小雪の降る夜、わたしは嘘をついた   作:クロ

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第17話 白と灰の境

 事故の前日。夜明けの空は、白と灰のあいだで迷っていた。

 夜から続く雪が、音を立てずに降りてくる。風はまだ穏やかで、けれど粒の重さが、いつもと違う。あしたはきっと、本当に荒れる。そんな気配をはらんでいた。

 

 吐く息が薄く凍っていく頃、わたしは交差点に着いた。ここだ。

 ニュース写真と角度を揃える。背景の屋根、そして歩道脇に並ぶ電柱の影。大きな神社の林が向かいに見える。三車線と三車線が重なる広い場所。

 朝の通勤にはまだ早く、車はまばらに走っている。

 ここから見て少し先の歩道に、バス停があった。

 風で積もりきらない雪が、路線の表示板の表面をさっと撫でていく。

 

 しゃり、と背後の雪を踏む音。

 

「早いな」

 

 振り向くと、陽岳さんが息を白くして立っていた。外気に濡れた髪が少し跳ねている。

 

「おはようございます」

「おはよう。……朝は冷えるな」

 

 並んで立つ。信号の青と赤が、二人の頬を交互に照らした。

 わたしはマフラーに口を埋めながら、朝日が差し始めたばかりの景色を眺めた。

 

「事故が起きるのは、ここの真ん中あたりだったと思います」

 

 わたしは道路を見渡しながら言った。

 破片はこの標識の手前に落ちてたはず……記事の細部は、正直もう曖昧だ。

 彼は頷いたあと、屈んで雪を掬い、小さく握ってはほぐした。

 

 二人で信号の向こうを見た。

 

「バスと……横から来たトラックの事故、だよな」

「はい。吹雪でトラックの運転手が信号を見失って、減速できずに……。

 バスも、直前まで見えなかったみたいです」

 

 口に出すと、胸の奥がきゅっと固まった。

 ニュースでは“バス事故”の見出ししかなかったけれど、実際には違った。

 乱暴に運転した誰かのせい、という単純な話ではない。

 この雪が、視界と判断を一瞬で奪った。

 

 陽岳さんが、雪を踏む音のほうへ目を向けた。

 

「こうして見るだけでも、トラックの方を止めるのは難しいな」

「はい。どこの会社の車なのか分かりません。

 わたしたちが何か言える立場でもないですし……」

「バスなら、運行表もあるし、止められるかもしれない」

「でも、それで別の車が事故にあったら」

 

 吐いた白い息が、すぐ空に溶けた。

 胸ポケットの内側で手が汗ばみ、紙がしわになる。

 誰かが犠牲になる形でしか世界が動かないのなら、傷口が広がるだけな気がした。

 

「それは今考えても仕方ない。まずは目の前のバスだ」

 

 彼は少し間を置いて静かに言った。

 

「どこか一つ止まれば、起きることも変わる」

「……はい。その通りです」

 

 わたしはうなずき、雪の積もる道路を見た。

 でも、どう伝えればいい? ただ“危ない”と言っただけでは、誰も信じない。

 

「どうすれば、話を聞いてもらえるんでしょう」

「うーん……」

 

 陽岳さんが眉のあいだに皺を寄せ、しばらく空を見ていた。

 

「実際に来てみたけど、ここで雪が降ってる写真を撮ったって、きっと運行は止まらないだろうな……あ、そういえば」

「?」

 

 彼は呟き、スマホを取り出した。

 

「運行情報を拾ってるアカウントがあるのを思い出した。非公式のだけど、地域のアナウンスみたいに使われてる。人が投稿した道路の写真とか天候の報告に反応して、情報をまとめてるやつ。フォロワーも多い」

「そんな仕組みがあるんですね」

 

見せてもらった画面には、雪道で車列が滲む写真や、通行止めの報告が流れていた。

彼は指先でスクロールしながら言う。

 

