夜の雨は、まるで誰かの呼吸のように静かだった。
修道院の屋根を叩く音が、途切れなく続いている。
蝋燭の火がわずかに揺れ、窓の外では雷が遠く光った。
藤本獅郎は机に向かっていた。
書類の山、封書、未処理の報告書。
その手が、一度止まる。
指先に力が入らない。
わずかに震えた右手を、獅郎は袖で隠した。
掌の奥が熱い。
炎のような、でも血のような感覚。
一瞬だけ目を閉じ、深く息を吐く。
「……またか。ったく、歳でもねぇのにな」
笑ってみせた声は、どこか掠れていた。
そのとき、扉がノックされた。
三度。ためらいのない、鋭い音。
「入れ」
返事の代わりに、雨音が一瞬だけ強まった。
扉が開く。
外の冷気と一緒に、見慣れた赤い影が現れる。
「よう、神父。夜更かしか?」
ダンテ。
濡れたコートの裾から水滴が落ち、床に黒い点を作った。
髪は雨で重く、肩にかかっている。
だがその目だけは、いつもと変わらない――醒めた冗談の色。
「こんな夜に散歩か。趣味悪いな」
「眠れなくてな。雷の音がいい子守歌になると思って」
「お前の寝方、地獄式だな」
「ああ。夢見は最悪だが」
ダンテは勝手に部屋へ入り、椅子に腰を下ろした。
背もたれに片足を乗せ、濡れた銃を外して机の上に置く。
金属の音が静寂を裂いた。
「仕事の邪魔か?」
「いや、どうせ朝まで片付かねぇ」
「そう言いながら、いつも片付いてんじゃねぇか」
「それは祈りみたいなもんだよ。終わらねぇけど、やめられねぇ」
獅郎は笑って立ち上がり、棚から古い布を取り出した。
ダンテの髪を見て、ため息をつく。
「タオル、使え。風邪ひくぞ」
「悪魔殺しが風邪ひいたら笑えねぇな」
「悪魔も鼻水は出るらしいぞ」
「地獄は花粉症の季節か?」
「お前、そういう話どこで仕入れてくるんだ」
二人の間に、小さな笑いが落ちた。
それだけで、部屋の温度が少しだけ戻る。
獅郎は机の上の紙束をひとまとめにして脇に寄せた。
ダンテの視線が、無造作にその手を追う。
袖口から覗いた皮膚が、かすかに赤く光っていた。
ほんの一瞬のことだった。
けれど、見逃す男ではなかった。
「……疲れてんのか?」
「いつものことだ」
「違ぇな。前より燃えてる」
「神父が炎上したってニュースには早ぇぞ」
「冗談の切れ味が悪い」
獅郎は息を止めた。
胸の奥で、何かが軋む。
それでも表情は崩さない。
「なあ、ダンテ。お前、帰る方法は見つかりそうか」
「さっぱりだ。こっちの世界、出口がやたら厳重でな」
「……そうか」
「けど、あの青い炎の坊主たち、面白ぇことになりそうだろ?」
「ああ。あいつらは、どこまで行けるか分からねぇ」
「だったら見届けてからでもいいかもな。帰るのは」
沈黙。
雨の音が、また強くなる。
蝋燭の火がゆらめき、二人の影を壁に映した。
獅郎は、棚の上のボトルを見た。
琥珀色の液体。封は開いていない。
ダンテがそれに気づく。
「……飲む気か?」
「神父が夜に飲んじゃ悪いか」
「いいねぇ。そういう背徳、嫌いじゃねぇ」
獅郎は笑い、ボトルを手に取った。
栓を抜く音が、雨音の合間に響いた。
「グラスは一個しかねぇぞ」
「なら、回し飲みだ」
「神父の口つけた酒なんて、祓われちまいそうだ」
「安心しろ、俺の神は酔って寝てる」
二人は笑った。
グラスに注がれた液体が、蝋燭の光を揺らめかせる。
ダンテがその色を覗き込み、ぼそりと言った。
「……地獄にも、こんな色はねぇ」
獅郎は返さなかった。
ただ、一口飲んで、静かに目を閉じた。
雨がまだ、降っている。
どこかで鐘が鳴った気がした。
