小雪の降る夜、わたしは嘘をついた   作:クロ

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第11話 小雪の降る夜、わたしは嘘をついた

 朝、机の上にノートを開いた。

 裏表紙の角が折れていて、何度も擦った跡が残っている。

 左端の余白に線を引き、ゆっくりと文字を置いた。

 〈もう戻らない〉。

 そう書いてから、長い息を吐く。黒インクがわずかに光り、指先の震えが紙に伝わった。

 

 頭はしっかりしている、と自分に言い聞かせる。

 眠れなくても、考えることはできる。昨日までのやり方では駄目だった。

 真夜に伝えようとして、結局、何も救えなかったのは——わたしではだめだったから。

 説明の仕方も、時期の選び方も、全部。

 

 だから今度は、別の方法でやる。

 伝え方ではなく、出来事そのものを変える方法で。

 

 ノートに二本の矢印を書き、途中に小さく「事故」と書き込む。

 どうすればこの一点を消せるのか。

 時間を戻す前の、テレビの光景がよみがえる。ニュースキャスターが雪の映像を背にして、「一部区間で運休」と読んでいた。でもあの日、バスは止まらなかった。

 「市内は雪が落ち着いたから——」そんな判断を、誰かがした。

 でも、本当はまだ風が強くて、視界も良くなってはいなかった。

 それなら、あの瞬間を、止める。

 

 ペン先を強く押す。

 落ち着いていなかったのは天気だけじゃない。

 わたしも、落ち着きを失っていた。

 もし、あの時の自分が冷静に調べていたら、もっと違う手が見つかったかもしれない。

 そう思うだけで、胸がぴりつく。

 

 バスが走らなければ、誰も傷つかない。

 きっと、真夜のお母さんやお父さんも無事で、わたしも……もう戻らなくていい。

 そう考えると、心がわずかに軽くなるようにも思えた。

 そうでも思わなければ、立っていられないからだと分かっていても。

 

 ノートを閉じ、机の引き出しにしまう。

 立ち上がると、教室の外から朝の喧噪が聞こえてきた。

 水を飲もうと廊下を抜け、洗面台の鏡の前に立つ。

 蛍光灯の白さが肌の色を薄くし、目の下に細い影を落とす。

 髪を整えてみても、表情は動かない。

 マフラーの陰でだけ口角を上げてみる。けれど目は笑えない。

 袖で頬をぬぐい、もう一度深呼吸をした。

 

 あと一日。

 行動を始めるしかない。

 このまま考えているだけでは、また何も変えられない。

 戻らないと決めたのだから、前へ動くしかない——そう自分に言い聞かせる。

 そうして窓際の席でノートを挟んだまま指を止めていると、背後から名前を呼ばれた。

 

「……小雪」

 

 昼休みのチャイムが鳴り終わるころ、少し掠れた声がわたしを呼ぶ。

 振り向くと、真夜が立っていた。

 顔色が悪い。朝もそうだった。どこかぼんやりして、目の焦点が定まっていない。

 けれどその瞳がこちらに向いた瞬間、わたしの胸を掴むような気配が走る。

 わたしを見ているのに、何かを確かめようとしているみたいだった。

 

「……どうしたの?」

 

 聞き返す声が、自分でも小さすぎた。

 

 真夜はほんの一拍、言葉を探すように唇を動かしてから、ゆっくり言った。

 

「なんか……朝から、違う顔してるなって思って」

「違う?」

「うん。いつも、もうちょっと柔らかかったというか……」

 

 言われて、何も答えられない。

 自分では普通にしているはずなのに、どこかが崩れている。

 真夜の言葉が刺さるというより、届く場所がなくてすり抜けた。

 わたしはノートを閉じ、急いで鞄にしまう。

 

「……何かあったの?」

 

 声に焦りが混じっている。

 彼女は一歩、距離を詰めた。

 

「なんか、すごく焦ってる感じ。無理してる?」

 

 本当は嬉しかった。

 朝から誰にも視線を向けられなかったのに、彼女の声がそこにある。

 それでも、口から出た言葉は違った。

 

「なんでもないよ」

 

 笑ってみせる。うまくいかない。口角だけが上がっている。

 真夜の眉がわずかに動きかけ、止まった。

 押し殺した不安が喉の奥でつまづくような顔。

 

「でも……」

 

 声が上ずる。

 わたしはすぐにかぶせた。

 

「大丈夫。ほんとに」

 

 間があいた。

 昼休みのざわめきが、ちょうどカーテンの隙間を通り抜ける風みたいに流れていく。

 わたしたちだけが、その音の外に取り残されていた。

 

 真夜は何か言いかけて、やめた。

 

「うん。……そっか」

 

 笑顔でも、諦めでもない中途半端な表情で。

 わたしはうなずく。

 そうする以外、できなかった。

 

 沈黙のあと、真夜は「じゃあ、またあとで」とだけ言って、背を向けた。

 歩き出していく肩が、わずかに震えて見えた。

 

 残された教室に、昼の日差しが差し込む。

 ノートを握り直した手が、湿っている。

 「なんでもない」——言い切った瞬間から、その言葉が胸の内で腐りはじめるのを感じた。

 