「こういう写真があれば、“注意しよう”って思ってもらえるかもしれない。

 投稿そのものを見にくる人もいるし」

「……やってみます」

「うん。見た瞬間に危ないって分かるような一枚を狙おう。あいつら、反応早いから」

 

 そのとき、背後から声がした。

 

「おはよう、こんな朝に二人で何してるんだい?」

 

 黒い犬を連れた老夫婦が雪を踏みながら近づいてきていた。

 純粋な興味の光に、わたしは言葉を失う。

 「どうしよう……」声はほとんど吐息になった。

 

 するとかわりに、陽岳さんがすぐに一歩前に出る。

 

「学校の自由研究なんです。冬の朝の交通量を調べてて。雪が強くなる日ほど滑る車が増えるのかなって、実際変わるのかを見ていたんです」

「あら、えらいねぇ。この時期にご苦労さんだ」

 

 わたしも慌てて補う。

 

「明日は吹雪になるって聞いたので、その前に様子を見ておこうと思って。あの……わんちゃんのお散歩、ですよね。滑らないように気をつけてください」

「あら、ありがとうねぇ。あなたたちも気をつけなさいね」

 

 老夫婦は顔を見合わせ、軽く笑って通り過ぎていった。犬も慣れた様子で雪道を歩いていく。

 

 その背中が遠ざかるのを眺めながら、胸の奥に小さな温度が残った。

 “危ないから気をつける”。たったそれだけの言葉が通じたことで、心の奥が少しあたたかくなった。

 思っていたより、ちゃんと聞いてくれる人がいる。

 ほんの一言のやりとりだったのに、“伝わるかもしれない”という感覚が、雪と一緒に心を覆った。

 

 でもその温かさはすぐに、別の冷たさに変わる。

 誰かに理解されただけで、こんな気持ちになるわけにはいかない。

 わたしが伝えなきゃいけない相手は、真夜だ。

 

 陽岳さんが地面の雪を軽く蹴り、息を吐く。

 

「もうすぐ八時だ。学校に行こう」

「はい」

 

 交差点の先には、まだ誰も歩いていない。

 雪を踏みしめるたび、音が小さく沈んでいった。

 胸の中で、やるべきことの順番をひとつずつ並べ直しながら、わたしは前を見て歩いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 廊下の奥で椅子の脚が一度だけ軋む。

 窓から射す昼の光が、床に細い影を落としていた。

 放課後のように静まり返った空気の中で、わたしはノートを胸に抱きしめ、ほんの少し緊張していた。

 

「真夜……」

 

 ドアの隙間から顔をのぞかせた真夜が、「……小雪ちゃん?」と呼ぶ。

 きっと断られると覚悟していたのに、真夜は来てくれた。

 でも、その声のトーンだけで、彼女がどれほど警戒しているのか分かった。

 

「ごめんね、急に。少し話したくて」

「うん。いいよ」

 

 返ってくる声はやわらかいのに、瞳は落ち着かない。

 スカートの端を指でつまむ癖。昔から緊張すると出る仕草だった。

 

「今日の昼、授業中眠そうだったね」

「うん。なんか変な夢見た気がするんだ」

「夢?」

「うまく説明できないけど、すごく冷たくて……目が覚めたとき、泣いてた」

 

 わたしは小さく息を飲む。

 記憶にはない感情の残響。それを彼女の身体が覚えている。

 

「……最近、その、体調は大丈夫?」

「平気。でも学校に来ると、なんか動悸がする。へんだよね」

 

 真夜は笑った。ぎゅっとマフラーを握りしめた指の白さが、笑いとぜんぜん合っていなかった。

 出来る限り普通の会話を続けようとしている。でも顔色は薄く、目の焦点が不安定で。

 

「昨日……急に帰っちゃって、ごめん」

「ううん。なんか、忙しいのかなって」

「ちょっとね。でも、あのね。実は伝えなきゃいけないことがあるの」

 

 真夜が視線を机に落とす。息の奥に、なにかを感じ取ったような緊張が走る。

 その瞬間、わたしはすべてを説明する覚悟を決めていた。

 けれど彼女の顔が、ふいにこわばった。

 何かを察知したようにスカートの縁を握り締め、眉を寄せる。

 

