小雪の降る夜、わたしは嘘をついた   作:クロ

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第10話 わたしだけの朝

 翌朝の空気は、冷たく透きとおっていた。

 夜のうちに降った雪が歩道の上を柔らかく覆い、世界の音量を一段下げる。

 それでも胸の奥には、昨日の話の余韻と、真夜の泣き顔の影が沈んでいた。

 息を吐くと、白い靄が少しだけ揺れ、すぐ崩れた。

 ――まっさらな朝のように見えるけど、何も本当には変わっていない。

 それでもこの静けさの中で、昨日より息をしやすかった。

 

 信号待ちの列から離れた木陰に、陽岳さんの姿があった。

 青に変わるタイミングで、わたしは一歩遅れて隣に並んだ。

 

「……おはようございます」

 

 声をかけると、彼は小さく会釈してくれる。

 靴音の間隔をわたしに合わせて詰める。わたしは隣の列の端を歩く。距離は半歩。会話がなくても、足音だけが雪の上を揃えていた。

 坂を上る途中で、陽岳さんが口を開いた。

 

「夜風さん、昨日の話……ちょっと分かる気がした」

「……昨日の?」

「家の中、あんまり静かにならないんだ。毎日同じことの繰り返しで、嫌なのに自分じゃ何も変えられない。だけど、いいこともある」

「それは……?」

「朝だけは音が少ないからさ。だから――朝の景色が昨日と同じだと、少し安心する」

 

 その言葉は、胸の奥で小さく跳ねた。

 “同じ朝を望む”という形で、自分と似た感覚を持っていることを知ったから。

 わたしが感じていたものと、彼が求めるものが、ひとつの線で結ばれた気がして、誰にも話せなかった自分の感覚の端をそっと撫でる。

 

「わたしも、この時間が一番好きです」

 

 隣を見てそう返すと、陽岳さんは顔を背けてしまった。

 

「……昨日は、ありがとうございました」

「何が?」

「少し、楽になったから」

 

 彼は顔を背けたまま。しかし一度だけ、ちらりとこちらを見て言う。

 

「話すの、得意じゃないけどさ。聞くことくらいなら、できると思う」

 

 その一言で、胸の奥がまた軽くなる。

 誰かに打ち明けても大丈夫だという、お母さんがいなくなってから忘れていた感覚が蘇ってくる。

 

 ただ話すだけなのに、時計の針の音が遠くなる。

 この静けさがずっと続いてほしいと思ってしまう。

 でも続ければ続けるほど、まだ終わっていないことが胸の奥にせり上がってくる。

 

 

 

 

 

 帰り道、校門の外で偶然また顔を合わせた。

 互いに視線を交わすだけで、足が同じ方向を向く。

 特に約束をしたわけではない。けれど、並んで歩くことにためらいはなかった。

 

「遠回りしてもいい?」

 

 彼の小さな声に、わたしはうなずく。

 

「はい」

 

 それから先は会話もなく、街灯の灯が連なる脇道に入る。

 

 雪が溶けて、地面の黒が見えてきた。

 風が吹くたび、電線が小さく鳴る。

 その音が止むと、世界が一瞬白く染まる。

 わたしは深く息を吸って、ぽつりとつぶやいた。

 

「もし、時間を戻して、色んなことをやり直せるとしたら……どうしますか」

 

 唐突すぎたかもしれない。

 しかし陽岳さんは顔を上げず、しばらく考えて。やがて答えを出した。

 

「俺なら、やるだけやると思う」

「どうして……?」

「後悔するよりは、まだましだから。ダメだったとしても、何もしないよりはいい」

 

 その声は、凍った夜気の中でまっすぐ届いた。

 強がりのようで、どこかに確信がある。

 わたしは答えられず、小さくうなずいた。

 

 風が強まる。コートの裾が重なって、すぐ離れる。

 彼は何も言わず、前を歩きながら歩幅を緩めた。

 その背中を見ると、自分の中の何かがわずかに揺れる。

 

 諦めるしかないと思っていた。

 でも、その“しかたない”の中に、ほんの少し他の色が混じった気がした。

 もし、本当にもう一度だけやり直すことが許されるなら──。

 

