夜、雨上がりの道路。
アスファルトの上を、ぬるく光る街灯の反射がゆっくりと滑っていた。
防衛任務の帰り、二宮匡貴は傘も差さず、濡れた肩のまま歩いていた。
(……腹が減ったな)
静かな独白。
夜間の防衛任務は長引き、気づけば日付が変わりかけている。
部隊員たちはすでに解散した。
二宮は一人、街の明かりを見上げていた。
近くの商店街はシャッター通り。
コンビニの看板だけが、蛍光色に浮いている。
(コンビニ弁当は……違うな。冷える)
彼はわずかに首を傾げた。
そして、その視線の端に――ピンク色のネオン看板があった。
「中華ファミレス 龍園」
どこにでもあるようなチェーン店。
窓際のテーブルに、誰もいない。
厨房の奥では、鉄鍋がかすかに鳴っている。
(……あそこ、まだやってるのか)
立ち止まる。
少しだけ考える。
そして、ごく自然に足がそちらへ向かった。
ドアを押すと、ベルが鳴る。
店内は温かく、油と酢の混じった香りが迎えてくる。
(悪くない匂いだ)
視線を動かすと、壁に貼られた期間限定メニュー。
「餃子フェア実施中!」
赤文字が無駄に主張していた。
(フェア、か……)
無表情のまま、ゆっくりと席につく。
一人客用の四人掛け。
コップの水が置かれる音が、店内で妙に響く。
(ここで四人分の席を使うのは……悪いか? いや、客は俺だけだ。問題ない)
メニューを開く。
写真のチャーハンが湯気を上げている。
隣には半ラーメンセット、餃子三種盛り、唐揚げ増量キャンペーン。
(こういうのは迷うと後悔する)
(五目チャーハン……か、いや。普通のが一番味のバランスがいい)
(餃子は焼きだ。水餃子は今日の気分じゃない)
ページをめくるたび、妙に真剣な顔で検討する。
もし誰かが見ていたら、「任務報告書を精査しているのか」と思うだろう。
やがて、軽くメニューを閉じる。
(よし、決まりだ)
手を上げる。
無言のまま、注文を告げる。
店員が控えめに頷く。
再び静寂。
窓の外、夜風に吹かれた看板の光がゆらいでいる。
B級上位の射手、二宮匡貴はその光をじっと見つめながら、ただ一言だけ思った。
(……この時間に、餃子は少し重いかもしれない)
それでも、彼はメニューを再び開かない。
決めたら動かない――それが二宮匡貴のやり方だった。
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湯気。
それが最初に目に入った。
厨房から運ばれてきた皿が、カウンターを越えてテーブルへ滑る。
チャーハン。餃子。スープ。
完璧な三角配置。
一瞬、戦術的な布陣図にも見えた。
(……美しい配置だな)
レンゲを取る。
わずかに持ち手の角度を調整。
利き手の指先が軽く触れた瞬間、彼は思った。
(滑りにくい。手汗はない。条件は良好だ)
スープを一口。
塩気が控えめ。だが、うま味が後を引く。
(スープ単体での完成度は高い。だが、主菜の脂とぶつかる可能性がある。検証が必要だ)
次にチャーハン。
レンゲですくい、米粒の粒立ちを確認。
ひと口。
咀嚼。無表情。
数秒後、小さく頷く。
(パラパラ系……ではない。中間だ。ややしっとり。なるほど……家庭寄り)
何を納得しているのかは誰にもわからない。
ただ、彼の中ではすでに分析が完了していた。
餃子を箸でつまむ。
油膜の光沢。焦げ目の具合。
「標準的」という言葉を体現している見た目だ。
(この焼き加減……悪くない)
カリ、と音。
餡が熱い。
わずかに舌の先が刺激を受ける。
(熱い……いや、適温だ)
無表情のまま水を一口。
テーブルの上にはわずかな湯気と静寂だけ。
BGMのジャズピアノがゆるやかに流れ、
その音に合わせるように彼は黙々と食べ続ける。
(餃子三個。チャーハン中盛。スープ小。バランスは取れている)
(ただ……酸味が欲しいな)
視線が自然にテーブル奥の調味料コーナーへ。
酢、醤油、ラー油。
彼は一瞬迷い、酢を手に取った。
(この手の餃子は、酢を加えると一気に表情が変わる)
小皿に静かに注ぎ、箸で軽く混ぜる。
沈黙。
その手つきは、もはや料理番組の講師。
誰も見ていないのに、完璧。
(……理想的な酸度だ)
再び餃子を一つ。
今度はゆっくり、慎重に。
噛む。
間。
呼吸。
(整ったな……)
表情は変わらない。
だが、その内側では、明確な満足があった。
しばらくして、チャーハンが終わる。
皿の隅に米粒ひとつ残さない。
完璧な食事の痕跡。
(完食。速度、味、満足度、いずれも平均以上。悪くない夜だ)
レンゲをそっと置く。
テーブルの上に軽く手を置き、
二宮は一度だけ深く息をついた。
(……胃が落ち着く。この時間にこの量、正解だったな)
その瞬間、店のドアが開く音。
夜風が入る。
一瞬だけ、チャーハンの香りが風に溶けた。
彼はちらりと視線を上げた。
客はいない。
風が揺らしただけだった。
(……風か)
再び正面を向き、水を飲み干す。
氷の音がカラン、と鳴った。
そして、彼は思った。
(やはり餃子は、強い)
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伝票を取る。
裏返して置く。
几帳面に。
角がテーブルの縁と平行になるように。
(こういう整いは、気分がいい)
立ち上がる。
椅子が床をこする小さな音。
厨房の奥から、金属の音と油のはぜる音。
誰も話さない。
客もいない。
時間が止まったような夜。
レジの前で、会計を済ませる。
店員の「ありがとうございました」という声が、
少しだけ眠そうに響いた。
二宮は短く頷く。
何も言わない。
ただそれだけで充分だった。
(……接客も悪くないな)
自動ドアを出ると、冷たい夜風。
さっきまでの油の香りが、急に遠のく。
街灯の光が水たまりに反射して、
ネオンの赤がゆらいでいた。
歩き出す。
足音だけが響く。
どこにも急ぐ理由はない。
(……餃子の酢、少し強かったかもしれない)
(いや、あれくらいが正解だ)
小さく息を吐く。
夜気が白く散る。
(結局、こういう時間が一番落ち着くな)
思考はいつも通り冷静。
だが、心の奥のどこかが、
ほんの少しだけ温かい。
空を見上げる。
雲の切れ間に星が一つ。
雨上がりの空気に、街の匂いが混ざっている。
(明日は……昼前にミーティングか)
(早く寝るか)
淡々とした結論。
だが、帰り道の足取りはわずかに軽かった。
ビルの陰を抜け、遠くにボーダー本部の灯が見える。
彼は足を止めずに、まっすぐ歩いた。
(次は……洋食でもいいな)
その呟きは、夜風に溶けた。
中華ファミレス「龍園」のネオンが、
背後でふっと消える。
二宮匡貴は振り返らない。
ただ静かに、
無言のまま夜の街に消えていった。