「お前の神様、趣味わりぃな」
「黙れ、集中しろ!」
しろうが聖印を掲げる。
詠唱が始まる。
その声に合わせるように、ダンテが一歩前に出た。
「おい、合図くれ」
「なんの合図だ」
「光るか、揺れるか、どっちかだ。合わせて斬る」
「そんな即興で――」
「俺を信用しろ、神父」
言葉が終わるより早く、
しろうの詠唱が頂点に達した。
白い光。
その瞬間、ダンテが地を蹴った。
足元が砕ける。
リベリオンが弧を描き、光の中心に滑り込む。
斬撃と祈りが重なった。
閃光。
礼拝堂が震えた。
影が吹き飛び、壁に埋め込まれたステンドグラスが粉々に砕ける。
割れた硝子が宙を舞い、光を散らす。
一瞬だけ、そこが美しかった。
「……悪くねぇ呼吸だな」
「うるせぇ、まだ終わってねぇ」
祭壇の奥。
裂け目が再び開く。
巨大な影が立ち上がった。
人でも獣でもない。
教会そのものが形を変え、悪魔の像になろうとしている。
「封印を喰った……?」
「贅沢な食事だな。デザートは俺たちか」
石の巨体が動き出す。
ダンテが銃を抜いた。
連射。
弾丸が石の表面を削るが、再生が早い。
「効かねぇな。聖水持ってねぇのか?」
「あるが、一瓶だけだ」
「じゃ、それをいい感じに使ってくれ」
しろうが瓶を取り出す。
詠唱しながら蓋を開ける。
液体が蒸気に変わり、空中に浮かぶ。
「今だ!」
ダンテが跳ぶ。
瓶を蹴り上げ、その瞬間、銃弾を撃つ。
瓶が砕け、蒸気が爆ぜる。
炎と聖水が混ざり、白い閃光が走った。
「おお、派手だな!」
「お前が派手にしろって言ったんだ!」
「そうだったっけ?」
巨体の肩口に乗り、ダンテがリベリオンを突き立てる。
刃が石を割り、内部の闇を裂く。
そこにしろうの詠唱が重なった。
「汝、穢れし者を――」
「――地獄に帰れ!」
爆発。
巨体が崩れ、光が溢れる。
瓦礫が飛ぶ。
ダンテは空中で姿勢をひねり、
しろうの前に着地した。
「……終わりか?」
「たぶんな」
「たぶんて言うなよ」
「祓魔師は常に仮定で生きるんだよ」
静寂。
崩れた祭壇から煙が上がる。
焼けた木と鉄の匂い。
ダンテはリベリオンを背に戻した。
そして、しろうに視線をやった。
「いいチームじゃねぇか」
「二度と組みたくねぇ」
「そう言うやつほど次も呼ぶ」
「……やれやれだ」
二人の笑いが、崩れた教会に響く。
光が差し込む。
粉塵の中で、
剣の刃がかすかに赤く光った。
⭐︎
夜が、ようやく静まった。
崩れた礼拝堂の瓦礫の上に、光が少しずつ差し込みはじめる。
屋根の穴から射す薄明が、漂う煙を銀色に染めていた。
藤本しろうは背中を壁に預け、深く息を吐いた。
肩口に残った焦げ跡から、じんわりと熱が伝わる。
祓魔銃《ベネディクト》を膝の上に置き、弾倉を抜く。
残弾、二発。
笑うしかない数字だった。
「……これで二度目の死にかけだ。今日はついてねぇ」
その声に、瓦礫の向こうから返事がきた。
「そうか? 俺は結構楽しかったぜ」
振り向くと、ダンテが瓦礫の上に腰を下ろしていた。
片手でリベリオンを支え、もう片方の手で何かを口に運んでいる。
見ると、割れた聖杯の中に酒が入っていた。
「おい、それ……」
「礼拝堂にあったやつ。神のワインってやつか?」
「あれは聖別用だぞ。飲むな」
「悪魔は汚れたもんしか飲まねぇよ」
しろうは呆れたように笑った。
その笑いに釣られるように、ダンテも少し口角を上げた。
風が吹く。
割れたステンドグラスが、地面の上で微かに音を立てた。
「……お前、どこから来た」
「地獄の向こう。まぁ別の世界だ」
「別の世界、ね」
「こっちのルールは、いまだによく分かんねぇな。
でも悪魔の顔はどこも似てる。仕事は変わらねぇ」
「そいつは便利だな」
「お互い様だろ。祓魔師ってのも、似たようなもんだ」
沈黙。
二人の間に、火の消えた香炉の匂いが漂う。
「お前、さっき言ってたな。神の名前を」
「祈りの文句だ。こっちじゃそうしねぇと力が出ねぇ」
「面倒なルールだ」
「お前の剣だって、だいぶインチキだったろ」
「あれは信頼と努力の賜物だ」
「努力って言葉、似合わねぇな」
「褒め言葉だと思っとくよ」
しろうは腰のポーチから、小さな銀のフラスコを取り出した。
中にはバーボン。
古い友人からもらった銘柄だった。
「飲むか」
「喜んで」
ダンテが受け取り、一口飲んだ。
顔をしかめもせず、喉を鳴らす。
「……悪くない。地獄じゃ売ってねぇ味だ」
「地獄は商売下手らしい」
「天国も大概だ」
二人は、崩れた祭壇を見上げた。
朝日がその隙間から差し込んでいる。
「なあ、神父。お前らはなんでそんなに戦う?」
「……理由なんか、考えたことねぇな。
気づいたら銃握って、悪魔撃ってた。
それで誰かが救われるなら、それでいいと思ってる」
「それで満足か?」
「満足したら、終わりだ」
「いい答えだな」
ダンテはフラスコをもう一口飲んで、返した。
「お前は?」
「何が」
「戦う理由だ」
「俺か? ……そうだな」
ダンテはリベリオンの柄を軽く叩いた。
その音が、まるで古い記憶を叩き起こすようだった。
「家族の仇をとって、地獄も掃除して、
そんで今は……まぁ、退屈しのぎだ」
「退屈、ね」
「長く生きると、退屈だけは強敵になる」
「そいつは、祓魔師にも心当たりあるな」
ふたりの笑いが重なった。
静かで、少しだけ本音の混じった笑いだった。
瓦礫の上を、朝の風が通り抜ける。
煙の匂いが少しずつ薄れていく。
「……お前、名前なんだっけ」
「藤本。藤本しろう」
「覚えとく。たぶんな」
「たぶんて言うな」
「忘れた頃にまた会うさ」
ダンテは立ち上がり、外へ向かう。
コートが風を掴んで、裾をはためかせる。
「おい、どこ行く」
「宿もねぇし、散歩でもすっか」
「夜明け前にか」
「夜明け前が一番落ち着くんだよ」
しろうはその背中を見送った。
赤いコートの影が、崩れた扉の向こうで朝日に滲む。
「おい、ダンテ」
「ん?」
「俺、死ぬときゃ笑って死にてぇんだ」
「いい心がけだ」
「お前は?」
「……同じだよ」
ほんの一拍、間があった。
ダンテは振り返らずに手を上げた。
「そのときゃ、笑わせてやるよ」
外の光が強くなる。
鳥の声。
教会の跡に、風だけが残った。
その朝、
ふたりはまだ知らなかった。
この出会いが、後にいくつもの運命を変えることを。