018
深夜十一時。
丑三つ時と言うには少し早いが、善男善女が眠りに落ち、怪異が目を覚ますには十分な時間だ。
阿良々木家のガレージで、その「事件」は起きた。
僕が命よりも、あるいはミスタードーナツの新作よりも大切にしようと誓った愛車、黄色いカマロが、誰に運転されるでもなく独りでにエンジンを始動させたのだ。
「……お前様よ、起きるのじゃ。主人の寝首をかく気はないようじゃが、愛車が夜逃げをしておるぞ」
影の中からぬるりと現れた金髪幼女――忍野忍の声で、僕は跳ね起きた。
窓の外を見れば、テールランプの赤い残光を残して、僕のカマロが夜の闇に吸い込まれていくところだった。
待て待て待て。
盗難か? いや、鍵は僕の枕元にある。
怪異か? いや、忍は「怪異の気配はしない」と言っていたはずだ。
混乱する脳細胞を無理やり叩き起こし、僕はパジャマのまま玄関を飛び出した。
「追うぞ、忍! 足を貸せ……って、僕の車より速く走れるわけないだろ!」
「かかっ。お前様左様。…お前様の血を吸い尽くせば別じゃがの」
「物騒な冗談はやめてくれ。……クソ、こういう時に限って自転車は無いし……」
ガレージの隅。妹たちの自転車もない。
絶望に打ちひしがれかけた僕の目に、一台の乗り物が飛び込んできた。
漆黒のフレーム、無骨なタイヤ。
そこにあるはずのない、忍野扇のマウンテンバイク。
なぜここにあるのか。理由は明白だ。
妹の月火が「ちょっと借りるね」という無邪気な暴力によって借りパクし、そのまま放置していたのだ。
「これ……鍵がかかってる。番号は?」
「お前様、そこにあるメモを見るのじゃ。――『鍵は1234。あまりに無防備すぎる私を笑ってください、先輩』……じゃと。あの暗黒娘め、確信犯じゃな」
「後で扇ちゃんに何を言われるか想像したくないけど、背に腹は代えられない!」
僕はダイヤルを『1234』に合わせる。カチリ、という嫌なほどスムーズな音。
僕はマウンテンバイクに跨り、カマロの排気音が消えた方角へとペダルを漕ぎ出した。
深夜の直江津町。
街灯だけが僕を嘲笑うように点滅している。
「忍、カマロはどっちだ!」
「案ずるな、あの車からは例の『放射線』が出ておる。儂の鼻からは逃げられんわ。……右じゃ、お前様。海沿いの廃工場地帯に向かっておるぞ」
ペダルが重い。扇の自転車は、乗る者の精神を削るような妙な重厚感があった。
冷たい夜風がパジャマを突き抜け、僕の心臓を直接冷やしていく。
なぜ、あのカマロは僕を置いて行ったのか。
「大好きになった」という僕の告白は、機械には届かなかったのか。
三日三晩、愛を囁き続ければ鉄塊にさえ魂が宿るという付喪神の理屈は、どうやらゼネラルモーターズには通用しないらしい。
それとも――僕の知らない「物語」が、あいつにはあるのか。
不吉な予感は、確信へと変わりつつあった。
019
辿り着いたのは、町外れの海岸線に位置する、数年前に閉鎖された製鉄所の廃工場だった。
錆びついた鉄骨が月光を浴びて、巨大な骨格標本のようにそびえ立っている。
僕はマウンテンバイクを物陰に放り出し、忍と共に工場内へと忍び込んだ。
「……静かに。お前様、上を見るのじゃ」
忍の指摘に従い、僕が見上げた先。
聞こえてきたのは、金属が高速で擦れ合い、噛み合う機械的な音。
時計の歯車を数千倍に増幅したような、複雑怪奇な不協和音だ。
カマロのボディーが、まるで生き物のように蠢き始めた。
ドアが、ボンネットが、タイヤが、物理法則を無視した角度で折れ曲がり、スライドし、再構築されていく。
内装のシートやハンドルが、内側から外側へと裏返るように移動し、巨大な四肢を形成する。
既存の物理学を無視したような軌道で組み替わり、立ち上がり、巨大な「人型」を形成していく。
全高五メートルはあるだろうか。
黄色い装甲を身に纏ったその巨人は、膝をつき、工場の天窓から覗く夜空を見上げていた。
その背中には、カマロの象徴であった黄色い装甲が翼のように配置され、頭部には青く輝く光学センサー――目が灯っている。
少なくとも、そこには僕の知っている「車」の姿はなかった。
「……嘘だろ」
絶句した。
巨人の頭部が小さく振動する。
それはまるで、泣いているようにも、祈っているようにも見えた。
やがて、巨人の胸部から眩い青白い光が放たれた。
それはサーチライトなどという生易しいものではなく、宇宙の深淵まで届きそうな、純粋なエネルギーの束。
「シグナル」だ。
彼は、空の向こう側にいる、誰かに呼びかけているのだ。
「……あれは、付喪神などではない。お前様、あれは――」
忍が言葉を発しようとした、その時だった。
「動くな! 警察だ!」
突然の怒号。
強烈な懐中電灯の光が、僕と忍を包み込んだ。
反射的に手を上げる。
工場の入り口には、通報を受けたらしい数人の警察官が立っていた。
深夜の廃工場。不法侵入。そしてパジャマ姿の高校卒業生。
最悪のシチュエーションだ。
「え、いや、違うんです! 僕は自分の車を追いかけて……!」
