物語シリーズ×トランスフォーマー二次創作   作:嘘烏

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その脅威は日常に潜む。


第変話 こよみフォーム其ノ参

009

アメリカ合衆国、ワシントンDC。

自由の国、あるいは民主主義の総本山と呼ばれるこの都市の交通網は、皮肉なことに、現代の馬力ではなく、文字通りの「馬車」が闊歩していた時代の遺物である。

 

当然、それ以外の交通手段は想定されていない。

物理的なキャパシティを超えた鉄の塊――内燃機関を備えた自動車が主流となれば、美しい市街地が慢性的な血栓を起こすのは自明の理だ。

今日、ラッシュアワーのたびに歩行者と車が熾烈な縄張り争いを繰り広げ、都市全体が巨大な知恵の輪のように固着しているのは、もはや歴史的な帰結とさえ言えるだろう。

最新鋭のスーパーコンピューターをもってしても、この混沌とした渋滞をパターン化し、最適解を導き出すことは不可能に近い。

そんな、文明の袋小路とも言える景色を、一人の少女が軍用ヘリの窓から見下ろしていた。

虎の縞模様を思わせる、白と黒のツートンカラーの髪。

狭い機内には十数人の大人が同乗していたが、彼女の存在感は、例えるなら極彩色の熱帯魚がバケツの中に混じっているかのように、一際異彩を放っていた。

 

そう、羽川翼である。

猫に魅せられ、虎に睨まれ、そして世界を股にかけることになった少女。

僕の恩人であり、直江津高校開校以来の才女と呼ばれた「委員長の中の委員長」。

卒業後、彼女がパスポート一枚を手にどこへ消えたのか、恥ずかしながら僕は把握していなかったけれど――どうやら彼女が最初に選んだ戦場は、この超大国だったらしい。

ヘリが下降を開始する。

阿鼻叫喚の渋滞から切り離された広大な敷地に、その巨大な「五角形」は鎮座していた。

国防総省――通称、ペンタゴン。

世界最強の軍事力を司る心臓部を目の当たりにしても、彼女の表情に動揺はない。

昨夜、宿泊先に現れた黒スーツの男たちに「ご同行願います」と、有無を言わさぬトーンで車に押し込められた時は流石に驚いたようだが、今の彼女は既に「仕事」のモードに入っている。

周囲を見渡せば、同様に連行されてきたらしい面々が数人、状況を理解できずに青ざめていた。

おそらく朝、コーヒー片手に出勤した先で、国家権力という名の拉致に遭ったのだろう。一般人としての正しい反応だ。

 

機体は中庭の特設ヘリポートに着陸する。

ドアが開くと同時に、重武装の兵士に先導され、一行は幾何学的な迷宮へと足を踏み入れた。

羽川翼にとってペンタゴンは初訪問だったが、そこを満たしている「異常な熱量」を察知するのに時間はかからなかった。

廊下を走る職員たちの顔には、日常的な官僚仕事の退屈さなど微塵もない。

あるのは恐怖と、焦燥だ。

(どこかの基地で事故が起きた……? いや、それだけならこれほど全部署が連動して混乱することはないはず)

彼女が脳内で仮説を組み立てている間に、一行は三十人ほどが収容可能なブリーフィングルームへと押し込まれた。

そこで配られたのは、陸軍中佐とおぼしき人物の手による書類の束。

真新しいファイルに挟まれた紙は、まだ複合機の熱を帯びていて、独特のトナーの匂いが鼻を突いた。

羽川はあえて、その中身を読まない。

どうせ、活字を追うよりも早く、事態の核心が説明されることを知っているからだ。

 

「これから諸君が耳にする情報は、すべて最上級の機密事項――トップシークレットだ」

演壇に立った中佐が、笑いの一切を排除した鉄の表情で告げる。

 

「ここで見たこと、聞いたこと。そのすべてをこの建物の外へ持ち出すことは許されない。家族にも、恋人にもだ。これから署名してもらう機密保持契約も、君たちが今日ここに来たという事実さえも、公式には『存在しない』ものとして扱われる」

羽川は、ただ静かに頷く。

これまで旅した国々で似たようなフレーズは何度か耳にしたが、今回ばかりはその範疇ではない。

説明者の背負っている重圧が、物理的な圧力となって部屋を支配していた。

やがて案内されたメインの会議室は、さらに広大で、さらに重苦しかった。

集められたのは約七十名。

軍服の緑と、スーツの紺が綺麗に半々。

羽川たちが席に着くと間もなく、側面の重厚なドアが開き、一人の初老の男が入室してきた。

片手に紙コップを持ち、足早に演壇へ向かうその姿を見た瞬間、部屋中の軍人がバネ仕掛けのように起立する。

 

「……おい、あれはジョン・ケラー国防長官じゃないか?」

隣の席から、震えるような囁きが漏れた。

羽川もその名には聞き覚えがある。

ホワイトハウスの意向を超えてアメリカを動かしているという、都市伝説じみた噂の絶えない男。

そんな人物が直接姿を現したという事実が、この事態の重さを雄弁に物語っていた。

長官は無言で聴衆を見渡した。

ただそれだけで、室内のざわめきが急速に冷却され、空気が研ぎ澄まされていく。

彼は外部から招かれた「スペシャリスト」たちの顔を一人ずつ確認し、傍らの側近に小声で尋ねた。

 

「……若いな。学生を連れてきたのか?」

 

「彼らはこの分野における最高のエキスパートです、長官。NSA(国家安全保障局)は、才能ある人材を卒業前から確保する方針ですので」

 

「能力は認めよう。だが、これから説明する問題の特異性を考えると、知識だけでなく精神的な成熟も必要だと思うのだがね」

 

「年齢と成熟は別物ですよ、閣下」

 

側近のその返しが、ある児童書の一節であることを長官は察したが、あえて追求はしなかった。

これ以上、前置きに割く時間は一秒たりとも残されていない。

 

「座ってくれ。私はジョン・ケラーだ」

長官は紙コップを置き、本題を切り出した。

 

