朝、机の上にノートを開いた。
裏表紙の角が折れていて、何度も擦った跡が残っている。
左端の余白に線を引き、ゆっくりと文字を置いた。
〈もう戻らない〉。
そう書いてから、長い息を吐く。黒インクがわずかに光り、指先の震えが紙に伝わった。
頭はしっかりしている、と自分に言い聞かせる。
眠れなくても、考えることはできる。昨日までのやり方では駄目だった。
真夜に伝えようとして、結局、何も救えなかったのは——わたしではだめだったから。
説明の仕方も、時期の選び方も、全部。
だから今度は、別の方法でやる。
伝え方ではなく、出来事そのものを変える方法で。
ノートに二本の矢印を書き、途中に小さく「事故」と書き込む。
どうすればこの一点を消せるのか。
時間を戻す前の、テレビの光景がよみがえる。ニュースキャスターが雪の映像を背にして、「一部区間で運休」と読んでいた。でもあの日、バスは止まらなかった。
「市内は雪が落ち着いたから——」そんな判断を、誰かがした。
でも、本当はまだ風が強くて、視界も良くなってはいなかった。
それなら、あの瞬間を、止める。
ペン先を強く押す。
落ち着いていなかったのは天気だけじゃない。
わたしも、落ち着きを失っていた。
もし、あの時の自分が冷静に調べていたら、もっと違う手が見つかったかもしれない。
そう思うだけで、胸がぴりつく。
バスが走らなければ、誰も傷つかない。
きっと、真夜のお母さんやお父さんも無事で、わたしも……もう戻らなくていい。
そう考えると、心がわずかに軽くなるようにも思えた。
そうでも思わなければ、立っていられないからだと分かっていても。
ノートを閉じ、机の引き出しにしまう。
立ち上がると、教室の外から朝の喧噪が聞こえてきた。
水を飲もうと廊下を抜け、洗面台の鏡の前に立つ。
蛍光灯の白さが肌の色を薄くし、目の下に細い影を落とす。
髪を整えてみても、表情は動かない。
マフラーの陰でだけ口角を上げてみる。けれど目は笑えない。
袖で頬をぬぐい、もう一度深呼吸をした。
あと一日。
行動を始めるしかない。
このまま考えているだけでは、また何も変えられない。
戻らないと決めたのだから、前へ動くしかない——そう自分に言い聞かせる。
そうして窓際の席でノートを挟んだまま指を止めていると、背後から名前を呼ばれた。
「……小雪」
昼休みのチャイムが鳴り終わるころ、少し掠れた声がわたしを呼ぶ。
振り向くと、真夜が立っていた。
顔色が悪い。朝もそうだった。どこかぼんやりして、目の焦点が定まっていない。
けれどその瞳がこちらに向いた瞬間、わたしの胸を掴むような気配が走る。
わたしを見ているのに、何かを確かめようとしているみたいだった。
「……どうしたの?」
聞き返す声が、自分でも小さすぎた。
真夜はほんの一拍、言葉を探すように唇を動かしてから、ゆっくり言った。
「なんか……朝から、違う顔してるなって思って」
「違う?」
「うん。いつも、もうちょっと柔らかかったというか……」
言われて、何も答えられない。
自分では普通にしているはずなのに、どこかが崩れている。
真夜の言葉が刺さるというより、届く場所がなくてすり抜けた。
わたしはノートを閉じ、急いで鞄にしまう。
「……何かあったの?」
声に焦りが混じっている。
彼女は一歩、距離を詰めた。
「なんか、すごく焦ってる感じ。無理してる?」
本当は嬉しかった。
朝から誰にも視線を向けられなかったのに、彼女の声がそこにある。
それでも、口から出た言葉は違った。
「なんでもないよ」
笑ってみせる。うまくいかない。口角だけが上がっている。
真夜の眉がわずかに動きかけ、止まった。
押し殺した不安が喉の奥でつまづくような顔。
「でも……」
声が上ずる。
わたしはすぐにかぶせた。
「大丈夫。ほんとに」
間があいた。
昼休みのざわめきが、ちょうどカーテンの隙間を通り抜ける風みたいに流れていく。
わたしたちだけが、その音の外に取り残されていた。
真夜は何か言いかけて、やめた。
「うん。……そっか」
笑顔でも、諦めでもない中途半端な表情で。
わたしはうなずく。
そうする以外、できなかった。
沈黙のあと、真夜は「じゃあ、またあとで」とだけ言って、背を向けた。
歩き出していく肩が、わずかに震えて見えた。
残された教室に、昼の日差しが差し込む。
ノートを握り直した手が、湿っている。
「なんでもない」——言い切った瞬間から、その言葉が胸の内で腐りはじめるのを感じた。
うまく守ったつもりだった。
でも守ったのは、たぶん自分の覚悟だけ。
マフラーの端を握りしめ、呼吸を整える。