「車? ここには何もないじゃないか。君、落ち着きなさい」
警官の言葉に、僕は慌てて奥を振り返った。
そこには――。
巨大なロボットの姿はなく、ただの「黄色いカマロ」が、何食わぬ顔で停車していた。
いつの間に。どうやって。
カマロのボディーは冷え切っており、まるで一歩も動いていないかのような沈黙を保っている。
「……忍、あいつ……」
「気配を消しおったな。お前様、これは詰みじゃ」
忍はさっさと影の中に逃げ込み、後に残されたのは、挙動不審の極致にある僕一人。
「とりあえず、署まで来てもらおうか」
その言葉が、直江津町の冷たい潮風に乗って僕の耳に届いた。
020
「……というわけで。阿良々木先輩、私は失望しました。あるいは、期待通りと言うべきでしょうか」
「それは矛盾なんじゃないのか」
時刻は深夜二時。
場所は直江津警察署の取調室、ではなくロビー。
パイプ椅子に腰掛け、情けない姿でうなだれる僕の前に、その少女は立っていた。
忍野扇。
僕の保護者として呼び出されたのは、連絡のつかなかった両親でも、お節介な火憐や月火でもなく、なぜかこの黒々しい後輩だった。
「でも、扇ちゃん……。どうして、君が……」
「ご両親から連絡を受けたんですよ。『あの子はもう見捨てた。代わりに誰か引き取ってくれ』と。……冗談です、そんな顔しないでください。私が『従妹』として身元を引き受けに来たんですよ」
扇は、警察官に対して驚くほど流暢な、そして論理的な嘘を並べ立てた。
阿良々木暦は極度の夢遊病であり、車も自転車も無意識のうちに持ち出したものであること。
マウンテンバイクの貸与には正当な許可があったこと。
そして、彼は非常に臆病で、廃工場で何か悪いことをするような度胸は持ち合わせていないこと。
「全く、手のかかる先輩ですね」
警察署の外。
冷たい夜風が頬を刺す中、扇は僕の前にマウンテンバイクを転がしてきた。
「カマロは?」
「警察のレッカー車でご自宅まで運ばれましたよ。安心してください、車自体に罪はありません。……罪があるのは、深夜にパジャマで踊っていた貴方の方です」
「踊ってない!」
僕は警察署を出て、扇と共に夜道を歩く。
彼女はマウンテンバイクを押し、僕はその横をとぼとぼと歩く。
影の中にいる忍は、一言も発しない。
「阿良々木先輩。貴方はあの廃工場で、何を見たのですか?」
立ち止まった扇ちゃんが、不意に問いかけてきた。
街灯が彼女の影を長く、歪に引き伸ばしている。
正直に話すべきか。
巨大なロボットが空に信号を送っていたなどと、彼女のような「正解」を導き出す存在に話して、信じてもらえるのか。
「……何も。ただの、見間違いだよ」
「そうですか。それは残念。……でも、阿良々木先輩、一つお聞きしたいことがあるんです」
扇ちゃんは足を止め、長い袖の先でマウンテンバイクのハンドルを弄びながら、僕を覗き込んだ。
真っ黒な瞳が、月の光さえ反射せずに僕を射抜く。
「阿良々木先輩。貴方はいつも自身を犠牲にして、人を助けますよね。私も――まあ、助けられた側ですが。貴方のその『自己犠牲の精神』、ある種の病気だと思いませんか?」
扇ちゃんの言葉に、僕は喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。
自分を犠牲にする。それは僕の悪癖であり、僕という人間を形作る歪な骨組みだ。
「……病気ってほどじゃないさ。放っておけなかっただけだよ」
「いいえ、立派な疾患ですよ。いいですか、先輩。こんな言葉を聞いたことはありませんか?『
「……犠牲なくして、勝利なし?」
聞き覚えのないフレーズだ。どこかの軍隊のスローガンのようでもあり、冷酷な格言のようでもある。
「ええ。勝利という対価を得るためには、相応の重さの何かを差し出さなければならない。至極真っ当な、等価交換の論理です。」
「……何が言いたいんだよ」
「世界を救うために女の子一人を犠牲にするか、女の子一人のために世界を滅ぼすか。……去年の夏休みに、そんなことがありましたよね?」
「……っ。ああ。忍と過去に飛んだ時の、話か」
ルートの分岐点。八九寺真宵を救うために過去を変え、その結果として世界が滅びかけた、あの夏休み。
僕が選んだのは、究極の二択だった。
「あの時、貴方は『世界を救って、女の子も救う』ことを選んだ。二兎を追って二兎とも捕まえるという、傲慢で、かつ無謀な正解を。……あの時は、たまたま、奇跡的に成功しましたが」
扇は一歩、僕に詰め寄る。その体温を感じさせない冷気が、パジャマ越しに肌を刺した。
「果たして、貴方は今回もそれができますか? 貴方はまた、誰も犠牲にしないハッピーエンドを夢想するのでしょうか。……誰かを、あるいは『何か』を切り捨てなければ、守れない勝利があるとしたら?」
「……それは」
答えに詰まった。
カマロが見せた、あの悲痛なシグナル。
空を見上げて祈るようなあの姿が、もし「犠牲」を前提とした戦いの序曲だとしたら。
扇はマウンテンバイクのハンドルをゆっくりと揺らし、言葉を継ぐ。