「単刀直入に言う。時間がない。……昨日、現地時間一八〇〇時。カタール西部にある中央軍特殊作戦基地が、正体不明の勢力により攻撃を受けた。生存者は、現在のところ確認されていない」

室内が凍りつく。テロという言葉では片付けられない規模の惨劇。

 

「敵の目的は、我々の情報ネットワークへの侵入、およびデータの強奪だった。職員の命懸けの抵抗により強奪は阻止されたが、奴らは必ずまた来る。……そして、我々は敵の正体を一切掴めていない。唯一の手がかりは、この音声だけだ」

長官の合図で、背後の巨大モニターに波打つ信号グラフが表示される。

直後、スピーカーから放たれたのは、人間の耳を、あるいは理性を拒絶するような――耳を劈く電子の咆哮だった。

周囲の専門家たちが顔をしかめ、不快なノイズに耳を塞ぐ中。

羽川翼だけは、違った。

彼女の瞳が、獲物を捉えた猫のように鋭く光る。

その音響信号に含まれた「意味」を、あるいは「法則性」を。

彼女は即座に手元のスマートフォンを、指が見えないほどの速度で操作し、メモとして叩き込み始めた。

 

「これが、我が軍の防衛網を紙細工のように切り裂いたハッキング信号だ。NSAが総力を挙げて解析しているが、依然として全容は見えない。諸君、我々に知恵を貸してほしい。もちろん、これは強制ではない。関わりたくない者は、今この場で退出することを許可する」

長官は出口を指し示した。

 

「今去るなら、君たちの経歴に傷はつかない。安全に家まで送り届けよう。……これが最後のチャンスだ」

沈黙。

誰も席を立たない。

恐怖以上に、この異常な事象に対する知的好奇心、あるいは「選ばれた」という責任感が、彼らをその場に繋ぎ止めていた。

長官は、満足げに、しかしどこか悲劇的な予感を孕んだ微笑を浮かべた。

 

「協力に感謝する。大統領は既に、黄海とペルシャ湾に空母艦隊を急行させた。……諸君、すぐに解析に取り掛かってくれ」

――幸運を。

その言葉を残して、長官は演台を降りた。

 

010

アメリカ国防長官がペンタゴンの深部で、世界の命運を左右する演説を行っていたその頃。

燃えるような太陽が天頂に居座るカタールの広大な砂漠では、十数人の男たちが、死の淵から這い出した足取りで砂丘を越えていた。

ウィリアム・レノックス大尉率いる、中央軍特殊作戦基地の数少ない生存者たちである。

彼らは基地を脱出してから、ただひたすらに歩き続けていた。

ふとレノックスが足を止め、熱に浮かされたような景色を振り返る。

かつて軍事力の象徴であった基地の姿は、いまや地平線の彼方に霞み、ただ細く、黒い絶望のような煙が天に向かって立ち昇っているのが見えるだけだった。

追っ手の気配はない。だが、その静寂こそがレノックスの肌を粟立たせた。

 

「一時休憩だ。負傷者の手当てを優先しろ」

レノックスの掠れた号令に、極限状態にあった部下たちが糸の切れた人形のように地面へへたり込んだ。

そこは、数年前の紛争で放棄されたのであろう戦車の残骸が、墓標のように佇む場所だった。砂塵に晒され、黒く焼け焦げた鉄の巨骸は、皮肉にも彼らに束の間の影を提供している。

レノックスは自らの荒い呼吸を整えながら、脱出の際にエップスが命懸けで撮影したデジタルカメラの画像を確認した。

液晶に映し出されているのは、二足歩行の鉄の巨人を見上げた絶望的なアングルだ。

しかし、単なる兵器の記録としては決定的な「異常」がそこには写り込んでいた。

 

「大尉、ここを見てくれ」

エップスが震える指で画面を指差す。

 

「コイツの輪郭の周りだ。電子回路の基盤みたいなホログラムというか、歪んだオーラみたいなものが写ってる。……物理的な装甲だけじゃない。おそらく、視認できない電磁バリアか何かが展開されてるんだ」

 

一等軍曹のドネリーが、砂に汚れた眼鏡を外してレンズを拭い、鼻で笑った。

「見えないバリアだと? 勘弁してくれよ、エップス。そんなの、まるで漫画だ」

 

「笑えねえよ。俺の婆ちゃんは霊感があってな、俺にもその血が流れてるんだ。……理屈じゃねえ、本能が告げてる。アイツは、まだ俺たちを逃がしちゃいない」

 

「そいつは心強い。ならその自慢のスーパーパワーで、冷えたビールと救助ヘリでも呼び出してもらおうか」

 

「なんだと、この野郎……!」

一触即発の火花が散りかけた瞬間、レノックスが二人の間に割って入った。その瞳には、指揮官としての冷徹な分析が宿っている。

「落ち着け、二人とも。……状況を整理しろ。あの怪物は、味方の軍用機に擬態して侵入した。真っ先に通信アンテナを破壊し、俺たちの喉元を掻き切ったんだ。徹底的に痕跡を消し、目撃者を排除しようとした。それが奴の戦術だ」

 

「もし俺がアイツの立場なら」

フィゲロアが、重い銃を膝に置いて呟く。

 

「自分の正体を知った人間を、一人として生かしてはおかないだろうな」

エップスが、何かに取り憑かれたように独り言を漏らした。

 

「……撮った時だ。レンズ越しに、アイツと目が合った気がしたんだ。あれはただの機械じゃない。今の地球のロボット技術で、あんな憎悪に満ちた『視線』を送れるはずがない」

「もし写真に撮られたことを奴が自覚しているなら、間違いなく追ってくるだろう」

レノックスは液晶画面を睨みつけた。

 

「この画像を、何としてでも国防総省に送らなきゃならない。人類が戦うための、唯一の手がかりだ。……無線機はどうだ?」

 

「圏外だ。砂嵐の影響か、ジャミングか……どこにも繋がりやしない」

 

