小雪の降る夜、わたしは嘘をついた   作:クロ

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第13話 空白の光

 

 夜が終わらないまま、朝になった。

 時計の針が動くたびに、耳の奥で空気が擦れる。眠れた時間はゼロ。まぶたの裏ではずっと同じ映像が繰り返されていた。

 

 雪に包まれたバス停。白い光。

 あの時間を知っていながら、止められなかったわたし。

 シーツを握った指先に、爪の跡が残る。

 起き上がる瞬間、体の中が砂でできているみたいだった。

 

 

 制服の襟を整え、鏡を通して自分の目を見る。

 誰かに似ている。お母さんが最後にわたしを見たときの目の光。

 胸の奥がきゅうっと痛くなって、呼吸が浅くなった。

 思考より先に体が動き、玄関を出た。冷たい空気が顔に当たる。鼻の奥がつんと痛んだ。お父さんはいない。気配のない家に謝りを残すようにうなずき、通学路を歩き出した。

 

 坂に差しかかる。白い息が天へ伸びて、吹雪に流された。

 歩幅のリズムがぐしゃぐしゃになる。足の裏が硬く、膝が震える。

 いつもならここで立ち止まって、携帯を取り出して真夜の既読を確認する。今日はそれさえできなかった。心臓が勝手に早くなる。

 このあと学校に着けば、ニュースが流れる。

 真夜が呼ばれて、クラスの空気が変わる。絶望が、教室の隅に残る。

 三度見てきた光景。四度目の光景がまた来る。

 

 

 足裏が途端に拒否するように動かなくなった。

 坂を登る道が壁のように立って見えた。喉から息が漏れる。

 

「いやだ……もう……」

 

 声にならない音を吐いた。

 認めたくなくて、空気を噛みながらじっと耐えた。

 体のどこかが、学校へ行くことを拒んでいた。

 冷たい外気、誰かの顔、そのすべてがこれから起こることの前触れのように思えた。

 

 歩けない。

 一歩も、上へは進めなかった。

 信号の点滅がやけに遠い場所でまたたく。

 雪が強く降ってきた。喉に入った息が、引き金のように心臓を打つ。

 

 

 ――ここにいても、何も変わらない。

 頭のどこかがそんな言葉をつぶやいたと同時に、靴の底を返していた。

 

 体が、無意識に。

 下へ。少しでも遠くへ。

 

 走り出した瞬間、膝に残っていた硬直が砕ける。

 坂を下ったほうが、冬の風を正面から受けなくてすむ。

 何より、そこには、あのバスの通り道がある。

 

 雪を踏むたび、音がむき出しになる。

 マフラーの端が風を切って頬を叩く。

 心臓の音と、呼吸の荒れが混ざって、世界に何も入り込まない。

 

 なぜ走っているのか、頭では分からない。

 「止めなきゃ」と言葉にまでならない感情が、骨の奥で響く。

 止めなきゃ、止めなくちゃ。

 どうやって? そんな疑問を考える前に、足がもう転げるように動いている。

 

 焦るというより、焦りを通り過ぎた。

 転びそうになって、両手をつく。雪の中で手袋が滑り、片方が落ちた。

 拾う時間がない。手先に冷たさが入り、指が動かなくなる。

 膝まで雪を浴びながら、肩で息をする。

 

 視界がひらけて、刹那、朝焼けの白が差す。

 遠くで機械の唸りが重なって聞こえた。タイヤが雪を踏みしめる音に似ている。

 通学路とは反対方向に、坂を下りきる道。あの先が交差点へ続いている。

 

 「もういい」「もう十分」――頭のどこかでそう聞こえる。

 けれどそれは、諦めの言葉ではなかった。

 もう十分耐えたから、次は動け、という命令のようだった。

 

 足がまた前に出た。

 吐く息がすぐ霧になり、目の前を曇らせる。

 胸の奥で何かが弾ける。

 お母さんの言葉が掠れて浮かぶ。

 

 〈後悔、しないように。……ただ、それだけ。小雪……〉

 

 後悔しないように。これ以上何をすれば後悔が減るのか。

 答えのないまま、坂の下まで駆けた。

 

