――目を開けた。
息が跳ねて、上体が自動的に起き上がる。冷たい汗が背中を伝い、喉の奥が焼ける。
部屋の天井。薄い朝の光。
見覚えのある自分の部屋。机、ノート、時計。
……わたしの、部屋。
でも、なにかがおかしい。
泣いた後みたいに呼吸が乱れて、心臓が痛い。足の先まで震えているのに、何を怖がっているのかが思い出せない。
どこかで小さく鳥が鳴く。ストーブのタイマーがカチ、と音を立てた。
朝日がカーテンの隙間からこぼれている。いつもの朝。
だけど、胸の奥で何かが渦をまいている。
戻ってきた。
そう理解したのは、しばらく経ってからだった。
机の上に置かれた銀の時計が、薄く朝を映していた。
いつもと同じ位置。いつと変わらない形。
なのに、見ているだけで胸の奥がざわざわと波立つ。指先が冷えて、息が浅くなる。
陽岳さんの顔がふっと浮かんだ。
――夜道。あの静けさ。遠回りの帰り道で聞いた穏やかな声。
彼は言ってくれた。「困ってるなら、力になる」って。
その言葉を思い出したとき、胸に刺すような痛みが走る。
わたしは決めたはずだった。
あの出会いをなかったことにするって。
彼を巻き込まないように。真夜と、真夜の家族を守るために。
真夜に振り払われた手を思い出して。
その責任を、自分ひとりで背負うって。
なのに、涙が出た。
息が引っかかる。心臓が早鐘を打って、視界が霞む。
理由がわからなかった。ただ、胸の奥でものすごい圧に押し潰されているみたいだった。
時計に手を伸ばす。けれど、触れる寸前で指が止まる。
金属の冷たさが空気を通して伝わってきて、背中にじわりと嫌な汗が滲む。
腕が強張る。――怖い。触れたくない。
理由もわからないのに、全身がそう訴えた。
それでも、触れなければならない気がした。
この感情の意味を、知らなければ前に進めない。
脳のどこかがそう命じる。口の中が乾く。
ひとつ息を呑み、指先に力を入れた。
「あ――」
触れた瞬間、光が弾けた。
雪。風。音のない夜。
自分の足音が滑り、息を詰めて走る。
バスのライト。白い壁。ブレーキ音。
――誰かの叫び。
――あれは、わたしの声。
意識がごう、と反転した。
世界が裏表をひっくり返していく。
自分が誰かもわからなくなる。
そして、知った。
塗り潰すように浮かび上がる、最後の瞬間。
真っ白な光の世界で、わたしは――死んだ。
胃の底からこみ上げる恐怖で体が弾けた。
「いや……いやだっ、やだっ!」
喉が勝手に叫んだ。声が自分のものじゃないみたいだった。
音が空気を裂いて、涙が噴き出す。
呼吸が荒れて、身体が勝手に跳ねる。
止めなきゃいけなかったのはバスじゃない。
母との約束を破り、父の言葉を裏切り、真夜を置いて、自分まで失くした。
そんな終わり方しか選べなかったなんて――。
「ちがう、ちがうよ……やだよぉ……!」
膝を抱えて床に崩れ落ちる。
涙がとめどなく流れて、唇が震える。
息を吸っても胸の奥が痛く、世界が音もなく遠ざかっていく。
金属の反射が涙の粒を照り返す。
その光が波紋のように広がり、頭の奥に泥のような闇を思い出させた。
「小雪……!」
襖の向こうで音がした。
わたしの嗚咽に気づいたのだろう。
扉が開き、父がコートのまま立っていた。
「どうした、どこか痛いのか?」
両肩に触れた手が、いつもよりずっと強い。
でも、首を振ることしかできなかった。
「ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい」
消え入りそうな声。
父は眉を寄せたまま、わたしを抱き起こした。
「謝らなくていい。……息ができるか」
言葉を探すように間を置いて、ストーブの前まで連れて行く。
炎がゆらめく音がして、部屋の空気がじわりと温まる。
けれど震えは止まらなかった。
膝の上で手を握りしめ、まだ止まらない涙を見ているしかできない。
父はストーブの前にしゃがみこんで、黙って見守っていた。
慰めの言葉も出せず、ただ小さく息を吐いた。
その沈黙が、責めでも距離でもないことを、わたしは知っていた。
火の音の下、時計の秒針がまた跳ねる。
その響きが胸を刺して、心臓が硬く震えた。
――あの世界。闇の底で鳴った音と同じだ。
「誰が……あれを……?」
わたしの呟いた言葉に父が顔を上げた。
音のない場所。沈んでいく身体。
――外から聞こえた、あの「音」。
〈カチ〉と鳴らしたのは誰だった?