「なら、この死の砂漠を抜けるしかない。どこでもいい、文明のある都市部に出るんだ。Wi-Fiのアクセスポイントか、最低でも衛星電話が生きている場所へな」

彼らに同行していた現地の少年が、震える指で遠くの岩山を指差した。

数キロ先の山の向こうに、彼の家族が住む小さな村があるという。そこなら古い無線機か、外部へ繋がる電話があるはずだ。

脱出の際に鞄へ詰め込んだ最低限の水と食料はあるが、時間は砂時計の砂のように刻一刻と失われていく。

レノックスは少年の示した方角へ、再び歩き始めた。

 

「いいか、全員。半径十メートル以内に『金属』を見つけたら、どんな些細なものでも叫べ。錆びたブリキ缶でもくず鉄でもいい。……変化を見逃すな」

兵士たちは周囲を油断なく警戒しながら、蜃気楼の揺れる砂漠へと消えていった。

だが、彼らは気付かない。

一行が去った数十メートル後方、静止していたはずの砂丘が、意思を持った生き物のように砂煙を上げて崩落したことに。

仮に視認したとしても、熱風による自然現象だと片付けていただろう。

 

しかし、現実はより残酷だった。

砂の中から、鈍い光沢を放つ金属の頭部がせり上がる。

全体は巨大なサソリを模した、より攻撃的で鋭利なフォルム。

「目」の役割を果たす複数の赤い複眼レンズから、人間には感知できない不可視の走査線が放射され、砂漠の全方位をミリ単位でスキャンし始める。

有機生命体の原始的な視覚とは一線を画す、高度なマルチスペクトル・イメージング。

数キロ先にいる十数体の熱源を瞬時に捕捉し、その手元へとズームインした。

そこには、自分たちの種族の秘密を暴きかねない、紫色の筐体のデジタルカメラが握られている。

鉄のサソリ――スコルポノックは、対象との距離を精密に算出した。

 

まだ「狩り」を始めるには早い。

獲物が希望を見出した瞬間に絶望を与えるのが、機械の冷徹な計算だった。

スコルポノックは再び砂の海へと潜り、音もなく、波一つ立てずに獲物の影を追い始めた。

 

011

「見蕩れるのは勝手だけれど、私の横顔ばかり見ていては、いずれ電柱と熱烈なキスを交わすことになるわよ、暦」

 

「分かってる、分かってるから。見蕩れるなんて、そんな大袈裟な……」

 

「あら、否定しないのね。毒気が抜けてやりやすくなったものだわ」

助手席に座るひたぎは、ふっと口角を上げた。

かつての彼女を包んでいた、触れれば切れるようなカミソリのような気配は、大学生という季節の中で、少しだけ温かな春の陽光に溶けていた。

それでも、言葉の端々に覗く鋭さは相変わらずで、僕はハンドルを握る手に少しだけ力を込める。

今日は、僕にとって特別な日だ。

このカマロを手に入れて初めての、本格的なデート。

目的地は、町外れの小高い丘。

黄色いカマロが坂道を登り始めると、なぜかラジオが勝手に鳴り始めた。

ザザッ、というノイズの後に流れてきたのは、聞き覚えのあるメロディ。

 

「あれ……? これって」

 

「……『staple stable』じゃない。懐かしいわね、17年前だなんて」

時系列上では1年しか経っていないんだけどね。

 

「あら、今年はアニメの放送開始から数えて17年、原作の刊行からは20周年よ。メタフィクションに厳しい態度は大学生活では敬遠されるわよ」

ひたぎは悪戯っぽく微笑み、ラジオの曲に合わせて小さく口ずさんだ。

続く『二言目』。

僕たちの、あの騒がしくも切実だった一年間を凝縮したようなプレイリスト。

カマロのラジオは、まるで僕たちの記憶を覗き見ているかのように、絶妙なタイミングで曲を切り替えていく。

戦場ヶ原ひたぎが歌い、僕が合いの手を入れる。

そんな車内の空間は、1周年という節目を祝うには、これ以上ないほどにぴったりだった。

 

「僕はこの一年を、一生忘れないと思う」

 

「そう。私もよ。……だから、今の言葉を墓場まで持っていきなさい。途中で落としたりしたら、ホッチキスであなたの口を封印してあげるから」

そんな甘い脅し文句を聞きながら、カマロは丘の頂上へと到着した。

見晴らしの良い場所で車を停め、夜景を楽しもうとした、その時。

ガクン、と不自然な振動。

プスプスと情けない音を立てて、カマロのエンジンが完全に停止した。

 

「……阿良々木くん」

呼び方が戻った。

 

「……はい」

 

「あなたの愛車、ここ一番で空気が読めないみたいね」

 

「いや、違うんだ。こいつ、たぶん照れてるんだよ。……たぶん」

僕が冷や汗を流しながらキーを回しても、カマロは沈黙を貫く。

すると、ひたぎが溜息をついて車を降りた。

「貸しなさい」と言って、彼女はカマロのフロントフードを迷いなく開ける。

 

「お前、車の修理なんてできるのか?」

 

「できないと思っているの? 私を誰だと思っているのかしら」

彼女は慣れた手つきで内部の配線をチェックし、どこか特定の場所を指先でなぞった。

その姿はあまりにも堂々としていて、まるで熟練のメカニックのようだ。

「……ひたぎ、本当に何でもできるんだな」

 

「何でもはできないわよ。知ってることだけ」

 

「それは羽川のセリフだっての」

僕がそう突っ込んだ瞬間、カマロが応えるように「キュルルッ」と力強い咆哮を上げた。

まるでひたぎに触れられたことで、車自体がやる気を取り戻したかのように。

 

「直ったわ。さあ、夜風が冷たくなる前に帰りましょう。あなたの運転で、ね」

帰り道、カマロは驚くほどスムーズに走った。

ラジオからは、もう変な曲は流れない。

ただ静かに、エンジンの鼓動だけが夜の空気に溶けていく。

民倉荘の前で車を停め、ひたぎを見送る。

彼女は車を降りる際、僕の頬に軽く唇を寄せた。

 

