翌朝の空気は、冷たく透きとおっていた。
夜のうちに降った雪が歩道の上を柔らかく覆い、世界の音量を一段下げる。
それでも胸の奥には、昨日の話の余韻と、真夜の泣き顔の影が沈んでいた。
息を吐くと、白い靄が少しだけ揺れ、すぐ崩れた。
――まっさらな朝のように見えるけど、何も本当には変わっていない。
それでもこの静けさの中で、昨日より息をしやすかった。
信号待ちの列から離れた木陰に、陽岳さんの姿があった。
青に変わるタイミングで、わたしは一歩遅れて隣に並んだ。
「……おはようございます」
声をかけると、彼は小さく会釈してくれる。
靴音の間隔をわたしに合わせて詰める。わたしは隣の列の端を歩く。距離は半歩。会話がなくても、足音だけが雪の上を揃えていた。
坂を上る途中で、陽岳さんが口を開いた。
「夜風さん、昨日の話……ちょっと分かる気がした」
「……昨日の?」
「家の中、あんまり静かにならないんだ。毎日同じことの繰り返しで、嫌なのに自分じゃ何も変えられない。だけど、いいこともある」
「それは……?」
「朝だけは音が少ないからさ。だから――朝の景色が昨日と同じだと、少し安心する」
その言葉は、胸の奥で小さく跳ねた。
“同じ朝を望む”という形で、自分と似た感覚を持っていることを知ったから。
わたしが感じていたものと、彼が求めるものが、ひとつの線で結ばれた気がして、誰にも話せなかった自分の感覚の端をそっと撫でる。
「わたしも、この時間が一番好きです」
隣を見てそう返すと、陽岳さんは顔を背けてしまった。
「……昨日は、ありがとうございました」
「何が?」
「少し、楽になったから」
彼は顔を背けたまま。しかし一度だけ、ちらりとこちらを見て言う。
「話すの、得意じゃないけどさ。聞くことくらいなら、できると思う」
その一言で、胸の奥がまた軽くなる。
誰かに打ち明けても大丈夫だという、お母さんがいなくなってから忘れていた感覚が蘇ってくる。
ただ話すだけなのに、時計の針の音が遠くなる。
この静けさがずっと続いてほしいと思ってしまう。
でも続ければ続けるほど、まだ終わっていないことが胸の奥にせり上がってくる。
帰り道、校門の外で偶然また顔を合わせた。
互いに視線を交わすだけで、足が同じ方向を向く。
特に約束をしたわけではない。けれど、並んで歩くことにためらいはなかった。
「遠回りしてもいい?」
彼の小さな声に、わたしはうなずく。
「はい」
それから先は会話もなく、街灯の灯が連なる脇道に入る。
雪が溶けて、地面の黒が見えてきた。
風が吹くたび、電線が小さく鳴る。
その音が止むと、世界が一瞬白く染まる。
わたしは深く息を吸って、ぽつりとつぶやいた。
「もし、時間を戻して、色んなことをやり直せるとしたら……どうしますか」
唐突すぎたかもしれない。
しかし陽岳さんは顔を上げず、しばらく考えて。やがて答えを出した。
「俺なら、やるだけやると思う」
「どうして……?」
「後悔するよりは、まだましだから。ダメだったとしても、何もしないよりはいい」
その声は、凍った夜気の中でまっすぐ届いた。
強がりのようで、どこかに確信がある。
わたしは答えられず、小さくうなずいた。
風が強まる。コートの裾が重なって、すぐ離れる。
彼は何も言わず、前を歩きながら歩幅を緩めた。
その背中を見ると、自分の中の何かがわずかに揺れる。
諦めるしかないと思っていた。
でも、その“しかたない”の中に、ほんの少し他の色が混じった気がした。
もし、本当にもう一度だけやり直すことが許されるなら──。
夜、自室。
机の上でノートを開き、ペンの先に力を込める。
ストーブの音が一定に鳴り、窓の外はまだ雪が降っている。
誰にも言わない決意は、声にすればすぐ壊れてしまいそうで、文字にして閉じ込める。
〈どうすれば、友達を救えるのか〉
〈同じことを繰り返したくない〉
〈それでも、真夜の笑顔を取り戻したい〉
書くたびに思考が曇っていくけれど、止まらなかった。
彼の言葉が、頭の奥でくり返される。
後悔するよりは、動け。
たぶん、それだけでいい。
“ほんとうに大切なときだけ”――お母さんの言葉が蘇った。
ノートの最下段。
わたしは指で線を引き、白い余白に小さく書いた。
――次で最後にする。
ページを閉じると、ポケットの中で鎖が小さく触れ、金属の冷たさが指先に移った。
胸の奥がまだ痛む。けれど、その痛みの下に微かに熱があった。
時計の沈黙が、呼吸と重なる。
わたしは目を閉じ、雪の音を聞いた。
もう一度だけ。
これを最後にすると、わたしは心に決めた。
朝の空気は刺すように冷たかった。
けれど、胸の奥に漂うものはそれほど苦くない。
最初の頃よりは、すこしだけ息がしやすくて。眠る前に決めた「もう一度」が、まだ体の奥で続いていた。
角を曲がると、いつものように彼がいた。
信号から半歩離れた木陰。白い息を吐きながら空を見ていて、青の灯りでようやくこちらに気づく。
わたしは軽く頭を下げる。声は出さない。彼も同じように頷くだけ。
それでじゅうぶんだった。
道はまだ雪の粉を被っている。静かな坂を並んで歩く。
車道側に陽岳さんが立つので、自然と足幅が寄る。
始業前の街は、いつも決まった音だけを繰り返していて、誰もそのリズムを乱さない。
