夜が終わらないまま、朝になった。
時計の針が動くたびに、耳の奥で空気が擦れる。眠れた時間はゼロ。まぶたの裏ではずっと同じ映像が繰り返されていた。
雪に包まれたバス停。白い光。
あの時間を知っていながら、止められなかったわたし。
シーツを握った指先に、爪の跡が残る。
起き上がる瞬間、体の中が砂でできているみたいだった。
制服の襟を整え、鏡を通して自分の目を見る。
誰かに似ている。お母さんが最後にわたしを見たときの目の光。
胸の奥がきゅうっと痛くなって、呼吸が浅くなった。
思考より先に体が動き、玄関を出た。冷たい空気が顔に当たる。鼻の奥がつんと痛んだ。お父さんはいない。気配のない家に謝りを残すようにうなずき、通学路を歩き出した。
坂に差しかかる。白い息が天へ伸びて、吹雪に流された。
歩幅のリズムがぐしゃぐしゃになる。足の裏が硬く、膝が震える。
いつもならここで立ち止まって、携帯を取り出して真夜の既読を確認する。今日はそれさえできなかった。心臓が勝手に早くなる。
このあと学校に着けば、ニュースが流れる。
真夜が呼ばれて、クラスの空気が変わる。絶望が、教室の隅に残る。
三度見てきた光景。四度目の光景がまた来る。
足裏が途端に拒否するように動かなくなった。
坂を登る道が壁のように立って見えた。喉から息が漏れる。
「いやだ……もう……」
声にならない音を吐いた。
認めたくなくて、空気を噛みながらじっと耐えた。
体のどこかが、学校へ行くことを拒んでいた。
冷たい外気、誰かの顔、そのすべてがこれから起こることの前触れのように思えた。
歩けない。
一歩も、上へは進めなかった。
信号の点滅がやけに遠い場所でまたたく。
雪が強く降ってきた。喉に入った息が、引き金のように心臓を打つ。
――ここにいても、何も変わらない。
頭のどこかがそんな言葉をつぶやいたと同時に、靴の底を返していた。
体が、無意識に。
下へ。少しでも遠くへ。
走り出した瞬間、膝に残っていた硬直が砕ける。
坂を下ったほうが、冬の風を正面から受けなくてすむ。
何より、そこには、あのバスの通り道がある。
雪を踏むたび、音がむき出しになる。
マフラーの端が風を切って頬を叩く。
心臓の音と、呼吸の荒れが混ざって、世界に何も入り込まない。
なぜ走っているのか、頭では分からない。
「止めなきゃ」と言葉にまでならない感情が、骨の奥で響く。
止めなきゃ、止めなくちゃ。
どうやって? そんな疑問を考える前に、足がもう転げるように動いている。
焦るというより、焦りを通り過ぎた。
転びそうになって、両手をつく。雪の中で手袋が滑り、片方が落ちた。
拾う時間がない。手先に冷たさが入り、指が動かなくなる。
膝まで雪を浴びながら、肩で息をする。
視界がひらけて、刹那、朝焼けの白が差す。
遠くで機械の唸りが重なって聞こえた。タイヤが雪を踏みしめる音に似ている。
通学路とは反対方向に、坂を下りきる道。あの先が交差点へ続いている。
「もういい」「もう十分」――頭のどこかでそう聞こえる。
けれどそれは、諦めの言葉ではなかった。
もう十分耐えたから、次は動け、という命令のようだった。
足がまた前に出た。
吐く息がすぐ霧になり、目の前を曇らせる。
胸の奥で何かが弾ける。
お母さんの言葉が掠れて浮かぶ。
〈後悔、しないように。……ただ、それだけ。小雪……〉
後悔しないように。これ以上何をすれば後悔が減るのか。
答えのないまま、坂の下まで駆けた。
息が詰まって世界の色が薄くなっていく。
雪の反射がまぶしすぎて毒のようだ。
それでも止まれない。
止まったら、また大切なものを失う。
視界の奥で、ゆっくり動くヘッドライトの列が見えた。
バスなのか、別の車かはわからない。
けれどわたしの体は即座に理解した。――この先が、運命の場所。
耳の奥で血の音が高鳴る。痛みよりも先に、体が動く。
坂を下る。
世界が白く滲みながら、胸の奥にひとつの決意が固まっていく。
止めなきゃ。
止めなきゃ。
理由も、方法も、誰にも聞けないまま、心の底からその言葉だけが溢れ続けた。
手に残った指の痛みと、脈打つ音。
そこにまだ光がある限り、自分は動ける気がした。
息を整える余裕もなく、ただ坂の下の白い世界を見つめる。
縁石を蹴り、横断歩道の白を踏み越える。
その瞬間、懐中時計の重みがポケットの中で跳ね、金属の冷たさがわたしの肋骨に刺さった。
見上げた空に、雪が滝のように降り注ぐ。
クラクションが裂け、タイヤが雪を噛む音が押し寄せるのを聞いて。
わたしは、光の円へ踏み込んだのだと知った。
音もなく、風だけが世界を横切った。
雪がきらきらと散って、視界が一瞬で真白に塗りつぶされる。
体が宙を浮いたあと、時間の針が落ちていくように、すべての動きがゆっくりになった。耳鳴りの奥で、わたしの息だけが遠くから聞こえる。
──これで、止まる。
あのバスも、真夜のお母さんとお父さんも。
今度こそ、もう誰も泣かないはず。
わたしは、そう思っていた。
胸のどこかに、静けさがあった。
雪が音を吸い、風の流れに体が溶ける。
白の中で、まるで別の世界に入り込んだようだった。
これでいい。きっと、わたしはやり遂げたんだと。
でも、真っ白な視界の中で息を吐いた瞬間、ふっと何かが引っかかった。
……あれ?
