では、どうぞ!
天文二十四年(1555年) 四月下旬 山城国葛野・愛宕郡 京 飛鳥井邸 朽木竹若丸
「……昨日とは異なる装束じゃな……」
この装束一つに、一体いくら費やしたのだろうか。
「
「十貫……」
平九郎が吾の着た装束の価格を告げると、吾は苦虫を噛み潰したような顔になった。
たった一つの装束のために、鉄砲一丁が買えるほどの額を費やすとは……。
「おお, 竹若丸よ、似合っておるぞ!」
着替えが終わったところへ、飛鳥井のじーさまと叔父上が入ってきた。
初めの一言からして、吾の装束姿にそれなりに満足してくれたらしい。
「それでは行こうかのぅ」
じーさまの促しで、吾らは牛車に乗り込む。
今時、京の都で牛車を使えるのは、朽木の支援を得ている飛鳥井の者くらいなものらしい。
周囲には百の兵が並び、影では八門が護衛につく。
それにしても、牛車の中は窮屈極まりなかった。
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天文二十四年(1555年) 四月下旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 朽木竹若丸
「千津!」
「姉上、お久しゅうございまする」
内裏に入り、しばらく歩いて叔母上の部屋へと入った。
そこでは叔母上が布団に入って横になっていたが、吾らが入ると起き上がった。
まあ、仮病なので特に問題はないのだろう。はーうえと叔母上は楽しそうに言葉を交わし始めた。
「……竹若丸殿、姉妹揃って会うのは久方ぶりのこと。我らは席を外そう」
飛鳥井のじーさまと叔父上に促され、部屋を離れようとすると、はーうえが声をかけてきた。
「竹若丸、おじいさまの言うことをよく聞くのですよ」
「あい」
そう、新次郎や平九郎にも知らせていない本来の目的は、「見舞いに来たはーうえに同行し、私的な場で帝に拝謁する」ことなのだ。
公的な場で会う「
それゆえ、密かに会うこととなった。
正直言って、憂鬱である。
“公方様を任命するお方”と言われても、今の吾にはいまひとつ理解できない。
それに、これほどの乱世でありながら、戦に我関せずを貫いて何もしない存在に対して、どこか嫌悪感すら抱いていた。
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天文二十四年(1555年) 四月下旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 朽木竹若丸
かつての内裏には、公務を行う紫宸殿と、私的な生活の場である清涼殿という二つの建物があったらしい。
しかし今では御所が荒れ果て、規模を縮小せざるを得ず、一つの建物に二つの役割を持たせているという。
すなわち、北側に清涼殿、南側に紫宸殿の役割を持たせているらしい。
さらには東宮様の御所も兼ねていることから、随分手狭なようだ。
東宮様にお仕えする叔母・
今、吾の前を飛鳥井のじーさまが進み、後ろを叔父上が歩いている。
どうやら北側の清涼殿に向かっているようだ。
そう思った瞬間、じーさまが突然足を止め、吾に畏まるよう目配せした。
「主上、面白き童を連れてまいりました」
部屋の外からじーさまが声をかける。
「……通せ」
「ハッ……竹若丸よ、主上は其方と二人で話したいと仰せじゃ。ここからは其方一人で行け」
「え!?」
じーさまと叔父上も共に入ってくれると思っていたのに、どうやら吾一人で向かわねばならぬらしい。
突然のことに大いに驚きつつも、吾は意を決して部屋へと入った。
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天文二十四年(1555年) 四月下旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 朽木竹若丸
部屋の中はジメジメとしていて、床板が壊れているところも多い。
一段高くなった上段の間に
側近も、護衛も、誰もいない。
正直言って、これが日ノ本の主上、帝の住まう御所なのだろうかと疑いたくなる。
「汝が朽木の竹若丸か」
吾は急いで平伏する。
「ハッ。父は朽木宮内少輔、母は飛鳥井の娘。その子、朽木竹若丸でございます。この度は拝謁の機会を賜り、恐悦至極に存じます」
先日の公方様の前よりは幾分か楽な口上を述べ、頭を低く下げる。
「汝が毎年贈ってくる献上品は見事である。今日はその礼を言いたいがために、其方に足労してもらった」
「……有難き御言葉、恐縮に耐えませぬ」
「……」
ハァ、さっさと終わらせて帰りたい。
「……其方、今『帰りたい』と考えておったな?」
「……!? 」
なぜ分かるの!?
