塩津浜の謹賀新年
天文二十四年(1555年) 一月上旬 近江浅井郡 塩津浜城 朽木 稙綱
「新年あけまして、おめでとうございまする!」
「「「「おめでとうございまする!」」」」
弟の蔵人が下座から厳かに新年の賀を述べると、並み居る家臣たちが一斉に唱和した。
「おめでとう」
儂の膝の上で竹若丸が新年の挨拶を返すことで終わり、宴が始まる。
初めの挨拶は上座に儂も座り、竹若丸が儂の膝の上に座って挨拶を受けるが、宴の時は竹若丸も自ら箸を取って食べることができるようになったので、一人で上座に座る。
唯一、竹若丸に酌をするために一人の娘が傍に残っておる。
雫
年は竹若丸と三つ上の娘。
かつて若狭の小浜で奴隷となっていたところ、倅の晴綱が遭遇。
憐れんで買い取り、朽木に連れてきた娘。
最初は妾にすると疑ったが、「鞭を討たれて死にそうになっていたから、居ても立っても居られなかった」と倅は言った。
そんな偽善を行ってなんとすると思っていたが、倅が竹若丸に行った唯一にして最高の贈り物と言えよう。
母親は朽木に来てから程なく死んだが、娘は邇々杵神社の巫女となり、竹若丸が誕生すると遊び相手にもなった。
そして、今年になって竹若丸が塩津浜に移ると同時に邇々杵神社から竹若丸専属の侍女となった。
竹若丸は優れた政と名将として強くなっておるが、年相応の子供としての一面を持てておるのは間違いなく雫がいるからであろう。
そう思うと安心する。
宴が盛り上がる中、ふと上座に目をやると、雫が竹若丸の小さな器にそっと酒を注ぎ足していた。
その瞬間、それまで百戦錬磨の宿老たちを前にして「北近江の主」たる険しい顔を崩さなかった竹若丸が、ふっと表情を和らげた。
まるで凍てつく湖面に春の陽光が差し込んだかのように、その瞳が甘く、幼い子供のそれに変わる。
雫が愛おしそうに目を細めると、竹若丸もまた、彼女にだけは隠しきれない独占欲と信頼を滲ませた笑みを返す。
わずか三つの年齢差。数えで七歳になる竹若丸と、十歳になったばかりの雫。
主従でありながら、どこか姉弟のようでもあり、それ以上にひとりの男と女としての、他者を寄せ付けぬ特別な距離感がそこにはあった。
背伸びをして男であろうとする幼き主君が、あの娘の前にいる時だけは、年相応の少年としての顔を覗かせるのだ。
そんなことを考えていると隣にいる弟の蔵人が絡んできた。
「兄上、一献如何ですか」
「うむ、もらうとしよう」
注がれた澄酒を飲み干し、今年あったことを振り返る。
「・・・・昨年はいろいろあったな・・・」
「・・・ええ、まったく、殿には驚かされてばかりです」
儂のふと漏らした呟きに、弟の蔵人がしみじみと応じた。
この一言は、大広間に集う全員の心の声を代弁していた。
現に儂が口を開くと、賑やかだった宴は一瞬にして静まり返り、家臣たちは深く深く頷いた。
しかし、当の本人である竹若丸は、先ほど雫に向けた柔らかな表情のまま"何を言っているのかわからない"というように首をかしげる。
まったく、巷では"日ノ本一の忠臣"、"童ながら知勇兼備にして無二の忠義者"と持て囃されて折るというのに、孫にはその自覚がない。
戦では、常に倍以上の敵に軍略を張り巡らせて勇猛果敢に戦い、ある時は浅井の重臣 遠藤某に斬りかかれるも返り討ちにするなど、童というのに優れた実力を有していると天下に轟かせた。
わずか七歳という驚くべき若さでありながら天下無双の実力を有していると、その名はすでに天下に轟いている。
だが、家に戻れば母親に甘え、そしてあの雫の前でだけは、甘く、切ない、ひとりの男の顔を見せるのだから、妙なものだ。
竹若丸が朽木の主になって四年がたったが、今年は濃い一年であった。
この一年で朽木は高島郡の端を収める弱小国衆から三好、高島六頭、浅井に勝利して北近江の主になったのだから・・・・
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北近江を制してから、竹若丸は師走の初め頃までに、いくつかの政策を矢継ぎ早に行った。
①「朽木仮名目録の制定」
なんでも、駿河の今川が制定したという分国法"今川仮名目録"を模範として、朽木領内の国衆、武士、商人、百姓に適用されるような法律にした。
なぜ、今川の分国法を模範にしたのかと聞いたところ、「今後は国衆の土地争いを裁定することが多くなると考え、土地などに関する訴訟の裁定基準といった色合いが強い」ことが選んだ理由らしい。
出来た条文をみて、儂は竹若丸がそれ以外の理由も察した。
それは"守護不入”が入っておることである。
当初、儂は驚いたが、明らかに六角を排除し、朽木領内に入れないためであると察して黙った。
②「評定衆の設立」