「何かを得るためには、何かを捨てなければならない。それを否定し、全てを救おうとする貴方の甘さは、時に毒よりも致命的な結末を招き寄せる。今回、貴方の目の前に現れたのは、八九寺真宵のような迷い牛でも、戦場ヶ原ひたぎのような重し蟹でもありません。
「それは、星の命運を賭けた『正義』と『悪』の衝突です。貴方のパジャマが破れる程度では済まない、本物の、不可逆な犠牲。……それを払う覚悟もなしに、あの黄色い車に愛を囁いていたのだとしたら、それはあまりに滑稽ですよ」
扇の瞳が、街灯の光を吸い込んで真っ黒に濁る。
「阿良々木先輩。あの黄色い車、あれは『怪異』ではありません。……けれど、この街の均衡を壊しかねない『異分子』です。あなたはまた、拾わなくていい地雷を、それも核弾頭並みの地雷を踏み抜きましたね」
「……扇ちゃん、君はどこまで知ってるんだ」
「私は何も知りませんよ。あなたが何も知らないように……ただ、犠牲を払う覚悟だけはしておいてくださいね。その犠牲が、貴方の愛車なのか、あるいは貴方自身なのかは分かりませんが」
扇ちゃんはマウンテンバイクに跨ってゆっくりとペダルを漕ぎ出し、そのまま闇の中に溶け込むように走り去っていった。
「お前様……あの暗黒娘の言う通りじゃ。犠牲となるのは、ミスタードーナツの新作ではあるまい」
残された僕は、自宅のガレージに戻っているはずのカマロのことを思う。
あいつは、誰を呼んでいたのか。
そして、その呼びかけに応える者が現れた時。
僕の平穏な、あるいは怪異にまみれた日常は、今度こそ完全に終わるのかもしれない。
そんな予感を抱きながら、僕は冷え切った家路を急いだ。
「……お前様よ。明日の朝、あの車にオールドファッションでも供えてみてはどうじゃ? 案外、機嫌を直すかもしれんぞ」
影の中から聞こえた忍の軽口だけが、今の僕には唯一の救いだった。
021
ワシントンDC、国防総省。
ジョン・ケラー国防長官は、通信パネルの前に立ち、険しい表情で報告を待っていた。
「……信じがたい。ハッキングの痕跡すら残さないとは」
ケラーは苦い声を漏らす。エアフォースワンのセキュリティが突破され、あろうことか国防総省のメインサーバーへの侵入口として利用されたのだ。
「長官、これは宣戦布告と捉えるべきです」
側近の一人が、緊張に震える声で進言する。
「これほどの技術、これほどの隠密性。……ロシアの『ベア』か、あるいは北朝鮮のサイバー部隊か。中国の関与も否定できません」
「北かロシアか……奴ら、ここまで大胆な真似をするようになったのか」
ケラーは拳を握りしめる。冷戦時代から続く疑念の火種が、再び燃え上がろうとしていた。
「――いいえ。それは違います、長官」
その場にそぐわない、穏やかでいて、どこか全てを見透かしたような丁寧な声が響いた。
ケラーが振り返ると、そこには虎柄の髪を揺らし、場違いなほど冷静な瞳をした少女が立っていた。
羽川である。
「……ミス・ハネカワ。君か」
ケラーは足を止め、彼女に耳を傾けた。
彼女こそが、エアフォースワンからのハッキングを最初に発見し、ペンタゴンの沈黙を救った功労者だ。この場にいる誰よりも「数字の裏側」を見ている少女。
「先ほどの意見ですが、国家による攻撃と考えるのは少し論理的ではありません」
羽川はモニターを指し示した。
「エアフォースワンのファイアウォールは、現存する人類の技術の結晶です。それを二十秒で突破するのは物理的に不可能です。最新のスーパーコンピューターを数千台並べたとしても、二十年はかかる計算になります」
「二十年だと? 奴らはそれを瞬きする間にやってのけたんだぞ」
別の側近が反論する。
「だからこそです。既存の計算機科学の延長線上には、このハッキングを説明できる答えはありません」
「報告です!」
通信兵が駆け込んでくる。
「北朝鮮の東部海岸に動きあり! ミサイル基地の稼働を確認。中国も黄海に艦隊を集結させています!」
「やはり奴らか!」
側近が叫ぶ。ケラーの表情が険しくなる。
「……いいえ。それは単なる警戒のためではないでしょうか?」
羽川が静かに言葉を重ねる。
「アメリカが空母を動かせば、彼らも自衛のために動かざるを得ない。それよりも長官、あの信号を……あのノイズをもう一度見てください。あれは単なる命令コードではありません」
「何が言いたい、ハネカワ」
「あの信号は、私たちの防壁を叩くたびに『学習』し、リアルタイムで『進化』し続けていました。こちらの拒絶反応に合わせて、数ミリ秒単位で自らの構造を書き換えていたんです。まるで……」
「そんなマシンは地球上には存在しない!」
側近が一蹴する。
「ええ、その通りです。無機質なシリコンチップの上では、あのような柔軟な思考は生まれません」
羽川は一歩前に出た。その瞳は、もはや物理学の枠を超えた「何か」を捉えているようだった。
「では――それが『生き物』だったら? 例えば、DNAをベースにした生きたコンピューター……有機的な回路を持った、巨大な知性体だったとしたら?」
沈黙が流れた。
