事故の前日。夜明けの空は、白と灰のあいだで迷っていた。
夜から続く雪が、音を立てずに降りてくる。風はまだ穏やかで、けれど粒の重さが、いつもと違う。あしたはきっと、本当に荒れる。そんな気配をはらんでいた。
吐く息が薄く凍っていく頃、わたしは交差点に着いた。ここだ。
ニュース写真と角度を揃える。背景の屋根、そして歩道脇に並ぶ電柱の影。大きな神社の林が向かいに見える。三車線と三車線が重なる広い場所。
朝の通勤にはまだ早く、車はまばらに走っている。
ここから見て少し先の歩道に、バス停があった。
風で積もりきらない雪が、路線の表示板の表面をさっと撫でていく。
しゃり、と背後の雪を踏む音。
「早いな」
振り向くと、陽岳さんが息を白くして立っていた。外気に濡れた髪が少し跳ねている。
「おはようございます」
「おはよう。……朝は冷えるな」
並んで立つ。信号の青と赤が、二人の頬を交互に照らした。
わたしはマフラーに口を埋めながら、朝日が差し始めたばかりの景色を眺めた。
「事故が起きるのは、ここの真ん中あたりだったと思います」
わたしは道路を見渡しながら言った。
破片はこの標識の手前に落ちてたはず……記事の細部は、正直もう曖昧だ。
彼は頷いたあと、屈んで雪を掬い、小さく握ってはほぐした。
二人で信号の向こうを見た。
「バスと……横から来たトラックの事故、だよな」
「はい。吹雪でトラックの運転手が信号を見失って、減速できずに……。
バスも、直前まで見えなかったみたいです」
口に出すと、胸の奥がきゅっと固まった。
ニュースでは“バス事故”の見出ししかなかったけれど、実際には違った。
乱暴に運転した誰かのせい、という単純な話ではない。
この雪が、視界と判断を一瞬で奪った。
陽岳さんが、雪を踏む音のほうへ目を向けた。
「こうして見るだけでも、トラックの方を止めるのは難しいな」
「はい。どこの会社の車なのか分かりません。
わたしたちが何か言える立場でもないですし……」
「バスなら、運行表もあるし、止められるかもしれない」
「でも、それで別の車が事故にあったら」
吐いた白い息が、すぐ空に溶けた。
胸ポケットの内側で手が汗ばみ、紙がしわになる。
誰かが犠牲になる形でしか世界が動かないのなら、傷口が広がるだけな気がした。
「それは今考えても仕方ない。まずは目の前のバスだ」
彼は少し間を置いて静かに言った。
「どこか一つ止まれば、起きることも変わる」
「……はい。その通りです」
わたしはうなずき、雪の積もる道路を見た。
でも、どう伝えればいい? ただ“危ない”と言っただけでは、誰も信じない。
「どうすれば、話を聞いてもらえるんでしょう」
「うーん……」
陽岳さんが眉のあいだに皺を寄せ、しばらく空を見ていた。
「実際に来てみたけど、ここで雪が降ってる写真を撮ったって、きっと運行は止まらないだろうな……あ、そういえば」
「?」
彼は呟き、スマホを取り出した。
「運行情報を拾ってるアカウントがあるのを思い出した。非公式のだけど、地域のアナウンスみたいに使われてる。人が投稿した道路の写真とか天候の報告に反応して、情報をまとめてるやつ。フォロワーも多い」
「そんな仕組みがあるんですね」
見せてもらった画面には、雪道で車列が滲む写真や、通行止めの報告が流れていた。
彼は指先でスクロールしながら言う。
「こういう写真があれば、“注意しよう”って思ってもらえるかもしれない。
投稿そのものを見にくる人もいるし」
「……やってみます」
「うん。見た瞬間に危ないって分かるような一枚を狙おう。あいつら、反応早いから」
そのとき、背後から声がした。
「おはよう、こんな朝に二人で何してるんだい?」
黒い犬を連れた老夫婦が雪を踏みながら近づいてきていた。
純粋な興味の光に、わたしは言葉を失う。
「どうしよう……」声はほとんど吐息になった。
するとかわりに、陽岳さんがすぐに一歩前に出る。
「学校の自由研究なんです。冬の朝の交通量を調べてて。雪が強くなる日ほど滑る車が増えるのかなって、実際変わるのかを見ていたんです」
「あら、えらいねぇ。この時期にご苦労さんだ」
わたしも慌てて補う。
「明日は吹雪になるって聞いたので、その前に様子を見ておこうと思って。あの……わんちゃんのお散歩、ですよね。滑らないように気をつけてください」
「あら、ありがとうねぇ。あなたたちも気をつけなさいね」
老夫婦は顔を見合わせ、軽く笑って通り過ぎていった。犬も慣れた様子で雪道を歩いていく。
その背中が遠ざかるのを眺めながら、胸の奥に小さな温度が残った。
“危ないから気をつける”。たったそれだけの言葉が通じたことで、心の奥が少しあたたかくなった。
思っていたより、ちゃんと聞いてくれる人がいる。
ほんの一言のやりとりだったのに、“伝わるかもしれない”という感覚が、雪と一緒に心を覆った。
でもその温かさはすぐに、別の冷たさに変わる。
誰かに理解されただけで、こんな気持ちになるわけにはいかない。
わたしが伝えなきゃいけない相手は、真夜だ。
陽岳さんが地面の雪を軽く蹴り、息を吐く。
「もうすぐ八時だ。学校に行こう」
「はい」
交差点の先には、まだ誰も歩いていない。
雪を踏みしめるたび、音が小さく沈んでいった。
