雪の中で、足音だけが周りの世界を埋めていった。
通学路から外れて、少し下った先のバス停。屋根の端に積もった雪が風に削られ、粉みたいに落ちてはすぐに溶ける。学校へ向かう列とは違う方向。朝なのに、ここだけ夜の残り香があった。
黒いコートの背中。車道側に体を傾け、いつものように雪の斜面を見ていた。ふいに振り返った彼の目とぶつかる。何かを知っている瞳の奥が、わたしの心拍を一気に掴む。
「……陽岳、さん」
マフラー越しの声が、喉で絡んで途切れた。
「ここ、朝に来たの初めてだ」
陽岳さんはそうつぶやいて、視線を街道の向こうに滑らせる。
車は通らない。
人もいない。寒気の音だけが耳を刺した。
前に、二人きりで話した、あの場所だった。
「話すなら……こっちのほうが静かだろ」
そう言って、少し離れた屋根つきのベンチを示した。
わたしたちは向かい合って座った。
彼の息が白く漂い、わずかな距離を残して溶けていく。その白が、怖いくらいに綺麗だった。
何を話せばいいかわからなかった。
けれど、言わなければいけないことはたくさんある。一緒くたに胸の奥で膨らんで、喉の出口でせり上がってくる。声にならないまま、唇が冷えていた。
「……本当に、ごめんなさい」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
彼の視線がわたしを探すように動く。眉尻が少しだけ下がる。
「どうして、謝るんだよ」
雪が風で流れ、ベンチの隅の粉雪が舞った。
わたしは手袋を外して、指の腹で時計を撫でた。
光の面がぼんやりと自分を映し返す。
「わたしは、あなたにひどいことをしました」
吐く息を飲み込んで、顔を上げる。
「陽岳さんに助けてもらったのに、それを“なかったこと”にしたんです」
陽岳さんは何も言わない。
ただ、手の指を組んで、膝の上でじっと握っている。
その無言で、余計に胸が軋んだ。
「本当は、ありがとうって。ごめんなさいって、ちゃんと言いたかった。
でも、言わないまま、全部を消したんです」
「…………」
「こんなふうに話したら、気持ち悪いと思うかもしれないけど、ここで温かい飲み物をくれたことも、最後まで話を聞いてくれたことも、本当に嬉しかったんです。なのに、わたしが、そのことを消した」
言葉が途切れて、あたたかい雫が落ちた。涙だと気づくのに、少し時間がかかった。
陽岳さんは深く息を吸って、膝の上に視線を落とした。
「やっぱり……そういうこと、なのか」
声が震えていた。困惑と、その奥にある何かを押し殺したような響き。
「昨日、夜風さんを見たんだ」
その言葉の前に、陽岳さんはいったん呼吸を整えた。
吐く息がうっすら揺れて、朝の冷気に溶ける。
「坂の上で、逆方向に走ってて、そのとき手袋を片方落としただろ。拾って渡そうとして追いかけたけど……バスが来た。間に合わなかった」
彼の目が一瞬、遠くを見る。
雪の反射が淡く映り込み、そのなかで瞳の奥だけがじんと濃く沈んだ。
「すぐに救急車を呼んだけど、助けられなかった。そこに……それも、落ちてた」
わたしのポケットに視線を向ける。
促されるように、わたしが取り出した銀の時計が光を返す。
息が詰まる。指先が自分の膝の上で固まり、凍りつく。
「どこかで見たような気がして、拾って……思い出した。冬の坂道、図書室の帰り、白いコートの子と話してる自分。……多分、夜風さんだ。知らないはずなのに、思い出したんだ」
「…………」
「それで起きたら、日付が戻ってた。携帯のカレンダーも、ニュースも前と一緒。俺、寝ぼけてるのかと思った」
心臓が跳ねた。
彼の声は、掠れ気味なのに妙に現実感があった。
覚えているのだろうか。わたしと出会った時間を、消してしまったはずなのに。
「夢じゃないって思ったのは、通学路に出たときだ。景色も人も、前とまったく同じで……例の事故の二日前と、何もかもが同じだった」
わたしは唇を噛んだ。
彼の語る日は――自分が死んだ日だ。
頭のどこかでそれを理解してしまい、喉の奥が細く締めつけられる。