ジョン・ケラーは、少女の言葉を反芻するように彼女を凝視した。
生きた機械。DNAをベースにした知性。
ケラーの眉間に深い皺が寄る。
それは、長年戦場で培ってきた彼のリアリズムに対する冒涜に等しかった。
「……ミス・ハネカワ。君の才能は認めるが、空想科学の話をしている暇はない。私にとって、敵とは物理的に破壊できる対象でなければならないのだ。ミサイルの座標を指定し、部隊を派遣し、殲滅する。そうでなければ、我々の守るべき秩序そのものが崩壊してしまう」
ケラーは、羽川の言葉を「天才少女にありがちな飛躍」として一蹴した。
彼にとって、敵はあくまで物理的な破壊対象でなければならなかった。そうでなければ、これまでの軍事的常識がすべて崩壊してしまうからだ。
「いいえ、長官。説明はつきます。私たちが知っている『生命』の定義が、狭すぎるだけです」
「では君はその『生命』について全てを知っているのかい?」
「何でもは知りません。知っていることだけです」
「ならば、君は信号の解読に専念するんだな。…でないとここを出てもらうことになるぞ?君をチームから外したくはない」
「……承知いたしました」
羽川は、それ以上は食い下がらなかった。
彼女には分かっていた。
ジョン・ケラーのような男にとって、自分の理解を越えた「未知」を受け入れることは、死よりも恐ろしい敗北を意味することを。
自分の役割は、この異常な信号を解読し、敵の正体を論理的に裏付けること。
たとえ今の彼らが、突きつけられた真実から目を逸らし、耳を塞いだとしても。
022
灼熱の太陽が天頂で燦燦と輝き、大気を歪ませるカタールの昼。
ウィリアム・レノックス大尉率いる生存者一行は、足下の砂が吸い込む熱と、終わりの見えない逃避行に精神を削られていた。
彼らが歩むのは、かつて文明が砂に抗おうとした残骸が点在する死の荒野だ。
その沈黙を破ったのは、物理的な衝撃音だった。
一行の進行方向にそびえ立っていた、錆びついた通信用の鉄塔。それが、何の前触れもなく、根本からへし折れたのである。
「……ッ、何だ!?」
凄まじい砂煙を上げて倒壊する鉄塔。しかし、兵士たちの反応は驚くほど鈍かった。
極限の疲労と脱水は、人間の生存本能から「不必要な好奇心」を奪い去る。
「単なる老朽化だ」「砂嵐の余波だろう」
そんな根拠のない楽観が、熱にあてられた彼らの思考を支配していた。
倒れた鉄塔を迂回し、彼らは再び、重い足取りで歩き出す。
だが、その鉄塔を「下から突き上げた」ものの存在に、誰も気づいてはいなかった。
砂の下には、獲物を追う「悪意」が潜んでいた。
レノックスは、前方を行く少年の背中を見つめながら、絶えず周囲を警戒していた。
しかし、その警戒網をすり抜け、砂の海から音もなく一本の「槍」が突き出される。
それは巨大なサソリの尾を模した、高強度のチタン合金製ブレード。
先端からは、獲物の命を断つための油圧の駆動音が微かに漏れている。
尾剣は、レノックスの無防備な背中――その脊髄の付け根を狙い、ミリ単位の精度で死の角度を調整した。
「――大尉! 後ろだ!!」
絶叫したのは、後方でデジタルカメラを握りしめていたエップスだった。
彼の「本能」が、空間に生じた異質な歪みを捉えたのだ。
エップスは反射的に、腰のホルスターからハンドガンを引き抜き、レノックスの頭上をかすめるようにして引き金を引いた。
乾いた銃声が連射される。
弾丸は精密に誘導され、レノックスの首元に迫っていた金属の尾を叩いた。
キィィィン、という硬質な火花が散り、鋼鉄のサソリ――スコルポノックは、獲物を仕留め損ねたことを悟る。
「伏せろ!! 全員伏せろ!!」
レノックスが叫ぶ。
それと同時に、砂漠の表面が爆発したかのように跳ね上がった。
姿を現したのは、鈍い金属光沢を放つ巨大な機械の蠍。
それは一瞬だけその禍々しい全容を晒したが、反撃の隙を与えるよりも早く、再びドリル状の前足を高速回転させて砂の中へと潜行した。
辺りは、再び静寂に包まれる。
しかし、それは先程までの穏やかな沈黙ではない。
足下のどこに死神が潜んでいるか分からない、肺を潰されるような重圧。
「砂の中だ……何かデカいサソリみたいな奴が……!」
エップスの声が震える。
兵士たちは円陣を組み、震える銃口を砂面に向けていた。
一分、二分……。
逃げ場のない陽光の下、沈黙だけが時間を引き延ばしていく。
「……行ったのか?」
ドネリーが、額の汗を拭いながら小さく呟いた。
彼は、一行の中でも最も「論理性」を重んじる男だった。
「あんな巨大な質量が、砂の中を自在に動けるはずがない」
その論理的な慢心が、一瞬の隙を生む。
「ドネリー、動くな!」
レノックスの制止は、砂を割って飛び出した死神の速度に追いつかなかった。
ドネリーの足下の砂が、巨大な漏斗のように陥没する。
そこから噴出したのは、スコルポノックの巨大なハサミだった。
回転するカッターを備えたその爪が、ドネリーの両足を、そして胴体を、紙細工のように無慈悲に捕らえた。
「あ、が……ッ!!」
