Rebellion Cross   作:あめんぼユカイ

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第1話 The Last Drink

夜の雨は、まるで誰かの呼吸のように静かだった。

修道院の屋根を叩く音が、途切れなく続いている。

蝋燭の火がわずかに揺れ、窓の外では雷が遠く光った。

 

藤本獅郎は机に向かっていた。

書類の山、封書、未処理の報告書。

その手が、一度止まる。

指先に力が入らない。

 

わずかに震えた右手を、獅郎は袖で隠した。

掌の奥が熱い。

炎のような、でも血のような感覚。

一瞬だけ目を閉じ、深く息を吐く。

 

「……またか。ったく、歳でもねぇのにな」

 

笑ってみせた声は、どこか掠れていた。

 

そのとき、扉がノックされた。

三度。ためらいのない、鋭い音。

 

「入れ」

 

返事の代わりに、雨音が一瞬だけ強まった。

扉が開く。

外の冷気と一緒に、見慣れた赤い影が現れる。

 

「よう、神父。夜更かしか?」

 

ダンテ。

濡れたコートの裾から水滴が落ち、床に黒い点を作った。

髪は雨で重く、肩にかかっている。

だがその目だけは、いつもと変わらない――醒めた冗談の色。

 

「こんな夜に散歩か。趣味悪いな」

「眠れなくてな。雷の音がいい子守歌になると思って」

「お前の寝方、地獄式だな」

「ああ。夢見は最悪だが」

 

ダンテは勝手に部屋へ入り、椅子に腰を下ろした。

背もたれに片足を乗せ、濡れた銃を外して机の上に置く。

金属の音が静寂を裂いた。

 

「仕事の邪魔か?」

「いや、どうせ朝まで片付かねぇ」

「そう言いながら、いつも片付いてんじゃねぇか」

「それは祈りみたいなもんだよ。終わらねぇけど、やめられねぇ」

 

獅郎は笑って立ち上がり、棚から古い布を取り出した。

ダンテの髪を見て、ため息をつく。

 

「タオル、使え。風邪ひくぞ」

「悪魔殺しが風邪ひいたら笑えねぇな」

「悪魔も鼻水は出るらしいぞ」

「地獄は花粉症の季節か?」

「お前、そういう話どこで仕入れてくるんだ」

 

二人の間に、小さな笑いが落ちた。

それだけで、部屋の温度が少しだけ戻る。

 

獅郎は机の上の紙束をひとまとめにして脇に寄せた。

ダンテの視線が、無造作にその手を追う。

袖口から覗いた皮膚が、かすかに赤く光っていた。

 

ほんの一瞬のことだった。

けれど、見逃す男ではなかった。

 

「……疲れてんのか?」

「いつものことだ」

「違ぇな。前より燃えてる」

「神父が炎上したってニュースには早ぇぞ」

「冗談の切れ味が悪い」

 

獅郎は息を止めた。

胸の奥で、何かが軋む。

それでも表情は崩さない。

 

「なあ、ダンテ。お前、帰る方法は見つかりそうか」

「さっぱりだ。こっちの世界、出口がやたら厳重でな」

「……そうか」

「けど、あの青い炎の坊主たち、面白ぇことになりそうだろ?」

「ああ。あいつらは、どこまで行けるか分からねぇ」

「だったら見届けてからでもいいかもな。帰るのは」

 

沈黙。

雨の音が、また強くなる。

蝋燭の火がゆらめき、二人の影を壁に映した。

 

獅郎は、棚の上のボトルを見た。

琥珀色の液体。封は開いていない。

ダンテがそれに気づく。

 

「……飲む気か?」

「神父が夜に飲んじゃ悪いか」

「いいねぇ。そういう背徳、嫌いじゃねぇ」

 

獅郎は笑い、ボトルを手に取った。

栓を抜く音が、雨音の合間に響いた。

 

「グラスは一個しかねぇぞ」

「なら、回し飲みだ」

「神父の口つけた酒なんて、祓われちまいそうだ」

「安心しろ、俺の神は酔って寝てる」

 

二人は笑った。

グラスに注がれた液体が、蝋燭の光を揺らめかせる。

ダンテがその色を覗き込み、ぼそりと言った。

 

「……地獄にも、こんな色はねぇ」

 

獅郎は返さなかった。

ただ、一口飲んで、静かに目を閉じた。

 

