彼に手を引かれて、通学路から外れた裏道へ向かっていた。
重機の影が青白い照明に照らされ、金属の骨が立ち並んでいる。
足もとでは除雪の残りが踏み固められ、光を反射して細かく光った。
彼はさっきからほとんど口を開かない。
先を歩きながら、時々振り向き、距離を測るように歩幅を合わせてくれている。
自分の呼吸がどんな音を立てているのかも、もう分からなかった。
泣き疲れているというより、涙そのものがもう出なくなっていた。
心だけが冷たくて、体がその重さに追いつけない。
彼の靴が雪を踏む音、風がフェンスを抜ける低い音、どちらも夢の中みたいに聞こえる。
「ここなら……風、少し弱い」
彼の声がかすかにして、すぐ風に溶けた。
見回せば、確かに静かだった。工事用フェンスが風を遮って、夜気がわずかに止まる。下校中の生徒の気配はどこにもない。
でも、わたしは頷いたのかどうかすら覚えていない。
その場にいることだけで精一杯だったから。
何も考えられない。
時計も、真夜も、謝らなきゃいけない誰かも、全部がまるで他人の物語のよう。ただ一つだけ、寒さの向こうで、誰かと並んで立っている感覚だけが残る。
静かすぎる夜。
この静けさの中に真夜を思い出してしまう。
並んで歩いたあの日の微かな笑い声。もう二度と戻ってこない時間。
同じ雪、同じ空気なのに、痛みだけが不思議に鮮明で、呼吸のたびに胸の奥が締め付けられる。
「……ごめんなさい」
誰に向かって言ったのか分からない言葉が零れた。
彼は答えなかった。
体がぶつかるほどではない距離。雪を一枚、間に挟むくらいの隙間。
そして彼は立ち止まった。
ベンチの雪を払ったあと、彼はほんの一瞬だけわたしのほうを見る。
「ここ、座ってて」
言いながら、掌で残りの雪を掃く。声は小さかったが、表情には焦りも押しつけもなかった。ただ、夜の寒さの中に立ち尽くすわたしをどうにかしようと、それだけを考えている仕草だった。
頷くこともままならず、言われるまま腰を下ろした。
冷たさが裾から伝わってじわじわと広がる。手首の辺りに痛みが走って、ようやく自分の体の形を思い出す。体勢を崩したときに、地面に打ってしまったのかもしれない。
「すぐ戻るから」
そう残して、彼は小走りで近くの自販機に向かっていった。遠ざかる足音だけが一定のリズムを保ち、やがて金属音と共に途切れる。
静けさが戻る。
風が止まったわけでもないのに、世界の音が遠ざかったようだった。
ベンチの背もたれ越しに見える冬空は曇り気味で、星の気配がない。照明の白が雪面を鈍く照らしている。
膝に手を置いて、マフラーから口元を出して深く息を吸おうとする。肺が痛い。
息を吸っても、もう泣き声は出なかった。
代わりに、重たい思考だけがゆっくり巡る。
気持ちをうまく整理できないまま、視線を下げると、掌の震えがまだ続いていた。
泣き疲れただけの震えじゃない。体の奥が冷え切っている。
雪の上に靴の跡が二つ。彼が歩いてきた道と、わたしが転がるように跪いた跡とが、並んで続いていた。
その跡を見ていたら、胸の内側が妙に熱くなっていった。
――助けてくれたのだろうか。
そう思うのがやっとで、感謝の言葉では整理できない感情だった。
なんでわたしなんかに、と言いかけて、口を閉じる。
目を閉じても、暗闇の奥からざわざわと後悔が浮かんできて、落ちていく。
金属の音が再び鳴った。
振り向くと、彼が自販機から戻ってくるのが見えた。両手に白い湯気を抱え、息を吐きながら近づいてくる。
缶のラベルが街灯の下でかすかに光る。
彼は何も言わずに、それをわたしの前へ差し出した。
「……これ。あったかいやつ」
彼の手から受け取った瞬間、指先の感覚がひりつくように蘇る。
缶の熱は思っていた以上に強くて、掌の皮膚がびっくりしたように脈を打った。
唇が乾いて「ありがとう」と言う音が出ない。
彼も、それを待たなかった。わたしが缶を両手で包み込んでいる間に、少し離れた場所、バス停の柱の影に腰を下ろしていた。