「デートは成功ね。……お疲れ様、暦」

彼女がアパートの中に消えていくのを見届け、僕は一人、カマロのハンドルを撫でた。

不思議な車だ。

窓ガラスを割り、勝手に音楽を流し、ここぞという場面でへそを曲げる。

けれど、ひたぎと僕の距離を、ほんの少しだけ縮めてくれたのも事実だった。

「……ありがとうな」

暗い車内で、僕は誰にともなく呟いた。

僕は、この車が大好きになった。

 

012

アメリカ国防総省、ペンタゴン。その地下深く、日光を完全に遮断した一画に設置された情報解析室は、今や世界で最も濃密な知性がうごめく閉鎖空間と化していた。

その中心に、羽川翼はいた。

かつての三つ編みも、腰まで届く長い髪も、今の彼女にはない。白と黒が混ざり合った虎柄の髪は、首筋をすっきりと出したショートカットに整えられている。それは彼女が「何でも知っている自分」を捨て、世界を繋ぎ合わせるために旅立った証でもあった。

視力を矯正していた眼鏡も、今はもうかけていない。

今の彼女は、ありのままの瞳で世界を見据えていた。

 

「――やはり、既存のアルゴリズムでは弾かれるか……」

羽川は、数十枚のマルチモニターから放たれる青白い光に照らされながら、誰にともなく呟いた。彼女の周囲には、NSA(国家安全保障局)からかき集められた精鋭たちが、死人のような顔でキーボードを叩き続けている。

 

「ミス・ハネカワ、そっちの進捗はどうだい?」

隣のデスクに陣取った青年ハッカーが声をかけてきた。二十代半ば、マサチューセッツ工科大学を首席で卒業したという彼は、ペンタゴン内でも指折りの天才と目されていたが、今やその自信は見る影もない。彼は、自分たちが挑んでいる「敵」の異質さに、恐怖すら感じ始めていた。

 

「最悪。……いいえ、最高に興味深いと言い換えるべきかな」

羽川は指を止めずに答える。

モニターには、カタールの基地を襲ったハッキング信号の波形が、フラクタル図形のように複雑な階層を持って展開されていた。

 

「地球上のあらゆる言語、プログラミング言語、暗号化形式、さらにはクジラの鳴き声から深海の熱水噴出孔のノイズまで照合したけれど、一致率はゼロ%。これは『未知』の領域じゃない。この信号自体が、既存の数学的論理とは全く別の地平で構築されている」

 

「冗談だろう? 数学は宇宙共通の言語だ。それが通じないなんて、相手は神様か何かか?」

 

「神様かどうかは知らないけれど、少なくとも――」

実際に神様(千石撫子)に殺される寸前だった経験のある羽川は内心苦笑いしながらも、解析された波形の最深部、一瞬だけ現れる特異点を指し示した。

 

「この信号には『意志』がある。情報を盗もうとするだけじゃない。自分を見つけ出そうとする相手のシステムを、内側から『再構築』しようとしている。まるで……」

 

「まるで?」

 

「知性を持った、機械のウイルス。あるいは、機械そのものの叫び」

羽川の言葉に、青年ハッカーは息を呑んだ。

彼女の処理能力は異常だった。NSAのメインフレームが数時間を要するシミュレーションを、彼女は脳内と手元の端末だけで数分に短縮してみせる。眼鏡を外した彼女の瞳は、膨大なデータの奔流を、まるで実体のある風景のように捉えていた。

 

「ミス・ハネカワ、これを見てくれ」

青年が別のデータを共有する。それは、信号の中に埋め込まれていた、極めて微細な音声データだった。

再生すると、あの耳を劈く電子音の合間に、かすかに重金属が擦れ合うような、規則的な音節が聞こえてくる。

「……解読できるか?」

 

「……やってみるわ」

羽川は瞳を閉じ、脳内の図書館を開く。

世界中の言語を網羅した彼女の記憶。けれど、そのどれもが、この音節を拒絶した。

彼女の額に、うっすらと汗が浮かぶ。

何でもは知らないわよ、知ってることだけ。

彼女は心の中でその言葉を反芻する。けれど、今知るべきことは、地球上のどの辞書にも載っていない。

その時、解析室の壁に設置された大型テレビが、ニュースの速報を告げた。

 

013

ホワイトハウス、ブリーフィングルーム。

演壇に立ったジョン・ケラーは、押し寄せる記者たちのフラッシュを浴びながら、沈痛な、それでいて硬質な表情を保っていた。

 

「……昨日、カタールの特殊作戦基地において発生した大規模な通信障害、および小規模な小競り合いについて報告する」

ケラーは、実際には基地が壊滅している事実を、極めて慎重な言葉で包み隠した。

 

「現在、原因は調査中であるが、テロ組織による新型の電子戦兵器を用いた攻撃の可能性がある。被害の詳細は確認中だ。一部で噂されているような、大規模な戦死者の報告は受けていない。生存者の安否についても、通信網の復旧を待って確認を行う予定である」

ケラーの言葉は、嘘ではなかった。

ただ、真実の断片を巧妙に並べ替えただけだ。

彼の手元には、最新の報告書があった。生存者ゼロ。基地施設は文字通り「消滅」。そして、敵の正体は一切不明。

この情報が公になれば、世界はパニックに陥る。国家の安全保障とは、時に国民に「穏やかな無知」を提供することでもある。

 

「長官! 敵対国家の関与は否定できないのですか?」

記者の鋭い問いに、ケラーは冷徹な眼差しを向けた。

 

「あらゆる可能性を検討している。以上だ」

ケラーは翻り、演壇を降りた。

背後で記者たちの怒号のような質問が飛び交うが、彼の心はすでにここにはない。

(生存者……もし、あの地獄から生還した者がいるのなら、それは奇跡か、あるいはそれ以上の何かだ)

 

カメラの向こう側で、羽川翼はその会見を見ていた。

彼女には分かっていた。国防長官でさえ決定的な情報を何も持っていないということが。

そして、今この瞬間も、敵の影はアメリカの心臓部へと伸びようとしていることを。

 

