小雪の降る夜、わたしは嘘をついた   作:クロ

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第9話 終わらせたくない

 

 彼に手を引かれて、通学路から外れた裏道へ向かっていた。

 重機の影が青白い照明に照らされ、金属の骨が立ち並んでいる。

 足もとでは除雪の残りが踏み固められ、光を反射して細かく光った。

 

 彼はさっきからほとんど口を開かない。

 先を歩きながら、時々振り向き、距離を測るように歩幅を合わせてくれている。

 自分の呼吸がどんな音を立てているのかも、もう分からなかった。

 泣き疲れているというより、涙そのものがもう出なくなっていた。

 心だけが冷たくて、体がその重さに追いつけない。

 彼の靴が雪を踏む音、風がフェンスを抜ける低い音、どちらも夢の中みたいに聞こえる。

 

「ここなら……風、少し弱い」

 

 彼の声がかすかにして、すぐ風に溶けた。

 見回せば、確かに静かだった。工事用フェンスが風を遮って、夜気がわずかに止まる。下校中の生徒の気配はどこにもない。

 でも、わたしは頷いたのかどうかすら覚えていない。

 その場にいることだけで精一杯だったから。

 

 何も考えられない。

 時計も、真夜も、謝らなきゃいけない誰かも、全部がまるで他人の物語のよう。ただ一つだけ、寒さの向こうで、誰かと並んで立っている感覚だけが残る。

 

 静かすぎる夜。

 この静けさの中に真夜を思い出してしまう。

 並んで歩いたあの日の微かな笑い声。もう二度と戻ってこない時間。

 同じ雪、同じ空気なのに、痛みだけが不思議に鮮明で、呼吸のたびに胸の奥が締め付けられる。

 

「……ごめんなさい」

 

 誰に向かって言ったのか分からない言葉が零れた。

 彼は答えなかった。

 体がぶつかるほどではない距離。雪を一枚、間に挟むくらいの隙間。

 

 そして彼は立ち止まった。

 ベンチの雪を払ったあと、彼はほんの一瞬だけわたしのほうを見る。

 

「ここ、座ってて」

 

 言いながら、掌で残りの雪を掃く。声は小さかったが、表情には焦りも押しつけもなかった。ただ、夜の寒さの中に立ち尽くすわたしをどうにかしようと、それだけを考えている仕草だった。

 

 頷くこともままならず、言われるまま腰を下ろした。

 冷たさが裾から伝わってじわじわと広がる。手首の辺りに痛みが走って、ようやく自分の体の形を思い出す。体勢を崩したときに、地面に打ってしまったのかもしれない。

 

「すぐ戻るから」

 

 そう残して、彼は小走りで近くの自販機に向かっていった。遠ざかる足音だけが一定のリズムを保ち、やがて金属音と共に途切れる。

 

 静けさが戻る。

 風が止まったわけでもないのに、世界の音が遠ざかったようだった。

 ベンチの背もたれ越しに見える冬空は曇り気味で、星の気配がない。照明の白が雪面を鈍く照らしている。

 

 膝に手を置いて、マフラーから口元を出して深く息を吸おうとする。肺が痛い。

 息を吸っても、もう泣き声は出なかった。

 代わりに、重たい思考だけがゆっくり巡る。

 気持ちをうまく整理できないまま、視線を下げると、掌の震えがまだ続いていた。

 泣き疲れただけの震えじゃない。体の奥が冷え切っている。

 雪の上に靴の跡が二つ。彼が歩いてきた道と、わたしが転がるように跪いた跡とが、並んで続いていた。

 

 その跡を見ていたら、胸の内側が妙に熱くなっていった。

 ――助けてくれたのだろうか。

 そう思うのがやっとで、感謝の言葉では整理できない感情だった。

 なんでわたしなんかに、と言いかけて、口を閉じる。

 目を閉じても、暗闇の奥からざわざわと後悔が浮かんできて、落ちていく。

 

 金属の音が再び鳴った。

 振り向くと、彼が自販機から戻ってくるのが見えた。両手に白い湯気を抱え、息を吐きながら近づいてくる。

 缶のラベルが街灯の下でかすかに光る。

 彼は何も言わずに、それをわたしの前へ差し出した。

 

「……これ。あったかいやつ」

 

 彼の手から受け取った瞬間、指先の感覚がひりつくように蘇る。

 缶の熱は思っていた以上に強くて、掌の皮膚がびっくりしたように脈を打った。

 唇が乾いて「ありがとう」と言う音が出ない。

 彼も、それを待たなかった。わたしが缶を両手で包み込んでいる間に、少し離れた場所、バス停の柱の影に腰を下ろしていた。

 湯気が両方の息に混ざって、夜気の中に溶けていく。

 