わたしが膝の上で時計を握りしめるのを見て、陽岳さんは息を詰めて、言葉を探しているみたいだった。
「何が起きたのかって思ったよ。確か触ってるうちに、ボタンを押したんだ。それで気づいたら朝だった。日が昇る前で、起きたら――お前が、生きてる。」
雪の上の静けさが、呼吸の残滓までさらっていく。
彼は言葉の端を揺らしながら、それでも問いを投げる。
「これって……その時計の、せいなのか?」
短く間を置く。
「時間、戻るとか……そんなこと、ありえるのか?」
どこか怯えにも似た響きが混じる声。
否定したい常識と、目の前の現実の板挟み。
彼自身が信じたくないことを、確信しかけていて、どうしようもなく混乱している。
わたしは、真っ直ぐに彼を見られなかった。
それでも、指の下の時計に残った微かな熱――あの夜、彼が触れた時の気配を、確かに感じ取る。
やっぱり――。
この人が、戻してくれたんだ。
胸の奥で何かがほどける音がした。
涙が出そうで、でも泣いちゃいけないと思った。
彼は何も知らずに、わたしの代わりに重みを背負ってしまったのだから。
「……そう、です」
かすれた声で、わたしは頷いた。
「それは……この時計の力です。時間が……ほんの少しだけ、巻き戻る。でも、それは――」
そこまで言って、唇を噛む。
“戻った先では何かが必ず歪む”――母の言葉と、父の沈黙が同時に胸を刺した。
伝えるべきか、黙るべきか。どちらを選んでも傷つける気がした。
結局、消させてしまったことは変わらない。
陽岳さんの目が、静かにこちらを待っている。
答えを急かさない。
けれどその沈黙が、言葉より強く背を押した。
彼の掌が膝の上でわずかに動き、雪の音が間を埋める。
自分の鼓動の音が、耳の裏で重く跳ねた。
伝えなければ。
謝らなければ。
彼をまたひとりにしてはいけない。
息を飲み、マフラーの奥の唇を震わせた。
「本当のことを、全部話します。その時計のことも、わたしがしたことも……」
その瞬間、風が止んだ。
ほの白い粒が宙に浮かび、世界が息を止めたように静まり返った。
わたしはマフラーの端を握ったまま、全てを話した。
何かを伝えなければいけないと分かっていた。けれど、何から話せばいいのか、順序をつけようとするたびに胸の奥が軋んだ。
陽岳さんはわたしが話している間、息を潜めていた。
雪の光の中で、彼の制服の肩に落ちた粉が、音もなく溶けていく。
「……怖かったんです」
風の音が戻るより早く、わたしは、静かに息を吸った。
声に出してしまえば、それ以外の形にはできなかった。陽岳さんは小さく目を見開いて、それから何も言わずにうつむいた。否定も、問いも、なかった。
「わたしが、がんばれば全部なんとかなるって思っていました」
吐息が白く消えていく。ゆっくりと、指の温度が戻ってくる。
「でも、どうやっても救えなかった。どんなに時間を戻しても。誰かを助けようとしても、いつも、違う誰かが傷つく。わたしが間違えた。何度も、何回も」
胸の奥のつかえがほどけて、涙になりそうに滲む。
「それでも、止められなくて。もう誰にも迷惑をかけないように、一人でやらなくちゃって思って……」
言葉の先が、雪明かりで霞む。
「でも、最後には自分まで消えて……それで終わりでした」
言いながら、頬が痛いくらい熱くなった。
彼はただ静かに座っている。少しだけ唇を結んだまま、わたしを見つめていた。その沈黙が責めではないことが分かるのが、余計に苦しかった。
怖かった。
この話を誰かにするのが、ずっと。
わたしは、お母さんの遺言を守れなかった。
でも、ようやく分かった気がした。
本当に大切な時だけ。
伝えたかったのは、きっと、時間を戻すときだけじゃない。
「また誰かを傷つけてしまうのが、怖いんです」
手のひらに力が入る。時計の冷たい縁が皮膚に食い込んだ。
「誰も巻き込みたくなくて……全部、自分でやらなきゃって思っていました。
でも……わたしじゃ駄目なんです。わたしじゃ、真夜の未来を変えられない」
言葉は途切れていき、吐く息と一緒に雪の中へ消える。
沈黙。