こんな乱世で何もできない存在だと思っていた帝が、急に恐ろしくなってきた。
「ハッキリ申せ。此度の朕の命に不満か?」
御簾の向こうで、帝の声に鋭さが混じる。
その通りだ。此度の上洛には不満だらけだ。
本来の目的は三好と和睦を結ぶことだけのはずなのに、上洛するとなれば公方様への挨拶やその側近への付け届けが必要になり、内裏に入るためだけの装束にまで大金がかかる。
「……はい、不満にございます。率率に申し上げますと、朝廷が何をされているのか、吾には分かりませぬ。なぜ、これほど貧に苦しみながら、儀式を続けようとされるのですか!?」
「……」
吾の怒りの籠もった言葉に、帝は沈黙された。
お怒りになられたのだろうか。
――スッ、
「汝の問いに答えるために、朕との無礼講を許そう」
そう言って、帝は御簾の中から姿を現された。
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天文二十四年(1555年) 四月下旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 朽木竹若丸
(これが、帝……)
正直な第一印象は、酷く痩せ細った方だ、というものだった。
顔には疲れが滲み、飛鳥井のじーさまと色違いの装束を召されてはいるものの、お世辞にも尊き方には見えない。
だけど。
なぜかは分からないが。
それでも、その瞳には確かな光があった。
その光一つを頼用に、気高く立っておられる。その在り方が、とても美しく、綺麗なものに感じられた。
公方様とは異なる、大きな器と柔らかな温もりを覚える。
「汝の問いに答えよう」
帝は微笑みを浮かべ、柔らかな声でお言葉を続けられた。
「よい。汝がそう思うのはもっともなことじゃ。母の頼みだけで献金されているというのはなんとなくわかっておった。童ならそう考えるであろうと思い、汝をここに連れてくるよう命じたのだ……嫌がりながら朝廷に献金されるようなことを、朕も望んではおらぬ」
「!?」
驚いた。
そこには、「嫌なら献金などやめた方が良い」という、確かな決意があった。
公方様とは異なる、天下人のさらに上に立つ御方が、己の信念を語り始める。
「朝廷に力はなく、富もない」
そうだ。そうでなければ、朽木がここまで大きくなることもなかっただろう。
だが、帝は力強く言葉を続けられた。
「兵も富もない私たちがここにいるのは、どれほど世が乱れても、ただ、民の幸せをひたすらに祈り続けるためである」
この一言は意外だった。
だって、ちーうえが死ぬ前、はーうえは必死に祈っていた。だけど、ちーうえは帰ってこなかった。
この乱世において、そんな祈りに一体何の意味があるというのか。
「……其方は今、『祈りに意味があるのか』と考えたな?」
ドキッとした。
「...其方は分かりやすいな。いや、ここを戦の場とは見ておらぬからかのぅ……」
帝はまたしても吾の思考を察したらしい。クスクスとお笑いになられた。
やがて、自嘲するように少し視線を落とした後、真っ直ぐに吾を見据える。
「祈りにすぐの効果はない。そう考えるのは無理もなかろう。だが、今目の前を見るのではなく、未来を見るのだ……そう、戦なき世を……」
未来
戦なき世
そんなこと、考えたこともなかった。
自分が未来を見ると言えば、いかに己の領地の民を守り、繁栄させ、敵に打ち勝つかということだけだった。
だが、この言葉には吾の知らない、新しい世界が広がっている。
「そして、いつか訪れる戦なき世のために、この日ノ本が大切にしてきた美しい心と、伝統の火を絶やさずに守り続ける。そのために、私たちはここにいるのだ……」
