ルートTって事で許してクレメンス
008
北白蛇神社。かつて蛇の怪異の神が祀られ、僕が高校三年生の時の冬に地獄のような惨劇の舞台となったその場所は、初春の冴え返るような空気の中で、驚くほど静かに佇んでいた。
階段を一段一段踏み締めるたびに、エジプトの熱砂や曲直瀬大学での気まずい人間関係の澱が、少しずつ足元から剥がれ落ちていくような気がした。
頭を冷やしに行けというひたぎの言葉に従って、実家のある直江津へと帰郷した僕は、気がつけばこの寂れた山頂の境内に足を運んでいた。
まだ山肌には、溶け残った雪が斑点のように白く張り付いている。
賽銭箱の前に立ち、小銭を放り込んで、二礼二拍手一礼。目を閉じ、静かに手を合わせる。
願うのは、世界平和というようなオプティマス・プライム級の大言壮語ではなく、ただ僕の周りの不器用な女の子たちが、これ以上傷つかずに穏やかに暮らせますように、という、ただそれだけの、ありふれた、けれど今の僕にとっては一番の難題だった。
「はぁ……」
目を開け、大きなため息を吐き出しながら振り返る。
その瞬間、境内の拝殿の陰から、ひょこりとツインテールが飛び出してきた。見覚えのある、大きすぎるピンク色のリュックサック。
八九寺真宵だ。
八九寺真宵大明神だ。
ううむ。どうすべきだろうか。
この前の騒動でここを訪れた際には、諸事情あって八九寺は顔を出してくれなかった。
キリスト教の教会の懺悔室みたく、賽銭箱越しの相談だった。
しかし、今回みたいに人が真剣に悩んでいる時にしっかりと目を見て話を聞いてくれないというのは、ちょっとどうなのだろうか。
親しき仲にも礼儀あり、である。
やっぱり、こういう重要な相談はダイレクトにコンタクトをとることが大事だと僕は思うのである。
話をする時は顔を合わせる。これが大事。
八九寺も、まだ就任して1年くらいしか経っていない新米神様なんだ。
優しく教え諭してやるのも年長者の務めだろう。
そうと来れば話は早い。
その場で準備体操を済ませ、僕は加速しやすい体勢をとる。陸上競技における、クラウチングスタートの構えだ。さあ行こう。
準備はいいか?
……3、2、1、――せーのっ。
「はちくじいいいいいいいッ!」
「ぎゃああああああああ!?」
僕は考えるより先に突撃し、八九寺真宵の小さな頭をこれでもかと抱きしめて、そのツインテールをプロペラのように振り回した。
「痛い!痛いです阿良々木さん! いきなり何なんですか!相変わらず再会して3秒で通報レベルのセクハラに移行するその手際、もはや職人技を通り越して国家資格を剥奪されるべきレベルですよ!」
「うるさい! こっちはこの1ヶ月間、老倉との気まずい空気のせいで合法的な幼馴染スキンシップすら完全に断たれてたんだよ! いわば重度の少女成分不足、『少女不十分』なんだ! 補給させろ!構わせろ!」
「老倉さんに露骨に避けられている理由が、今の一言に全て凝縮されている気がします! 自業自得じゃないですか!」
「自業自得でも何でも良いよ!もう離さないからな、八九寺!さあ、もっと抱きつかせろ、もっと構わせろ、もっと愛させろ!」
「ぎゃああああああああああああああああ!」
「がうっ!」
八九寺が僕の手に噛み付く。
蝸牛は舌にも歯があるとは聞くけども、八九寺の場合は普通に生えてる歯だけで猛烈に痛かった。
「痛い痛い痛い!何すんだこのガキ!」
と、まあ。何すんだも、痛いのも。
全くもって、いつも通りの僕達だった。
いや本当、神様相手に何やってんだろうね僕?
神罰が下るぞ。神罰が。
ひとしきり暴れた後、僕たちは拝殿の階段に並んで腰を下ろした。
八九寺はリュックサックを膝の上に置き、短い足をパタパタと揺らしながら、僕をじっと見つめてくる。
「ふぅ。いつにも増して、いきなりどうしたんですか?阿良々々々々々々々木さん」
彼女はいつものように、迷いなくその小さな唇を機関銃のように震わせて見せた。
「八九寺、人の名前を『打』を連打してそうな某楽曲、もといそれを元にした某MADみたいに呼ぶな。僕の名前は阿良々木だ」
「失礼、噛みました」
「違う。わざとだ」
「かみまみた!」
「わざとじゃない!?」
「構いました」
「最初に構ったのは僕なんだけどな……」
僕はガシガシと頭を掻きながら、彼女の隣へと歩み寄り、どさりと腰を下ろした。
手元にあるミスドの大きな紙袋から、甘いチョコレートと砂糖の香りがふわりと漂う。
「おやおや。大学生活という名のモラトリアムを満喫しているかと思えば、随分と景気の悪い顔をして、おまけに大量のドーナツを抱えて、こんな寂れた神社に何のご用ですか? もしかして、また戦場ヶ原さんに手ひどく振られて、山にこもって出家でもされるおつもりですか?」
八九寺は、小さな人差し指を僕の頬に突きつけながら、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべた。
「振られてないし、出家もしない。むしろ、ひたぎの勧めで、ちょっと頭を冷やしに帰ってきたんだよ。……老倉のことでさ」
「ほう、あの数学の化身にして、エジプトの鋼鉄決戦を生き延びたという、あの凄絶な幼馴染さんですか」
さすがは直江津の裏事情に通じる迷子だ。老倉がトランスフォーマーの記憶を残して帰国したことも、すでに把握しているらしい。
僕は改めて今の状況を八九寺に説明した。彼女の中で僕が『怨敵』であると同時に『戦友』になりつつあるということ。その上で、今回の件で再び関係が悪化してること、等々。
「――という訳なんだよ」
「ほうほう。せっかく関係が改善されたと思ったら、復縁騒動でまた傷が入って気まずいと」
「ああ。教えてくれ、八九寺大明神。僕はどうすれば、老倉の傷を広げずに、元の『まともな幼馴染』に戻れるんだ?」
「……そうですね、答えは簡単です。――戻ろうとしないことです」
「え……?」
意外すぎる八九寺の言葉に、僕は思わず彼女の顔を凝視した。戻ろうとしない?
それじゃあ、今の気まずい関係のままでいろってことか?