今までは親族と譜代で合議することとがあったとはいえ、今後は外様を受け入れたことでより整えられた合議を求められることとなった。
評定衆の内訳は親族を儂と弟の朽木蔵人、譜代からは日置五郎衛門と宮川新次郎が竹若丸の命で選出された。
そして外様については竹若丸は工夫を凝らした。
まず最初に井口越前守が常駐として任命し、次に安養寺三郎左衛門尉と雨森弥兵衛を二年の任期で任命することとなった。
この二人の任期が終了した時、井口越前守が死去した時は、旧浅井の国衆たちの中から選抜するという方式をとることとなった。
これによって、"親族や譜代で政を独占しないという方針"を朽木が打ち出したものとして国衆たちに安心をもたらした。
③国衆の改革
新しく従った国衆を朽木に従わせることと強化をすることは急務であった。
そのために竹若丸が命じたのは"百姓に来年の年貢を免除すること"、"百姓を兵として使わないこと"だった。
この政策を初めての評定で話すと外様、譜代、親族全員だけでなく、奉行衆も反対した。
無論反発されることは分かったいたので、竹若丸は"石鹸の製法を国衆に公開すること"と"年貢免除を行った国衆に一律三百貫を配ること"を提案した。
一瞬、儂も含めた皆が竹若丸の大盤振る舞いに驚愕した。
結局、皆が不安ながらも納得した。
また、石鹸の製法を得る代わりに、関の廃止も決められた。
来年の年貢免除は即日通達、銭は師走までに届けられた。
雪が積もっていたが、銭を渡し終えた後、竹若丸が国衆の村を視察に行ったところ、既に石鹸づくりを始めておる村があるらしい。
皆、来年の年貢が免除されることや石鹸を商人に売ることで収入が増えることを喜んでおる。
今までは商人たちから関であるめる税と百姓からの年貢で成り立っていた国衆に大きな改革をもたらした。
関所は廃止されて物の流れが良くなり、百姓は米以外の収入を確保することで新たな収入源を得た。
領内が豊かになったことで商人や百姓からも朽木の支配を受け入れ始めておる。
国衆たちも安易に裏切ることはなかろうよ・・・・
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天文二十四年(1555年) 一月上旬 近江浅井郡 塩津浜城 雫
「竹若丸様、ア~~ン」
「ア~~ン」
新春の冷たい空気が漂う大広間で、私は小さな白磁の皿を捧げ持ち、箸を口元へと運ぶ。
まだ私のふたつ下。ほんの少し前まで私よりずっと小さかったはずの竹若丸様は、小さなお口を開けて温かい里芋を頬張られた。
戦国の世にあって、一族を率いる若き当主としての重責をその小さな背に背負っていらっしゃる。
それなのに、ここ最近はすっかりお箸が上手になられたというのに、「雫が食べさせてくれると、もっと美味しい」なんて、私を困らせるように甘えてみせるのだ。
「お味はいかがですか?」
「おいしい!」
無邪気に細められるその瞳に、私の心臓がトクン、と小さな音を立てた。
わずか二つの年齢差。
けれど、主従という厳然たる壁が私たちを隔てている。
それでも、この方の御傍でお仕えしていられるだけで、私は世界で一番幸せな存在になれる。
私を地獄から救い出してくれた、お優しかった御父上――朽木宮内少輔様に、日に日に凛々しく似ていかれる愛しい人。
奴隷の身分だったあの頃、私はただ、弱り果てていく母の手を握りしめ、泣き崩れることしかできなかった。
何度、己の残酷な運命を呪い、冷酷な神仏を罵ったことだろう。
肌を裂く鞭の痛みと、絶望に染まったあの戦乱の地獄は、幼い私の心に消えない傷を刻みつけた。
そんな私に手を差し伸べ、暗闇から連れ出してくださった宮内少輔様は、私にとって本物の神仏そのものだった。
そして、そのお方が遺してくださった最愛の忘れ形見
――私より少しだけ背の低い、けれどいつか私を追い越し、この乱世を統べる戦国大名となられる竹若丸様をお守りすることこそが、私のこの命、この身体の全てを捧げるべき理由。
「雫、ありがとう!」
めでたき新年の膳、満足そうに微笑む竹若丸様が、私の名前を呼んでくれる。
その声の響きだけで、私の頬は火照るように熱くなってしまう。
「いいえ。私は……こうして竹若丸様を独占できて、誰よりも嬉しゅうございます」
そっと漏れ出た本音は、姉のようでありたい自分と、ひとりの少女として焦がれる自分の、境界線を越えてしまいそうなほど切ない熱を孕んでいた。
いつかこのお方が、一国の主として立派な正室を迎えられるその日まで。この眩しい笑顔を、他の誰にも渡したくない。
琵琶湖を渡る厳しい寒風のなか、私はどんな運命の嵐からも、このお方を命懸けでお守りし抜いてみせると、無表情な仮面の下で深く、熱く心に誓った。