 プルタブの縁が指に食い込み、トウモロコシの粒の写真が街灯に淡く光った。

 コンポタの甘い匂いが鼻をかすめて、少しだけ唇をつける。舌が驚くほど早く熱を感じて、目の奥がじんとした。

 体の中に、ようやく“温度”というものが戻ってくる。

 それでも、すぐ隣で冷たい空気が鳴っているのが分かる。

 世界全体が凍ったまま、わたしの手だけが生きている。

 

 彼は腕を膝にのせ、指先で缶の縁をなぞっていた。

 何度かこちらを見ようとして、視線が定まらず、また外を見た。

 ――何か言いたそうだ。

 でも、たぶんわたしに何を訊いたらいいか分からないのだろう。

 その気配が空気に触れて伝わってきた。

 喉の奥で言葉が渋滞しているみたいな沈黙。

 それを読んでしまう自分も、どうすればいいか分からなかった。

 

 わたしはできるだけ表情を動かさないようにしながら、缶を口元に近づけた。

 金属の縁が唇に当たり、微かに音がする。

 その音が余計に、息苦しい静寂を際立たせた。

 

 この人のことはよく知らない。

 それなのに、わたしを気遣ってくれている。

 でも、そんな資格はわたしにはない。

 自分のせいで色んなものを失わせたのに、どうして暖かいものをもらっているのだろう。

 

 彼の視線がまたこちらに向かう。

 沈黙が一度だけ詰まりかける。

 わたしは息を吸い、吐き、また吸う。

 言葉にしてしまったら、全部嘘になる気がして、口の奥が固まる。

 

 それでも――言わなければ、いけないと思った。

 知らない人ではあるけれど、困らせたくなかった。

 

 缶の熱が薄れてきたころ、わたしはゆっくりと息を吐いた。

 

「大切な友達だったんです」

 

 言葉にしてしまった瞬間、胸の奥が軋むように痛んだ。

 息が白く散り、消えるのが早い。

 静かな夜が、わたしの声だけを囲い込んでいる。

 

 彼――目の前の少年は、少しだけ首を傾けてうなずいた。

 何も言わない。ただ、立ち上がる気配もない。

 聞いてくれているという、そのことだけが救いのようだった。

 

「……友達の、お父さんとお母さんが事故に遭ってしまって」

 

 声がかすれて、膝の上で指が絡まる。

 

「そのことを、起きる前に知っていました。止められるって、思ったんです。でも……できなかった」

 

 肩のあたりがきゅっと縮まる。

 告白というより、薄暗い鏡の前で自分の顔を確かめるような感覚だった。

 誰かに許してほしいわけでもなく、沈黙に耐えられなくなって、口が勝手に動く。

 

「気づいたら、何度も同じような日になっていて。何かを変えたいって思っても、どこから変えればいいか分からなくて……」

 

 要領を得ないと自分でも分かっていた。

 でも、それでも言わずにいられなかった。

 この人なら、うまく受け取ってくれるかもしれない。そんな期待をほんの少しだけかけてしまう。

 

「――でも、誰にも伝えられなくて。説明したら信じてもらえないし、どう思われるかも怖くて」

 

 言いながら視線を落とす。

 靴の先が雪を押しつぶし、そこに小さな跡を描く。

 その跡が風にすぐ埋もれていくのを見つめながら、胸の奥の空洞をどうにかやり過ごした。

 

「友達に、何もしてあげられなかった。むしろ、傷つけてしまって。

 言うべきことも、言い方も、間違えてばかりで……」

 

 彼は軽く唇を動かしかけて、何かを言いかけたが、結局言葉にはしなかった。

 雪の結晶が髪と肩に落ち、そのまま溶けずに残っている。

 その沈黙が責めではなく、ただの「聴く姿勢」であることが伝わってきて、少しだけ呼吸が整った。

 

 沈黙が続く。

 風の音が、遠くの住宅の壁にぶつかって戻ってくる。

 その反響の中で、ふいに彼の動きが止まり、こちらを見た。

 口を開くような仕草をして、ためらい、視線を逸らす。

 

 ――名前を呼ばれそうになった気がした。

 でも、呼ばれなかった。

 彼の眉がかすかに動き、何かを思い出したように目をそらす。

 その仕草で、彼がわたしの名前を知らないことに気づく。

 

「あの……」

 

 自然と声が漏れる。

 

「わたし、夜風小雪っていいます」

 

 雪に反射した白い光の向こうで、彼が少し戸惑ったように瞬きをする。

 