雨がまだ、降っている。

どこかで鐘が鳴った気がした。

 

⭐︎

 

雨は、まだ止まなかった。

それでもさっきより音が柔らかい。

屋根を打つ雫の調子が、まるで古いジャズのリズムみたいに落ち着いている。

 

獅郎はランプの芯を調整しながら、

机の上のグラスをひとつ指先で回した。

琥珀色の液体がゆっくりと揺れ、光を歪ませる。

 

「悪くねぇ。少し煙たいが、落ち着く味だ」

 

ダンテがそう言ってグラスを持ち上げた。

指先に火薬の匂いが残っている。

それを気にせず、彼はまた一口飲む。

 

「神父の酒にしては、やけに強いな」

「弱い酒は信仰が薄れる」

「説教臭ぇな」

「お前が悪魔臭ぇだけだ」

 

二人は笑う。

ただし、声を立てずに。

笑いがすぐに沈黙に変わる。

 

外では風が通り過ぎる。

窓枠がきしみ、木の匂いが立つ。

獅郎は煙草を取り出した。

火をつける前に、一瞬ためらう。

その手の震えを、ダンテは見逃さなかった。

 

「……右手、どうした」

「仕事のやりすぎだ」

「冗談言うとき、お前は目を逸らす」

 

獅郎は何も言わなかった。

煙草の先に火を灯す。

白い煙が立ちのぼり、部屋の空気を染める。

 

「ダンテ、お前さ。もし悪魔が人間に成りすましてたらどうする?」

「顔面パンチ入れて、口が割れるか確かめる」

「……そいつが、誰かを守ろうとしてたら?」

「そいつの勝手だろ」

「勝手、ね」

 

煙がふたりの間にたゆたう。

その白さに隠れるようにして、獅郎はわずかに笑った。

 

「悪魔が神父の前でそんなこと言うとはな」

「お互い職業病だ」

 

雨が強くなる。

雷鳴が少し遠くで響いた。

 

ダンテは背を伸ばし、グラスの底を指で弾いた。

小さな音。

その音に合わせて、何かを言おうとして――やめた。

 

「……言えよ」

「言ったら、楽になるか?」

「なるだろうさ」

「俺はそういう楽さは嫌いなんだ」

 

獅郎は頷く。

どちらも分かっている。

この夜の意味を。

言葉にすれば、崩れてしまうものを。

 

「お前、まだ帰るつもりか?」

「ああ。俺の世界には、まだ片付けてねぇ借りがある」

「借りねぇ……地獄にツケでもあるのか?」

「兄貴にだよ」

「……そうか」

 

グラスの中で、氷が溶けていた。

もう冷たさはない。

ぬるくなった酒を飲み干し、ダンテは口の端を上げた。

 

「でもな、今夜は悪くねぇ」

「祓魔師と悪魔殺しの酒盛りだぞ。罰当たりもいいとこだ」

「罰ってのは、案外気の利いたご褒美かもな」

 

ふたりの視線が一瞬だけ重なった。

その短い間に、無数の言葉が交わされたような気がした。

 

「……お前、次はどこ行く」

「東の方。神話の残骸を漁ってみる」

「日本神話か。面倒な連中だぞ」

「だろうな。けど退屈はしねぇ」

 

獅郎が笑った。

その笑いに、少しの寂しさが滲む。

 

「ああ、退屈だけは罪だ」

「それは祓魔師の信条か?」

「生きてる証拠だ」

 

窓の外、稲光が夜空を裂いた。

その光が一瞬、獅郎の瞳に映る。

青い――炎のような、淡い光。

 

ダンテは何も言わなかった。

ただ、視線をグラスの底に落とした。

 

「……なあ、シロー」

「なんだ」

「もしお前が悪魔になったら、俺が祓ってやる」

「へぇ、神父の代行ってわけか」

「祈りは苦手だからな。弾丸で済ませる」

「そいつは助かる」

 

また、笑い。

だが今度の笑いは、どこか遠くを見ていた。

 

 

蝋燭の火が小さくなり、

窓の外の雨がようやく弱まる。

 

獅郎は机の上のボトルを見た。

もう半分も残っていない。

 

「……どうせ明日は仕事か?」

「いや、出発だ」

「もうか」

「ああ。早い方がいい」

 