場面は切り替わる。

地上三万フィート。雲海を切り裂いて進む、世界で最も安全な航空機。

大統領専用機、エアフォースワン。

機内は、地上の騒乱が嘘のように穏やかだった。

高級な内装、行き届いたサービス。

警護官たちは持ち場を離れず、スタッフたちは静かに業務をこなしている。

長旅の疲れからか、幾人かの乗員は座席で深い眠りに落ちていた。

その中の一人、若手スタッフの足元。

手荷物として置かれた、一見何の変哲もない銀色のポータブルCDプレイヤーがあった。

それは、先程のカタール襲撃の混乱の最中、どさくさに紛れて持ち込まれた「忘れ物」だった。

誰も見ていない。

眠っているスタッフの足元で、そのラジカセに異変が起きた。

 

『……チ、チチ……』

微かな、金属が噛み合う音がした。

ラジカセの筐体が、まるで折り紙のように、あるいは複雑なパズルのように分解され、再構成されていく。

スピーカー部分は細長い脚に、カセットデッキの蓋は鋭い爪を備えた頭部へと。

石炭紀の地層から、そっくり這い出てきたような4本腕に2足。

あっという間に、ラジカセは奇怪な小型ロボット――フレンジーに変貌を遂げた。

 

014

座席の下から這い出したフレンジーは、眠っている乗員を一瞥すると、音もなく機内を探索し始めた。

その姿は、およそ地球上の生物には似つかわしくない。

背丈は小学生ほど。

しかし、その細部にはおぞましいほどの精密さと、異質な生命感が宿っていた。

 

最大の特徴は、やはりその頭部だ。

ラジカセの蓋だった部分が変形したそれは、まるで凶悪な昆虫の頭部を思わせる。

顔の中央には、二対、計四つの青い眼球が細いフレームの先にそれぞれ独立したレンズのようにギョロリと光っていた。人間の瞳のような感情を宿すものではなく、ただ情報を収集するためだけに存在する、冷たく、機械的な光。

それぞれのレンズは微妙に異なる角度を向いており、広範囲を同時にスキャンできることを示唆している。

 

その下に位置する口は、獲物を引き裂くための構造だった。

鋭い牙のような金属片が縦に並び、獲物の肉を食い破るかのように左右ににカチカチと音を立てる。

それはまるで、節足動物の口器がそのまま拡大されたような、見る者に生理的な嫌悪感を抱かせる形状だ。

時折、その口からは、機械的な電子音のような「チチチ……」という音が漏れ出す。

それはフレンジーが情報を処理する際の、あるいは獲物を前に興奮する際の、彼の「声」だった。

 

全身に張り巡らされた細い金属のワイヤーは、まるで神経か血管のようにフレンジーのボディを覆い、有線で機内のあらゆるポートに接続できることを示している。

手足は細く、多関節で、蜘蛛のように器用に機内を這い回ることを可能にしていた。

 

フレンジーが機内を歩き回る中、その奥のプライベートルームに一人の客室乗務員が入室する。

中にいるのはアメリカ合衆国大統領である。

彼は、入ってきた乗務員に、のんびりとした調子で声をかけた。

 

「……すまない、少し小腹が空いたんだ。チョコケーキを一切れ、取ってきてくれないか?」

部屋のすぐ外で小型ロボットが這い回っていることに、まだ誰も気づいていない。

フレンジーは、音もなく乗客の足元をすり抜け、機体の中央へと向かう。

エアフォースワンの安全な回線を通じて、ペンタゴンの最深部へとアクセスするための「侵入口」を、彼は探していた。

そこには、機内の各区画を結ぶエレベーターがあった。

彼は目的の通信コンソールが、おそらく下層デッキに位置していると推測していた。

 

ちょうどその時、機内のキッチン、あるいはパントリーへと繋がる通路。

空軍二等軍曹のアン・ミラーは、自らの不運を呪うように小さな溜息を吐いた。

彼女は空軍の制服に身を包んだ、まだ若い兵士だった。

 

「せっかく空軍に入ったのに、ケーキ運びなんて……」

彼女は小さく溜息をつき、エレベーターのボタンを押す。

大空を駆ける戦闘機パイロットを夢見て入隊したはずが、現実は大統領の「お使い」ばかりだ。

そんなことを考えながら、彼女はふと足元に目をやった。

(ん……? なんだ、これ?)

エレベーターの扉が、音もなく滑らかに開く。

アンが足を踏み入れようとした、その時だった。

彼女は床に置かれた、見慣れない銀色のポータブルCDプレイヤーに気づいた。

こんなものが、こんな場所に放置されているのは不自然だ。

彼女は一瞬動きを止めた。

が、彼女はそれをただの「忘れ物」だと思っただけだった。

警戒心はない。

 

「誰かの忘れ物かしら?」

そう呟くと、彼女は屈んでそれを拾い上げた。

カタカタ、と微かな金属音がしたが、女性は気にも留めなかった。

(安っぽい音ね。こんなもの、今どき使う人なんてほとんどいないでしょうに)

彼女はCDプレイヤーを手にすると、エレベーターに乗り込んだ。

そして、下層デッキに降りると、空いている棚の上にそれを置いた。

 

「後でスタッフに伝えておきましょう」

そう呟き、彼女はチョコケーキを取りに向かった。

フレンジーは、女性の行動を予測していたかのように、棚の上で青い液晶を明滅させる。

彼女は奥の大型冷蔵庫を開け、銀のトレイに乗った濃厚な丸いチョコレートケーキを取り出した。

冷気と共に甘い香りが漂う。

大統領お気に入りの、特製チョコケーキ。これを崩さないようにプライベートルームまで運ぶのが、今の彼女の「最優先任務」だ。

 

「よし……」

ケーキを手に振り返った彼女は、一瞬、目を見開いた。

先ほど棚に置いたはずのCDプレイヤーが、影も形もなくなっている。

 

「えっ……? 嘘、どこにいったの?」

静まり返った倉庫内。エンジン音の重低音だけが響く空間で、彼女の背筋に冷たいものが走った。

誰かが持ち去ったにしては、あまりに音がしなかった。

まるで、機械自体に足が生えて逃げ出したかのような――。

 

「……気の所為よね。疲れが溜まってるんだわ、きっと」

自分に言い聞かせ、彼女は歩き出した。

その時だった。床の僅かな段差に躓き、彼女の手元が大きく揺れた。

その拍子に、トレイが傾く。

 