悲鳴を上げる暇さえ与えられなかった。
スコルポノックは、捕らえた獲物をそのまま砂の深淵へと引きずり込む。
ドネリーの眼鏡が砂の上に落ち、一瞬だけ陽光を反射して輝いた。
次の瞬間、砂の下から鈍い破砕音と、骨が軋む音が響き、ドネリーだったものは完全に消え去った。
「ドネリィィィィィッ!!」
レノックスの声が怒りに震える。
スコルポノックは六つの赤い複眼を明滅させ、獲物を「残り十体」と再計算した。
その全身から発せられる高周波が砂を振動させ、逃げ場のない圧力を兵士たちに与える。
「逃げろ! 走れ! あの村まで止まるな!!」
レノックスは全弾をスコルポノックの装甲に叩き込みながら、部下たちを促した。
もはや、隠れる場所などどこにもない。
灼熱の砂漠を舞台にした、鋼鉄の捕食者と、肉身の逃亡者による、絶望的な徒競走が始まった。
彼らは、砂を蹴り、肺を焼くような空気を吸い込みながら、地平線に見える石造りの家々の影――小さな村を目指して、死に物狂いで走り出した。
背後では、砂の海をイルカのように跳ね回るスコルポノックの、不気味な金属音が刻一刻と近づいていた。
村は、砂漠に投げ出された流木のように寂れていたが、今の彼らにとっては聖域だった。
土壁の家々が並ぶ中、案内した少年の父親が呆然と彼らを見つめている。
レノックスは、男の肩を掴み、狂気すら感じさせる眼差しで訴えかけた。
「電話だ! 国際電話が繋がる電話はないか!?」
少年の父親が指し示したのは、村の集会所に置かれた、年代物の交換機を介した電話だった。
レノックスは受話器をひったくり、衛星回線を通じてペンタゴンの緊急ラインを呼び出す。
だが、その背後では既に「第2ラウンド」が始まっていた。
「来やがった! あの化け物だ!」
エップスの叫びとともに、村の入り口の壁が内側から爆破された。
砂塵の中から、隠れる必要などないと言わんばかりにスコルポノックがその姿を現す。
その左右のハサミが不自然に回転し、中心部から青白いプラズマ弾が次々と発射された。
ドォォォンッ!
着弾のたびに土壁が吹き飛び、村の建物が砂へと還っていく。
エップスたちは残骸の影に隠れながら、必死に応戦した。
「効かねえ! ライフルじゃあアイツの殻に傷一つ付かねえぞ!」
一方、レノックスの電話は、インドの国際中継局へと繋がっていた。
運悪く、そこで電話交換手のオペレーターが横槍を入れる。
『申し訳ありません、お客様。当回線は現在、利用料金が未払いとなっております。通話を継続するには、クレジットカードでの決済が必要です』
「ふざけるな! 今すぐペンタゴンに繋げと言っているんだ! 国家の安全保障がかかっている!」
レノックスが怒鳴るが、マニュアル通りの対応を繰り返すオペレーターは動じない。
『怒鳴られましても、回線が通じるのが早くなることはございません。カード番号をお願いします。有効期限も忘れずに』
極限状態の戦場と、官僚的な事務手続きが、受話器を介して接続されるという不条理。
プラズマ弾が頭上を掠め、集会所の屋根が吹き飛ぶ。
レノックスは絶叫した。
「エップス! クレジットカードを持ってないか!?」
銃撃戦の最中、物陰から必死にライフルを撃ち込んでいたエップスが、顔を伏せたまま叫び返す。
「ケツのポケットっす!」
レノックスの視界には連なった5つのポケットがあった。
「……どのポケットだ!? 早く言え!!」
「左ケツ! 左のケツのポケットっす! 大尉、マジで急いでください!!」
レノックスは遮蔽物を飛び出し、弾丸の雨の中をエップスの元へスライディングした。
背後でスコルポノックの咆哮が響く。
エップスの左臀部のポケットを乱暴に探り、砂と泥に塗れた一枚のプラスチックカードを引き抜いた。
「よし、あったぞ! ……おい! 番号を言うから今すぐ繋げ!!」
砂漠の村で繰り広げられる、巨大な鉄のサソリとの死闘。
そして、その勝敗を分けるのが、兵士のポケットから取り出された一枚のクレジットカードという事実。
彼らの運命は、あまりにも矮小で、それでいてあまりにも切実な糸によって繋ぎ止められていた。
『お得なプレミアムサービスはご存じですか?』
「プレミアムサービスなんか要らん!良いから繋げ!番号、4――」
レノックスが叫ぶと同時に、スコルポノックの尾が建物を破壊し、彼らの頭上に降り注いだ。
023
「番号、45……クソッ、聞き取れねえ! エップス、お前が喋れ!」
レノックスは降り注ぐ土砂を払い除け、受話器を無理やりエップスの耳に押し当てた。片手で彼の左ケツから引き抜いたカードを掲げ、もう片方の手でライフルの引き金を引きながらだ。
「え、俺っすか!? もしもし! インド!? カード番号は4528……おい、撃つのやめろこのデカブツ! 0019、有効期限は07の……おい、繋がったか!?」
銃声と爆音、そしてエップスの絶叫。それらすべてを無理やり飲み込んだ電話回線が、ついに地球の裏側にある巨大な心臓部、ペンタゴンへと到達した。
「……こちら、国防総省。緊急回線だ」