 

 

 夜、自室。

 机の上でノートを開き、ペンの先に力を込める。

 ストーブの音が一定に鳴り、窓の外はまだ雪が降っている。

 誰にも言わない決意は、声にすればすぐ壊れてしまいそうで、文字にして閉じ込める。

 

 〈どうすれば、友達を救えるのか〉

 〈同じことを繰り返したくない〉

 〈それでも、真夜の笑顔を取り戻したい〉

 

 書くたびに思考が曇っていくけれど、止まらなかった。

 彼の言葉が、頭の奥でくり返される。

 後悔するよりは、動け。

 たぶん、それだけでいい。

 “ほんとうに大切なときだけ”――お母さんの言葉が蘇った。

 

 ノートの最下段。

 わたしは指で線を引き、白い余白に小さく書いた。

 

 ――次で最後にする。

 

 ページを閉じると、ポケットの中で鎖が小さく触れ、金属の冷たさが指先に移った。

 胸の奥がまだ痛む。けれど、その痛みの下に微かに熱があった。

 時計の沈黙が、呼吸と重なる。

 

 わたしは目を閉じ、雪の音を聞いた。

 もう一度だけ。

 これを最後にすると、わたしは心に決めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 朝の空気は刺すように冷たかった。

 けれど、胸の奥に漂うものはそれほど苦くない。

 最初の頃よりは、すこしだけ息がしやすくて。眠る前に決めた「もう一度」が、まだ体の奥で続いていた。

 

 角を曲がると、いつものように彼がいた。

 信号から半歩離れた木陰。白い息を吐きながら空を見ていて、青の灯りでようやくこちらに気づく。

 わたしは軽く頭を下げる。声は出さない。彼も同じように頷くだけ。

 それでじゅうぶんだった。

 

 道はまだ雪の粉を被っている。静かな坂を並んで歩く。

 車道側に陽岳さんが立つので、自然と足幅が寄る。

 始業前の街は、いつも決まった音だけを繰り返していて、誰もそのリズムを乱さない。

 その規則正しさが、ここ数日ではじめて心地よく思えた。

 

「昨日、夜遅くまで起きてた?」

「はい。勉強を、少し」

 

 うそだ。本当はノートを書いていた。

 気づけば、ぎこちなくも微笑んでいた。陽岳さんも同じ表情を返してくれる。

 誰かに受け取られる笑いがこんなにあたたかいとは、忘れていた。

 

 二人の歩幅が完全にそろう。

 風に乗って雪が舞い、靴の先で音もなく砕ける。

 街の呼吸と、白と、吐く息とかすかな匂い。

 世界に音は少ないのに、胸の中だけはやけに満たされていた。

 

 言おうかな、と一瞬思った。

 わたし、あなたに話しておきたいことがある。

 時計のこと。

 母のこと。

 時間を戻せるあの仕組み。

 どうしてそれを使ったか、どれほど失敗してしまったか。

 

 ――もし陽岳さんが知ってくれたら。

 「信じるよ」と言ってほしい。

 心のどこかでそう願って、わたしはポケットの中に指を滑らせた。

 銀の鎖の感触。

 触れた瞬間、冷たい金属が素肌の熱を奪っていく。

 

 そのとき、不意に思った。

 戻したら、これは全部、消える。

 この道も、この朝も、この人も。

 今わたしが彼に向けようとしている言葉も、なかったことになる。

 

 立ち止まる。

 風が頬をなぞり、視界に細かい雪が散った。

 胸の奥で、何かがぎゅっと縮む。

 ここ数日でやっと見つけた安心が、ふいに形を失っていく感覚。

 

「どうした?」

 

 声がすぐそばで響く。

 

「……寒くて」

 

 うまく笑えず、マフラーに口を隠した。

 陽岳さんはそれ以上聞かなかった。

 わたしは視線を落として、雪の上にできる二人分の影を見つめる。

 

 足音がまた並んだ。

 雪を踏む音だけが一定のリズムを刻む。

 そのたびに、“ここにいる”という実感が痛みに変わっていく。

 このまま歩き続けてしまいたいと思う。

 けれど、その願いを叶えた瞬間に、全てを失う未来が決まっている。

 