「あ!」

トレイの端に乗せていたケーキが、床に滑り落ちた。

倉庫の奥、暗い隙間に向かって勢いよく転がっていく。

 

「最悪……」

アンは膝をつき、暗がりに消えようとするケーキに手を伸ばした。

だが、その時。

不可解な現象が起きた。

暗闇へと転がっていったはずのチョコケーキが、まるで目に見えない壁に当たったかのように急停止したのだ。

それだけではない。

ケーキは、まるで誰かが背後から軽く蹴り出したかのように、アンの手元に向かって「コロン」と戻ってきたのである。

 

「……え?」

アンの指先が、戻ってきたケーキに触れる。

暗闇の奥。蹴ったのは機械の中に埋もれて潜むフレンジー。

目の青いライトを消し、その姿を完璧に周囲と同化させている。

アンの心臓は、早鐘を打つように脈打っていた。

拾い上げたケーキは、まだ冷たく、そして指先には確かな感触がある。しかし、今起きた現象を説明できる物理法則を、彼女は持ち合わせていなかった。

 

「……誰か、そこにいるの?」

震える声で問いかける。

返答はない。ただ、エアフォースワンの巨大なエンジンが刻む重低音だけが、床を通じて彼女の膝に伝わってくる。

アンは恐る恐る、ケーキが戻ってきた暗がりに向かって、手元にあったペンライトのスイッチを入れた。

細い光の筋が、倉庫の奥を切り裂く。

山積みにされた予備の機内食、スペアのブランケット、そして複雑に絡み合う配線。

そこには、何もいなかった。

だが、光が当たった瞬間、金属のパイプが不自然に「しなった」ように見えたのは、果たして錯覚だったのか。

アンは気の所為だと思い、首を傾げながらその場をあとにする。

階段を駆け上がる彼女の足音が遠ざかる。

その静寂と入れ替わるように、倉庫の積み荷の中からフレンジーが音もなく出てくる。

 

彼は四つの青い瞳を再び怪しく発光させ、アンが去っていった扉を一瞥した。

彼の優先順位において、一介の兵士の混乱など塵にも等しい。

フレンジーは多関節の指を器用に動かし、壁面に設置されたメイン・サーバー・コンソールのアクセスパネルをこじ開けた。

パネルの裏側には、高純度の光ファイバーと、最高レベルの暗号化を施された通信ケーブルが詰まっている。

フレンジーの指先が細い針のように変形し、その中心部へ、まるで神経を接続するかのように突き刺さった。

『アクセス開始――暗号鍵、照合中』

フレンジーの視覚野には、人間には知覚できない速度で膨大なデータが流れ込む。

大統領専用機の回線を経由した、ペンタゴンへの不正アクセス。

目的は、カタールで得られなかった「アイスマン」に関する完全なデータの奪取。

一方、その「侵入」を、地球上の誰よりも早く察知した者がいた。

 

「――来た」

ペンタゴンの地下、情報解析室。

羽川翼は、モニターに表示された一段と複雑なノイズの波形を見つめ、静かに呟いた。

その瞳は、もはやデータの海を泳ぐ魚のように、凄まじい速度で流れる文字列を追いかけている。

 

「ミス・ハネカワ? どうしたんだ、急に黙り込んで」

青年ハッカーが怪訝そうに彼女の顔を覗き込む。

羽川の表情は、氷のように冷たく、それでいてどこか熱を帯びていた。

 

「ハッキングの経路が切り替わったわ。さっきまでは外部からの力ずくの侵入だった。でも、今は違う。……『内部』よ」

 

「内部? まさか、このペンタゴンのどこかにスパイがいるとでも言うのかい?」

 

「いいえ。もっと高い場所。空の上だわ」

羽川の指がキーボードの上で舞う。

侵入経路を逆探知し、発信源を特定する。

表示された座標は、現在、アメリカ上空を飛行中の航空機と一致した。

 

「機体識別番号……28000。――エアフォースワン」

 

「な、なんだって……!?」

解析室に激震が走る。

大統領の足元から、国家最重要機密への扉がこじ開けられようとしている。

羽川は、自分の予感が正しかったことを確信した。

あのカタールで観測された信号。

地球上のどの言語にも当てはまらない、機械たちの魂の叫び。

それが今、大統領専用機の通信網を「再構築」し、このペンタゴンを飲み込もうとしていた。

 

015

エアフォースワンの通信デッキ、その狭いサーバーラックの隙間で、フレンジーの指先が超高速で明滅していた。

それはもはやタイピングやプラグの接続といった物理的な次元を超えていた。

指先から伸びた細い銀色のプローブが光ファイバーの芯線に直接食い込み、データの奔流と自らの意識を同調させている。

フレンジーの視覚野には、ペンタゴンの基幹サーバー群が「要塞」のような立体構造物として描出されていた。

彼はその壁を破壊するのではなく、情報の波に化けて「浸透」し始めた。

 

『アクセス成功……検索開始……』

フレンジーの脳内に、断片的なデータの残滓が流れ込む。

 

[NBE-1]……

[プロジェクト:アイスマン]……エネルギー源の解析、およびリバースエンジニアリング。

[座標:N 36.01, W 114.73]……

 

ハッキングはペンタゴンだけではない。

インターネットを通じて、全世界の情報を捜索していく。

その中には日本のとあるオークションサイトもあった。

アカウント、出品商品が次々と移り変わり、古びた眼鏡が映し出される。

 

「ギ、ギギ……! ギ……!!」

目的の断片に触れたフレンジーの口から、歓喜にも似た不快なノイズが漏れる。

彼はデータを吸い上げると同時に、ボディから伸びる無数の触手をコンソールの深部へと突き刺した。彼の目的は窃盗だけではない。この中枢を通じて、ペンタゴンの全防衛システムを「再構築」――すなわち、物理的な破壊を伴わない内部からの崩壊を狙っていた。

 