「ああ。勘違いしないでくださいね。見捨てろと言っているのではありません。老倉さんにとって、過去の『歪んだ幼馴染』の関係は、一度エジプトの地で粉々に砕け散ったのです。それを無理に接着剤でくっつけて元通りにしようとしても、歪なヒビが入ったままで、いつかまた些細な衝撃で壊れてしまいます。だったら、やるべきことは一つでしょう」
八九寺は、ミスドの紙袋からポン・デ・リングを一つ、器用に小さな指先で摘み上げると、それを僕の目の前に突きつけた。
「新しく、作り直すのですよ。過去のしがらみも、怪異の恐怖も関係ない、ただの『大学のクラスメイト』として、あるいは『お隣さん』としての、新しい関係性を、ゼロから、一歩ずつ。彼女の心が、その新しい日常の数式に慣れるまで、あなたはただ、適度な距離を保って、静かに隣に座っていればいいのです」
「新しい、日常の数式か……」
だが、そう感慨深く呟く僕を他所に、八九寺は別の話題に切り替えた。
「しかし、世の中何が起こるか分かったものではないですね。トランスフォーマーですか。私はG1の『トリプルチェンジャーの反乱』とか好きでしたが」
「この二次創作で一番言っちゃいけないセリフ言っちゃったよ、この子! 本来アニメコンテンツとしてのトランスフォーマーはこの世界に存在しないんだぞ!」
僕は拝殿の階段から文字通り転げ落ちそうになりながら、神様に向かって激しいツッコミを飛ばした。
何を楽しそうにオタク知識を披露しているんだ、この新米神様は。
「いいか八九寺、この世界におけるトランスフォーマーは『本当に宇宙からやって来た金属生命体』なんだ! メディアミックスの産物じゃない! お前がそれを口にしたら、僕たちがこれまで命懸けで戦ってきた歴史が全部タカラトミーの玩具展開に回収されちゃうだろうが!」
「まあまあ、そう固いことを言わないでください阿良々木さん」
八九寺は手にしたポン・デ・リングを、実に美味しそうにもちもちと咀嚼しながら、どこ吹く風で小さな足をブラブラと揺らした。
「神の視点、あるいはメタフィクションの特権というやつですよ。だいたい、ブリッツウイングさんがファントムIIとレオパルト2に変形して、しかも人格が3つに分裂しているだなんて、キャラクターとしてかっ飛びすぎですよ。寝る前に『アニメイテッド』と『Bumblebee』でも観たんですか?ちなみに私はコンボイ司令官が空から落ちてくる回も外せません」
「詳しいな、おい! 誰に吹き込まれたんだその知識!」
平和なやり取りが、境内の空気をいつも通りの軽さに染め上げていった。
009
インド洋、ディエゴ・ガルシア基地。
つい数時間前に新たなオートボットの仲間たちを迎えたばかりのNEST司令室は、平穏な歓迎ムードから一転して、文字通り蜂の巣をつついたような大騒ぎに包まれていた。
「――管制、もう一度言え! 軌道の再計算は間違いないんだろうな!?」
レノックスの怒号が、無数の電子音が飛び交うオペレーションルームに響き渡る。
大型モニターの前に立つ通信兵の指先は、恐怖のあまり微かに震えていた。
「間違いありません、少佐! ワシントンでの機密データ流出と完全に同期する形で、大気圏外の静止軌道上から、一基の超巨大な熱源が移動を開始……! 速度マッハ25、現在、急速に高度を下げながら北西へ向かっています!」
「目的地はどこだ!? アメリカ本土か、それともここか!?」
エップス軍曹がモニターに身を乗り出す。画面に表示された地球のホログラム上を、不気味な赤い光点が滑るように移動していく。その軌跡の先にあるのは――。
「いえ……着陸予測地はアジア。日本列島、『直江津』という地方都市の直上です!」
その言葉が響いた瞬間、状況を見守っていたオプティマスの青い光学センサーが鋭く光った。
「……狙いは暦か!」
「オプティマス、どうする? 横田や厚木の在日米軍にも迎撃要請は出しているが、相手が通常の航空機やミサイルじゃないとなると、自衛隊も含めて大混乱に陥るぞ」
レノックスが厳しい表情でオートボットの総司令官を見上げる。全世界にトランスフォーマーの存在が公表されたとはいえ、国家間の防衛ラインを無視した超高高度からの奇襲に対応できる人類の兵器は限られている。
「NEST単独での迎撃は困難だ。迎撃ではなく、現地での『先遣防衛』へと切り替える。……バンブルビー!」
オプティマスが鋭く呼びかけると、司令室の直下に控えていた黄色いシボレー・カマロが、駆動音を響かせてロボットモードへと変形した。
その愛らしいマスクの奥の光学センサーには、2つの戦場を共に戦い抜いた少年を案じる強い光が宿っている。
バンブルビーは胸のスピーカーから電子音を鳴らし、バトルマスクをシャキンと顔面に滑り込ませた。
「待て待て、相棒! 旧友のピンチだってのに、俺を置いていく気じゃねえだろうな!」
その背後から、音を立てて変形したのは、ザンティウム号で地球に到着したばかりの赤い戦士、クリフジャンパーだった。フロントグリルにあしらわれた猛々しいブルホーンのパーツを誇示するように、彼は真っ赤な拳をパチンと打ち鳴らす。
「ニホンって国には美味い酒と面白い車がたくさんあるって聞いてたが、まさか最初の任務がディセプティコンの待ち伏せ退治になるとはな。ビー、お前の『お気に入りの人間』がどれほどのタマなのか、この俺が特等席で見極めてやるよ!」
「頼む、二人とも。彼らの平穏を守ってくれ」
オプティマスが重厚に告げると同時に、基地のハッチが全面開放された。
長距離輸送を担う大型ジェット、戦略輸送機C-17グローブマスターIIIのエンジンが爆音を上げて始動する。
「よし、お前ら! 泣き言は機内で聞く! 出動だ!」
レノックスの号令のもと、バンブルビーとクリフジャンパーは再びビークルモードへと変形し、タイヤを激しくスピンさせながら輸送機の巨大なカーゴホールドへと滑り込んでいった。
ギギギ……とハッチが閉まり、巨大な輸送機がディエゴ・ガルシアの滑走路を蹴って夜空へと飛び立つ。
その瞬間にも、巨大な黒い影が大気を割って、怪異の残滓が眠る直江津の町へと降下しようとしていた。
010
再び、北白蛇神社。
僕が八九寺と楽しく二次創作の限界に挑んでいた頃。
不意に、上空の寒気をおそろしく狂暴に引き裂く風切り音が、山頂の境内に吹き降りてきた。
「――っ!?」
僕の首筋の産毛が一斉に逆立つ。この気配、この大気を焦がすような特有の静電気には、あまりにも見覚えがありすぎた。まさか、またディセプティコンの奇襲か!?
だが、空を見上げてもそこにはどんよりとした初春の曇り空が広がるばかりで、金属生命体の巨躯などどこにも見当たらない。
ドスゥゥゥゥンッ!!!
「ひゃうっ!?」
激しい衝撃波と共に、拝殿のちょうど真ん前、古い石畳の隙間を容赦なく粉砕しながら、何かが天から真っ直ぐに突き刺さった。火花と土砂が激しく舞い散る。
砂煙がゆっくりと落ち着きを見せる中、僕と八九寺は、腰を浮かせた姿勢のままその『降って来たもの』を凝視した。
それは、鈍い金属光沢を放つ、およそ高さ一メートルほどの、歪な形状をした円筒形の金属塊だった。
「……阿良々木さん。これは一体……新手のタライ落としの罰ゲームでしょうか?あるいは『空の贈り物』ですか?」
「スカイドンにしては軽くないか……? いや、ウルトラ怪獣の重さを基準にするな。それにタライにしては殺意が高すぎる」
僕は冷や汗を流しながら、その八九寺の腰ほどの高さしかない金属の塊を観察する。隕石にしてはあまりにも人工的で、幾何学的なカッティングが施されていた。
そして何より不気味だったのは、その金属塊の中央に埋め込まれた、ガラス球のような『コア』だった。
チッ……チッ……チッ……
不吉な電子音と共に、そのコアが禍々しい赤色に明滅し始める。
「な、何だ……?」
不審に思った僕と八九寺が、吸い寄せられるように数歩だけ近寄った、その瞬間。
ピピピピピピピピピピピピピピピピ!!
コアの明滅速度が、心臓の鼓動を狂わせるような超高速へと跳ね上がった。赤色の光が、境内全体を血の海のように真っ赤に染め上げていく。
この反応は、まさか――。
「――八九寺、逃げ、」
ろ、と言いかけるより早く、僕の身体は本能だけで動いていた。
八九寺の小さな身体を背後から抱きすくめるようにして、自分の肉体を強引に盾にして覆いかぶさる。
ドガァァァァァァァァァァァァンッッ!!!
「が、はっ……!?」
爆風。凄絶な熱量と、鉄の礫と化した破片が、僕の背中を容赦なく引き裂いた。吸血鬼の再生能力を以てしても一瞬で意識が飛びかけるほどの衝撃が全神経を駆け巡り、僕たちの身体は、境内の端にある古びた灯篭へと激しく吹き飛ばされた。
「……うぐ、あ……っ」
背中が、まるで溶岩を流し込まれたように熱い。衣服はボロボロに焼け焦げ、肉の焼ける嫌な臭いが鼻腔を突く。
「阿良々木さん……っ! 大丈夫ですか!?」
僕の腕の中で、辛うじて直撃を免れた八九寺が、青ざめた顔で僕の顔を覗き込んできた。
「……へ、平気だ……これくらい、いつものこと、だから……」
嘘だ。めちゃくちゃ痛い。死ぬほど痛い。だが、神様の前で無様に泣き言を漏らすわけにはいかない。
しかし、真の絶望は、その爆発の直後にやってきた。
フゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥン……
頭上から、空間そのものが軋むような、重低音の駆動音が響く。
見上げれば、北白蛇神社の直上の空が、まるで蜃気楼のようにグニャリと歪んでいた。
空間の歪みが波紋のように広がり、これまでそこにあったはずの曇り空が『剥がれ落ちる』。
光学ステルスの解除。
そこに現れたのは、軍用艦をも遥かに凌駕する巨躯を持った、漆黒の宇宙船だった。鋭利な槍の穂先を並べたような、禍々しくも洗練されたステルスシルエット。
さらに最悪なことに、その巨大な宇宙船の左右を護送するように、一台の大型スペースシャトルと、見覚えのある紫迷彩のファントムII戦闘機が、不気味な金属音を響かせながら旋回していた。
「な……何だよ、あの数は……っ」
宇宙船の底面から、複数の影が、重力を無視したような滑らかな動作で境内へと降り立ってきた。
一際巨大で、緑色の不気味な光学センサーを光らせる長身の影。
その両脇を固める、同じ顔をした漆黒の兵士たち。
そして、蜘蛛のような節足のパーツを背中に背負った、妖艶で凶悪な女性型の金属生命体。
ガシャ、ガシャ、と石畳を踏み荒らしながら歩み出てきた先頭の男は、顔面を複雑に変形させ、赤外線カメラと思しき構造を僕たちへと向けた。その顔には、ディセプティコンのエンブレムすら刻まれていない。
「……こいつか。ロックダウンだ、夜露死苦」
その声音は、地獄の底から響くような、擦れたバリトンボイスだった。
「ロック、ダウン……?」
メガトロンでも、ザ・フォールンでもない、新たな敵の出現に僕が戦慄した、まさにその刹那。
ギゴガゴゴゴゴゴゴゴゴゴ!!!