 指先がポケットの鎖に触れる。

 目を閉じれば、母の声が脳裏に浮かぶ。

 

 〈後悔、しないように。……ただ、それだけ。小雪……〉

 

 息を吸う。

 白い息が彼の吐息と交わり、風に流れて溶けていく。

 それを見送った瞬間、胸の中にあった決意がひび割れた。

 もう一度だけ。

 でもこの手を動かせば、陽岳さんとの日々は、消えてしまう。

 時間を戻せば、出会いがなくなる。

 でも、親友を救うと決めたのは、わたし自身で。

 

 小さく、震えた。

 それでも平然を装い、陽岳さんの口もとに目をやる。

 笑おうとしたが、顔の筋肉が思うように動かない。

 喉の奥に重たい塊が残る。

 

「大丈夫か?」

「……はい」

 

 なんとかそれだけ言って、上を向く。

 空は白く滲んで、雪がまだ降っていた。

 

 

 

 

 

 

 雪は、止まなかった。

 胸の中の時間だけが、ゆっくりと終わりに向かっていた。

 

 家に帰ったあと、机の上に彼から受け取ったぬくもりの残像がある気がした。

 銀の鎖をそっと持ち上げ、掌で包み込む。

 冷たさが骨にまで沁みて、呼吸が浅くなる。

 彼に打ち明けたいと思った瞬間の温度を思い出し、それを振り払うように目を閉じる。

 

 ――もし、言ってしまえば。きっと陽岳さんも、苦しむ。

 どの未来を選んでも、誰かを巻き込む。

 母の言葉が喉の奥で止まる。「誰も巻き込むな」。

 その言いつけだけが頼りだった。だから、今度は一人でやる。

 

 胸の奥に沈殿した痛みを飲み下しながら、机の上のノートを閉じる。

 最後の行――「次で最後にする」の文字が、薄く光を吸って白紙に溶けていく。

 

 指で時計の針を挟み、ピンを探す。

 決意が鈍る前に。

 深く、静かに、押し込む。

 

 世界が沈黙する。

 空気が逆流し、胸が締まる。

 光が反転して、なにもなくなる。

 わたしは逃げるように目を閉じた。

 誰の名前も浮かばなかった。

 ただ、あたたかな手の輪郭が遠ざかっていくのを、痛いほど感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 ――朝。

 

 薄い光がカーテンから滲み出して、枕の影を淡く照らす。

 いつもと同じ一日の始まり。

 けれど、眠りから醒める瞬間、胸の奥で何かが崩れる。

 自分の内側だけが知っている“いま”と、世界の“まだ”が噛み合っていない。

 

 制服の襟を整え、玄関を出る。

 外は、一晩の雪がすべてを覆っている。

 爪先が白を割るたびに、別の記憶が泡のように弾けた。

 そのすべてを見ないふりで、坂道を上る。

 

 通学路の途中、いつもの木陰。

 そこに、彼がいた。

 まだ“出会っていない”彼が。

 息を吹きかけて手を温めている。

 その仕草まで、昨日と同じ。

 でも“昨日”がもうここには存在しないことを、わたしだけが知っている。

 

 視線が触れる。彼は気づいて、ゆっくりと顔を上げた。

 曇りがちな瞳が一瞬だけこちらを掠める。

 名を呼ばれることもない。

 それが当たり前の反応だと頭では分かっているのに、胸の奥が軋む。

 

 ほんの数歩先で、真夜の足音が聞こえた。

 マフラーの端を二度叩く、あの癖も、変わらない。

 わたしは反射的にそちらを向き、わざと一歩ずれる。

 彼との視線を断ち切るように。

 

 風が吹いた。

 髪が舞い、頬を撫で、マフラーの端を揺らす。

 その音に紛れて、心臓の鼓動がひとつ遅れた。

 唇の内側が震える。

 何も言えない。

 何も残らない。

 

 目を伏せ、白い息を小さく吐いた。

 それはすぐ雪に溶けて、跡も残さない。

 胸の奥で、叫びにもならない声が静かに消える。

 歩き出した足が重い。

 雪を踏む音だけが、いまの世界に刻まれた自分の痕跡だった。

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