小雪の降る夜、わたしは嘘をついた   作:クロ

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第15話 そうするしかなかったとしても

 雪の中で、足音だけが周りの世界を埋めていった。

 通学路から外れて、少し下った先のバス停。屋根の端に積もった雪が風に削られ、粉みたいに落ちてはすぐに溶ける。学校へ向かう列とは違う方向。朝なのに、ここだけ夜の残り香があった。

 

 黒いコートの背中。車道側に体を傾け、いつものように雪の斜面を見ていた。ふいに振り返った彼の目とぶつかる。何かを知っている瞳の奥が、わたしの心拍を一気に掴む。

 

「……陽岳、さん」

 

 マフラー越しの声が、喉で絡んで途切れた。

 

「ここ、朝に来たの初めてだ」

 

 陽岳さんはそうつぶやいて、視線を街道の向こうに滑らせる。

 車は通らない。

 人もいない。寒気の音だけが耳を刺した。

 前に、二人きりで話した、あの場所だった。

 

「話すなら……こっちのほうが静かだろ」

 

 そう言って、少し離れた屋根つきのベンチを示した。

 わたしたちは向かい合って座った。

 彼の息が白く漂い、わずかな距離を残して溶けていく。その白が、怖いくらいに綺麗だった。

 

 何を話せばいいかわからなかった。

 けれど、言わなければいけないことはたくさんある。一緒くたに胸の奥で膨らんで、喉の出口でせり上がってくる。声にならないまま、唇が冷えていた。

 

「……本当に、ごめんなさい」

 

 ようやく出た言葉は、それだけだった。

 彼の視線がわたしを探すように動く。眉尻が少しだけ下がる。

 

「どうして、謝るんだよ」

 

 雪が風で流れ、ベンチの隅の粉雪が舞った。

 わたしは手袋を外して、指の腹で時計を撫でた。

 光の面がぼんやりと自分を映し返す。

 

「わたしは、あなたにひどいことをしました」

 

 吐く息を飲み込んで、顔を上げる。

 

「陽岳さんに助けてもらったのに、それを“なかったこと”にしたんです」

 

 陽岳さんは何も言わない。

 ただ、手の指を組んで、膝の上でじっと握っている。

 その無言で、余計に胸が軋んだ。

 

「本当は、ありがとうって。ごめんなさいって、ちゃんと言いたかった。

 でも、言わないまま、全部を消したんです」

「…………」

「こんなふうに話したら、気持ち悪いと思うかもしれないけど、ここで温かい飲み物をくれたことも、最後まで話を聞いてくれたことも、本当に嬉しかったんです。なのに、わたしが、そのことを消した」

 

 言葉が途切れて、あたたかい雫が落ちた。涙だと気づくのに、少し時間がかかった。

 陽岳さんは深く息を吸って、膝の上に視線を落とした。

 

「やっぱり……そういうこと、なのか」

 

 声が震えていた。困惑と、その奥にある何かを押し殺したような響き。

 

「昨日、夜風さんを見たんだ」

 

 その言葉の前に、陽岳さんはいったん呼吸を整えた。

 吐く息がうっすら揺れて、朝の冷気に溶ける。

 

「坂の上で、逆方向に走ってて、そのとき手袋を片方落としただろ。拾って渡そうとして追いかけたけど……バスが来た。間に合わなかった」

 

 彼の目が一瞬、遠くを見る。

 雪の反射が淡く映り込み、そのなかで瞳の奥だけがじんと濃く沈んだ。

 

「すぐに救急車を呼んだけど、助けられなかった。そこに……それも、落ちてた」

 

 わたしのポケットに視線を向ける。

 促されるように、わたしが取り出した銀の時計が光を返す。

 息が詰まる。指先が自分の膝の上で固まり、凍りつく。

 

「どこかで見たような気がして、拾って……思い出した。冬の坂道、図書室の帰り、白いコートの子と話してる自分。……多分、夜風さんだ。知らないはずなのに、思い出したんだ」

「…………」

「それで起きたら、日付が戻ってた。携帯のカレンダーも、ニュースも前と一緒。俺、寝ぼけてるのかと思った」

 

 心臓が跳ねた。

 彼の声は、掠れ気味なのに妙に現実感があった。

 覚えているのだろうか。わたしと出会った時間を、消してしまったはずなのに。

 

「夢じゃないって思ったのは、通学路に出たときだ。景色も人も、前とまったく同じで……例の事故の二日前と、何もかもが同じだった」

 

 わたしは唇を噛んだ。

 彼の語る日は――自分が死んだ日だ。

 頭のどこかでそれを理解してしまい、喉の奥が細く締めつけられる。

 わたしが膝の上で時計を握りしめるのを見て、陽岳さんは息を詰めて、言葉を探しているみたいだった。

 