上空を旋回していたスペースシャトルとファントムIIが、凄まじい音を立ててロボットモードへと変形し、ロックダウンの両脇へと降下する。
片方は空陸参謀ブリッツウイング。
そして初めて見る、18メートルもあろうかという超巨漢。
これ程巨大なディセプティコンを見るのは合体戦士のブルーティカス以来だ。
「待たせたなメーン!寒くて敵わんメーン!アストロトレイン、とっとと終わらせるメーン!」
「静かにしろ、ブリッツウイング。作戦を迅速に遂行する」
アストロトレインと呼ばれたディセプティコンが顔に5つ並んだ光学センサーを赤く光らせると、巨大な鉄の腕を僕たちへと伸ばしてきた。
「しまっ――」
僕が手を伸ばすよりも早く、アストロトレインの太い指が、八九寺の小さな身体を、まるで虫ケラでも掴むように強引に鷲掴みにした。
「きゃああああああっ!? 阿良々木さんっ!」
「八九寺ぃぃぃぃぃぃッッ!!」
「任務完了だ。これより離脱する!」
アストロトレインは八九寺を握りつぶさぬよう胸の格納庫へと放り込むと、その場で跳躍する。
彼は空中でパーツを爆発的に展開し、一瞬にして巨大なスペースシャトルへと変形。
凄まじい白煙を吹き上げながら、ブリッツウイングと共に一瞬で大気圏外へと飛び去ってしまった。
「待て! 返せ! 八九寺を返せぇぇぇッ!」
ボロボロの身体を震わせ、立ち上がろうとした僕の影から、ついに彼女が飛び出した。
「身の程知らずの鉄屑が、往ね!」
金髪を振り乱し、口元から鋭い犬歯を覗かせた怪異の王――忍野忍が、怒髪天を突く勢いでロックダウンへと跳びかかる。その小さな拳には、空間を容易に引き裂くほどの吸血鬼の怪力が込められていた。
「吸血鬼パンチ――」
だが。
「ふん、待っていたッシャ。お嬢ちゃん」
背後に控えていた蜘蛛型の暗殺兵、エアラクニッドが、愉しそうに目を細めて右腕を掲げた。
シュパパパパパパンッッ!!!
彼女の指先から放たれたのは、強靭なエネルギーを帯びた、不気味な紫色の『サイバー・ネット』だった。
「なっ……!?」
空中で網に捕らえられた忍は、そのまま境内の地面へと叩きつけられ、身動きを完全に封じられた。網の表面を流れる高圧の特殊電流が、吸血鬼の再生細胞を内側から焼き焦がし、彼女の自由を奪っていく。
「う、ぐあぁっ……!? 何じゃ、この網は……力が、抜け……」
「無駄ッシャ。それはサイバトロンのテクノロジーで作られた、超金属をも縛る拘束網ッシャ。地球の古臭い怪異ごときが、力任せに引き裂けるもんじゃないわよ?」
エアラクニッドは妖艶に腰をくねらせ、クスクスと笑った。
「……小癪な!」
忍が苦悶の声を上げながらも、ネットを掴んで引き千切る。
解放された彼女は、『心渡』を片手にエアラクニッドに飛び込み、その紫色の複眼をしたたかに打ち据えた。
最初にトランスフォーマー達と戦闘した時から続く戦法だ。
しかし。
「ッ!……あらヤダ。噂通り、生意気な小娘ッシャ!」
ザシュッ!ザシュザシュッ!
エアラクニッドの背中から生える蜘蛛脚が伸び、容赦なく忍を貫いた。
鮮血が飛び散り、彼女の金髪を汚す。
「忍!」
僕は無我夢中で彼女に手を伸ばすも、漆黒の傭兵シャドウレイダーズに阻まれ、地面に叩きつけられる。
ぼやける視界の端で、忍がエアラクニッドに甚振られているのが見えた。
「ぐ、今度は蜘蛛娘か……がぁっ!」
「その声良いわぁ!もっと聞かせて聞かせて!?」
彼女はサディスティックな笑い声を上げながら、忍を再びネットの中に追い詰めていく。
その爪がついに忍の頭に向けられるかに思えた瞬間。
「止めろ、エアラクニッド。そいつは俺の獲物だ」
ロックダウンの凍りつくような冷徹な声がエアラクニッドを制した。
「チッ、興が乗ってきたところだったのに」
しぶしぶ引き下がる蜘蛛足暗殺兵。
彼は網の中で悶絶する忍の前へと、静かに歩み寄る。
ロックダウンはその緑色の光学センサーをギラつかせ、まるで最高級の美術品を値踏みするかのような視線で、金髪の幼女を見下ろした。
「……なるほど。お前が『伝説の吸血鬼』か。こいつはいい。実にいいトロフィーになりそうだ。俺のコレクションの、一番目立つ場所に飾ってやる」
「やめろ……止めろォォォォォッ!!」
僕は狂ったように叫び、地を這いながらロックダウンへと手を伸ばす。
だが、シャドウレイダーズたちの容赦ない足蹴りによって地面に顔を叩きつけられ、ただ見上げるしか残されていなかった。
ロックダウンの右腕が、カチリ、と嫌な金属音を立ててスライドする。
五本の指が内側へと折り畳まれ、代わりに引き出されたのは、肉厚で、あまりにも鋭利な、鈍い銀色の『鉤爪』だった。
「安心しろ。死なせはせん。……心臓を抜かれても、お前たちは死なないのだろう?」
ロックダウンは冷酷に言い放つと、迷いなく、その巨大なクローを忍の小さな胸元へと、真っ直ぐに突き立てた。
「――夜露死苦」
グシャアッッ!!!