 息が詰まって世界の色が薄くなっていく。

 雪の反射がまぶしすぎて毒のようだ。

 それでも止まれない。

 止まったら、また大切なものを失う。

 

 視界の奥で、ゆっくり動くヘッドライトの列が見えた。

 バスなのか、別の車かはわからない。

 けれどわたしの体は即座に理解した。――この先が、運命の場所。

 

 耳の奥で血の音が高鳴る。痛みよりも先に、体が動く。

 

 坂を下る。

 世界が白く滲みながら、胸の奥にひとつの決意が固まっていく。

 止めなきゃ。

 止めなきゃ。

 理由も、方法も、誰にも聞けないまま、心の底からその言葉だけが溢れ続けた。

 

 手に残った指の痛みと、脈打つ音。

 そこにまだ光がある限り、自分は動ける気がした。

 息を整える余裕もなく、ただ坂の下の白い世界を見つめる。

 

 縁石を蹴り、横断歩道の白を踏み越える。

 その瞬間、懐中時計の重みがポケットの中で跳ね、金属の冷たさがわたしの肋骨に刺さった。

 

 見上げた空に、雪が滝のように降り注ぐ。

 クラクションが裂け、タイヤが雪を噛む音が押し寄せるのを聞いて。

 わたしは、光の円へ踏み込んだのだと知った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 音もなく、風だけが世界を横切った。

 雪がきらきらと散って、視界が一瞬で真白に塗りつぶされる。

 体が宙を浮いたあと、時間の針が落ちていくように、すべての動きがゆっくりになった。耳鳴りの奥で、わたしの息だけが遠くから聞こえる。

 

 ──これで、止まる。

 あのバスも、真夜のお母さんとお父さんも。

 今度こそ、もう誰も泣かないはず。

 

 わたしは、そう思っていた。

 胸のどこかに、静けさがあった。

 雪が音を吸い、風の流れに体が溶ける。

 白の中で、まるで別の世界に入り込んだようだった。

 

 これでいい。きっと、わたしはやり遂げたんだと。

 でも、真っ白な視界の中で息を吐いた瞬間、ふっと何かが引っかかった。

 

 ……あれ?

 これで、本当に、よかったんだっけ。

 

 母の言葉が蘇る。

 お母さん。わたし、ちゃんと守ったよ。

 後悔しないように、ぜんぶやり切った。

 

 世界がゆっくりと傾き始める。視界の端に、橙の滲みが見える。

 気を抜いたら、涙が零れた。

 悲しいとか、怖いとか、そんな単純な感情じゃなかった。

 

 心の底で、何かがずっと叫んでいた。

 もう一度考えて。

 ほんとうに、これでいいの? と。

 

 胸の奥で、微かに何かがきしむ。

 「これでいい」――その言葉が自分の中で響くたび、少しずつ形を変えていく。

 これでいい? ほんとうに?

 あとを続けようとして、息が詰まった。

 なんだろう、この感じ。

 白い風景の中で、何かを見落としている気がする。

 

 母の声がもう一度、脳の奥で響いた。

 

 〈後悔、しないように〉

 

 言葉だけがやけに鮮明で、そこに母の顔はなかった。

 その一節が、雪の中で刃のように冷たく光る。

 後悔、しないように。

 ……わたし、後悔なんてしない。

 ちゃんとやった。ちゃんと守った。

 

 なのに、口の中が急に乾く。

 ゆっくりと理解が追いついていく。

 

 わたし、いま、後悔している。

 お母さん、これ、違う。違うよ。

 こんなの、選ぶべきじゃなかった。

 

 自分が、ただ、ここで終わるために走ったのだと、遅れて気づいた。

 

 胸の奥で氷が砕ける。

 そこから急に冷たさが広がって、喉の奥まで満たされる。

 「……あっ」小さな声がこぼれた。

 息を吸おうとしても、空気が入らない。

 

 ――これが、死ぬってこと?

 そんな言葉を頭の中で思って、すぐに怖くなった。

 怖い。まだ呼吸できる。何かを言いたい。でも唇が動かない。

 

 わたしは、死ぬつもりだった?