 うまく守ったつもりだった。

 でも守ったのは、たぶん自分の覚悟だけ。

 マフラーの端を握りしめ、呼吸を整える。

 真夜の気配が遠ざかるたび、心のどこかがゆっくり削れていく。

 

 

 

 

 

 

 

 放課後。

 真夜の机の上には開きっぱなしのノートが置かれていて、シャープペンが転がっていた。いつもなら一緒に片づけて、図書室へ寄り道して、それから並んで帰る。今日もきっとそうすると思われていただろう。

 でもわたしは「ちょっと用事あるから、先に帰るね」とだけ短く告げて、鞄を抱えて教室を出た。

 嘘だった。なんの用事もない。ただ、あのまま隣にいたら泣いてしまいそうだった。

 

 階段を下りながら、胸の奥がきゅうっと痛んだ。

 真夜の顔が頭から離れない。

 何も話せなかった。

 何も言ってはいけなかった。

 だから、知っているのに嘘をついた。

 “なんでもない”と笑った自分の声が、鼓膜の裏で何度も再生される。そのたびに、胸の奥の何かが破れていく気がした。

 

 この痛みをどう処理したらいいか分からないまま、校門を抜けた。

 陽の沈んだ空に粉雪が舞っている。気温は低いのに、頬が熱い。

 吐いた息がすぐ白くなって、夜風の中で溶けた。

 

 坂の上に街灯が一つ。

 灯りの下に人影があった。

 彼だった。陽岳 修。

 

 声をかけられたのは、その前を通り過ぎようとした瞬間だった。

 

「夜風さん、だよね?」

 

 立ち止まる。

 耳が、心臓の打つ音と同じリズムで跳ねる。

 彼の瞳が、街灯の光で浅く染まっていた。どこか既視感のある色。

 坂道の風が、彼とわたしの間を通り抜ける。

 

「夜風さん、前に──」

 

 初対面の彼が言葉を探すように言いかける。

 その“前に”がどこを指しているのか、わたしは知っていた。

 でも、答えてはいけなかった。

 

 

 昨日の夜のようによみがえる、父の言葉。

 

『戻すたびに、母さんは弱っていった……。説明のつかない疲労が、どんどん積もっていった』

『やり直せないことはある。逃げてもいい。そうしてくれたほうが、母さんも喜ぶと思う』

 

 あの声の奥にあったのは、祈りではなく、絶望だったのだとようやく分かる。

 

 時間を戻しても、消せないものがある。

 心のどこかに残って、形を変えて、現れる。

 クラスのみんなは、理由もわからずわたしを避ける。

 真夜は、わたしがお母さんとお父さんを救えなかった記憶を知らぬまま、理由のない恐怖に怯えている。

 そして──陽岳さんは。

 わたしが消したはずの時間の中で、わたしを覚えている。

 それなのに、ここに立って声をかけてきてくれる。

 優しい人だ。

 でも、だからこそ、もう近づいてはいけない。

 

「前に……話したことなかったか?」

 

 彼の声には探すような、確かめるような響きがあった。

 思わず一歩、後ずさる。

 その仕草に彼のまなざしが小さく揺れた。

 

 もし言ってしまえば、今度こそ取り返しがつかなくなる。

 また誰かを、苦しめてしまう。

 この心の内側に沈んでいる、自罰の棘ごと、相手を刺してしまう気がした。

 

 彼がなぜここにいて、なぜ迷いながらもわたしを呼び止めたのか、その理由を考える余裕もなかった。

 目の前の彼が、あまりにも現実的で、あまりにもあたたかかったから。

 あれほど冷えた空気の中で、わたしの頬だけが熱を持っている。

 

 これは罪の熱だと思った。

 罪を指先で溶かしてしまう前に、喉が先に動いた。

 

 「……知らない」

 

 言葉が空気を切った。

 かすかな雪の音でさえ、そのあとには聞こえなかった。

 視界の隅で彼がわずかに眉を動かす。何かを言おうとして、でもその前にわたしが動いた。

 

 踵を返し、坂を下る。足元の雪が音もなくひびく。

 振り返る勇気は、もうどこにもなかった。

 背後で陽岳さんが、何か言いかけたような気配がした。けれど風がそれを攫った。

 

 坂を下りきると、街の灯りが白く滲んでいた。

 ひとつひとつがぼやけた光球のようで、世界が遠い。

 わたしの胸の奥では罪と空虚だけが膨らみ、細い呼吸を繰り返していた。

 

 “知らない”と口にした自分の声がまだ残響している。

 唇がひりつく。マフラーを引き寄せ、口元を隠す。

 その布の中で、声にならない言葉が溶けていく。

 

 ——本当は、知っている。

 でも、知らないふりをしなければ、もう誰も守れない。

 

 街灯の明かりが背中に当たり、足跡の線がその光の中で消えていった。

 降り続く雪が視界を埋める。粒ひとつひとつが、冷たい赦しのように感じられる。

 

 わたしは歩きながら、最後にもう一度だけ振り返る。

 坂の上、街灯の下に、まだ彼が立っていた。

 立ち尽くし、凍える指先をポケットに押し込みながら、ただこちらを見ていた。

 胸の奥で何かが軋む。悲しみの形をしていたが、声にはならなかった。

 

 もう一歩進む。世界の音が遠ざかる。

 白い息が夜気に散る。

 雪の粒が頬を打つたび、心の輪郭が削られた。

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