「――!」
僕の視界が、一瞬にして、真っ赤な鮮血で染まった。
吸血鬼の、怪異の王の、僕の命そのものである彼女の胸から、最も大切な『ピース』が、容赦なく抉り出されていく――。
「やめろ……やめろ、やめろォォォォォッ!!」
僕の絶叫は、漆黒の宇宙船が放つ重低音の駆動音に虚しくかき消された。
ロックダウンの鉤爪が引き抜かれ、その冷徹な鉄の指先には、ドクドクと不気味な輝きを放ちながら波打つ『吸血鬼の心臓』が握られていた。
2年前の地獄のような春休み、忍野メメに取られていたそれが、また彼女から奪われようとしている。
忍の胸からは、彼女の生命そのものである濃厚な血が溢れ出し、神社の石畳を赤く染めていく。網の中で、忍は声にならない悲鳴を上げ、そのまま糸の切れた人形のようにぐったりと動かなくなった。
「素晴らしい。地球の怪異というのも、研究の価値がありそうだ」
ロックダウンは溢れ出る鮮血を意に介さず、妖しく輝く忍の心臓を、自身の胸部装甲の内部へとカチリと格納した。
「やめ……ろ……。返せ、それを、返せ……ッ!」
僕は爪が剥がれ、指先から血を流しながらも、地面を掻きむしって前へ進もうとする。しかし、周囲を囲む漆黒の兵士、シャドウレイダーズたちの銃口が僕の脳天に突きつけられ、絶望的な重圧が僕を地面に縫い付けた。
「ロックダウン。お喋りはそこまでッシャ」
エアラクニッドが、蜘蛛の脚をシャカシャカと不気味に蠢かせながら空を仰ぎ見た。
「上空から、最高にうるさい蠅どもが近づいてきているッシャ。オートボットのマークをつけた、間抜けな輸送機よ」
「……フン。嗅ぎ回るのが早い犬どもめ。だが、今日の獲物はすでに仕留めた」
ロックダウンが冷徹に言い放ち、頭上の巨大なステルス宇宙船を見上げる。
「エアラクニッド、シャドウレイダーズ、先に船内へ入れ。ここは俺一人で片付ける」
「そうさせてもらうッシャ。お宝を傷つけないようにね?」
エアラクニッドは妖艶に笑うと、背中の脚を使って跳躍し、宇宙船のトラクタービームへと吸い込まれていった。シャドウレイダーズたちも、僕の頭を力任せに踏みつけた後、次々と上空へ退避していく。
ロックダウンは、足元でぴくりとも動かなくなった忍の小さな身体を、まるでゴミでも捨てるかのように、無造作に僕の前へと放り出した。
ドサリ、と嫌な音がして、僕の目の前に金髪の幼女が転がる。
「忍……! 忍、目を開けろ! 嘘だろ、おい……ッ!」
胸にぽっかりと開いた、悍ましい空洞。吸血鬼の超絶的な再生能力すら、核を失った状態では作動しない。ただ、薄氷を踏むような微かな呼吸だけが、彼女が辛うじてこの世界に繋ぎ止められていることを示していた。
「泣き言を言う暇があるなら、自分の心配をしろ、少年。次はお前だ」
ロックダウンが僕を見下ろし、右腕の鉤爪を再びスライドさせた、その時だった。
遥か上空の曇り空を割って、凄まじい爆音が響き渡った。NESTの戦略輸送機、C-17グローブマスターIIIだ。
「――派手にやってくれたじゃねえか、ディセプティコンの鉄屑ども!血祭りに上げてやる!」
ハッチからダイレクトにドロップしたのは、真っ赤なビークルから一瞬でロボットモードへと変形したクリフジャンパー、そしてその背中を追うように着地した黄色い戦士、バンブルビーだった。二人の鉄の足が境内の地面を激しく叩き、土砂を巻き上げる。
「バンブルビー……!」
僕の視界の端で、バンブルビーの光学センサーが怒りに燃えるように青く輝いた。彼はボロボロになった僕と、網に囚われた忍の姿を瞬時に捉え、胸のスピーカーから激しい電子警告音を鳴らす。
だが、ロックダウンは二人のオートボットに囲まれながらも、一切の動揺を見せず、むしろ退屈そうに肩をすくめた。
「二対一か。ハンティングの難易度としては、少々ぬるすぎる」
クリフジャンパーがフロントのブルホーンを誇示しながら地を蹴った。
「ほざくな、賞金稼ぎ! 今の言葉を撤回させてやるぜ!」
「ふん。オートボッツは相変わらずデカい口を叩くな」
ロックダウンは迫り来る二人の戦士を迎え撃つべく、その不気味な緑色の光学センサーを細める。
彼の纏う威圧感は、これまでのディセプティコンの兵士たちとは格が違っていた。
「下がってろ、ビー! こいつの首は俺が貰う!」
血気盛んなクリフジャンパーが右腕をブラスターに変形させ、激しい砲撃を浴びせながら突撃する。バンブルビーもまた、彼のカバーに入るべく俊敏な動きでロックダウンの死角へと回り込もうとした。
だが、宇宙の荒波を生き抜いてきた賞金稼ぎの戦術は、彼らの連携を完全に先読みしていた。
「戦い方が単調だぞ、オートボッツ」
ロックダウンの右肩の装甲がカチリと展開し、小型の追尾ミサイルが銃爪を引くよりも早く射出された。
シュバババババンッ!
「――!? ビー、危ねえ!」
俊敏なバンブルビーだったが、至近距離から放たれた予測不能な軌道のミサイルを完全に回避することはできなかった。直撃を受けたバンブルビーの右脚の駆動系が激しく火花を散らし、彼はバランスを崩して境内の大木へと激しく叩きつけられ、一時的に無力化される。
「ビー!!」
相棒の窮地に頭に血が上ったクリフジャンパーが、さらに加速してロックダウンの懐へと飛び込む。真っ赤な拳が、ロックダウンの胸部を捉えた。
ガギィィィィン!
凄まじい金属音が鳴り、彼のパーツに3本の爪痕のような傷がついた。
だが、次の瞬間。
ギゴガゴゴゴ……ッ!
ロックダウンの頭部が、おぞましい金属音を立てて複雑にスライドした。
頭部のパーツが上下左右へと割れ、奥から引き出されたのは、サイバトロンの技術の結晶である、巨大な長距離レーザー砲塔。顔そのものが、兵器へと『変形』したのだ。
「頭を冷やせ」
砲口が禍々しい緑色のエネルギーをチャージし、クリフジャンパーの鼻先を捉える。
「しまっ――」
ズドォォォォォォォォォォォォンッッ!!!
光軸の太い、圧倒的な熱線がクリフジャンパーを正面から撃ち抜いた。
「あ、が、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!?」
胸部装甲をドロドロに融解させられながら、クリフジャンパーの赤い巨体は、まるで紙屑のように天空へと吹き飛ばされ、そのまま拝殿を盛大に突き破って、境内の奥へと叩き落とされた。
ガラガラと崩れ落ちる瓦と木材の山。
彼の身体からは、激しい放電と冷却液が噴き出している。
「……う、ぐ……クソ、が……」
クリフジャンパーは辛うじて意識を保とうとするが、全身のサーボモーターが焼き切れ、指一本動かすことができない。
ロックダウンは顔面の砲塔を滑らかに元の頭部へと戻し、動けなくなっているクリフジャンパーへと冷酷な足音を響かせた。
その足音が、死の秒読みのように響く。
「……に、逃げろ、早く……」
地面に伏したままのビーの声は、彼には届かない。
「さて……。オートボットのスパークなど、大した市場価値はないが」
ロックダウンの左腕が、ガチャリ、と不吉な音を立てて展開される。
そこに現れたのは、これまでのどんなディセプティコンの兵器よりも禍々しい、異形のキャノン砲だった。
銃身の周囲には、肉を削ぎ落とすために設計されたような、数本の鋭利なブレードが円形に配置されている。
――形容するとすれば、『スパーク摘出用特殊キャノン』。
トランスフォーマーの命の源である「スパーク」を、生きたまま傷つけることなく、文字通り『えぐり出す』ためだけに設計された、悪魔の道具。
「――血祭りに上げてやる」
ズグシャァァァッッ!!!
ロックダウンの容赦のない攻撃が、クリフジャンパーの胸部装甲を無慈悲に貫いた。火花が激しく飛び散る中、ブレードの先端は、トランスフォーマーの命の源である『スパーク』へと達する。
「あ、が……あ、ぁ……」
クリフジャンパーの光学センサーから、急速に光が失われていく。ロックダウンはそのブレードを冷酷に捻り、脈打つ青いエネルギーの結晶――スパークを、その胸の奥底から無慈悲に抉り出した。
パチパチと儚い光を放つスパークの残滓を掌に転がしながら、ロックダウンは冷徹に、しかしどこか満足げに周囲を見渡した。
「吸血鬼の心臓に、オートボットのスパーク。……フッ、今日は大漁だな」
「待て……! 待ってくれ……ッ!」
僕は爪が完全に剥がれ落ちた両手で、血と泥に塗れた石畳を必死に掻きむしった。
全身の骨が砕けているかのような激痛を無視して、ただ目の前の、あまりにも圧倒的で冷酷な『死神』へと這い寄る。
「待て! 何故八九寺を……忍を狙う!? 奴らの何が、お前たちに必要なんだ!?」
僕の、魂を切り裂くような絶望の叫び。
ロックダウンは、青い光を放つクリフジャンパーのスパークを愛おしげに自身のサブ・ストレージへと格納すると、ゆっくりと僕の方を振り返った。
その不気味な緑色の光学センサーは、まるで道端に転がる石ころを見るかのように冷ややかで、けれど底知れない残酷さを秘めていた。
「お前に教える義理はない。……ビジネスに余計な感情を持ち込むな、少年」
ロックダウンは右腕の鉤爪をカチリと鳴らし、フッと、地獄の底から響くような歪んだ笑みを漏らした。
「まあ、強いて言うなら――お前さんの名前は宇宙でもよーく知られてるってこった。夜露死苦」
「な……に……?」
僕の名前が、宇宙で知られている?
