小雪の降る夜、わたしは嘘をついた   作:クロ

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第12話 お願い、助けて

 玄関で靴を脱いだとき、指先が震えていた。母の置いた小さな植木が、廊下の隅で影を落としている。

 父はまだ仕事で帰っていない。家は静かすぎて、外の風の音と、時計の秒針がやけに大きく聞こえた。

 鞄を置く。コートもマフラーも掛ける前に滑り落ちた。どれも拾わずに部屋へ入る。

 

 机の上のノートを開く。新しいページ。

 罫線の始まりに日付を書いて、そこから線を引き、文字を置いていく。

 「路線」「坂ノ下交差」「折り返し地点」――思い出せる限りの言葉を並べていく。

 スマホを立てかけ、検索した地名を地図アプリに打ち込む。

 道路管理の連絡先。バス会社の問い合わせページ。天気の履歴。

 指が止まらない。

 同じ語を何度も検索し、同じ行に何度も写し戻す。

 数字や線を書いている間は、世界を動かせるように感じた。

 

 小さな四角で交差点を描き、バス停の間に矢印を引く。

 雪の強さや風向きを想像で記して、危なそうだと思った場所には赤を塗る。

 ニュースで聞いた情報しか知らないのに、描けばそこに道が生まれるような気がした。

 再現できない現場を、線と数字の上で少しでも理解したかった。

 

 窓の外の灯りがにじんで、紙の上に落ちた。

 黒インクが滲んで広がる。滲んでは乾いて、また滲む。

 最初はペンのせいだと思った。

 でも、視界がぼやけてから気づいた。泣いている。

 

 涙を袖で拭う。乾く前に次のが出てくる。

 文字が歪む。線が合わなくなる。

 「調べて止める」――そう考えたときは、きっとこれが唯一の正しい形だと思っていた。

 でも、書けば書くほど、机の上に残るのは紙と光だけで、何も近づいていない。

 

 それでもペンを取る。

 泣きながら、もう一度ペンを取る。

 ページの端に、「大丈夫」と書いた。

 書いても消せなくて、少し間を置いて、もう一度「大丈夫」。

 三度目で、ペン先が止まる。

 

 力の入れ方がわからなくなる。

 手のひらが湿って、紙が波打つ。

 わたし、大丈夫。

 泣けているうちは大丈夫——そう言い聞かせる。

 大丈夫のふりをしていれば、またちゃんと考えられる。

 考えなきゃ。誰も助けてくれないんだから。

 

 ノートの上に、最後の「大丈夫」が半分だけ書かれたまま残る。

 “じ”の右側がすうっと薄れて、黒が灰に変わる。

 笑おうとしたけど、頬の筋肉がうまく動かない。

 

 ペンを離して、机に置いた銀の懐中時計を両手で握りしめた。

 冷たさが皮膚の下へ刃のように入る。

 鎖が、彼の手から戻された時と同じ、やわらかな光を帯びていた。

 あのときの声も、視線も、時間の隙間にまだ残っている気がする。

 だけど思い出すほど、自分が何を壊してきたかが鮮明になる。

 

 掌の中で金属が熱を帯びるまで握りしめる。

 放したら、これまでやってきたことが全部ほどけそうだった。

 涙で濡れた手が滑りそうになっても、構わず握り続ける。

 時計の表面に、自分の歪んだ顔が映る。

 

 「わたしは大丈夫」ともう一度だけ言葉にしてみた。

 声に出した音が部屋に跳ね返り、すぐ消える。

 何も返さない家が、やけに広く感じる。

 

 時計を胸に当てるうちに、鼓動と秒針の音が重なる。そのリズムに合わせて、心の奥の何かを必死に押さえ込む。

 今さら止まれない、わたしが決めたのだから。

 涙が渇くまでノートの地図を眺め続けた。

 白紙と線でできた世界が、夜更けの灯りの中でかすかに揺れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 うまくいかなかった。

 そう結論づけるしかなかった。

 

 事故の前日、夜明け前に家を出た。

 まだ起床していない父の部屋のドアの前で足を止めてから、静かに靴を履く。新聞受けの金属が冷たく、外へ出た瞬間、風に細かい雪が混じって頬に刺さった。

 坂ノ下まで十五分。通学路と近い道なのに、誰もいないと別の国のように感じた。

 交差点の信号に立つ。道路の白と、まだ薄い灰をした空が溶けあって境目が分からない。ライトが走らない時間帯。人がいない場所ほど、音が膨らむ。

 

 ノートを開いて、書きつける。

 「視界:二〇メートル」「横風、右から」。

 昨日、机の上で想像した線が、現場ではまるで別の形をしていることに気づく。雪が積もるだけでこんなに世界が違うなら、きっとわたしの書いた地図なんかただの図形でしかない。それでもノートのページを埋めていった。空白を作ることのほうが、もっと怖かった。

