小雪の降る夜、わたしは嘘をついた   作:クロ

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第14話 知らない朝、忘れた世界

 

 ――目を開けた。

 

 息が跳ねて、上体が自動的に起き上がる。冷たい汗が背中を伝い、喉の奥が焼ける。

 部屋の天井。薄い朝の光。

 見覚えのある自分の部屋。机、ノート、時計。

 ……わたしの、部屋。

 

 でも、なにかがおかしい。

 泣いた後みたいに呼吸が乱れて、心臓が痛い。足の先まで震えているのに、何を怖がっているのかが思い出せない。

 どこかで小さく鳥が鳴く。ストーブのタイマーがカチ、と音を立てた。

 朝日がカーテンの隙間からこぼれている。いつもの朝。

 だけど、胸の奥で何かが渦をまいている。

 

 戻ってきた。

 そう理解したのは、しばらく経ってからだった。

 机の上に置かれた銀の時計が、薄く朝を映していた。

 いつもと同じ位置。いつと変わらない形。

 なのに、見ているだけで胸の奥がざわざわと波立つ。指先が冷えて、息が浅くなる。

 

 陽岳さんの顔がふっと浮かんだ。

 ――夜道。あの静けさ。遠回りの帰り道で聞いた穏やかな声。

 彼は言ってくれた。「困ってるなら、力になる」って。

 その言葉を思い出したとき、胸に刺すような痛みが走る。

 

 わたしは決めたはずだった。

 あの出会いをなかったことにするって。

 彼を巻き込まないように。真夜と、真夜の家族を守るために。

 真夜に振り払われた手を思い出して。

 この4回目(・・・・・)で最後にするって決めた。

 その責任を、自分ひとりで背負うって。

 

 なのに、涙が出た。

 

 息が引っかかる。心臓が早鐘を打って、視界が霞む。

 理由がわからなかった。ただ、胸の奥でものすごい圧に押し潰されているみたいだった。

 

 時計に手を伸ばす。けれど、触れる寸前で指が止まる。

 金属の冷たさが空気を通して伝わってきて、背中にじわりと嫌な汗が滲む。

 腕が強張る。――怖い。触れたくない。

 理由もわからないのに、全身がそう訴えた。

 

 それでも、触れなければならない気がした。

 この感情の意味を、知らなければ前に進めない。

 脳のどこかがそう命じる。口の中が乾く。

 

 ひとつ息を呑み、指先に力を入れた。

 

 

「あ――」

 

 触れた瞬間、光が弾けた。

 

 雪。風。音のない夜。

 自分の足音が滑り、息を詰めて走る。

 バスのライト。白い壁。ブレーキ音。

 

 ――誰かの叫び。

 ――あれは、わたしの声。

 

 意識がごう、と反転した。

 世界が裏表をひっくり返していく。

 自分が誰かもわからなくなる。

 

 そして、知った。

 塗り潰すように浮かび上がる、最後の瞬間。

 

 

 真っ白な光の世界で、わたしは――死んだ。

 

 

 胃の底からこみ上げる恐怖で体が弾けた。

 

「いや……いやだっ、やだっ!」

 

 喉が勝手に叫んだ。声が自分のものじゃないみたいだった。

 音が空気を裂いて、涙が噴き出す。

 呼吸が荒れて、身体が勝手に跳ねる。

 

 止めなきゃいけなかったのはバスじゃない。

 母との約束を破り、父の言葉を裏切り、真夜を置いて、自分まで失くした。

 そんな終わり方しか選べなかったなんて――。

 

「ちがう、ちがうよ……やだよぉ……!」

 

 膝を抱えて床に崩れ落ちる。

 涙がとめどなく流れて、唇が震える。

 息を吸っても胸の奥が痛く、世界が音もなく遠ざかっていく。

 金属の反射が涙の粒を照り返す。

 その光が波紋のように広がり、頭の奥に泥のような闇を思い出させた。

 

「小雪……!」

 

 襖の向こうで音がした。

 わたしの嗚咽に気づいたのだろう。

 扉が開き、父がコートのまま立っていた。

 

「どうした、どこか痛いのか?」

 

 両肩に触れた手が、いつもよりずっと強い。

 でも、首を振ることしかできなかった。

 

「ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい」

 

 消え入りそうな声。

 父は眉を寄せたまま、わたしを抱き起こした。

 

「謝らなくていい。……息ができるか」

 

 言葉を探すように間を置いて、ストーブの前まで連れて行く。

 炎がゆらめく音がして、部屋の空気がじわりと温まる。

 けれど震えは止まらなかった。

 膝の上で手を握りしめ、まだ止まらない涙を見ているしかできない。

 

 父はストーブの前にしゃがみこんで、黙って見守っていた。

 慰めの言葉も出せず、ただ小さく息を吐いた。

 その沈黙が、責めでも距離でもないことを、わたしは知っていた。

 

 火の音の下、時計の秒針がまた跳ねる。

 その響きが胸を刺して、心臓が硬く震えた。

 

 ――あの世界。闇の底で鳴った音と同じだ。

 

「誰が……あれを……?」

 

 わたしの呟いた言葉に父が顔を上げた。

 

 音のない場所。沈んでいく身体。

 ――外から聞こえた、あの「音」。

 〈カチ〉と鳴らしたのは誰だった?