獅郎は黙って頷く。

机の上に、短く折られた聖骸布の切れ端が置かれていた。

それを指先で撫でながら、静かに言う。

 

「またどこかで会うだろうな」

「お前の神が許せばな」

「俺の神はお前より寛容だ」

「そりゃ結構」

 

蝋燭の炎がふっと揺れた。

最後の火が消える瞬間、

ふたりの顔だけが薄明の中に残る。

 

その沈黙の奥で、何かが確かに繋がった。

 

⭐︎

 

夜が少しずつ薄れていく。

修道院の屋根に打ちつけていた雨が止み、

空の端が、灰のように明るくなり始めていた。

 

部屋の中には、まだ酒の匂いが残っている。

テーブルの上に、空になったボトルと二つのグラス。

蝋燭は短く、煙を吐きながら消えていた。

 

ダンテは椅子にもたれたまま、

窓の外を見ていた。

まだ濡れた髪を手でかき上げ、

肩越しに振り返る。

 

「……朝か。早いもんだな」

 

獅郎は机に肘をつき、手を組んでいた。

瞼の下に少しだけ疲れが滲む。

けれど、表情は穏やかだった。

 

「人間の夜は短い」

「悪魔の夜は長ぇ」

「どっちがいい」

「どっちも退屈だ」

 

ダンテの声は低く、乾いていた。

グラスを指で弾く。

薄い音が、静けさの中で消えていく。

 

獅郎は立ち上がり、窓を開けた。

冷たい風が流れ込み、

酒と煙の匂いを連れ去っていく。

遠くで鳥の声。

新しい朝の気配。

 

「お前、行くんだな」

「ああ。ここに長居すると、腐りそうだ」

「確かに。お前のコート、もう匂うぞ」

「地獄仕込みの香水だ。女ウケは最悪だが」

「神父ウケも悪い」

「それは何よりだ」

 

ふたりの笑いが重なった。

軽い。

でも、どこかに寂しさの影がある。

 

獅郎は机の上の切れ端――聖骸布を手に取る。

指先でその布の感触を確かめるようにして言った。

 

「これを、お前に渡しておく」

「いいのか?」

「俺にはもう、効かねぇさ」

「……そうか」

 

ダンテは受け取り、軽く握った。

それをポケットに入れる。

短くうなずいた。

 

「もし、そっちの世界に戻れたら――」

「ああ、墓にでも供えてやるよ」

「縁起でもねぇ」

「神父のくせに縁起担ぐのか」

「俺の仕事、祈りと現実の間だ」

 

外の風がまた吹く。

窓辺のカーテンが揺れ、

光が二人の顔を照らした。

 

ダンテは立ち上がる。

リベリオンを背に戻し、

床に転がっていたコートを肩にかける。

その動きに、長い旅の癖が染みついている。

 

「……なあ、シロー」

「なんだ」

「お前、死ぬとき笑って死にてぇって言ってたよな」

「ああ」

「そんときゃ、俺が笑わせてやる」

「頼もしい悪友だ」

「そっちもな」

 

ダンテが歩き出す。

扉を開けると、外の空気が一気に流れ込む。

夜明け前の空はまだ暗く、

それでも東の地平がうっすらと白んでいた。

 

獅郎はその背中を見送りながら、

煙草を取り出した。

火をつける。

一度吸って、吐く。

 

「おい、ダンテ」

 

振り返る影。

赤いコートが、光を受けて燃えるようだった。

 

「どうした」

「――また飲もうぜ」

「生きてたらな」

「俺はしぶといぞ」

「知ってる」

 

ダンテが笑った。

それはいつも通りの軽口の笑み。

けれど、その目の奥にだけ、

言葉にならない約束が光っていた。

 

彼は軽く手を上げると、

そのまま歩き出した。

靴音が濡れた石畳を叩く。

遠ざかるたび、雨の匂いが薄れていく。

 

獅郎はしばらく立ったまま、

窓からその背を見送った。

やがて小さく呟く。

 

「……まったく、しょうもねぇ奴だ」

 

微笑む。

煙草の火が、短く光って消える。

朝が来た。

 

修道院の鐘が一度だけ鳴った。

空は灰色から薄い青に変わる。

テーブルの上に残ったグラスの底には、

ひとしずくの琥珀が光っていた。

 

――そして、その夜は二度と戻らなかった。

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