それが、何故この最悪の事態へと繋がるのか。
僕の脳がその論理の糸口を掴むより先に、ロックダウンは背中のスラスターを激しく点火させた。
ゴォォォォォォォォォォォォッ!!!
猛烈な爆風が境内の木々をなぎ倒し、溶け残った雪を瞬時に蒸発させる。
ロックダウンの巨躯は、重力を嘲笑うかのような速度で天へと垂直に跳び上がり、上空で待機していた漆黒のステルス宇宙船へと吸い込まれていった。
直後、空間の歪みが再び波紋のように広がり、軍用艦をも凌駕するその巨艦は、蜃気楼のように夜の闇へと完全に消え去った。
光学ステルスによる、完全な遮断。
「待て……っ! 待ってくれぇぇぇぇぇッ!!」
僕の声は、虚しく天に吸い込まれるだけで、応えるものは何もなかった。
しんと静まり返る境内。
それと同時に、どんよりとした曇り空から、ぽつり、ぽつりと冷たい液体が降り注ぎ始めた。
初春の、まだ雪の匂いを残した、凍てつくような雨。
雨は激しさを増し、神社の石畳を真っ赤に染めた忍の鮮血を、そしてクリフジャンパーの巨体から流れ出た青い冷却液を、無慈悲に、冷徹に洗い流していく。
「あ……あ、あ……」
僕は、目の前に転がっている金髪の幼女の身体を、震える手で抱き寄せた。
胸にぽっかりと開いた、悍ましい空洞。
いつもなら僕を小馬鹿にし、傲慢に笑っているはずの怪異の王は、今や呼吸すら満足にできない、ただの壊れかけた人形のようになってしまっていた。
「忍……嘘だろ、おい……。目を開けてくれよ、忍……ッ!」
いくら僕の血を吸わせようとしても、彼女の肉体は僕の首筋に噛み付く力すら残されていない。核を失った吸血鬼は、ただ静かに、その存在の灯火を消そうとしていた。
「……う、うぐ……」
背後の大木から、火花を散らしながらバンブルビーがどうにか上体を起こした。
右脚の駆動系を破壊され、引き摺りながら歩み寄る彼の光学センサーは、激しい悲しみと悔恨に揺れている。
バンブルビーは、拝殿の瓦礫の山へと視線を向けた。
そこには、先ほどまで血気盛んに吼えていた赤い戦士――クリフジャンパーの、完全に光を失った冷たい骸が横たわっていた。
胸の奥底のスパークを抉り取られ、二度と動くことのない、ただの巨大な鉄屑。
バンブルビーは、その骸の前に膝をつき、言葉にならない切ない電子音を、雨の音の中に響かせることしかできなかった。
神様を奪われ。
僕の影の心臓を抉られ。
助けに来てくれた正義の戦士を殺され。
僕の手元には、何も残らなかった。
ただ、冷たい雨が、僕のボロボロに焼けた背中と、引き裂かれた心を、冷酷に叩き続けるだけだった。
「……う、あ、あああああああああああああああッッ!!!」
僕は、天を仰ぎ、声を限りに絶叫した。
日常を整理するために帰ってきたはずの直江津の町で、僕は人生で最も凄惨な、そして圧倒的な『絶望』の波に、完全に呑み込まれようとしていた。
011
ザーーーーーーーーーーーーーー……
激しさを増していく雨の音が、僕の絶叫さえも容赦なく押し流していく。
泥と、血と、鉄の錆びた匂いが混ざり合う、最悪の雨。
僕はただ、動かなくなった忍の小さな身体を抱きしめ、自分の無力さに歯噛みするしかなかった。バンブルビーの切ない電子音が、雨の低音に混じって不気味な通奏低音のように響いている。
すべてが終わってしまった。
いや、終わらせられてしまったのだ。圧倒的な暴力によって。
[b:パチャ、パチャ、パチャ……]
その絶望の底に、場違いなほど規則正しい、静かな足音が近づいてきた。
石畳の階段を上り、こちらへと歩んでくる足音。
僕が涙と雨で霞む目をかろうじて向けると、境内の入り口に、真っ黒い傘を差した『それ』が立っていた。
黒い詰め襟の制服、異常に長い袖。
そして、光を一切反射しない、底なしの深淵のような真っ黒な両目。
忍野扇だ。
「……阿良々木先輩」
声からするに女の子の状態で男装をしているようだ。
しかし、その事を指摘できるだけの余裕は僕には無い。
いつもなら不敵な笑みを浮かべ、僕を嘲弄するように近づいてくるはずの彼女が、今日に限っては、いつにもなく真剣な、冷徹とすら言える表情で僕を見下ろしていた。
「大丈夫……ではないようですね」
扇ちゃんは傘を少し傾け、ボロボロになった僕と、核を失った吸血鬼の幼女、そして色褪せつつあるクリフジャンパーの骸へと視線を走らせる。その声には、いつもの芝居がかった抑揚は一切無い。
「……。」
僕は応える言葉を持たなかった。声を出せば、ただ情けない嗚咽だけが漏れ出しそうだったからだ。
「阿良々木先輩、ここで立ち止まっていてはいけません。私に癒されている暇もありません」
扇ちゃんは傘を差したまま、僕のすぐ傍らにしゃがみ込んだ。長い袖の奥から覗く、血の通っていないような白い指先が、僕の頬を伝う雨水をそっとなぞる。
「悲しむのも、絶望するのも、後回しにしてください。宇宙の賞金稼ぎは、先輩の全てを奪うまで、その手を止めるつもりはないのでしょうから」
「……あいつは、ロックダウンは、僕の名前を知っていた。何故だ、何故僕なんだ、扇ちゃん……」
かすれた声で問いかける僕に、扇ちゃんは冷たい目を向けたまま、突飛な、けれど極めて論理的な問いを投げかけてきた。
「私は何も知りませんよ。ところで阿良々木先輩、ツングースカ大爆発をご存知ですか?」
「ツングースカ大爆発……? ロシアの未解決事件だろ? 1908年にシベリアの森林が広範囲にわたってなぎ倒されたっていう……。それが、今どう関係あるんだ……」
頭が混乱する。吸血鬼の心臓を奪われ、トランスフォーマーのスパークが目の前で抉り出されたこの状況で、何故100年以上前のオカルト事件の話をされなければならないのか。
「思い出してみてください。トランスフォーマー達は遥か昔から人類と接触してきました。ピラミッドの建造、マトリクスを探し求めた『先駆者』たち、そしてメガトロンの北極墜落……。であるのならば、そういう不可思議、非論理的な事件も、彼らと関わりがあると見るべきでしょう。そして、その爆心地には、彼らが残した『何か』が今も眠っている……」
扇ちゃんは真っ黒な瞳の奥を怪しく光らせ、僕の耳元で囁くように続けた。
「まあ、大学のアパートに戻って荷物をまとめるべきでしょうね。……防寒具は持っていったほうがいいでしょう」
扇ちゃんは、冷たく言い放つと、すっと立ち上がった。その視線は、すでに直江津のこの寂れた神社ではなく、遥か北の、凍てつく大地へと向けられているようだった。
「僕が、ロシアに……?」
「ええ。先輩が動かなければ、格納庫に囚われた八九寺真宵も、あの男の胸の中で脈打つ吸血鬼の心臓も、永久に『標本』のままです。そんな結末、あなた自身が許さないでしょう?」
扇ちゃんは、僕に背を向けると、数歩歩き――。
そして、その足を止めた。
彼女が視線を向けたのは、瓦礫の中で冷たい鉄屑と化した、クリフジャンパーの骸だった。
戦友の死を前に、未だ立ち上がれずにいるバンブルビー。
扇ちゃんは、差していた真っ黒い傘を静かに閉じ、雨がその顔を濡らすのも厭わずに、クリフジャンパーの骸に向かって、そっと両手を合わせた。
いつもの彼女からは到底想像もつかない、死者への、異星の戦士への、静かな哀悼の意。
「――おこがましい神様の代わりに。異郷の地で果てた戦士に、せめてもの安らぎを」
小さな声でそう呟くと、彼女は再び傘を開き、一度も振り返ることなく、雨のカーテンの向こうへと去っていった。
012
どこまでも冷たい雨が、直江津の町を白く煙らせていく。
僕は、吸血鬼の心臓を失い、完全に魂の火が消えかけている忍の小さな身体をしっかりと横抱きに抱え、北白蛇神社の階段を下りた。
その背後を、右脚の駆動系から未だパチパチと虚しい火花を散らしながら、バンブルビーが鉄の足を引き摺ってついてくる。
彼の青い光学センサーは、先ほどまでの激しい悔恨から一転して、今はただ、重い沈黙に塗り潰されていた。
僕たちは、まるで敗残兵のように、ただ無言で、雨の中を歩き続ける。
実家には、とてもではないが帰れなかった。
ボロボロに焼け焦げた服、剥がれ落ちた爪、そして何より、僕の腕の中にいる、胸に悍ましい空洞を開けた金髪の幼女と、満身創痍の黄色いロボット。こんなものを両親や妹たちに見せるわけにはいかない。