 そんなはずない。助けようとしただけで。

 なのに、どうしてこんなに静かなんだろう。

 風の音も雪の音も、なにも聞こえない。

 “これでいい”って、誰が言ったの?

 お母さんじゃない。真夜でもない。陽岳さんでもない。

 あれは――逃げるための言葉だった。

 怖くて、間違いを認めたくなくて、自分に言い聞かせた。

 

 胸がぎゅっと縮む。

 わたし、取り返しのつかないことをしたんだ。

 止まれば助かると思っていたのに。

 止まるはずだったものを、別の何かで壊してしまった。

 わたしが止めたのは、未来そのものだった。

 真夜の笑い声も、隣にいてくれた陽岳さんも、父のあたたかい手も、全部ここで切り落としてしまった。

 

「いや……」

 

 声にならない声が喉の奥で擦れた。

 手を伸ばそうとした。動かない。

 足も、腕も、全部止まっている。

 

 わたしは、取り返しがつかないことをした。

 

 視界の縁がにじんでいく。雪と世界の境目が消える。

 穏やかだった白は次第に冷たさを帯び、頬に刺さるたびに痛みが微かに蘇る。

 どうして、こんなに寒いんだろう。

 それとも、もう痛みすら感じなくなっているのだろうか。

 

 最後に感じたのは、冷たい金属のきらめきと、心の底から響く「間違えた」という声。

 何かが拾い上げられた音がする。

 風の中でほとんど聞こえない小さな音。

 もう指先は動かない。目だけが光を追う。

 そして、そのまま、すべてが遠のいていく。

 

 白と、冷たさと、後悔だけが、わたしの中でゆっくり沈んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 世界が折りたたまれていく。

 光と闇の境が何度もひっくり返って、形のあったものが一枚の模様みたいに溶け出す。音も熱も、体の重ささえも順番を忘れて、ばらばらに沈んでいく。

 

 小雪はもう動かない身体の奥で、その崩れていく順序だけをぼんやり眺めていた。

 下には底があった。柔らかくもなく、固くもなく、靄のようで泥のような層。そこに体が沈み、髪が絡まり、指先の輪郭がほどけていく。

 息をしていないはずなのに肺のあたりが膨らんで、冷たい水のなかで泡を吐いた気がした。

 泡は光をまとって上へ昇る。けれど本人は沈みつづける。

 

 遠くで、何かが一度、微かに光った。

 泡の粒が夜の底から浮かび上がるみたいに、銀色の放物線がゆらりと伸びる。その線に触れた途端、ひとつだけ、はっきりとした音が生まれた。

 

 ――カチッ。

 金属が指先で弾かれたような音。それは確かに「時計」のものだった。

 それは自分がいまいる場所以外から――まるで別の世界から届く、外側の鼓動のように思えた。

 

 カチ。

 濁った水の表面がわずかに明滅する。

 知らない誰かの「指」が、その振り子に触れた。

 指が置かれた瞬間、闇の層が反転した。

 

 時計が再び鳴った。

 金属がきしむように光を削り取っていく。

 世界が、その中心から円を描くようにひしゃげ始めた。

 白い繊維が裂ける。闇が逆流する。

 

 時間が、逆再生するように音を巻き取っていく。

 風の音が生まれ、雪片が上へ舞い上がる。

 

 すべての出来事が色を戻していくのを、見上げていた。

 

 

 

 体が軽くなる。

 水中から浮上するように、黒い泥が少しずつ離れていく。

 髪がふわりと広がり、頬をかする。

 遠くで耳鳴りが続き、その奥で誰かが自分の名前を呼んでいるような気がした。

 その音が揺れ、幾何学模様の破片に変わって弾けた。

 透明な線が放射状にひろがり、網のように時間の層を織り上げていく。

 

 無数の光が、少女の体を通り抜ける。

 痛みと、あたたかさ。

 

 次の瞬間、光が世界を満たした。

 上下の区別が戻り、体がぐいと引かれる感覚。

 胸の奥でざらざらとした砂を吐き出すように、空気を吸い込む。

 それでも息は途切れ、視界が白く揺れた。

 

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