「俺、陽岳修。……同じ学校だよね」

「はい。……あの、いきなり変なことばかり話してしまって、ごめんなさい」

 

「……変じゃないと思う」

 

 ゆっくりとした声だった。

 呼吸の合間に紛れるほど小さいのに、ちゃんと聞こえた。

 

「夜風さんが言ったこと、全部は分かんないけどさ。良いことをしようとしてるっていうのは……伝わったから」

 

 名前を呼ばれるのは久しぶりだった。

 そして誰かに肯定されるという感覚も、久しぶりに思い出した気がする。

 わたしはマフラーの端を指で探りながら、視線を膝に落とした。

 

「良いことなんて、できてないです」

 

 口にした途端、その暗い音の響きが夜に漂う。

 

「結局、わたしは、ただ友達を傷けただけだった」

 

 掠れていく音を、彼は遮らなかった。

 膝の上の缶はもう冷たくなっていた。けれど握りしめた手だけは離せない。

 ふいに、風が弱まって、息を吸い込んだ空気が胸の奥まで届く。

 そこで、缶を握りしめる自分の手が震えていることに気づいた。

 

「夜風さん」

 

 名を呼ばれただけなのに、胸の奥が静かに鳴った。

 雪のざらついた音の向こうで、彼の声が落ち着いて響く。

 

「俺──なんて言ったらいいか分かんないけど、努力してダメだったことなんて、誰でもある。うまくいかないほうが普通だ」

 

 思わず顔を上げた。

 街灯に照らされた彼の横顔は輪郭だけが浮かび、息の白さに滲んでいる。

 説得でも慰めでもない。誰かに言われた言葉を借りているような単調さなのに、そこに体温があった。

 

「俺は夜風さんのこと、ほとんど知らないけどさ。それだけ必死だったなら、いつか分かってくれると思う。……その友達も」

「でも、わたしは――」

 

 反論しかけた瞬間、彼は首を横に振った。

 

「世の中、そんなに思うとおりにならないって、みんな分かってる。

 全部が終わって冷静になる時が必ず来る。それだけ大切にしてるなら、相手だってきっと同じだ。……今は、こうなるしかなかったんだよ」

 

 言葉は淡々として、少し乱暴に聞こえる。

 でもその奥に、長い沈黙の癖みたいな優しさがあった。

 

「こうなるしかなかった」——

 〈やり直せないことは、ある。……逃げていい。やめてもいい〉

 

 あの朝、背中越しに聞いた低い声。

 時計を見つめても手を伸ばさなかった父の姿が、雪の白に重なった。

 

 でも。

 そう思った途端、胸の中心で何かが息を吹き返した。

 

 

 やめていいと言われたのに、やめたくない。

 仕方ないと思おうとするほど、「それでも」とうずく気配が残る。

 

 

 凍えた心臓の奥で、かすかな温度が戻ってくる。

 

 わたしは俯いたまま、潰れた雪を握り固める。

 声に出さなければ消せると思っていたけど、喉の奥で言葉にならない何かが暴れていた。

 

 ――終わらせたくない。

 でも、また誰かを傷つけるかもしれない。

 触れれば壊す。離れれば遠ざかる。

 どちらを選んでも、正解はない気がした。

 

 その静かな混乱の中で、彼が短く息を吐いた。

 

「……夜風さんは、強いね」

「違います」

 

 答える自分の声が少し震えた。

 

「ただ、怖いだけです」

 

 彼はそれきり、何も言わなかった。

 わたしたちは並んだまま、雪の音を聞いていた。

 

 時間が、ゆっくり溶けていく。

 風の切れ目に、遠くの街の灯りが微かに揺れている。

 もうどちらも何も言葉を探さず、呼吸だけがかすかに混ざり合った。

 

 空は白く濁って、雪がまだ降り続いている。

 けれど、その白の向こうにあるものを、わたしは確かめたくなった。

 ――もしまだ、やり直せるなら。

 その考えがほんの一瞬、心の隅をかすめた。

 

 けれど声にはしなかった。

 唇を閉じて、ただ冷めきった缶を握りしめる。

 修は視線を外さず、わたしの手元に目を落としたまま、静かに言った。

 

「もう帰ろう。……本当に冷える」

 

 その声音に救われる。

 わたしはうなずき、立ち上がった。

 空き缶を回収箱に落とす小さな金属音がして、夜気が入れ替わった。

 雪の上、ふたつの足跡が寄り添うように並ぶ。

 

 まだ決意というほどの形はない。

 ただ、凍える夜気の中で、胸の奥に僅かな熱が戻っていた。

 

 

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