遠くでバスのブレーキ音が小さく響き、現実を思い出させる。
朝の空はまだ淡く、雲と空の境が曖昧だ。
陽岳さんが吐いた息がすぐに風に溶け、もう一度深く吸い込まれる。
「……仕方なかったんじゃないか」
淡々とした声だった。でも、その一語の奥に揺らぎがあった。
顔を上げたわたしに、静かに頷いた。
「その時、そうするしかなかったんだろ。どうすればいいか分からないまま、それでも動いて……」
足元の雪を見つめ、とぎれとぎれに言葉を探しているみたいだった。
「俺、昔は、あとからこうすればって。そういうことばっか考えてたんだ。でも結局、あの瞬間は、それしかできなかったんだって思うしかない。そうでもしないと、やってられないし、後悔すると気分も悪い」
彼の声は落ち着いていて、不思議と寒さを遠ざけた。
「でも」と言って、そこでいったん口を閉じる。
代わりに視線だけがまっすぐこちらに戻ってくる。雪の明かりを映した瞳がぶれずに、わたしを射抜く。
「それでも、こんな大事なこと、簡単に諦められないだろ。真夜って子のことも、今のことも」
歯を食いしばったその一言に、わたしの胸がかすかに揺れた。
諦められない――その言い方は、わたしの気持ちの奥をそのまま掬い上げるみたいだった。
「……陽岳さん」
声が微かに震えた。
言葉を探すのに、少し時間がかかった。
「わたし、あなたを……勝手に巻き込んでしまいました。それなのに、こんなふうに優しくされる理由なんて――」
「理由とか、そういうの、どうでもいいよ」
彼は、そこで初めて小さく首を振った。
短く、かすれた声。
「今がこうなってるんだから、なんとかしなきゃいけないだろ」
言葉の代わりに、彼がひとつ息を整えて姿勢を直す。
ベンチの間に細く影が落ち、靴の先がわたしの隣まで届いた。
何も聞かず、腕も伸ばさない。
けれど、その近さだけで、“一緒にいる”という意思が伝わってきた。
動作は小さなものだった。
わたしの中の何かが、音もなく崩れた。
ずっと、自分の責任で閉じ込めていた思いが、薄氷みたいにひとつずつ欠ける。
わたしはマフラーを下ろした。
頬に触れた空気が冷たい。
けれどその冷たさの下で、不思議と生きている感覚があった。
あの瞬間、闇に落ちたときのことを思い出す。
もしかしたらお母さんが、あのとき引き戻してくれたのかもしれない。
「生きなさい」と、言ってくれた気がした。
生きている。
また、やり直せる。この人となら。
だけど、怖い。
誰かに助けてと言う勇気が、どうしても出ない。
ずっと、自分でなんとかしなきゃって思ってきた。
もう一度、巻き込んで傷つけるのが怖かった。
けれど、目の前の彼はただ黙ってそこにいて、わたしを責めるでも、怖がるでもなく、見つめてくれていた。
だから――胸の奥で、声がほどけた。
「……陽岳さん」
名前を呼ぶと、彼はほんの一拍で顔を上げた。
唇の端が、ゆるやかに動く。何も言わないまま、ただ頷く。
続く言葉を待っている。
押されるんじゃなく、待つことで、背中を押してくれる人の顔。
怖くないと言えば嘘になる。
けれど、違う。
怖いのは、誰かを頼って、また失うことのほうだった。
涙が頬を伝う。
止めようとも思わなかった。
ぼたぼたと落ちて、マフラーに吸い込まれていく。
「わたし……ひとりじゃ、できません」
声が震えて、途中で息が途切れた。
「がんばるって、何度も言ったのに……もう、どうしていいか、わからなくて……」
陽岳さんはわずかに動いた。
車道側に半歩立って、雪を踏む音が合図になる。
「――もう、大丈夫だ」
その一言が、音よりも先に心臓に届いた。
断定じゃない。それでも、確信のある響き。
お母さんの「大丈夫」と重なって、胸の奥で小さな音を立てた。
わたしは目を閉じた。
泣き顔のまま、それでも声を絞り出す。
「たすけて、ください」
言葉が雪の中に落ちる。
その途端、肺の奥まで空気が入った。
世界がゆっくりと明るくなっていくのがわかる。
涙の向こうで陽岳さんが頷いた姿が、朝の光に溶けて見えた。
初めて誰かに向けて放った小さな声が、雪の粒の間で静かに瞬いた。