時計の秘密は、お父さんしか知らない。
視線を隣に向ける。お父さんはただわたしを心配して、そばにいてくれた。
でもわたしの見た記憶を、感じている様子はない。
お父さんじゃない。じゃあ、誰が――。
頭の奥が滲む。指の間に泥のような感覚。
思い出す。話してしまった相手。
小雪の降る夜の坂道で、わたしの弱音を聞いてくれた人。
陽岳……さん。
「……まさか……」
唇が自分の意思と別に動いた。
半信半疑。でも身体が勝手に理解していた。
立ち上がる。ふらついて、父の手が肩を支える。
「小雪、落ち着きなさい。まだ顔が真っ青だ」
「行かなくちゃ」
「どこへ――」
玄関に向かって駆け出す。冷たい風が顔を叩く。
涙の跡を拭っても、掌はまだ震えていた。
雪が舞う外に出る。
息が白く散る。街の気配が覚めきらない。
雪の上を、ほとんど転がるみたいに走っていた。
吐く息が白く散るたびに、胸の奥で何かがざり、と音を立てて崩れていく。
家を飛び出してからどれくらい経ったのかも覚えていない。ただ、止まることが怖かった。
――どうして、間違えてばかりだったんだろう。
坂の途中で、一度だけ息を整える。脛の奥が軋み、心臓が痛いほどうるさい。
それでも、頭の中は静かだった。静か――だけど、痛い。
真夜に、ちゃんと話せばよかった。
全部、最初から。
事故のことも、見たことも、怖かったことも。
「夢だ」とか「気にしないで」なんて、あんな言葉で済ませるんじゃなかった。
足音が雪を踏んでいく。
乾いた音が、ひとつひとつ胸をえぐる。
お父さんに謝らなきゃ。
何も言わずに時間を戻して、何度も振り回してきた。
わたしを信じて、「後悔しないように」って言ってくれたのに。
なのに、わたしは嘘をついて、自分で取り返しのつかないことをした。
お母さんの大事な時計を、あんな使い方して――。
約束を破った。
ほんとうに大切なときにだけ使えって、お母さんに言われていたのに。
陽岳さんにも。
話を聞いてもらったあの夜、あたたかい缶の熱で、勇気をもらったのに。
あれを“なかったこと”にしてしまうなんて、ひどすぎる。
――ちゃんと、ありがとう、って言うべきだった。
足が止まる。涙が一粒、頬を過ぎて跳ねた。
後悔の形は、雪に落ちても消えない。
胸の奥でひとつひとつ、場所を変えながら疼いている。
もう、二度とあんなふうに終わらせたくない。
ごめんなさい、お母さん。お父さん。真夜。陽岳さん。
全部、消えちゃうからって、簡単に“なかったこと”にしてはいけなかった。
“なかった”ことになんて、ならないのに。
視界が白く霞んで、世界の境がなくなる。
頭の奥が熱く、目の裏が痛い。
立ち止まれば崩れてしまいそうで、また一歩前へ出る。
雪の匂いのする風が吹き抜けて、マフラーが膨らんだ。
曲がり角を抜けたとき、彼はいつもの場所に立っていた。
列から少し離れた、坂の手前。車道のほうに半歩だけずれて立っている。
朝の光に背を向け、自販機の明かりの反射がその輪郭を縁取っていた。
いつもと同じ――のはず、だった。
けれど今日の彼は、こちらを見ていた。
まるで最初からわたしを待っていたかのように。
目が合った瞬間、心臓が跳ねた。
驚いたような目。けれど、それだけじゃなかった。
知っている。そんな光の揺らぎがそこにあった。
わたしを、知っているひとの目。
「……陽岳、さん……?」
声は掠れていた。喉が震え、呼吸がひっかかる。
彼は小さく眉を寄せ、それからゆっくりとこちらに歩み寄る。
そして、一歩分の距離を保ったまま、言った。
「……向こうで話せるか?」
雪の降り方がほんの少し変わる。
風の音が、彼の低い声をさらって遠くに持っていく。
わたしはうなずくことしかできなかった。