⭐︎
雨は、まだ止まなかった。
それでもさっきより音が柔らかい。
屋根を打つ雫の調子が、まるで古いジャズのリズムみたいに落ち着いている。
獅郎はランプの芯を調整しながら、
机の上のグラスをひとつ指先で回した。
琥珀色の液体がゆっくりと揺れ、光を歪ませる。
「悪くねぇ。少し煙たいが、落ち着く味だ」
ダンテがそう言ってグラスを持ち上げた。
指先に火薬の匂いが残っている。
それを気にせず、彼はまた一口飲む。
「神父の酒にしては、やけに強いな」
「弱い酒は信仰が薄れる」
「説教臭ぇな」
「お前が悪魔臭ぇだけだ」
二人は笑う。
ただし、声を立てずに。
笑いがすぐに沈黙に変わる。
外では風が通り過ぎる。
窓枠がきしみ、木の匂いが立つ。
獅郎は煙草を取り出した。
火をつける前に、一瞬ためらう。
その手の震えを、ダンテは見逃さなかった。
「……右手、どうした」
「仕事のやりすぎだ」
「冗談言うとき、お前は目を逸らす」
獅郎は何も言わなかった。
煙草の先に火を灯す。
白い煙が立ちのぼり、部屋の空気を染める。
「ダンテ、お前さ。もし悪魔が人間に成りすましてたらどうする?」
「顔面パンチ入れて、口が割れるか確かめる」
「……そいつが、誰かを守ろうとしてたら?」
「そいつの勝手だろ」
「勝手、ね」
煙がふたりの間にたゆたう。
その白さに隠れるようにして、獅郎はわずかに笑った。
「悪魔が神父の前でそんなこと言うとはな」
「お互い職業病だ」
雨が強くなる。
雷鳴が少し遠くで響いた。
ダンテは背を伸ばし、グラスの底を指で弾いた。
小さな音。
その音に合わせて、何かを言おうとして――やめた。
「……言えよ」
「言ったら、楽になるか?」
「なるだろうさ」
「俺はそういう楽さは嫌いなんだ」
獅郎は頷く。
どちらも分かっている。
この夜の意味を。
言葉にすれば、崩れてしまうものを。
「お前、まだ帰るつもりか?」
「ああ。俺の世界には、まだ片付けてねぇ借りがある」
「借りねぇ……地獄にツケでもあるのか?」
「兄貴にだよ」
「……そうか」
グラスの中で、氷が溶けていた。
もう冷たさはない。
ぬるくなった酒を飲み干し、ダンテは口の端を上げた。
「でもな、今夜は悪くねぇ」
「祓魔師と悪魔殺しの酒盛りだぞ。罰当たりもいいとこだ」
「罰ってのは、案外気の利いたご褒美かもな」
ふたりの視線が一瞬だけ重なった。
その短い間に、無数の言葉が交わされたような気がした。
「……お前、次はどこ行く」
「東の方。神話の残骸を漁ってみる」
「日本神話か。面倒な連中だぞ」
「だろうな。けど退屈はしねぇ」
獅郎が笑った。
その笑いに、少しの寂しさが滲む。
「ああ、退屈だけは罪だ」
「それは祓魔師の信条か?」
「生きてる証拠だ」
窓の外、稲光が夜空を裂いた。
その光が一瞬、獅郎の瞳に映る。
青い――炎のような、淡い光。
ダンテは何も言わなかった。
ただ、視線をグラスの底に落とした。
「……なあ、シロー」
「なんだ」
「もしお前が悪魔になったら、俺が祓ってやる」
「へぇ、神父の代行ってわけか」
「祈りは苦手だからな。弾丸で済ませる」
「そいつは助かる」
また、笑い。
だが今度の笑いは、どこか遠くを見ていた。
⸻
蝋燭の火が小さくなり、
窓の外の雨がようやく弱まる。
獅郎は机の上のボトルを見た。
もう半分も残っていない。
「……どうせ明日は仕事か?」
「いや、出発だ」
「もうか」
「ああ。早い方がいい」
獅郎は黙って頷く。
机の上に、短く折られた聖骸布の切れ端が置かれていた。