 数字を重ねるたび、何かしらの正しさに近づいていくような錯覚が生まれる。それでも、自分の目で見たものの軽さを一番よく知っているのはほかでもないわたしだった。根拠の重さが足りない。たとえこのページをそのまま差し出したとしても、誰も動かないだろう。

 

 

 始業ギリギリで学校に着いた頃には、くつの中の靴下が湿っていた。暖房のきいた廊下を歩いても、足先の感覚は戻らない。友人たちが笑い合う声が遠くで弾んでいる。そこに混ざれないのは寒さのせいか、別の理由かも分からない。ただ机にノートを開き、細いペン先で昨日の地図を補正する。

 隣の子が椅子を引いて少しだけ距離を取る。彼女は悪くない。ただ、理由も分からないまま身体がそう動くのだろう。真夜も教室にほとんどいなかった。すれ違うときは、目を合わせない。

 

 わたしはノートの端を指で押さえながら、頭の中で何度も計算をやり直した。

 この風なら、ブレーキは利きづらい。

 歩道と車道の段差が隠れる。そこへ下り坂。

 大人なら分かるはずだ。正しいと思う方を選んでくれるはず。

 胸の奥で、その“はず”が何度も呼吸を詰まらせる。

 

 昼休みの図書室。机にスマートフォンを出して、バスの問い合わせフォームを開く。

 これはバス会社に事情を伝える方法。

 電話はうまく伝えられない。わたしは、たったひとりの親友にさえ伝えられなかった。

 だからまずは文章で書く。

 名前欄にカーソルが点滅したとき、母の言葉が指を止めた。

 名前は書かない。

 入力欄の一つひとつが、指に吸い付くほど冷たい。

 「どんな風に書けば伝わるか」それだけで十分のはずだった。

 でも、送信の直前には全身が震えていた。

 

 ここで間違えたら、また大切な人が死ぬ。

 それなのに、どう書いてもどこかが抜け落ちている気がして。

 指先が汗ばむ。漢字を間違えないように、何度も書いては消す。

 わたしは事故の時間も、場所も知っている。書けば届くかもしれない。

 

『どうして、そんなことが分かるの?』

 

 真夜の言葉が耳の奥で何度も再生される。

 書けない。いいや、書いてはいけない。

 名前を書けば巻き込む。匿名なら悪い冗談だ。

 時間をかけるたび、文面は整うのに、根拠だけが痩せていく。

 

 ――送信しました。

 

 画面には“投稿ありがとうございます”と淡い文字が現れて、その下に「内容によってはご回答できない場合があります」と小さく添えられている。

 時計を見ると、学校の終わりのベルが鳴る少し前。

 帰りの雪が強くなっていた。

 

 

 家に戻って、制服のままベッドに横になった。

 あの日のためにやれることを、全部やった。

 けれど形になったのは、細い線がいくつも並ぶノートと、送信済みの文字列だけ。

 それでも、きっと誰かに届く。届いてほしい。——そう思おうとすればするほど、胸の底が冷えていった。

 

 その夜、メールの通知音が鳴った。

 反射的に体を起こし、画面の光をのぞき込む。

 そこには丁寧で、何ひとつ間違っていない言葉が並んでいた。

 

〈貴重なご意見をありがとうございました。運行につきましては当日の状況を確認のうえ判断いたします〉

 

 指先から力が抜けた。

 読み返しても、どこにも自分の声はなかった。

 文面のやさしい定型句が、まるで病室の白い天井みたいに、自分を遮断していた。世界が粗いガラスの向こうにある。

 “当日に判断”。その一言で、すべて分かってしまう。

 彼らの「判断する」がわたしの「間に合わなかった」と同じ未来を意味することを。

 

 ベッドに座り込んで、爪先を見つめる。

 足音のしない家の中で、心臓の音だけが二拍遅れて跳ねる。

 どこで届かなくなったのか。どこを間違えたのか。

 ノートには誰にも見せられない線が走る。鉛筆の芯が折れるたび、紙の繊維が裂けていく音が部屋にこだまする。

 

 窓越しに外を見れば、街灯の下で再び雪が強くなっていた。

 白い粒が視界を埋めて、世界の輪郭を消していく。

 その奥に青い路線灯がある。

 確かめようとしても、すぐに見えなくなる。

 まるで、もうすぐ起こることを隠すように。

 

 机の上の懐中時計に指を置く。

 金属の表面はまだ温かい。押せば、また戻れる。

 でも、戻らないと決めた。

 歯を噛んで、目を閉じる。

 代わりに、心の奥で別の音が鳴った。

 ——これは失敗だ、と。

 