「何が起きたのかって思ったよ。確か触ってるうちに、ボタンを押したんだ。それで気づいたら朝だった。日が昇る前で、起きたら――お前が、生きてる。」

 

 雪の上の静けさが、呼吸の残滓までさらっていく。

 彼は言葉の端を揺らしながら、それでも問いを投げる。

 

「これって……その時計の、せいなのか?」

 

 短く間を置く。

 

「時間、戻るとか……そんなこと、ありえるのか?」

 

 どこか怯えにも似た響きが混じる声。

 否定したい常識と、目の前の現実の板挟み。

 彼自身が信じたくないことを、確信しかけていて、どうしようもなく混乱している。

 

 わたしは、真っ直ぐに彼を見られなかった。

 それでも、指の下の時計に残った微かな熱――あの夜、彼が触れた時の気配を、確かに感じ取る。

 

 やっぱり――。

 この人が、戻してくれたんだ。

 

 胸の奥で何かがほどける音がした。

 涙が出そうで、でも泣いちゃいけないと思った。

 彼は何も知らずに、わたしの代わりに重みを背負ってしまったのだから。

 

「……そう、です」

 

 かすれた声で、わたしは頷いた。

 

「それは……この時計の力です。時間が……ほんの少しだけ、巻き戻る。でも、それは――」

 

 そこまで言って、唇を噛む。

 “戻った先では何かが必ず歪む”――母の言葉と、父の沈黙が同時に胸を刺した。

 伝えるべきか、黙るべきか。どちらを選んでも傷つける気がした。

 結局、消させてしまったことは変わらない。

 

 陽岳さんの目が、静かにこちらを待っている。

 答えを急かさない。

 けれどその沈黙が、言葉より強く背を押した。

 

 彼の掌が膝の上でわずかに動き、雪の音が間を埋める。

 自分の鼓動の音が、耳の裏で重く跳ねた。

 

 伝えなければ。

 謝らなければ。

 彼をまたひとりにしてはいけない。

 息を飲み、マフラーの奥の唇を震わせた。

 

「本当のことを、全部話します。その時計のことも、わたしがしたことも……」

 

 その瞬間、風が止んだ。

 ほの白い粒が宙に浮かび、世界が息を止めたように静まり返った。

 

 わたしはマフラーの端を握ったまま、全てを話した。

 何かを伝えなければいけないと分かっていた。けれど、何から話せばいいのか、順序をつけようとするたびに胸の奥が軋んだ。

 

 陽岳さんはわたしが話している間、息を潜めていた。

 雪の光の中で、彼の制服の肩に落ちた粉が、音もなく溶けていく。

 

 

 

「……怖かったんです」

 

 風の音が戻るより早く、わたしは、静かに息を吸った。

 声に出してしまえば、それ以外の形にはできなかった。陽岳さんは小さく目を見開いて、それから何も言わずにうつむいた。否定も、問いも、なかった。

 

「わたしが、がんばれば全部なんとかなるって思っていました」

 

 吐息が白く消えていく。ゆっくりと、指の温度が戻ってくる。

 

「でも、どうやっても救えなかった。どんなに時間を戻しても。誰かを助けようとしても、いつも、違う誰かが傷つく。わたしが間違えた。何度も、何回も」

 

 胸の奥のつかえがほどけて、涙になりそうに滲む。

 

「それでも、止められなくて。もう誰にも迷惑をかけないように、一人でやらなくちゃって思って……」

 

 言葉の先が、雪明かりで霞む。

 

「でも、最後には自分まで消えて……それで終わりでした」

 

 言いながら、頬が痛いくらい熱くなった。

 彼はただ静かに座っている。少しだけ唇を結んだまま、わたしを見つめていた。その沈黙が責めではないことが分かるのが、余計に苦しかった。

 

 怖かった。

 この話を誰かにするのが、ずっと。

 わたしは、お母さんの遺言を守れなかった。

 でも、ようやく分かった気がした。

 本当に大切な時だけ。

 伝えたかったのは、きっと、時間を戻すときだけじゃない。

 

「また誰かを傷つけてしまうのが、怖いんです」

 

 手のひらに力が入る。時計の冷たい縁が皮膚に食い込んだ。

 

「誰も巻き込みたくなくて……全部、自分でやらなきゃって思っていました。

 でも……わたしじゃ駄目なんです。わたしじゃ、真夜の未来を変えられない」

 

 言葉は途切れていき、吐く息と一緒に雪の中へ消える。

 

 沈黙。

 遠くでバスのブレーキ音が小さく響き、現実を思い出させる。

 朝の空はまだ淡く、雲と空の境が曖昧だ。

 