それを指先で撫でながら、静かに言う。
「またどこかで会うだろうな」
「お前の神が許せばな」
「俺の神はお前より寛容だ」
「そりゃ結構」
蝋燭の炎がふっと揺れた。
最後の火が消える瞬間、
ふたりの顔だけが薄明の中に残る。
その沈黙の奥で、何かが確かに繋がった。
⭐︎
夜が少しずつ薄れていく。
修道院の屋根に打ちつけていた雨が止み、
空の端が、灰のように明るくなり始めていた。
部屋の中には、まだ酒の匂いが残っている。
テーブルの上に、空になったボトルと二つのグラス。
蝋燭は短く、煙を吐きながら消えていた。
ダンテは椅子にもたれたまま、
窓の外を見ていた。
まだ濡れた髪を手でかき上げ、
肩越しに振り返る。
「……朝か。早いもんだな」
獅郎は机に肘をつき、手を組んでいた。
瞼の下に少しだけ疲れが滲む。
けれど、表情は穏やかだった。
「人間の夜は短い」
「悪魔の夜は長ぇ」
「どっちがいい」
「どっちも退屈だ」
ダンテの声は低く、乾いていた。
グラスを指で弾く。
薄い音が、静けさの中で消えていく。
獅郎は立ち上がり、窓を開けた。
冷たい風が流れ込み、
酒と煙の匂いを連れ去っていく。
遠くで鳥の声。
新しい朝の気配。
「お前、行くんだな」
「ああ。ここに長居すると、腐りそうだ」
「確かに。お前のコート、もう匂うぞ」
「地獄仕込みの香水だ。女ウケは最悪だが」
「神父ウケも悪い」
「それは何よりだ」
ふたりの笑いが重なった。
軽い。
でも、どこかに寂しさの影がある。
獅郎は机の上の切れ端――聖骸布を手に取る。
指先でその布の感触を確かめるようにして言った。
「これを、お前に渡しておく」
「いいのか?」
「俺にはもう、効かねぇさ」
「……そうか」
ダンテは受け取り、軽く握った。
それをポケットに入れる。
短くうなずいた。
「もし、そっちの世界に戻れたら――」
「ああ、墓にでも供えてやるよ」
「縁起でもねぇ」
「神父のくせに縁起担ぐのか」
「俺の仕事、祈りと現実の間だ」
外の風がまた吹く。
窓辺のカーテンが揺れ、
光が二人の顔を照らした。
ダンテは立ち上がる。
リベリオンを背に戻し、
床に転がっていたコートを肩にかける。
その動きに、長い旅の癖が染みついている。
「……なあ、シロー」
「なんだ」
「お前、死ぬとき笑って死にてぇって言ってたよな」
「ああ」
「そんときゃ、俺が笑わせてやる」
「頼もしい悪友だ」
「そっちもな」
ダンテが歩き出す。
扉を開けると、外の空気が一気に流れ込む。
夜明け前の空はまだ暗く、
それでも東の地平がうっすらと白んでいた。
獅郎はその背中を見送りながら、
煙草を取り出した。
火をつける。
一度吸って、吐く。
「おい、ダンテ」
振り返る影。
赤いコートが、光を受けて燃えるようだった。
「どうした」
「――また飲もうぜ」
「生きてたらな」
「俺はしぶといぞ」
「知ってる」
ダンテが笑った。
それはいつも通りの軽口の笑み。
けれど、その目の奥にだけ、
言葉にならない約束が光っていた。
彼は軽く手を上げると、
そのまま歩き出した。
靴音が濡れた石畳を叩く。
遠ざかるたび、雨の匂いが薄れていく。
獅郎はしばらく立ったまま、
窓からその背を見送った。
やがて小さく呟く。
「……まったく、しょうもねぇ奴だ」
微笑む。
煙草の火が、短く光って消える。
朝が来た。
修道院の鐘が一度だけ鳴った。
空は灰色から薄い青に変わる。
テーブルの上に残ったグラスの底には、
ひとしずくの琥珀が光っていた。
――そして、その夜は二度と戻らなかった。