「ペンタゴンか! 俺は第75レンジャー連隊のロバート・エップス三等軍曹だ! カタールの特殊作戦基地から生き残った! 今、名もなき村で巨大な金属の蠍と絶賛交戦中だ! 繰り返す、生存者がいる! 今すぐ空軍を差し向けてくれ!」
その瞬間、ペンタゴンの指揮所は静まり返った。
メインスクリーンを睨んでいたジョン・ケラーが、受話器を奪い取るようにして叫ぶ。
「―― ジョン・ケラーだ。生存者がいたのか……! 基地は完全に沈黙していたはずだ。今の状況を報告しろ!」
「長官! 状況もクソもありません、弾が切れたら終わりです! 敵は推定全長10メートル、全身が未知の装甲で覆われていて、通常兵器が全く効きません! 奴はプラズマみたいなものを撃ってきます! 今すぐ、今すぐ空からのプレゼントを頼みます! 座標を送る、一秒でも早くだ!!」
エップスは叫びながら、左手に持ったレーザー目標指示器をスコルポノックの金属殻へと向けた。
赤いドットが、荒れ狂う蠍の胸部で跳ねる。
「……確認した。諸君、奇跡は起きた。生存者を一人たりとも見捨てるな」
ケラー長官の合図とともに、ペンタゴンの巨大モニターに新たなウィンドウが立ち上がる。
高度数万フィートを飛行中の無人偵察機が、現地のライブ映像を捉えたのだ。
「ドローン、映像来ます」
モニターに映し出されたのは、砂塵に煙る小さな村。
そこには、逃げ惑う家畜や崩れた民家、そして砂を巻き上げながら蹂躙を尽くす、およそこの世のものとは思えない「銀色の怪物」の姿がはっきりと映し出されていた。
「……なんだ、あれは………」
長官が息を呑む。
砂漠を自在に泳ぎ、熱源を感知して正確にプラズマを放つその姿は、現代の軍事常識を根底から覆すものだった。ドローンの赤外線映像越しでさえ、その殺意は画面を突き抜けて伝わってくる。
ケラーは受話器を奪い取るように掴んだ。
「軍曹、聞こえるか。今、空軍を差し向けた。持ち堪えろ、これは命令だ!」
その命令は、地中海を遊弋する空母、そしてカタール近海の航空基地へと電光石火の速さで伝達された。
沈黙していた滑走路が、突如として獣の咆哮のような熱気に包まれる。
「B隊 出動準備」
「サンダーボルト緊急発進」
「攻撃部隊B出動。正体不明の敵を攻撃せよ」
「攻撃エリア1アルファに近いのは?」
「ホップスです」
「よしホップスを攻撃エリア1アルファへ」
「スコーピオンを叩き潰せ。目標は移動する金属生命体だ」
最初に出撃したのは、アメリカ空軍が誇る近接航空支援の悪魔、A-10 サンダーボルトII。
直線的で無骨な翼に、30mmガトリング砲という名の巨大な牙を備えたその機体は、低空から獲物を確実に仕留めるために設計された「空飛ぶ戦車」だ。
続いて、アフガニスタンの空を切り裂き、二機のF-22 ラプターがアフターバーナーの炎を引いて加速する。
レーダーを欺き、神速で敵を屠るステルスの王。
そして、重低音を響かせて離陸したのは、世界最強の特殊作戦用重武装機――AC-130H スペクターだ。
機体左側面に105mm榴弾砲と40mm機関砲を備えたその「死の天使」は、上空から一方的に地上の敵を殲滅する、空の要塞である。
「西から狙え!障害物が何もない!」
エップスは頭上を掠めるプラズマ弾の熱に耐えながら、村の広場に陣取ったスコルポノックを指差した。
「ターゲットは広場の中央! 赤外線マーカー、照射!!」
「標的をレーザーでマークしろ!!」
エップスが掲げたレーザー照射器が、不可視の光をスコルポノックの装甲へと焼き付ける。
上空一万メートルのスペクター、そして低空で旋回を開始したA-10の火器管制システムが、同時にロックオンの電子音を鳴らした。
「なにしてる!撃てぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
「……全機、攻撃開始」
次の瞬間、カタールの空から「鉄の雨」が降り注いだ。
A-10の30mmガトリング砲が、空気を引き裂く重低音とともに火を吹く。
ガガガガガガガッ!!
劣化ウラン弾の奔流がスコルポノックの硬質な装甲を叩き、火花を散らす。
爆炎と砂塵が晴れた跡、エップスとレノックスは信じられないものを見た。
30ミリガトリング砲とAC-130の40ミリ機関砲にズタズタにされたはずの「サソリ」が、いまだそこに健在だったのだ。
銀色の装甲は赤熱し、あちこちから火花と異質な液体が噴き出している。それでも、スコルポノックは死んでいなかった。折れ曲がった脚で大地を掻き、執念深く獲物を――自分たちの秘密を知る兵士たちを狙っている。
「嘘だろ……あんなのを喰らって、まだ動けるのか……!」
絶望が広がる中、上空で旋回するスペクターにエップスは無線でさらなる攻撃を要請した。
「目標はいまだ健在。105ミリ榴弾砲を使え。浴びせろ」
AC-130の側面に備え付けられた、文字通り「大砲」がその巨大な砲口を大地へと向けた。
一発で戦車を鉄屑に変え、建築物を粉砕する究極の打撃。
ドォォォォォン!!