「乗ってくれ、暦。このままじゃ風邪を引いてしまう」
そう言うと、ビーはボディを軋ませながら黄色いカマロに姿を変えた。
彼に申し訳なく思いながら、僕はシートに座る。
僕らが向かったのは、逃げるようにして辿り着いた、曲直瀬市にある僕の大学生活の拠点――地味で、狭くて、退屈なはずだったアパートの自室だった。
鍵を開け、濡れそぼった身体のまま、重いドアを押し開ける。
「――ただいま」
かすれた声で呟きながら部屋に足を踏み入れた瞬間、僕は自分の目が捉えた光景に、思わず息を呑んだ。
狭いワンルームのアパート。その安物のローテーブルを囲むようにして、場違いな二人の人物が腰を下ろしていたのだ。
一人は、戦場ヶ原ひたぎ。
僕の恋人であり、今回の帰郷を勧めた張本人。
彼女はいつもの冷徹な、けれど僕の姿を見た瞬間に微かに揺れた瞳で、じっとこちらを見つめていた。
「おかえりなさい。……無事じゃないのは見れば分かるけれど、生きて帰ったことは褒めてあげるわ」
彼女の肩の上には、今年の九月から我が物顔で居候を決め込んでいる小型のオートボット――ラジコンカーから変形する生意気な青い小型TFのホィーリーが、いつになく神妙な顔つきでしがみついていた。
そして、もう一人は――。
「やあ、こよみん。お邪魔してるよ。勝手に上がり込んで、おまけにキッチンで紅茶なんて淹れさせてもらっちゃって、悪いねえ」
野球帽に、オーバーサイズのTシャツを着た小柄な女性。
臥煙伊豆湖が、僕の部屋にある安物のマグカップから、立ち上る湯気と共に紅茶を優雅に啜りながら、いつもの調子でひらひらと手を振っていた。
「臥煙……さん……」
僕は、凍りついた喉をどうにか動かして、その名前を絞り出した。
「あの、八九寺が……八九寺と、忍が……! 神社に、ロックダウンっていう、賞金稼ぎが来て……っ!」
一気に捲し立てようとする僕の言葉を、臥煙さんは、静かにマグカップをテーブルに置くことで遮った。
その表情から、いつもの超然とした笑みが完全に消え失せる。
「話は聞いているよ。クリフジャンパー……赤い彼の事は残念だったね。NEST を通じて、オプティマスからもすでに連絡が入っているよ。あっちの司令室も、今頃はひっくり返ったような大騒ぎさ」
臥煙さんは鋭い、すべてを見透かすような瞳で僕を真っ直ぐに射抜いた。
「既に忍野扇が告げているとは思うが、君にはロシアに行ってもらう」
「――っ」
扇ちゃんが言っていたあの突飛な言葉が、臥煙さんの口から出たことで、一気に現実味を帯びた怪物の形となって僕の脳内に躍り出てきた。
帝政ロシアの記憶、ツングースカ大爆発、シベリアの森林……。
「八九寺ちゃんを助け出してもらわないとね」
臥煙さんは、冷めかけた紅茶をもう一口含むと、まるでお天気の話でもするかのような淡々とした、けれど絶対の確信を含んだ声音で言った。
「新米とはいえ、彼女はこの直江津の町を繋ぎ止める大切な神様だ。彼女が不在のまま、あんな宇宙の要塞に連れ去られてしまっては、この町の霊的バランスが根底から崩れてしまう。というのもそうだが――」
そこで臥煙さんは、ふっと短く息を吐き、マグカップを握る指先に僅かに力を込めた。
「私としてもね、自分の身内のような友人を、あんな素性の知れない鉄屑に誘拐されるというのは――かなり頭にくるんだよ。だから、これは公式な依頼であり、私個人の私怨でもある。……こよみん、そこでおべんちゃらを使って突っ立っている暇があるなら、まずはその腕の中の、忍ちゃんを見せてご覧?」
「あ……、はい」
僕は、言われるがままに、雨水と自分の血でドロドロになった忍の身体を、臥煙さんの前の畳へと、壊れ物を扱うようにそっと横たえた。
ひたぎが短く息を呑む音が聞こえ、彼女の肩の上のホィーリーが、鉄の歯をギリリと鳴らす音が、狭いアパートの室内に響き渡った。
「うん。これはひどいね」
臥煙さんは、僕が差し出した忍の身体を、その白い指先でそっと検分した。
傷口に触れるでもなく、ただその空間の『欠損』を確かめるように。
「心臓――怪異としての、そして吸血鬼としての本質的な核を丸ごと奪われている。サイバトロンの技術で無理やり切り離されたせいだね。普通なら一瞬で灰になって消滅しているレベルだよ、こよみん。君と彼女の、歪で強固な血の契約だけが、辛うじてこの生命の抜け殻をこの世に繋ぎ止めている。……本当に、文字通りの『蜘蛛の糸』だ」
「臥煙さん、だったら……!」
「ああ、焦らなくていいよ。私は何でも知っている。だから、対処法も知っている。――ただし、それは『時間稼ぎ』に過ぎないけれどね」
臥煙さんはそう言うと、手元に置いていた大きなトランクの中から、一本の奇妙な形状をした注射器のような器具を取り出した。そのシリンダーの中に満たされているのは、怪しく青い光を放つ、ドロリとした金属質の液体。
「それは……」
「エネルゴンだよ。それも、ただのエネルゴンじゃない。NESTが提供してくれたサンプルから抽出した、生命エネルギーの残滓を、我が臥煙ネットワークの怪異的技術で『霊的変性』させたものさ」
臥煙さんは迷いなく、その青い針を忍の青白い首筋へと突き刺した。
「怪異に機械の命を混ぜる。ましてや、銀の成分も含まれているものだ。本来なら拒絶反応で消滅しかねない劇薬だけど……今の彼女には、これくらいしか繋ぎ止める手段がない。ほら」
ドクン……
青い液体が注ぎ込まれた瞬間、忍の胸の空洞の縁が、微かに青い燐光を放ちながら波打った。
一瞬だけ、彼女の長い睫毛がピクリと震え、苦しげな、けれど確かな呼吸がその小さな唇から漏れ出す。
「……う、お前……様……」
「忍……!」
「駄目だよ、こよみん。声をかけても、今の彼女には聞こえない。魂の出力を最小限にして、ただ『眠り続けている』状態だ。このエネルゴン怪異製剤が持つ猶予は、長くて1週間。それまでにロックダウンから彼女の心臓を取り戻さなければ、今度こそ、彼女は完全にこの世界から消え去る」
そう言うと彼女は僕に忍を影に戻すように指示した。
「分かりました。……でも、臥煙さん」
僕は泥の染みた畳に膝をついたまま、震える声で問いかけた。
「ロックダウンは、何で僕たちを狙うんですか? 奴は……あの男は、僕の名前が宇宙で知られてるって言っていたんですが、僕には全く心当たりがありません。僕はただの、一介の日本の大学生です。宇宙人に名前を売った覚えなんて、どこにも……」
「簡単な話さ、こよみん」
臥煙さんは安物のマグカップをテーブルにトンと置き、組んだ膝の上に頬杖をついた。その目が、ぞっとするほど冷徹に細められる。
「君は、君と忍ちゃんは、あの『オールスパーク』をその手で破壊し、一度はあのメガトロンを殺し、そして何より、マトリクスを用いてオプティマス・プライムを死の淵から生き返らせた、地球上……いや宇宙で唯一のペアだからさ」
「……っ!」
「宇宙の賞金稼ぎや、生き残りのディセプティコンにとってね、君の名前はちょっとしたレジェンドなんだよ。ディセプティコンの残党どもは、君らの首や、その特異な吸血鬼の肉体を手に入れるためなら、宇宙の闇に10万ドルをポンとくれてやるだろうね」
ディセプティコンにもドルは流通してるものなのだろうか。
「銀行強盗でもするんじゃないかな?」
と、臥煙さんがあっけらかんと告げる。
「まあ要約するとね、こよみん。ロックダウンにとって、君たちは最高級の『高額賞金首』というわけさ」
……話の規模が、僕の想像の規模を完全に超越していた。
僕と忍がこれまで命懸けで戦ってきた歴史が、宇宙のネットワークではただの「賞金付きのデータ」として流通していたなんて。
けれど、それなら。
「でも……、だったら八九寺は何のために連れ去られたんですか?」
八九寺は、ただのこの町の迷子の幽霊で、新米の神様だ。
宇宙のディセプティコンにも、賞金稼ぎにも、何の関係もないはずだ。
「それについては、彼に直接話してもらうのが一番早いかな」
臥煙さんはそう言うと、ローテーブルの端、ひたぎのすぐ横に置かれていた、何の変哲もない銀色のノートPCを細い指先でトントンと叩いた。
「――おい、そこの変態ミニボット。いつまで機械のフリをしてるんだい。観念して出てきて喋りたまえ」
……カシャカシャカシャ!!!