その規則正しさが、ここ数日ではじめて心地よく思えた。
「昨日、夜遅くまで起きてた?」
「はい。勉強を、少し」
うそだ。本当はノートを書いていた。
気づけば、ぎこちなくも微笑んでいた。陽岳さんも同じ表情を返してくれる。
誰かに受け取られる笑いがこんなにあたたかいとは、忘れていた。
二人の歩幅が完全にそろう。
風に乗って雪が舞い、靴の先で音もなく砕ける。
街の呼吸と、白と、吐く息とかすかな匂い。
世界に音は少ないのに、胸の中だけはやけに満たされていた。
言おうかな、と一瞬思った。
わたし、あなたに話しておきたいことがある。
時計のこと。
母のこと。
時間を戻せるあの仕組み。
どうしてそれを使ったか、どれほど失敗してしまったか。
――もし陽岳さんが知ってくれたら。
「信じるよ」と言ってほしい。
心のどこかでそう願って、わたしはポケットの中に指を滑らせた。
銀の鎖の感触。
触れた瞬間、冷たい金属が素肌の熱を奪っていく。
そのとき、不意に思った。
戻したら、これは全部、消える。
この道も、この朝も、この人も。
今わたしが彼に向けようとしている言葉も、なかったことになる。
立ち止まる。
風が頬をなぞり、視界に細かい雪が散った。
胸の奥で、何かがぎゅっと縮む。
ここ数日でやっと見つけた安心が、ふいに形を失っていく感覚。
「どうした?」
声がすぐそばで響く。
「……寒くて」
うまく笑えず、マフラーに口を隠した。
陽岳さんはそれ以上聞かなかった。
わたしは視線を落として、雪の上にできる二人分の影を見つめる。
足音がまた並んだ。
雪を踏む音だけが一定のリズムを刻む。
そのたびに、“ここにいる”という実感が痛みに変わっていく。
このまま歩き続けてしまいたいと思う。
けれど、その願いを叶えた瞬間に、全てを失う未来が決まっている。
指先がポケットの鎖に触れる。
目を閉じれば、母の声が脳裏に浮かぶ。
〈後悔、しないように。……ただ、それだけ。小雪……〉
息を吸う。
白い息が彼の吐息と交わり、風に流れて溶けていく。
それを見送った瞬間、胸の中にあった決意がひび割れた。
もう一度だけ。
でもこの手を動かせば、陽岳さんとの日々は、消えてしまう。
時間を戻せば、出会いがなくなる。
でも、親友を救うと決めたのは、わたし自身で。
小さく、震えた。
それでも平然を装い、陽岳さんの口もとに目をやる。
笑おうとしたが、顔の筋肉が思うように動かない。
喉の奥に重たい塊が残る。
「大丈夫か?」
「……はい」
なんとかそれだけ言って、上を向く。
空は白く滲んで、雪がまだ降っていた。
雪は、止まなかった。
胸の中の時間だけが、ゆっくりと終わりに向かっていた。
家に帰ったあと、机の上に彼から受け取ったぬくもりの残像がある気がした。
銀の鎖をそっと持ち上げ、掌で包み込む。
冷たさが骨にまで沁みて、呼吸が浅くなる。
彼に打ち明けたいと思った瞬間の温度を思い出し、それを振り払うように目を閉じる。
――もし、言ってしまえば。きっと陽岳さんも、苦しむ。
どの未来を選んでも、誰かを巻き込む。
母の言葉が喉の奥で止まる。「誰も巻き込むな」。
その言いつけだけが頼りだった。だから、今度は一人でやる。
胸の奥に沈殿した痛みを飲み下しながら、机の上のノートを閉じる。
最後の行――「次で最後にする」の文字が、薄く光を吸って白紙に溶けていく。
指で時計の針を挟み、ピンを探す。
決意が鈍る前に。
深く、静かに、押し込む。
世界が沈黙する。
空気が逆流し、胸が締まる。
光が反転して、なにもなくなる。
わたしは逃げるように目を閉じた。
誰の名前も浮かばなかった。
ただ、あたたかな手の輪郭が遠ざかっていくのを、痛いほど感じた。
――朝。
薄い光がカーテンから滲み出して、枕の影を淡く照らす。
いつもと同じ一日の始まり。
けれど、眠りから醒める瞬間、胸の奥で何かが崩れる。
自分の内側だけが知っている“いま”と、世界の“まだ”が噛み合っていない。
制服の襟を整え、玄関を出る。
外は、一晩の雪がすべてを覆っている。
爪先が白を割るたびに、別の記憶が泡のように弾けた。
そのすべてを見ないふりで、坂道を上る。
通学路の途中、いつもの木陰。
そこに、彼がいた。
まだ“出会っていない”彼が。
息を吹きかけて手を温めている。
その仕草まで、昨日と同じ。
でも“昨日”がもうここには存在しないことを、わたしだけが知っている。
視線が触れる。彼は気づいて、ゆっくりと顔を上げた。
曇りがちな瞳が一瞬だけこちらを掠める。
名を呼ばれることもない。
それが当たり前の反応だと頭では分かっているのに、胸の奥が軋む。
ほんの数歩先で、真夜の足音が聞こえた。
マフラーの端を二度叩く、あの癖も、変わらない。
わたしは反射的にそちらを向き、わざと一歩ずれる。
彼との視線を断ち切るように。
風が吹いた。
髪が舞い、頬を撫で、マフラーの端を揺らす。
その音に紛れて、心臓の鼓動がひとつ遅れた。
唇の内側が震える。
何も言えない。
何も残らない。
目を伏せ、白い息を小さく吐いた。
それはすぐ雪に溶けて、跡も残さない。
胸の奥で、叫びにもならない声が静かに消える。
歩き出した足が重い。
雪を踏む音だけが、いまの世界に刻まれた自分の痕跡だった。