「――違う。これはただのハッキングじゃない」

ペンタゴンの地下解析室。

羽川の指はキーボードの上で、残像が見えるほどの速度で舞っている。モニターの一角に表示されたエアフォースワンからの受信ログが、異常な速度で「書き換えられて」いく。

 

「ミス・ハネカワ! 何が起きている!?」

青年ハッカーが身を乗り出すが、羽川の視線は固定されたままだ。

 

「彼らはデータを盗むと同時に、この建物の全サーバーに向けてウイルスを送り込んでる。……いいえ、ウイルスなんて生易しいものじゃない。自己増殖し、ハードウェアそのものを過負荷で焼き切る『実体を持った悪意』。このままじゃ数分以内に、アメリカ全軍の指揮系統が沈黙する!」

羽川は即座に、室内を見渡して叫んだ。

 

「上級士官を呼んで下さい! 早く! 権限を持っている人を!」

室内が騒然とする中、奥の重厚な防音扉が開き、数名の将校を引き連れた陸軍少将が現れた。

 

「何事だ、騒々しい」

 

「少将! 今すぐ、この施設の全サーバーを外部ネットワークから切り離し、オフラインにしてください!」

羽川は、階級の差など意に介さず、少将の目を真っ向から見据えて言い放った。眼鏡のない彼女の瞳は、軍人の威圧感すら跳ね返すほどの鋭い光を宿している。

 

「何を馬鹿な。今この瞬間も、我々はカタールの事態を把握するために全世界の基地と通信を行っている。システムを落とせば、我が国は文字通り『盲目』になるのだぞ」

 

「盲目になるか、心臓を焼き切られるかの選択です!」

羽川は、モニターに映し出された進行状況バーを指し示した。赤い領域が、青い領域を猛烈な勢いで侵食している。

「相手は私たちの技術水準を遥かに超えています。ファイアウォールなんて紙切れも同然。彼らの目的はデータの奪取だけじゃない、奪った後にこのネットワークを壊滅させて、追跡の手を封じることにある。……今すぐ回線を物理的に切断して! そうしなければ、ペンタゴンはただの巨大な墓標になります!」

少将は一瞬、逡巡した。目の前の少女が、たった数時間でNSAの精鋭たちを凌駕する解析結果を出したことは聞いている。だが、全サーバーの停止は国家レベルの緊急事態だ。

 

少将は決断した。

「全セクションに伝達! 回線を物理切断しろ! サーバーをオフラインに落とせ! 手動だ、急げ!」

 

解析室内のスタッフたちが一斉に動き出した。壁際にある巨大な手動レバーや、光ファイバーのカプラーへと駆け寄る。

 

「切断まで、あと十秒!」

羽川はモニターを見守る。フレンジーの送り込んだ「悪意」は、最後の防壁を突破しようと、牙を剥いて押し寄せてくる。

 

「五、四、三、二……」

 

「今だ!」

少将の号令と共に、巨大なブレーカーが落とされた。

それと同時に、解析室を満たしていた数百台のモニターの光が、一斉に、そして無慈悲に掻き消えた。

 

016

重苦しい静寂と、非常用電源の赤い灯りだけが室内を包む。

羽川は、キーボードから手を離し、深く、長く息を吐いた。指先が微かに震えている。

危機一髪だった。あと一秒遅ければ、ウイルスは全軍の核発射コードにまで到達していたかもしれない。

 

エアフォースワンの下層デッキ、通信室。

ペンタゴン側の回線が物理的に切断された瞬間、フレンジーの視覚センサーに走っていた情報の奔流が、残酷なまでの静寂へと変わった。

 

「ギギッ……ガ、ガガガガガ!!」

あと数秒。あと数秒あれば、情報を完全に復元できたはずだった。

フレンジーは憤怒に近い電子音を上げると、多関節の腕を振り上げ、目の前のメインディスプレイを渾身の力で叩きつけた。

バキィッ! という硬質な破壊音が響き、強化ガラスのモニターに蜘蛛の巣状の亀裂が走る。

それでも収まりがつかないと言わぬばかりに、彼は自らの金属製の頭部を、狂ったようにコンソールへ叩きつけ始めた。

ガン! ガン! ガン!

その異常な金属音は、当然、機内の異変を察知していた男たちの耳に届いていた。

 

「開けろ!扉をぶち破れ!」

厚い鋼鉄の扉の向こうから、鋭い号令が響く。

次の瞬間、爆薬によってこじ開けられた扉から、漆黒のタクティカルベストに身を包んだシークレットサービスの精鋭たちがなだれ込んできた。彼らは大統領を守るためだけに訓練された、世界最強の盾である。

 

「動くな! 手を上げろ!」

先頭の隊員がライトを浴びせる。

その光の中に浮かび上がったのは、人間ではない。

コンソールの上にしゃがみ込み、四つの青い目を不気味に明滅させる、銀色の異形。

 

「……なんだ、これは!?」

隊員たちが一瞬、その未知の光景に戦慄し、引き金に指をかけた。

だが、それよりもフレンジーの反応の方が遥かに速かった。

 

「チチチ、キシャアアアアア!!」

フレンジーの胸部が瞬時に左右に展開され、高速回転するドラムのような機構が露出する。

シュオオン! という、空気を切り裂くような高周波音が室内に響いた。

 

「撃て! 撃てえっ!」

隊員が叫ぶのと、フレンジーの胸部から「ディスク」が射出されたのは同時だった。

それはただの円盤ではない。超硬合金で作られた、分子レベルの鋭利さを持つ高速回転の鋸刃だ。

スパンッ、という軽すぎる音が数回。

火花を散らすこともなく、手裏剣のような形をしたディスクは隊員たちが構えていた自動小銃の銃身を紙のように切り裂き、そのまま彼らの胸部装甲を、そしてその下の肉体を容易く両断した。

叫び声を上げる暇もなかった。

室内に飛び込んだ三名の精鋭は、何が起きたのかを理解する間もなく、物言わぬ肉塊となって床に崩れ落ちた。

鮮血が計器類とフレンジーの銀色のボディを赤く汚していく。

死角となっていた資材の影から、生き残っていた最後の一人が飛び出した。彼は震える手でハンドガンを保持し、フレンジーの頭部を狙って引き金を引く。

乾いた銃声が狭い室内に響く。

だが、フレンジーの動きは生物の限界を超えていた。彼はコマのように自身の軸をずらし、弾丸を紙一重で回避。着弾した背後の壁から火花が上がるのと同時に、ディスク弾が射出された。