 

 時計の秘密は、お父さんしか知らない。

 視線を隣に向ける。お父さんはただわたしを心配して、そばにいてくれた。

 でもわたしの見た記憶を、感じている様子はない。

 

 お父さんじゃない。じゃあ、誰が――。

 

 頭の奥が滲む。指の間に泥のような感覚。

 思い出す。話してしまった相手。

 小雪の降る夜の坂道で、わたしの弱音を聞いてくれた人。

 

 陽岳……さん。

 

「……まさか……」

 

 唇が自分の意思と別に動いた。

 半信半疑。でも身体が勝手に理解していた。

 

 立ち上がる。ふらついて、父の手が肩を支える。

「小雪、落ち着きなさい。まだ顔が真っ青だ」

「行かなくちゃ」

「どこへ――」

 

 玄関に向かって駆け出す。冷たい風が顔を叩く。

 涙の跡を拭っても、掌はまだ震えていた。

 

 雪が舞う外に出る。

 息が白く散る。街の気配が覚めきらない。

 雪の上を、ほとんど転がるみたいに走っていた。

 吐く息が白く散るたびに、胸の奥で何かがざり、と音を立てて崩れていく。

 家を飛び出してからどれくらい経ったのかも覚えていない。ただ、止まることが怖かった。

 

 ――どうして、間違えてばかりだったんだろう。

 

 坂の途中で、一度だけ息を整える。脛の奥が軋み、心臓が痛いほどうるさい。

 それでも、頭の中は静かだった。静か――だけど、痛い。

 

 真夜に、ちゃんと話せばよかった。

 全部、最初から。

 事故のことも、見たことも、怖かったことも。

 「夢だ」とか「気にしないで」なんて、あんな言葉で済ませるんじゃなかった。

 

 足音が雪を踏んでいく。

 乾いた音が、ひとつひとつ胸をえぐる。

 

 お父さんに謝らなきゃ。

 何も言わずに時間を戻して、何度も振り回してきた。

 わたしを信じて、「後悔しないように」って言ってくれたのに。

 なのに、わたしは嘘をついて、自分で取り返しのつかないことをした。

 

 お母さんの大事な時計を、あんな使い方して――。

 約束を破った。

 ほんとうに大切なときにだけ使えって、お母さんに言われていたのに。

 

 陽岳さんにも。

 話を聞いてもらったあの夜、あたたかい缶の熱で、勇気をもらったのに。

 あれを“なかったこと”にしてしまうなんて、ひどすぎる。

 ――ちゃんと、ありがとう、って言うべきだった。

 

 足が止まる。涙が一粒、頬を過ぎて跳ねた。

 後悔の形は、雪に落ちても消えない。

 胸の奥でひとつひとつ、場所を変えながら疼いている。

 

 もう、二度とあんなふうに終わらせたくない。

 ごめんなさい、お母さん。お父さん。真夜。陽岳さん。

 全部、消えちゃうからって、簡単に“なかったこと”にしてはいけなかった。

 “なかった”ことになんて、ならないのに。

 

 視界が白く霞んで、世界の境がなくなる。

 頭の奥が熱く、目の裏が痛い。

 立ち止まれば崩れてしまいそうで、また一歩前へ出る。

 雪の匂いのする風が吹き抜けて、マフラーが膨らんだ。

 

 

 

 曲がり角を抜けたとき、彼はいつもの場所に立っていた。

 

 陽岳(ひだけ)(おさむ)

 列から少し離れた、坂の手前。車道のほうに半歩だけずれて立っている。

 朝の光に背を向け、自販機の明かりの反射がその輪郭を縁取っていた。

 

 いつもと同じ――のはず、だった。

 けれど今日の彼は、こちらを見ていた。

 まるで最初からわたしを待っていたかのように。

 

 目が合った瞬間、心臓が跳ねた。

 驚いたような目。けれど、それだけじゃなかった。

 知っている。そんな光の揺らぎがそこにあった。

 わたしを、知っているひとの目。

 

「……陽岳、さん……?」

 

 声は掠れていた。喉が震え、呼吸がひっかかる。

 彼は小さく眉を寄せ、それからゆっくりとこちらに歩み寄る。

 そして、一歩分の距離を保ったまま、言った。

 

「……向こうで話せるか?」

 

 雪の降り方がほんの少し変わる。

 風の音が、彼の低い声をさらって遠くに持っていく。

 わたしはうなずくことしかできなかった。

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