空気が震動し、鼓膜を直接叩くような衝撃波。
105ミリの砲弾が、スコルポノックの直上で炸裂した。
今度こそ、鋼鉄の魔物も耐えきれなかった。
自慢のハサミが吹き飛び、背中の装甲がひしゃげ、地中深くへと叩きつけられる。凄まじい熱と衝撃が砂漠を焦がし、スコルポノックはもがきながら、最後の抵抗として砂を巻き上げ、地中へと逃げ延びようとする。
尾の先端が損傷に屈し、千切れ落ちた。
「……輸送ヘリを急行させろ。10時間以内に報告を聞きたい。彼らが持っている情報は、この国を救う唯一の鍵になる」
断固たる命令が下る。
生き残ったレノックスたちへの救助指示。
それは国家の盾としての慈悲だけではなく、未知の脅威に対抗するための「知」を確保しようとする最高指揮官の執念だった。
024
その階下。
冷戦時代から続く強固なセキュリティを誇るその内部で、羽川翼はひとり、ケラー長官から与えられた「信号解読」という任務の限界を超えようとしていた。
モニターに映し出されるのは、カタールの砂漠でスコルポノックが発していた信号の残滓。
羽川が注視しているのは波形そのものではなく、その信号が地球上のどのネットワークを介し、どこへ向かって収束しようとしているのか――その「宛先」の断片だった。
「……おかしいな」
羽川の指がキーボードの上を、まるでピアノを奏でるような滑らかさで走る。脳内にある膨大な知識ベースが、解析されたデータを瞬時に照合していく。信号の最終的な収束先……それは一見、暗号化された軍事衛星のサーバーを経由しているように見えるが、その背後に隠されているのは日本の、直江津のドメインだった。
そこは彼女の故郷であり、怪異以上の「物理」異常の吹き溜まりとなっている街。
羽川は直感した。この「生きたコンピューター」を解析するには、アメリカの軍事設備が誇る計算速度だけでは足りない。
論理では説明のつかない、世界の「歪み」を理解し、その調整を司る存在――忍野扇。自分とは対極に位置する、世界の「嘘」を暴くのではなく「形」にする怪異の化身。
「データの解析、そしてこの信号が引き寄せる『報い』の計算。私ひとりで抱えるには毒が強すぎる。……これだけは避けたかったけど」
羽川はペンタゴンの最高機密レベルの通信帯域を密かに「借用」した。彼女の放ったパケットは、物理的な光ファイバーを伝うのではなく、怪異のネットワークと技術的な通信規格の「境界線」を滑走し、遥か彼方の直江津へと飛んだ。
直江津町、私立直江津高校の「存在しない1年3組」の教室。蛍光灯がチカチカと不規則に点滅する下で、忍野扇はスマートフォンの画面を眺め、その漆黒の瞳を細めた。
「おやおや。委員長の中の委員長、羽川先輩じゃありませんか。わざわざ五角形の要塞から、私にラブレターを送ってくるなんて……」
扇の口角が、三日月のような歪な形に吊り上がる。そこには羽川が盗み出したスコルポノックの自己修復プログラムの断片が展開されていた。
「データの解析……。なるほど、私に『この理不尽な鉄屑の正体』を定義しろ、ということですか。羽川さん、貴女は本当に……傲慢ですね。自分に解けない問題などこの世にはない、あるとすればそれは『定義』が間違っているだけだ、とでも言いたいのでしょう? ……目障りなんですよ、貴女は。全てを知っているふりをして、世界の帳尻を合わせようとするその姿勢が。貴女がこの『生きた金属』を理解しようとすればするほど、世界は貴女の白さに耐えきれず、ひび割れてしまうのに」
扇はフッと息を吐き、闇の中に溶け込むように背を向けた。その瞳には、羽川に対する、生理的なまでの「敵視」が宿っている。
数時間後、ワシントンD.C.、市街地の外れ。歴史的な景観とは無縁の、煤けた赤煉瓦の古びたアパート。
ペンタゴンでの任務を終え、仮住まいへと戻った羽川翼がドアを開くと、窓から差し込む街灯の光の中に、一脚の古びた椅子に腰掛ける「影」があった。
「長距離通信は感心しませんね、羽川さん。デジタルな足跡というものは、私のような『正体不明』にとっては、暗闇に灯された松明のように眩しいものですから」
「……忍野、扇ちゃん」
羽川は驚きを表情に出さず、ただ静かにカバンを置いた。直江津にいたはずの彼女が、数時間の空白もなく、地球の裏側の、しかも自分が借りたアパートの部屋に現れるなどあり得ない。
「どうやって、ですか? そんなの決まっていますよ、羽川先輩。私は貴女の『影』。貴女が直江津に信号を送った瞬間、私は貴女の送り出したパケットの隙間に滑り込んで、光の速さで海を渡ってきたんです。あっ、これは嘘です」
どこぞの詐欺師ではありませんが、と扇は椅子から立ち上がり、長い袖を揺らしながら羽川に近づく。その距離は、暴力的なまでの圧迫感を伴っていた。
「貴女が盗んだそのデータ……。あれは『神の記録』の一部ですよ。それを人間に、ましてや私のような不完全な装置に解析させるなんて。……先輩、貴女、自分が何をしようとしているか分かっていますか? 貴女が知っていること。貴女が知らないこと。その隙間に、いま巨人が足を踏み入れようとしているんです。直江津にいる、あの救いようのない阿良々木先輩の元へ」
羽川翼は、去年の10月ぶりに自身の「知」が、この後輩の「無」によって浸食されるような戦慄を覚えた。
025
ワシントンのボロアパート。その狭い部屋に充満するのは、淹れたての安っぽいコーヒーの香りと、忍野扇が纏う、この世の空気を凍らせるような異質な冷気だった。