「……」
そう言って、言葉を締めくくられた。
吾は何も言い返せなかった。
「童よ、其方はこの乱世が終わったら何を望む? 朽木の童よ」
帝の問いかけは、ひどく重かった。
目を瞑り、これまでの出来事のすべてを思い出す。そして、腹の底から言葉を絞り出した。
「……吾は、今までちーうえ――いえ、父が残した領地を守り、大きくし、利を求めようとしていました。そのために……」
一度大きく息を吸い込んでから、思いの丈をぶちまけた。
「……もし、戦なき世が来るのなら、主君だけが幸福では臣下や民が許しませぬ! ですが、臣下や民だけが豊かになって、主君が苦しむのも良き世とは言えませぬ! どうせなら、皆で豊かに、楽しくしたいです!」
「ならば、
吾の言葉を聞いた帝は、一枚の紙を手元に引き寄せ、四つの文字を書き記された。
『君臣豊楽』
幼き吾でも分かる、単純明快で、分かりやすい言葉。
一目見ただけで、誰も彼もを豊かに、楽しくするという強い決意が伝ってくる。
「古の中華の書である『論語』には『君、君たり、臣、臣たり』という言葉がある。そこから“君臣”と取り、漢詩にある『国が豊かで人民が楽しむ』という言葉から“豊楽”と取る。これを合わせて、“君臣豊楽”じゃ!」
その言葉に圧倒された。
心が激しく震えた。なぜだか、目から涙が零れ落ちた。
これほどまでに熱い願いが込められた文字を、吾は知らない。
「この宸筆をもって献上品への恩賞とし、戦なき世への抱負とせよ!」
「ハッ!」
公方様の前でさえ見せたことのないほどの勢いで、吾は自らの意思で深く頭を下げた。
これで拝謁は終わりだろう。だが、吾は最後に一つだけ、言いたいことを口にした。
「この乱世でも、朝廷や帝が続いてきた理由が分かった気がします」
「……うむ。朕は頑張り屋さんなのだ」
「……来年の献上品も、楽しみにしていてください」
「楽しみにしていよう」
初めの「早く終わらせたい」という感情は完全に消え去っていた。
吾は満面の笑みを浮かべながら、御前から下がった。
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天文二十四年(1555年) 四月下旬 山城国葛野・愛宕郡 平安京内裏 後奈良天皇
朕が与えた宸筆を大切そうに持って、童が去っていく。
もう二度と会うことはなかろう。最初で最後の、良き出会いであった。
「主上、面白き童はいかがでございましたか」
東宮方仁が襖を開けて姿を現した。
「うむ、見事なものであった。とても常勝無敗の名将とは思えぬ愛らしさであったが、所々で常人とは異なる物の見方をしておる童であったな……」
「ほう……その見方の違いが、戦で常勝無敗となり、朽木谷の主から北近江の主へと成長させた、と」
東宮が考え込んでおる。良きことだ。
東宮の御代になる頃には、あの童の歳も十を超えていよう。
朕自身は再興された朝廷を見ることはできぬであろうが、天下が安定し、朝儀の再興が進む兆しは見えた。
その完成を、朕が見ることはないのだろうが……。
「足利の忠臣と呼ばれるだけはありますな」
「……」
だが、最後に東宮が放ったその一言だけは、違うと朕は思った。
あれは、足利の忠臣という枠に収まる器ではなかろう。
何より、朕が望む“戦なき世”を創れるとすれば、それは将軍ではない、あの童だ。
今は先祖代々足利の臣として生きていたがゆえに忠義を尽くしているが、あの童が大きくなった時、一体いかなることになるか……。
良き出会いであった。
だが同時に、一抹の恐ろしさと心配を残す別れでもあった。