倒れたことを確認すると、フレンジーは満足げに機械音を鳴らす。

 

その後、応援が発見したのは血まみれの4人の死体と、脇の棚で陽気な音楽を鳴らす銀色のラジカセだけだった。

 

017

ペンタゴンの指揮所では、復旧したばかりの緊急回線を通じて、ジョン・ケラー国防長官が受話器を握りしめていた。彼の血管が浮き出た額には、隠しきれない怒りと焦燥が滲んでいる。

シークレットサービスが殺害されたという一報は、すでに彼の元に届いていた。

 

「エアフォースワンに連絡しろ。 無線が死んでいるなら、あらゆる予備回線を使え。大統領を直ちに最寄りの基地へ降ろすんだ」

 

「しかし長官、機内の状況が把握できていません。もしテロリストが――」

 

「だからこそだ!」

ケラーは叫んだ。

 

「あの通信障害の直前、あのハネカワという少女が指摘した通り、ハッキングの発信源は『機内』だった。あの中には、目に見えない何かが潜んでいる。空中に留めておくのは、弾丸の入ったリボルバーをこめかみに当ててロシアンルーレットをしているのと同じだ」

ケラーの冷徹かつ迅速な判断により、暗号化された極超短波通信がエアフォースワンへと届く。

 

「エアフォースワンへ告ぐ。大統領の安否を確認後、直ちに最寄りの予備飛行場へ着陸せよ。……繰り返す、エアフォースワン、直ちに着陸せよ」

数十分後。厳戒態勢が敷かれたメリーランド州のアンドルーズ空軍基地。

深夜の滑走路を、エアフォースワンの巨大なタイヤが激しく叩いた。

駐機場には、すでに数えきれないほどの黒塗りの車両と、武装したシークレットサービス、そして空軍の特殊部隊が展開している。

大統領を保護し、機内で起きた「何か」を制圧するための完璧な布陣。

 

その厳戒態勢の隙間を、一台のパトカーが縫うように進んでいた。

一台のパトカー――サリーン・S281。

漆黒のボディに、白く刻まれた「POLICE」の文字。

サリーンは高いエンジン音を響かせ、緊急車両用のサイレンを鳴らしながら、空港を封鎖している黒塗りの政府車両の列のすぐ横に、滑り込むように駐車した。

 

「おい、あの車両はどこの所属だ?」

警備に当たっていたシークレットサービスの一人が、眩しそうに目を細めてその車両を見る。

だが、運転席に座る男の姿を見て、彼は足を止めた。

そこには、無骨なサングラスをかけ、整えられた髭を蓄えた白人警官が、厳めしい表情で前方を凝視していた。その姿は、いかにも職務に忠実な州警察のベテランそのものであった。

 

「……地元警察か? タイミングが良すぎるが…」

 

「付近の交通規制に当たっていた車両でしょう。長官の指示ですよ」

不審に思う者はいなかった。

混乱の最中、警察車両が応援に駆けつけるのは不自然ではない。

だが、シークレットサービスたちは、パトカーの中の「警官」が瞬き一つせず、人間特有の微細な動きを一切見せていないことに気づかなかった。

その隙に、エアフォースワンの機体下部、貨物搬出口の僅かな隙間から、銀色の影が滑り落ちた。

フレンジーだ。

彼は4人ものシークレットサービスを屠った直後とは思えないほど、音もなく、影に紛れて移動する。

血飛沫を浴びていたボディは、降りてくる途中で巧みに変形し、汚れを内側に巻き込んで、再び清潔な銀色の光沢を取り戻していた。

「チチ……ギ、ギギ……」

フレンジーは蜘蛛のような動きで地面を這い、迷うことなくサリーンS281の元へと向かう。

パトカーのドアが、あたかも意思を持っているかのように、ごく僅かだけ開いた。

フレンジーが助手席に乗り込んだ瞬間に、ドアは再びひとりでに閉まった。

外からフレンジーが見えることはない。

フロントガラスから見えるのは運転席の警官だけだ。

 

「虫ケラメ撃チヤガッテ」

助手席に座るフレンジーは中指を立てて高速で毒づきながら、フレンジーは車内のコンソールを操作する。

早口でまくし立てられる機械音が車内に響く。

車の中から音が漏れることは無い。

聞こえたとしても、外の人間には解読は不可能だっただろうが。

 

「『キューブ』ノ手掛カリ発見」

「ウィトウィッキーマンガ我々ノ文字ヲ見タ」

「彼ノ眼鏡ガ必要ダ」

「検索…」

インターネットから画像を照合し、アカウントの住所を絞り込む。

 

「照合……一致。『ハーフボーイヲハフハフシ隊長』ヲ探セ」

それを受け、サリーンは猛スピードで滑走路から走り去っていった。

モニターに最後に映し出されていたのは、短髪のボーイッシュな女子高生の画像だった。

 




次回豫告
「戦場ヶ原ひたぎ様です」

「羽川翼だよ」

「膝枕ってあるじゃない」

「うん、人の膝に頭を預けて休むあれだよね」

「ええ。でも、あれってよく考えたら言うほど『膝』じゃないわよね。『膝枕』というより、むしろ『腿枕』の方が適切じゃないかしら」

「あ、確かに。膝だと硬すぎるから、自然と腿になっていったのかな」

「だいたいそうね。前に暦にやってもらった時、全く癒やされなかったもの」

「しれっと阿良々木君に何をさせてるのかな、ひたぎちゃん?」

「膝蓋骨の硬さを頭蓋骨で再確認させてもらったわ」

「そんなうまいこと言おうとしなくても……」

「「次回、第変話 こよみフォーム 其ノ肆」」

「私としては翼にゃんの胸枕にニーズがあると思うのだけれど」

「寝言にゃら、胸じゃにゃく膝を枕にして言うんだにゃ」
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