羽川翼のノートパソコンの画面には、ペンタゴンから「借りてきた」膨大なデータ群が、扇の不可解な操作によって見たこともない構造で再定義されていく。
「……信じられませんね。貴女、これほどまで自分を全否定するようなデータに触れておきながら、まだ『理解』しようとなさるんですか? 呆れた白さです、羽川先輩」
扇の細長い指がキーボードを叩く。その指先が、解読されたファイル群の底から、一つの断片を引きずり出した。
「プロジェクト……アイスマン? それと、ウィトウィッキー。……何、この単語」
羽川が眉をひそめる。彼女の知識ベースが、その単語の「既存の定義」を検索し始める。
「アイスマン……。一九九一年にエッツタール・アルプスで見つかった、あの五千年前のミイラのこと? でも、文脈が違いすぎる。……まさか、米軍が五千年前の死体を最新兵器のモデルにしているなんて、非論理的すぎる」
「おやおや、羽川先輩。貴女の言う『論理的』なんて、この情報の断片の前では、ただの願望に過ぎませんよ」
扇が、スマートフォンの画面を羽川に突きつける。
そこには凍結された「何か」の、極めて不鮮明な熱探知画像が映っていた。
「五千年前のミイラではありません。ですが、同じように『凍らされている』。……それは不変の事実ですよ」
「わからない。それに、このウィトウィッキーという名……。古い家系のようだけれど、なぜこの解析データの中に個人名が頻発するの? データの整合性が取れない。阿良々木くんなら、こういう無茶苦茶な状況でも笑って済ませるのかもしれないけれど……」
「……阿良々木先輩、ですか。ふふ。彼は今、貴女が今見ているその『断片』の実物にひどい目に遭わされてますよ」
扇は羽川の困惑を愉しむように、さらなる「猛毒」のデータをモニターに流し込んだ。
その頃、ペンタゴンの作戦室では、戦慄と興奮が入り混じった異様な熱気が渦巻いていた。
「長官! カタールからデータリンク完了。生存者部隊が回収した『戦闘記録』の全ビット、受信しました!」
分析官の叫びとともに、メインスクリーンに砂塵の中でのたうつ銀色の蠍――スコルポノックの、鮮明な近接映像が映し出された。
「……これが、我々を襲った『敵』の正体か」
ジョン・ケラーは、身を乗り出すようにしてモニターを凝視した。
映像の中では、A-10の掃射を受けてもなお、機械細胞を組み替えながら反撃する化け物の姿が記録されている。それは生物学的な柔軟さと、兵器としての剛性を併せ持った、地球上のどの軍事ドクトリンにも存在しない「答え」だった。
「信じがたい。装甲表面が自己修復している……。長官、これはただの機械ではありません。ナノ単位で構造を組み替える『生きた金属』です」
側近が声を震わせる。ケラーはその映像を脳裏に焼き付けるように頷いた。
「これだ。我々が求めていた物理的な証拠だ。……だが、同時に最悪の報告も入れなければならんようだな」
「はい。それと長官、サーバーに極めて微弱ですが、外部への不審なパケットの流出が確認されました」
若手の分析官が、青ざめた顔でジョン・ケラーに報告を上げる。
「……当ててみせよう。あのハネカワという少女だね?」
「え、ええ。なぜお分かりに?」
「私には超能力があるのだよ」
ケラーが笑うが、すぐに真顔でモニターを睨む。
だが、モニターに表示された流出先は、日本の地方ドメインと、ワシントン市内の正体不明のIPアドレスが複雑に絡み合い、まるで「生きている幽霊」のように追跡を拒んでいた。
「身柄の確保を急げ。……だが、待て。彼女が何を見ていたのか、そちらを確認しろ」
「それが……例のカタール基地の信号解析データですが、彼女はそれとは別に、アーカイブの最深部……『アイスマン』の暗号階層に触れようとした形跡があります」
「……ん?アイスマンだと?」
ケラーは鼻で笑った。
「馬鹿を言うな。そんなプロジェクト、この国防総省のどこを探したって存在せん。空軍の機密でも、ましてや私が把握している作戦名でもない。ともかく、彼女を確保しろ」
ケラーは確信していた。
国防総省の長官である自分に届かない情報など、この国には存在しないはずだった。
しかし、北極の氷の下で数十年、あるいは数世紀にわたって眠り続けている、ある「巨大な秘密」のことを、彼はまだ知らない。
次回豫告
「火憐だぜ!」
「月火だよ!」
「「二人合わせてファイヤーシスターズ!!」」
「月火ちゃん一大事だぞ!今回のサブタイトル、変換で『其ノ肆』の『肆』が出てこないんだ!『し』って打っても『死』とか『師』とか『志』にしかならなくて死活問題だ!あの画数の多い格好いいやつが出てこねえ!」
「それは『大字』といって、漢数字の改ざんを防ぐために使われる旧字体の一種だよ、火憐ちゃん。私たちが普段使う『一、二、三、四』だと、線を一本足すだけで簡単に数字を変えられちゃうでしょ? だから登記や銀行の書類では、画数の多い『壱、弐、参、肆』を使うのがセオリーなの」
「なるほどな!『一』を『壱』にすれば、後から棒を一本足して『二』にするなんてセコい真似はできねえってわけか。正義の味方としては、改ざん防止は大事なことだぜ!」
「ちなみに今回のサブタイトルにある『肆』や、次回の『伍』は、現代の銀行業務では略されることが多くて、日常で見かけるのは『壱・弐・参・拾』の4つがメインだよ」
「へえー、じゃあ『肆』はSRなんだな! 画数も多いし、なんか必殺技の名前にありそうで格好いいぜ!」
「「次回、第変話 こよみフォーム 其ノ伍!!」」
「……月火ちゃん。『伍』の変換は大丈夫か?」
「それは普通に出るから安心して」