これで、本当に、よかったんだっけ。
母の言葉が蘇る。
お母さん。わたし、ちゃんと守ったよ。
後悔しないように、ぜんぶやり切った。
世界がゆっくりと傾き始める。視界の端に、橙の滲みが見える。
気を抜いたら、涙が零れた。
悲しいとか、怖いとか、そんな単純な感情じゃなかった。
心の底で、何かがずっと叫んでいた。
もう一度考えて。
ほんとうに、これでいいの? と。
胸の奥で、微かに何かがきしむ。
「これでいい」――その言葉が自分の中で響くたび、少しずつ形を変えていく。
これでいい? ほんとうに?
あとを続けようとして、息が詰まった。
なんだろう、この感じ。
白い風景の中で、何かを見落としている気がする。
母の声がもう一度、脳の奥で響いた。
〈後悔、しないように〉
言葉だけがやけに鮮明で、そこに母の顔はなかった。
その一節が、雪の中で刃のように冷たく光る。
後悔、しないように。
……わたし、後悔なんてしない。
ちゃんとやった。ちゃんと守った。
なのに、口の中が急に乾く。
ゆっくりと理解が追いついていく。
わたし、いま、後悔している。
お母さん、これ、違う。違うよ。
こんなの、選ぶべきじゃなかった。
自分が、ただ、ここで終わるために走ったのだと、遅れて気づいた。
胸の奥で氷が砕ける。
そこから急に冷たさが広がって、喉の奥まで満たされる。
「……あっ」小さな声がこぼれた。
息を吸おうとしても、空気が入らない。
――これが、死ぬってこと?
そんな言葉を頭の中で思って、すぐに怖くなった。
怖い。まだ呼吸できる。何かを言いたい。でも唇が動かない。
わたしは、死ぬつもりだった?
そんなはずない。助けようとしただけで。
なのに、どうしてこんなに静かなんだろう。
風の音も雪の音も、なにも聞こえない。
“これでいい”って、誰が言ったの?
お母さんじゃない。真夜でもない。陽岳さんでもない。
あれは――逃げるための言葉だった。
怖くて、間違いを認めたくなくて、自分に言い聞かせた。
胸がぎゅっと縮む。
わたし、取り返しのつかないことをしたんだ。
止まれば助かると思っていたのに。
止まるはずだったものを、別の何かで壊してしまった。
わたしが止めたのは、未来そのものだった。
真夜の笑い声も、隣にいてくれた陽岳さんも、父のあたたかい手も、全部ここで切り落としてしまった。
「いや……」
声にならない声が喉の奥で擦れた。
手を伸ばそうとした。動かない。
足も、腕も、全部止まっている。
わたしは、取り返しがつかないことをした。
視界の縁がにじんでいく。雪と世界の境目が消える。
穏やかだった白は次第に冷たさを帯び、頬に刺さるたびに痛みが微かに蘇る。
どうして、こんなに寒いんだろう。
それとも、もう痛みすら感じなくなっているのだろうか。
最後に感じたのは、冷たい金属のきらめきと、心の底から響く「間違えた」という声。
何かが拾い上げられた音がする。
風の中でほとんど聞こえない小さな音。
もう指先は動かない。目だけが光を追う。
そして、そのまま、すべてが遠のいていく。
白と、冷たさと、後悔だけが、わたしの中でゆっくり沈んでいった。
世界が折りたたまれていく。
光と闇の境が何度もひっくり返って、形のあったものが一枚の模様みたいに溶け出す。音も熱も、体の重ささえも順番を忘れて、ばらばらに沈んでいく。
小雪はもう動かない身体の奥で、その崩れていく順序だけをぼんやり眺めていた。
下には底があった。柔らかくもなく、固くもなく、靄のようで泥のような層。そこに体が沈み、髪が絡まり、指先の輪郭がほどけていく。
息をしていないはずなのに肺のあたりが膨らんで、冷たい水のなかで泡を吐いた気がした。
泡は光をまとって上へ昇る。けれど本人は沈みつづける。
遠くで、何かが一度、微かに光った。
泡の粒が夜の底から浮かび上がるみたいに、銀色の放物線がゆらりと伸びる。その線に触れた途端、ひとつだけ、はっきりとした音が生まれた。
――カチッ。
金属が指先で弾かれたような音。それは確かに「時計」のものだった。
それは自分がいまいる場所以外から――まるで別の世界から届く、外側の鼓動のように思えた。
カチ。
濁った水の表面がわずかに明滅する。
知らない誰かの「指」が、その振り子に触れた。
指が置かれた瞬間、闇の層が反転した。
時計が再び鳴った。
金属がきしむように光を削り取っていく。
世界が、その中心から円を描くようにひしゃげ始めた。
白い繊維が裂ける。闇が逆流する。
時間が、逆再生するように音を巻き取っていく。
風の音が生まれ、雪片が上へ舞い上がる。
すべての出来事が色を戻していくのを、見上げていた。
体が軽くなる。
水中から浮上するように、黒い泥が少しずつ離れていく。
髪がふわりと広がり、頬をかする。
遠くで耳鳴りが続き、その奥で誰かが自分の名前を呼んでいるような気がした。
その音が揺れ、幾何学模様の破片に変わって弾けた。
透明な線が放射状にひろがり、網のように時間の層を織り上げていく。
無数の光が、少女の体を通り抜ける。
痛みと、あたたかさ。
次の瞬間、光が世界を満たした。
上下の区別が戻り、体がぐいと引かれる感覚。
胸の奥でざらざらとした砂を吐き出すように、空気を吸い込む。
それでも息は途切れ、視界が白く揺れた。