「……真夜?」

「ごめん、なんか……怖い」

「怖い? どうして」

「わかんない。でも小雪ちゃんの声が、昨日の夢の中と同じで」

 

 そして、息を詰めた。

 見えない記憶が彼女の心臓を締めつけている。

 それがわたしの繰り返してきた時間の、歪んだ名残だと分かっても、何もできなかった。

 

「真夜、落ち着いて。話すだけだから――」

「待って!」

 

 叫びのような声。真夜は耳を押さえて頭を振った。

 

「やめて……今、それ聞いたら駄目な気がする。ごめん、小雪ちゃん」

 

 机と椅子が擦れる音だけが響いた。

 わたしは唇をかすかに噛む。

 首を横に振って、いやいやと頭を抱え込む真夜を前に、胸の奥が冷たくなる。

 

 わたしが予告して、事故が起こる。

 

 時間を戻すたびに感情の断片が積み上がる。ならば真夜は今まで、一体どんな気持ちで話を聞いていたのだろう。

 いままで、知ろうともしていなかった。

 

 もう、なにも届かないのかと思った。

 それでも、彼女の耳を塞いだ手の内側、思わず小さな声がこぼれた。

 

「……やだ、怖いよ」

 

 一生のお願いをするように、頭を下げた。

 声にならない祈りだけが残る。

 

 真夜がか細い息を乱しながら、ゆっくりと目を伏せた。

 その様子を見て、わたしの中の混乱が少しずつ落ち着いていく。

 泣きたい気持ちは喉までこみ上げたけれど、ここで折れたらすべてが終わる。

 倒れそうな心を支えるように、息を吸い直した。

 もう逃げない。

 ここで諦めるほうが、ずっと怖い。

 

 わたしはしゃがみ、彼女と同じ高さまで顔を落とした。

 

「……分かった。ごめんね。何も言わない。でも、これだけは聞いてほしい」

 

 ゆっくりと言葉を選ぶ。

 真夜の涙の跡が、ほとんど乾かないまま光っていた。

 逸らさないように目を合わせる。

 彼女は迷いながらも、小さく頷く。

 

「……明日、お母さんとお父さんを、バスに乗せないでほしいの」

「え……どういうこと?」

「理由を言ったら、たぶんまた怖くなると思う。だから、今は言わない。

 でも、意味はあることだから。

 あとで全部説明する。ちゃんと謝る。だから――今はお願い」

 

 息を飲む音がした。

 真夜は視線をさまよわせた。目の奥に戸惑いと混乱が交じっている。

 しかし、それで終わりなのか……? と、言わんばかりにわたしを見る。頷くと、わずかに気を緩めたようだったけれど、微かな疑念が浮かんだようだった。

 

「……どうして小雪ちゃんが、そんなことを言うの?」

「どうしてかは、今は言わない。でも、信じて」

 

 真夜の瞳に一瞬だけ光が揺れた。

 彼女は自分の胸に手を当て、何かに気づいたようにまぶたを閉じる。

 疑いたくない。けれど動揺してしまう――その心の揺れが、空気に触れて伝わってきた。

 

 何が起きるのかは、今は言わない。

 どれだけ時間をかけてでも、あとで必ず謝る。

 ほんとうのことを全部話す。

 でも今は、彼女とその家族に生きていてほしい。

 わたしの言葉で再び苦しめるくらいなら、沈黙を選ぶ。

 だから今は、伝えて動いてもらうことがすべてだ。

 

 「お願い」ともう一度だけ告げると、

 真夜はしばらく動かず、そのまま立ち上がって背を向けた。何の返事もないまま出ていく真夜の足取りは、ひどく重く見えた。

 

「真夜……」

 

 名前を呼んでも、彼女は振り返らなかった。

 

 いかないで――。

 それは声にならないまま、喉の奥で溶けた。

 視界の端で、雪がまた静かに降り始めていた。

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