真夜の気配が遠ざかるたび、心のどこかがゆっくり削れていく。
放課後。
真夜の机の上には開きっぱなしのノートが置かれていて、シャープペンが転がっていた。いつもなら一緒に片づけて、図書室へ寄り道して、それから並んで帰る。今日もきっとそうすると思われていただろう。
でもわたしは「ちょっと用事あるから、先に帰るね」とだけ短く告げて、鞄を抱えて教室を出た。
嘘だった。なんの用事もない。ただ、あのまま隣にいたら泣いてしまいそうだった。
階段を下りながら、胸の奥がきゅうっと痛んだ。
真夜の顔が頭から離れない。
何も話せなかった。
何も言ってはいけなかった。
だから、知っているのに嘘をついた。
“なんでもない”と笑った自分の声が、鼓膜の裏で何度も再生される。そのたびに、胸の奥の何かが破れていく気がした。
この痛みをどう処理したらいいか分からないまま、校門を抜けた。
陽の沈んだ空に粉雪が舞っている。気温は低いのに、頬が熱い。
吐いた息がすぐ白くなって、夜風の中で溶けた。
坂の上に街灯が一つ。
灯りの下に人影があった。
彼だった。陽岳 修。
声をかけられたのは、その前を通り過ぎようとした瞬間だった。
「夜風さん、だよね?」
立ち止まる。
耳が、心臓の打つ音と同じリズムで跳ねる。
彼の瞳が、街灯の光で浅く染まっていた。どこか既視感のある色。
坂道の風が、彼とわたしの間を通り抜ける。
「夜風さん、前に──」
初対面の彼が言葉を探すように言いかける。
その“前に”がどこを指しているのか、わたしは知っていた。
でも、答えてはいけなかった。
昨日の夜のようによみがえる、父の言葉。
『戻すたびに、母さんは弱っていった……。説明のつかない疲労が、どんどん積もっていった』
『やり直せないことはある。逃げてもいい。そうしてくれたほうが、母さんも喜ぶと思う』
あの声の奥にあったのは、祈りではなく、絶望だったのだとようやく分かる。
時間を戻しても、消せないものがある。
心のどこかに残って、形を変えて、現れる。
クラスのみんなは、理由もわからずわたしを避ける。
真夜は、わたしがお母さんとお父さんを救えなかった記憶を知らぬまま、理由のない恐怖に怯えている。
そして──陽岳さんは。
わたしが消したはずの時間の中で、わたしを覚えている。
それなのに、ここに立って声をかけてきてくれる。
優しい人だ。
でも、だからこそ、もう近づいてはいけない。
「前に……話したことなかったか?」
彼の声には探すような、確かめるような響きがあった。
思わず一歩、後ずさる。
その仕草に彼のまなざしが小さく揺れた。
もし言ってしまえば、今度こそ取り返しがつかなくなる。
また誰かを、苦しめてしまう。
この心の内側に沈んでいる、自罰の棘ごと、相手を刺してしまう気がした。
彼がなぜここにいて、なぜ迷いながらもわたしを呼び止めたのか、その理由を考える余裕もなかった。
目の前の彼が、あまりにも現実的で、あまりにもあたたかかったから。
あれほど冷えた空気の中で、わたしの頬だけが熱を持っている。
これは罪の熱だと思った。
罪を指先で溶かしてしまう前に、喉が先に動いた。
「……知らない」
言葉が空気を切った。
かすかな雪の音でさえ、そのあとには聞こえなかった。
視界の隅で彼がわずかに眉を動かす。何かを言おうとして、でもその前にわたしが動いた。
踵を返し、坂を下る。足元の雪が音もなくひびく。
振り返る勇気は、もうどこにもなかった。
背後で陽岳さんが、何か言いかけたような気配がした。けれど風がそれを攫った。
坂を下りきると、街の灯りが白く滲んでいた。
ひとつひとつがぼやけた光球のようで、世界が遠い。
わたしの胸の奥では罪と空虚だけが膨らみ、細い呼吸を繰り返していた。
“知らない”と口にした自分の声がまだ残響している。
唇がひりつく。マフラーを引き寄せ、口元を隠す。
その布の中で、声にならない言葉が溶けていく。
——本当は、知っている。
でも、知らないふりをしなければ、もう誰も守れない。
街灯の明かりが背中に当たり、足跡の線がその光の中で消えていった。
降り続く雪が視界を埋める。粒ひとつひとつが、冷たい赦しのように感じられる。
わたしは歩きながら、最後にもう一度だけ振り返る。
坂の上、街灯の下に、まだ彼が立っていた。
立ち尽くし、凍える指先をポケットに押し込みながら、ただこちらを見ていた。
胸の奥で何かが軋む。悲しみの形をしていたが、声にはならなかった。
もう一歩進む。世界の音が遠ざかる。
白い息が夜気に散る。
雪の粒が頬を打つたび、心の輪郭が削られた。