湯気が両方の息に混ざって、夜気の中に溶けていく。
プルタブの縁が指に食い込み、トウモロコシの粒の写真が街灯に淡く光った。
コンポタの甘い匂いが鼻をかすめて、少しだけ唇をつける。舌が驚くほど早く熱を感じて、目の奥がじんとした。
体の中に、ようやく“温度”というものが戻ってくる。
それでも、すぐ隣で冷たい空気が鳴っているのが分かる。
世界全体が凍ったまま、わたしの手だけが生きている。
彼は腕を膝にのせ、指先で缶の縁をなぞっていた。
何度かこちらを見ようとして、視線が定まらず、また外を見た。
――何か言いたそうだ。
でも、たぶんわたしに何を訊いたらいいか分からないのだろう。
その気配が空気に触れて伝わってきた。
喉の奥で言葉が渋滞しているみたいな沈黙。
それを読んでしまう自分も、どうすればいいか分からなかった。
わたしはできるだけ表情を動かさないようにしながら、缶を口元に近づけた。
金属の縁が唇に当たり、微かに音がする。
その音が余計に、息苦しい静寂を際立たせた。
この人のことはよく知らない。
それなのに、わたしを気遣ってくれている。
でも、そんな資格はわたしにはない。
自分のせいで色んなものを失わせたのに、どうして暖かいものをもらっているのだろう。
彼の視線がまたこちらに向かう。
沈黙が一度だけ詰まりかける。
わたしは息を吸い、吐き、また吸う。
言葉にしてしまったら、全部嘘になる気がして、口の奥が固まる。
それでも――言わなければ、いけないと思った。
知らない人ではあるけれど、困らせたくなかった。
缶の熱が薄れてきたころ、わたしはゆっくりと息を吐いた。
「大切な友達だったんです」
言葉にしてしまった瞬間、胸の奥が軋むように痛んだ。
息が白く散り、消えるのが早い。
静かな夜が、わたしの声だけを囲い込んでいる。
彼――目の前の少年は、少しだけ首を傾けてうなずいた。
何も言わない。ただ、立ち上がる気配もない。
聞いてくれているという、そのことだけが救いのようだった。
「……友達の、お父さんとお母さんが事故に遭ってしまって」
声がかすれて、膝の上で指が絡まる。
「そのことを、起きる前に知っていました。止められるって、思ったんです。でも……できなかった」
肩のあたりがきゅっと縮まる。
告白というより、薄暗い鏡の前で自分の顔を確かめるような感覚だった。
誰かに許してほしいわけでもなく、沈黙に耐えられなくなって、口が勝手に動く。
「気づいたら、何度も同じような日になっていて。何かを変えたいって思っても、どこから変えればいいか分からなくて……」
要領を得ないと自分でも分かっていた。
でも、それでも言わずにいられなかった。
この人なら、うまく受け取ってくれるかもしれない。そんな期待をほんの少しだけかけてしまう。
「――でも、誰にも伝えられなくて。説明したら信じてもらえないし、どう思われるかも怖くて」
言いながら視線を落とす。
靴の先が雪を押しつぶし、そこに小さな跡を描く。
その跡が風にすぐ埋もれていくのを見つめながら、胸の奥の空洞をどうにかやり過ごした。
「友達に、何もしてあげられなかった。むしろ、傷つけてしまって。
言うべきことも、言い方も、間違えてばかりで……」
彼は軽く唇を動かしかけて、何かを言いかけたが、結局言葉にはしなかった。
雪の結晶が髪と肩に落ち、そのまま溶けずに残っている。
その沈黙が責めではなく、ただの「聴く姿勢」であることが伝わってきて、少しだけ呼吸が整った。
沈黙が続く。
風の音が、遠くの住宅の壁にぶつかって戻ってくる。
その反響の中で、ふいに彼の動きが止まり、こちらを見た。
口を開くような仕草をして、ためらい、視線を逸らす。
――名前を呼ばれそうになった気がした。
でも、呼ばれなかった。
彼の眉がかすかに動き、何かを思い出したように目をそらす。
その仕草で、彼がわたしの名前を知らないことに気づく。
「あの……」
自然と声が漏れる。
「わたし、夜風小雪っていいます」
雪に反射した白い光の向こうで、彼が少し戸惑ったように瞬きをする。