「――っ!?」
ひたぎが驚き、反射的に手元にあったシャープペンシルを構える。
ノートPCの液晶画面が二つに割れ、キーボードのパーツがまるで折り紙のように複雑に折り畳まれていく。一瞬のうちにそれは、頭から電気のスパークをバチバチと不規則に迸らせ、ボサボサの髪の毛のような配線を持った、醜悪で、けれどどこか愛嬌のある小型のトランスフォーマーへと姿を変えた。
「おいおいおい! 変態たぁ誰のことだ、この冷徹お局お姉さんめ! 俺はただ、この綺麗なヴァルキューレの隣で極上のステルスを満喫してただけだっつーの!」
小型のロボットはテーブルの上で器用に飛び跳ねると、不快そうに自分の鼻を擦った。その姿は、ひたぎの肩にしがみついているホィーリーと、どこか同類の雰囲気を――つまり変態の雰囲気を醸し出している。
「紹介するよ」
臥煙さんは、うるさそうに耳を塞ぎながら言った。
「ディセプティコンから命からがら亡命してきた、元・科学者のブレインズ君だ」
013
ブレインズ。
そう呼ばれた小型TFは机の上で、カチャカチャと器用に不規則なステップを踏みながら、僕の顔を覗き込んできた。
「よぉ人間。辛気臭え面してんな」
その軽薄な声は、今の僕の凍りついた心に土足で踏み込んでくるようだったけれど、不思議と怒りは湧かなかった。
あまりの絶望に、感情の起伏すら磨り減っていたのかもしれない。
「ブレインズ、君……。ディセプティコンから亡命してきたって、どういうことだ?」
僕の問いかけを遮るように、臥煙さんが人差し指を立ててブレインズの頭を軽く小突いた。
バチッと小さな火花が散り、ブレインズが「あててっ!」と声を上げる。
「君が見たジェットファイアや、そこのホィーリー君と一緒だよ。ディセプティコンの方法に嫌気が差して、こっちにやって来た。彼は特殊な思考回路を持っていてね。通常のトランスフォーマーを遥かに超える演算能力を持っている。いわば天才だね」
「あんたもそうじゃ無いのかよ?何でもかんでも、俺が頭のハードディスクをフル回転させて導き出した予測を、さも当然みたいに最初から知ってやがる。化け物じみた処理速度の検索エンジンを脳みそに直結させてるだろ、あんた」
ブレインズは不満げに鼻を鳴らし、臥煙さんを睨みつける。
しかし、臥煙さんはいつものように、涼しげな顔でマグカップに視線を落とした。
「私は何でも知ってるだけだ。何でも知ってるだけで、何にも出来やしないおねーさんだ。……本物の天才には及ばない」
自嘲気味にそう語る臥煙さんだったが、その言葉の裏にある圧倒的な情報量が、この部屋の空気を支配しているのは間違いなかった。
その重苦しい沈黙を切り裂いたのは、鋭い殺気すら孕んだ、ひたぎの冷徹な声だった。
彼女の手にあるシャープペンシルの芯が、チキチキと不気味な音を立てて繰り出される。
「……で。その八九寺さんが誘拐された理由を教えてもらいたいんですけど」
彼女の有無を言わせぬプレッシャーに、さしものブレインズも少しだけ姿勢を正した。
臥煙さんはひたぎの剣幕に小さく苦笑し、ノートPCから変形した小型ロボットへと顎をしゃくった。
「そうだったね。ブレインズ、話したまえ」
「あいあい。でも、その前に連中の目的から話させてもらうぜ。ディセプティコンはずっとエネルゴン、あるいは他のエネルギーを捜してきた。お前ら人間がガソリンや電気のために戦争するのと一緒さ。だがよ、今の地球にいるディセプティコンの残党どもは、ただのエネルギー泥棒じゃねえ。明確な目的を持って動いてやがる。奴らは『最強の参謀』を蘇らせるつもりだ」
「最強の、参謀……?」
『参謀』と聞いて、僕の脳裏に、これまでに戦ってきたディセプティコンたちの凶悪な姿が過る。
航空参謀スタースクリーム。
空陸参謀ブリッツウイング。
戦術参謀オンスロート。
それらを超える『最強』というと、つまりメガトロンやザ・フォールン級ということか。それほどまでに危険な存在が、まだ眠っているというのか。
「そいつの名はショックウェーブ」
ブレインズは、まるでその名前を口にすること自体が回路に負荷をかけるかのように、不快そうに顔のパーツを歪めた。ホィーリーも怯えたように「ヒッ」と小さく声を漏らす。
「サイバトロンにいた頃の話じゃ科学者のくせして、メガトロンと同じくらいの強さだったらしい。冷徹で、論理的で、感情って言葉をオイルの底に捨ててきたような単眼の化け物だぜ。メガトロンがオールスパークを追って宇宙に旅立った後、奴も後を追って地球にやって来た。そして墜落、仲良く氷漬けになったという訳さ」
「厳密にはメガトロンは北極、ショックウェーブはロシアで、微妙にズレては居るけどね」
臥煙さんが紅茶のカップをテーブルに置き、話を引き継いだ。
「メガトロンに関しては君たちも知ってる通り、1897年にアーチボルト・ウィトウィッキーによって発見され、セクター7によってフーバーダムの地下に回収された。それがすべての始まりだったわけだけど……。一方、ショックウェーブは1908年に衝突。帝政時代のロシアに掘り出された後、旧ソビエト連邦に引き継がれて、鉄のカーテンの向こう側に隠された。そのまま冷戦終結のゴタゴタで闇に葬られ、今も彼は何処かの秘密研究所の地下に凍らされてるということさ」
1908年。
その数字が、僕の脳内で扇ちゃんの言葉と完全に合致した。
「ツングースカ、大爆発……」
「そう。彼が地球の大気圏に突入し、シベリアの広大な森林に激突した際の衝撃波こそが、人類の歴史に刻まれたあの未解決事件の正体さ」
臥煙さんは、さも当然の事実であるかのように首を縦に振った。
「だけど、何でそこに八九寺が関係してくるんですか! 奴を蘇らせるなら、エネルゴンがあればいいはずなんでしょう……!?」
僕の悲痛な叫びに対し、ブレインズは冷酷な計算結果を突きつけるように、その青い光学センサーを不気味に明滅させた。
「お前さんの言う通り、本来なら純粋なエネルゴンがありゃ事足りる。だがな、ロシアの地下に眠るそいつは、あまりにも長い間凍結されすぎて、スパークの出力が限界まで落ちてんだよ。並のエネルゴンじゃ、心臓マッサージにもなりゃしねえ。そこで奴らが目をつけたのが、『
ブレインズは首の配線をガリガリと掻きながら、最悪のシナリオを口にした。
「ディセプティコンは、その『エネルギー』が特に強い八九寺真宵の存在そのものをエネルギーの『濾過器』としてジェネレーターに組み込み、その魂を限界まで絞り出して、ショックウェーブを復活させるつもりだ」
「つまり、その阿良々木の友達を電池にするってことか?」
と、ホィーリーが口を挟む。
「ああ、そういうこった。しかも俺の計算ではお友達は無事では済まない。エネルギーを限界まで搾り取られ、神格を剥ぎ取られた魂は、数式上、完全に消滅する」「八九寺が、消滅……?」
頭の芯が、カァッと熱くなる。つい一時間前まで僕の隣で笑っていたあの八九寺が、宇宙の化物を呼び覚ますために使われようとしている。
そんな事、絶対に許せない。
「こうしちゃ居られない。レノックスにも連絡をとって、今すぐにでもロシアに向かわないと――」
僕はボロボロの身体を無理やり奮い立たせ、畳に手を突いて立ち上がろうとした。
しかし。
「待ちたまえ、こよみん。1つ、言い忘れていたことがあるんだけれど、いいかな?」
僕の焦燥を見透かしたように、臥煙さんが冷たく、けれど確かな重みを持った声で僕を制した。