 陽岳さんが吐いた息がすぐに風に溶け、もう一度深く吸い込まれる。

 

「……仕方なかったんじゃないか」

 

 淡々とした声だった。でも、その一語の奥に揺らぎがあった。

 顔を上げたわたしに、静かに頷いた。

 

「その時、そうするしかなかったんだろ。どうすればいいか分からないまま、それでも動いて……」

 

 足元の雪を見つめ、とぎれとぎれに言葉を探しているみたいだった。

 

「俺、昔は、あとからこうすればって。そういうことばっか考えてたんだ。でも結局、あの瞬間は、それしかできなかったんだって思うしかない。そうでもしないと、やってられないし、後悔すると気分も悪い」

 

 彼の声は落ち着いていて、不思議と寒さを遠ざけた。

 「でも」と言って、そこでいったん口を閉じる。

 代わりに視線だけがまっすぐこちらに戻ってくる。雪の明かりを映した瞳がぶれずに、わたしを射抜く。

 

「それでも、こんな大事なこと、簡単に諦められないだろ。真夜って子のことも、今のことも」

 

 歯を食いしばったその一言に、わたしの胸がかすかに揺れた。

 諦められない――その言い方は、わたしの気持ちの奥をそのまま掬い上げるみたいだった。

 

「……陽岳さん」

 

 声が微かに震えた。

 言葉を探すのに、少し時間がかかった。

 

「わたし、あなたを……勝手に巻き込んでしまいました。それなのに、こんなふうに優しくされる理由なんて――」

「理由とか、そういうの、どうでもいいよ」

 

 彼は、そこで初めて小さく首を振った。

 短く、かすれた声。

 

「今がこうなってるんだから、なんとかしなきゃいけないだろ」

 

 言葉の代わりに、彼がひとつ息を整えて姿勢を直す。

 ベンチの間に細く影が落ち、靴の先がわたしの隣まで届いた。

 何も聞かず、腕も伸ばさない。

 けれど、その近さだけで、“一緒にいる”という意思が伝わってきた。

 

 動作は小さなものだった。

 わたしの中の何かが、音もなく崩れた。

 ずっと、自分の責任で閉じ込めていた思いが、薄氷みたいにひとつずつ欠ける。

 

 わたしはマフラーを下ろした。

 頬に触れた空気が冷たい。

 けれどその冷たさの下で、不思議と生きている感覚があった。

 あの瞬間、闇に落ちたときのことを思い出す。

 もしかしたらお母さんが、あのとき引き戻してくれたのかもしれない。

 「生きなさい」と、言ってくれた気がした。

 

 生きている。

 また、やり直せる。この人となら。

 

 だけど、怖い。

 誰かに助けてと言う勇気が、どうしても出ない。

 ずっと、自分でなんとかしなきゃって思ってきた。

 もう一度、巻き込んで傷つけるのが怖かった。

 けれど、目の前の彼はただ黙ってそこにいて、わたしを責めるでも、怖がるでもなく、見つめてくれていた。

 

 だから――胸の奥で、声がほどけた。

 

「……陽岳さん」

 

 名前を呼ぶと、彼はほんの一拍で顔を上げた。

 唇の端が、ゆるやかに動く。何も言わないまま、ただ頷く。

 続く言葉を待っている。

 押されるんじゃなく、待つことで、背中を押してくれる人の顔。

 

 怖くないと言えば嘘になる。

 けれど、違う。

 怖いのは、誰かを頼って、また失うことのほうだった。

 

 涙が頬を伝う。

 止めようとも思わなかった。

 ぼたぼたと落ちて、マフラーに吸い込まれていく。

 

「わたし……ひとりじゃ、できません」

 

 声が震えて、途中で息が途切れた。

 

「がんばるって、何度も言ったのに……もう、どうしていいか、わからなくて……」

 

 陽岳さんはわずかに動いた。

 車道側に半歩立って、雪を踏む音が合図になる。

 

「――もう、大丈夫だ」

 

 その一言が、音よりも先に心臓に届いた。

 断定じゃない。それでも、確信のある響き。

 お母さんの「大丈夫」と重なって、胸の奥で小さな音を立てた。

 

 わたしは目を閉じた。

 泣き顔のまま、それでも声を絞り出す。

 

「たすけて、ください」

 

 言葉が雪の中に落ちる。

 その途端、肺の奥まで空気が入った。

 世界がゆっくりと明るくなっていくのがわかる。

 涙の向こうで陽岳さんが頷いた姿が、朝の光に溶けて見えた。

 

 初めて誰かに向けて放った小さな声が、雪の粒の間で静かに瞬いた。

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