「俺、陽岳修。……同じ学校だよね」
「はい。……あの、いきなり変なことばかり話してしまって、ごめんなさい」
「……変じゃないと思う」
ゆっくりとした声だった。
呼吸の合間に紛れるほど小さいのに、ちゃんと聞こえた。
「夜風さんが言ったこと、全部は分かんないけどさ。良いことをしようとしてるっていうのは……伝わったから」
名前を呼ばれるのは久しぶりだった。
そして誰かに肯定されるという感覚も、久しぶりに思い出した気がする。
わたしはマフラーの端を指で探りながら、視線を膝に落とした。
「良いことなんて、できてないです」
口にした途端、その暗い音の響きが夜に漂う。
「結局、わたしは、ただ友達を傷けただけだった」
掠れていく音を、彼は遮らなかった。
膝の上の缶はもう冷たくなっていた。けれど握りしめた手だけは離せない。
ふいに、風が弱まって、息を吸い込んだ空気が胸の奥まで届く。
そこで、缶を握りしめる自分の手が震えていることに気づいた。
「夜風さん」
名を呼ばれただけなのに、胸の奥が静かに鳴った。
雪のざらついた音の向こうで、彼の声が落ち着いて響く。
「俺──なんて言ったらいいか分かんないけど、努力してダメだったことなんて、誰でもある。うまくいかないほうが普通だ」
思わず顔を上げた。
街灯に照らされた彼の横顔は輪郭だけが浮かび、息の白さに滲んでいる。
説得でも慰めでもない。誰かに言われた言葉を借りているような単調さなのに、そこに体温があった。
「俺は夜風さんのこと、ほとんど知らないけどさ。それだけ必死だったなら、いつか分かってくれると思う。……その友達も」
「でも、わたしは――」
反論しかけた瞬間、彼は首を横に振った。
「世の中、そんなに思うとおりにならないって、みんな分かってる。
全部が終わって冷静になる時が必ず来る。それだけ大切にしてるなら、相手だってきっと同じだ。……今は、こうなるしかなかったんだよ」
言葉は淡々として、少し乱暴に聞こえる。
でもその奥に、長い沈黙の癖みたいな優しさがあった。
「こうなるしかなかった」——
〈やり直せないことは、ある。……逃げていい。やめてもいい〉
あの朝、背中越しに聞いた低い声。
時計を見つめても手を伸ばさなかった父の姿が、雪の白に重なった。
でも。
そう思った途端、胸の中心で何かが息を吹き返した。
やめていいと言われたのに、やめたくない。
仕方ないと思おうとするほど、「それでも」とうずく気配が残る。
凍えた心臓の奥で、かすかな温度が戻ってくる。
わたしは俯いたまま、潰れた雪を握り固める。
声に出さなければ消せると思っていたけど、喉の奥で言葉にならない何かが暴れていた。
――終わらせたくない。
でも、また誰かを傷つけるかもしれない。
触れれば壊す。離れれば遠ざかる。
どちらを選んでも、正解はない気がした。
その静かな混乱の中で、彼が短く息を吐いた。
「……夜風さんは、強いね」
「違います」
答える自分の声が少し震えた。
「ただ、怖いだけです」
彼はそれきり、何も言わなかった。
わたしたちは並んだまま、雪の音を聞いていた。
時間が、ゆっくり溶けていく。
風の切れ目に、遠くの街の灯りが微かに揺れている。
もうどちらも何も言葉を探さず、呼吸だけがかすかに混ざり合った。
空は白く濁って、雪がまだ降り続いている。
けれど、その白の向こうにあるものを、わたしは確かめたくなった。
――もしまだ、やり直せるなら。
その考えがほんの一瞬、心の隅をかすめた。
けれど声にはしなかった。
唇を閉じて、ただ冷めきった缶を握りしめる。
修は視線を外さず、わたしの手元に目を落としたまま、静かに言った。
「もう帰ろう。……本当に冷える」
その声音に救われる。
わたしはうなずき、立ち上がった。
空き缶を回収箱に落とす小さな金属音がして、夜気が入れ替わった。
雪の上、ふたつの足跡が寄り添うように並ぶ。
まだ決意というほどの形はない。
ただ、凍える夜気の中で、胸の奥に僅かな熱が戻っていた。