胸の中で、やるべきことの順番をひとつずつ並べ直しながら、わたしは前を見て歩いた。
廊下の奥で椅子の脚が一度だけ軋む。
窓から射す昼の光が、床に細い影を落としていた。
放課後のように静まり返った空気の中で、わたしはノートを胸に抱きしめ、ほんの少し緊張していた。
「真夜……」
ドアの隙間から顔をのぞかせた真夜が、「……小雪ちゃん?」と呼ぶ。
きっと断られると覚悟していたのに、真夜は来てくれた。
でも、その声のトーンだけで、彼女がどれほど警戒しているのか分かった。
「ごめんね、急に。少し話したくて」
「うん。いいよ」
返ってくる声はやわらかいのに、瞳は落ち着かない。
スカートの端を指でつまむ癖。昔から緊張すると出る仕草だった。
「今日の昼、授業中眠そうだったね」
「うん。なんか変な夢見た気がするんだ」
「夢?」
「うまく説明できないけど、すごく冷たくて……目が覚めたとき、泣いてた」
わたしは小さく息を飲む。
記憶にはない感情の残響。それを彼女の身体が覚えている。
「……最近、その、体調は大丈夫?」
「平気。でも学校に来ると、なんか動悸がする。へんだよね」
真夜は笑った。ぎゅっとマフラーを握りしめた指の白さが、笑いとぜんぜん合っていなかった。
出来る限り普通の会話を続けようとしている。でも顔色は薄く、目の焦点が不安定で。
「昨日……急に帰っちゃって、ごめん」
「ううん。なんか、忙しいのかなって」
「ちょっとね。でも、あのね。実は伝えなきゃいけないことがあるの」
真夜が視線を机に落とす。息の奥に、なにかを感じ取ったような緊張が走る。
その瞬間、わたしはすべてを説明する覚悟を決めていた。
けれど彼女の顔が、ふいにこわばった。
何かを察知したようにスカートの縁を握り締め、眉を寄せる。
「……真夜?」
「ごめん、なんか……怖い」
「怖い? どうして」
「わかんない。でも小雪ちゃんの声が、昨日の夢の中と同じで」
そして、息を詰めた。
見えない記憶が彼女の心臓を締めつけている。
それがわたしの繰り返してきた時間の、歪んだ名残だと分かっても、何もできなかった。
「真夜、落ち着いて。話すだけだから――」
「待って!」
叫びのような声。真夜は耳を押さえて頭を振った。
「やめて……今、それ聞いたら駄目な気がする。ごめん、小雪ちゃん」
机と椅子が擦れる音だけが響いた。
わたしは唇をかすかに噛む。
首を横に振って、いやいやと頭を抱え込む真夜を前に、胸の奥が冷たくなる。
わたしが予告して、事故が起こる。
時間を戻すたびに感情の断片が積み上がる。ならば真夜は今まで、一体どんな気持ちで話を聞いていたのだろう。
いままで、知ろうともしていなかった。
もう、なにも届かないのかと思った。
それでも、彼女の耳を塞いだ手の内側、思わず小さな声がこぼれた。
「……やだ、怖いよ」
一生のお願いをするように、頭を下げた。
声にならない祈りだけが残る。
真夜がか細い息を乱しながら、ゆっくりと目を伏せた。
その様子を見て、わたしの中の混乱が少しずつ落ち着いていく。
泣きたい気持ちは喉までこみ上げたけれど、ここで折れたらすべてが終わる。
倒れそうな心を支えるように、息を吸い直した。
もう逃げない。
ここで諦めるほうが、ずっと怖い。
わたしはしゃがみ、彼女と同じ高さまで顔を落とした。
「……分かった。ごめんね。何も言わない。でも、これだけは聞いてほしい」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
真夜の涙の跡が、ほとんど乾かないまま光っていた。
逸らさないように目を合わせる。
彼女は迷いながらも、小さく頷く。
「……明日、お母さんとお父さんを、バスに乗せないでほしいの」
「え……どういうこと?」
「理由を言ったら、たぶんまた怖くなると思う。だから、今は言わない。
でも、意味はあることだから。
あとで全部説明する。ちゃんと謝る。だから――今はお願い」
息を飲む音がした。
真夜は視線をさまよわせた。目の奥に戸惑いと混乱が交じっている。
しかし、それで終わりなのか……? と、言わんばかりにわたしを見る。頷くと、わずかに気を緩めたようだったけれど、微かな疑念が浮かんだようだった。
「……どうして小雪ちゃんが、そんなことを言うの?」
「どうしてかは、今は言わない。でも、信じて」
真夜の瞳に一瞬だけ光が揺れた。
彼女は自分の胸に手を当て、何かに気づいたようにまぶたを閉じる。
疑いたくない。けれど動揺してしまう――その心の揺れが、空気に触れて伝わってきた。
何が起きるのかは、今は言わない。
どれだけ時間をかけてでも、あとで必ず謝る。
ほんとうのことを全部話す。
でも今は、彼女とその家族に生きていてほしい。
わたしの言葉で再び苦しめるくらいなら、沈黙を選ぶ。
だから今は、伝えて動いてもらうことがすべてだ。
「お願い」ともう一度だけ告げると、
真夜はしばらく動かず、そのまま立ち上がって背を向けた。何の返事もないまま出ていく真夜の足取りは、ひどく重く見えた。
「真夜……」
名前を呼んでも、彼女は振り返らなかった。
いかないで――。
それは声にならないまま、喉の奥で溶けた。
視界の端で、雪がまた静かに降り始めていた。