「何ですか、事態は一刻を争うんですよ?それにディセプティコンがまた活動し始めているんだから、この前のエジプトみたいに米軍とNESTに協力を――」
「うん、分かってるよ。でも、その米軍なんだけどね――」
今回は協力できないそうなんだ。と、臥煙さんは冷徹に告げた。
「え?」
「今のロシアは、NESTの管轄外だ。あの地域は今、きな臭すぎる。そんな所に戦略輸送機を飛ばして、領空に侵入すれば、何が始まると思う?」「……何が始まるんです?」
「第三次大戦だ」
と、臥煙さんは至って大真面目に返した。
「いや、本当に開戦の合図になりかねないんだよ。だからアメリカ政府も、オートボットも、公式には動けない。ディセプティコン達はその国際政治の『隙間』を突いて、あえて大胆な行動に打って出たという訳だ」
「じゃあ、見殺しにしろって言うんですか!?」
「誰もそんなことは言っていないよ」
臥煙さんは、不敵な、けれど確かな勝利の絵図を描いている時のいつもの笑みを、その口元に浮かべた。
「公式に動けないのなら、非公式に動けばいい。我が臥煙ネットワークと、オプティマス・プライムが個人として動かす『特別な隠密ルート』を使ってね。……さあ、こよみん。荷物をまとめるんだ。ひたぎちゃん、ブレインズ君、君たちもだよ。――凍てつくシベリアの地が、君たちの到着を待っている」
014
「それじゃあ、私は一足先に非公式ルートの『お膳立て』に向かうとしようかね」
臥煙さんはそう言うと、空になったマグカップをトントンと指先で叩き、大荷物のトランクを軽々と持ち上げた。その足取りは、これから第三次世界大戦の引き金になりかねない極秘作戦を仕掛ける人間のものとは思えないほど、軽快で、どこまでもマイペースだった。
「出発の準備が整い次第、連絡を入れるよ。まずは北海道で、おねーさんが手配した『助っ人』達と合流してもらう。大丈夫、君たちのよく知ってる人間だ。……怪異もいるかな?」
では、幸運を。
そう言い残し、ひらひらと手を振りながら、嵐のように部屋を去っていく臥煙さん。
静まり返ったワンルームのアパートに、冷たい沈黙が戻ってくる。僕の腕の中では、エネルゴンを投与された忍が、胸に空洞を開けたまま、微かな青い燐光を放って眠り続けている。猶予は1週間。
僕は、じっと自分の手のひらを見つめた。爪の剥がれ落ちた指先が、まだ微かに震えている。
……このまま、ひたぎやビーたちだけで行くべきなのか。
いや、違う。僕には、あのエジプトの地獄を、トランスフォーマーという理不尽な暴力を共に生き延びた戦友たちがいるはずだ。
1人は神原駿河。だが彼女は今、大学受験というある意味戦争とも言えるイベントの真っ最中だ。邪魔は出来ない。
ならば、頼れるのはもう1人の戦友か。
八九寺が言っていた「新しい日常の数式」なんて、こんな状況で言っていられるわけがない。
「……ちょっと、隣に行ってくる」
「暦……」
ひたぎの制止の声を背中で遮りながら、僕はアパートの薄い壁を隔てた隣室へと向かった。
冷たい雨が吹きつける外廊下を歩き、老倉育の部屋のドアを叩く。
「老倉、僕だ。阿良々木だ。……入るぞ」
鍵の開いていたドアを押し開けると、そこには老倉が僕を怪訝な顔で見つめて立っていた。
僕は怪異事情については避けながらも、彼女に事情を話した。
友人が連れ去られたこと、ショックウェーブという怪物のこと、そして、これからロシアの凍てつく戦場へ向かうこと。
「老倉。勝手な願いだってことは分かっている。君をまた、あの恐怖に巻き込みたくはない。だけど……君の力が必要なんだ。僕と一緒に、ロシアへ来てほしい」
僕の、必死の、けれどあまりにもエゴイスティックな懇願。
それを聞いた老倉は、しばらくの間、信じられないものを見るような目で僕を凝視していた。やがて、その細い肩を小刻みに震わせ、怒りと恐怖が混ざり合ったような鋭い声を絞り出した。
「……私は行かないわよ。あんな地獄みたいな戦場、1回経験するだけで十分よ」
その声は拒絶に満ちていた。
当然だ。
エジプトでの金属生命体たちの暴虐は、普通の人間である彼女の精神を粉々に砕くには十分すぎるものだったのだから。
「ピラミッドが崩れて、空からミサイルが降ってきて、目の前で人が、町が、簡単にすり潰されていく……。あんな狂った世界に、どうして自ら進んで飛び込んでいかなきゃならないのよ!? 私は御免よ。私は、私の日常を守るために、数学の数式を解くために大学へ行っているの。宇宙人の戦争に付き合うために生きてるわけじゃないわ!」
「……そうか」
僕は静かに首を振った。
責める権利なんて、僕にはどこにもない。
むしろ、彼女をこれ以上引き留めず、この平穏な(たとえギクシャクしていようとも)日常に残していくことこそが、八九寺の言っていた正しい距離感なのだと、自分に言い聞かせるしかなかった。
「ごめん、無理を言った。……ここにいてくれ、老倉」
ひたぎが静かに歩み寄ってきた。
彼女は老倉の頑なな態度を責めることもなく、ただ、同じ「普通の人間」として、その恐怖を痛いほどに理解しているような、痛切な眼差しを老倉へと向けた。
「行きましょう、暦。……ごめんなさいね、老倉さん。この男の無神経さは、世界が滅びかけても治らない病気みたいなものだから。忘れて頂戴」
そう言うと、ひたぎは僕の腕を強く引き、老倉の部屋に背を向けた。
カマロの姿でアパートの下に控えているバンブルビーのエンジン音が、重低音となって足元から響いてくる。
僕たちは、一歩ずつ、階段を下りていく。
錆びた鉄の臭いと、冷たい雨のカーテンの向こう、凍てつくシベリアの地へと、歩みを進める。
その、去り行く僕たちの背中に向かって。
閉まりかけるドアの隙間から、掠れた、けれど確かに僕の耳に届く声で、老倉がボソリと呟いた。
「……帰って来なさいよ」
振り返ることはしなかった。
だけど、その一言だけで、僕の凍りついた胸の奥に、確かに小さな灯火が宿ったような気がした。
「ああ。……行ってくる、老倉」
僕たちは、雨の中へと、激動のシベリア遠征へと、その身を投じた。
次回豫告
「阿良々木暦、僕だ」
「戦場ヶ原ひたぎ様です」
「なぁひたぎ、この通りシベリアに遠征するってなった訳だけど何を持っていけば良いのかな」
「防寒具とか、懐中電灯とか、そんな感じかしらね。郷に従ってウォッカ持ってくのも良いかしらね。防寒になるらしいわよ?」
「一応僕ら未成年だよ!?」
「ふふ、冗談よ。ガハラジョーク」
「そうか、なら良いんだけれど……」
「でも飲食物は持ってくべきと思うわよ。水が合わないとか言うじゃない。お弁当とかおやつとかは必須かしらね」
「バナナはおやつに入るか?」
「許可しません。そこら辺にポイ捨てした皮で滑って階段から落っこちるみたいな事になりかねないわ。昔の私みたいに」
「昔のお前みたいに」
「繰り返さない。私の黒歴史を無理やり掘り返さないでもらいたいわ」
「ごめんなさい」
「後はそうね……やっぱり気持ちかしら」
「気持ち?」
「そうよ。今回は奪われた忍さんの心臓と、八九寺さんの身柄を取り戻す旅なのだから、もうちょっと攻めの姿勢でかかるべきよ」
「……やられたら、やり返すってか」
「甘ーい!やられてなくてもやり返す、身に覚えのない奴にもやり返す。誰彼構わず……八つ当たりよ!」
「それはただの迷惑な奴」
「てへっ」
「「次回、こよみウェーブ其ノ参」」
「臥煙さんの言ってた助っ人って一体誰かな……」