 わたしの“努力”は、誰にも届かない。

 そう理解する頃には、涙すら出なかった。

 部屋の中は、暖房を切ったように静かだった。風の音も時計の音も、壁の中に吸い取られていく。机の上に伏せても、何も感じない。冷たい木の感触だけが皮膚に残っていて、それがわたしのかろうじて現実にいる証のようだった。

 

 やれることは全部やった、と何度も頭の中で繰り返した。

 けれど、やったことが全部間違いだった。

 真夜の両親は助からない。あのバスは止まらない。もしいま時間を戻しても、何一つできることがない。わたしは何もできない。

 それを知ってしまったせいで、あらゆる時間が意味を失っていく。

 

 「大丈夫だよ」って、何度も言った。

 笑いながら、嘘をついた。

 嘘で守ったつもりだったのに、わたしのしたことは、みんなを傷つけただけだった。

 真夜の信頼も、陽岳さんの優しさも。全部、自分の手で壊してしまった。

 

 指先が冷たい。

 視界の端で、ノートの上の「大丈夫」が泣いているみたいにゆがむ。

 この紙を破れば、ぜんぶ無かったことになるだろうかと一瞬だけ思う。

 だめだ。

 何も無くならない。

 わたしのしたことは、戻せない。

 戻したはずの時間の分だけ、壊れていく。

 

 部屋の空気が、もう呼吸として入ってこなかった。

 喉の奥が音を立てずに乾いて、肺の隅に溜まった空気が毛羽立つみたいに痛い。

 机に伏せていた額を上げると、視界がぐらりと白く揺れた。

 雪が降っているのかどうかも、もう分からない。

 窓を閉めているのに、風の冷たさが頬を刺す錯覚がする。

 

 やれることをやった。誰にも頼らずに、自分の頭で考えて、自分の足で動いた。

 それなのに結果は何も変えられなかった。

 真夜のお母さんとお父さんは、あした、死ぬ。

 わたしはそれを知っていながら、何もできない。

 

「わたしが、間違ったんだ……」

 

 言葉が舌の上で切れる。涙が勝手に溢れて、頬の骨を伝う。

 呼吸するたび鼻の奥が焼けるように痛い。

 

「なんで、もっと、ちゃんと……」

 

 掠れた声が机の板に吸い込まれた。空気が震える。

 手のひらで顔を押さえる。掌の中で息がこもって熱くなる。

 

「真夜のことも、陽岳さんのことも、みんな……」

 

 ――助けたくて始めたのに。

 守りたくて、置き去りにしたくなくて。

 なのに、やってきたことのすべてが、反対の意味に変わっていく。

 

 喉の奥から声が漏れた。もう言葉の形をしていない。

 

「いやだぁ……いやだよ……っ」

 

 胸の真ん中に針を打たれたみたいで、体が勝手に丸まる。

 肩が震え、吐くたびに空気が悲鳴みたいな音を立てた。背中に力を入れても、止まらない。

 

 陽岳さんの顔が浮かぶ。薄い街灯の光の下で、真っすぐにこちらを見ていた瞳。

 「知らない」なんて言いたくなかった。

 知らないなんて、嘘の中でいちばん冷たい言葉だった。

 ああ、どうしてあの時、逃げたんだろう。

 もしも彼が、もう一度だけ声をかけてくれても、わたしには返す言葉がなかった。

 

「全部、わたしが悪いんだ」

 

 嗚咽に混じって唇が動いた。

 

「全部、わたしのせいだ……」

 

 ベッドに倒れ込む勢いで体を横たえる。布団の匂いが鼻を刺した。顔を埋めても、涙は止まらない。

 腹の底から出る声が、部屋の壁に当たって跳ね返る。

 聞く人のいない嘆きが積もって、辺りの空気を震わせる。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 

 謝る相手の顔が次々に浮かんで消える。

 お母さん。お父さん。真夜。陽岳さん。

 どの顔も次第に輪郭をなくし、雪みたいに白く溶けていく。

 みんなを傷つけて、取り返しのつかないものをふいにした。

 

「どうしたら……よかったの……?」

 

 誰にも届かない問いが空に向かってすべっていく。喉の奥で嗚咽が絡み、声の端が切れていく。

 涙と鼻水のせいで息がしづらい。布団の端を掴んで顔を上げ、息を吸い込んだ。

 胸がひゅうっと鳴る。次の瞬間、崩れたように泣き声がこぼれた。

 

「たすけて……」

 

 小さな声が出た。呼吸続かず、声は震えるだけ。

 誰の名前も呼べない。

 誰にも届かない。

 みんな、わたしが遠ざけた。

 

 呼吸と泣き声の区別がつかなくなるほど静かな呻きが、かすかに部屋の中に残る。

 

 机の上の銀の時計が、薄い反射で光った。

 秒針が一歩進む音が聞こえた気がした。

 

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