小雪の降る夜、わたしは嘘をついた   作:クロ

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第1話 今日も一緒に

 朝の空気は白く張りつめていた。

 

 目を開けるたび、胸の奥に薄い折り目が増える。

 今日の白は、昨日と少し違う。何かをやり直せるかもしれない朝。

 けれど同時に、それはお母さんがいない朝でもある。

 

 布で包んだまま机に置いていたものを取り出す。

 銀の懐中時計。

 蓋はくすんでいて、細かな傷が何本も走っている。お母さんが毎日指先でなぞった、その跡が残っている。ほんの少し重たくて、それがこの一日の最初を支えてくれる。

 

 わたしはそれを布で拭く。自分の吐息で曇りが消えていく瞬間が好きだった。冷たい金属の感触は、まだ体温の低い指先にしっとりしがみつく。母の気配と言葉が、そこに詰まっている気がした。

 

 蓋を開く。

 ガラス越しに歯車が透け、針は正確に刻む。真ん中には小さな丸いボタン。ただの飾りに見える。

 押せば、時間は戻る。押すのは、いまだに怖い。

 お母さんは最後に言っていた。「大切なときだけ。誰も巻き込まずに」——その言葉が胸に残ったままだった。

 

 だから、わたしがやるのはもうひとつのほう。

 側面に、爪先でやっとつまめるくらいの小さなダイヤルがある。これをゆっくりと回して「今」にピンを打つ。週に一度だけの決まりごと。押すわけじゃない。母のやり方を、そのまま指先に写す。

 

 つまむ前に指が一拍止まり、呼吸に合わせてそっと回す。

 

 かちり、小さな重みが指に乗る。

 そこまでで終わり。世界は何も変わらない。窓の外では雪が降り続けている。冷たい静けさのなかで、ただ息を整える。これで今日も始められる。

 

 蓋を閉じ、制服のポケットに入れる。時計が胸に重たく響いた。

 鞄を担ぎ、玄関の扉を開くと、一気に冷気が流れ込んだ。凍りついた空気が鼻の奥を突き抜け、水の匂いが胸に残る。

 

 通学路に出ると、同じ制服の列が遠くまで続いていた。

 冬の朝は静かだけど、たまに風が音を運んで、誰かの笑い声や話し声が必要以上に鋭く聞こえる。今日は耳が過敏だ。どうでもよかった物音まで角を立てる。

 

 だからだろう。

 坂の手前に、列から外れて立つ人影に気づいた。

 

 風を避けたような位置で、一人きり。他の子たちと一緒に歩けばいいのに、ただ遠くで待つみたいに立っている。立ち方だけが、列から外れていた。

 

 そのとき、横からあたたかい布の端がわたしの肩を軽く叩いた。

 毛糸のふくらみが、ぽふ、と一度。すぐにもう一度。

 

「おはよ、小雪ちゃん」

 

 いつもと同じ声。けれどわたしには、その小さな声が少しだけ弾んで聞こえた。

 振り向くと、親友の真夜がいた。黒髪を肩よりずっと長く伸ばし、背丈はわたしより頭ひとつ分小さい。

 マフラーを軽く叩く。それがわたしと真夜だけの合図だった。

 すこし大きめのマフラーに口元を隠して、瞳だけで笑っている。

 

「おはよう、真夜」

「昨日より眠そうな顔してる」

「……そうかな」

「そう。眉が下がってる」

 

 小首をかしげながら、のぞき込んでくる。冗談めかした言い方なのに、声には「大丈夫?」の響きがまざっていた。わたしが今も落ち込んでいることを、全部わかっているみたいに。

 

「……まだ、ちょっと」

「うん。わかってるよ」

 

 そう言って真夜は、それ以上は尋ねずに横に並んで歩いた。問い詰めるでもなく、無理に笑わせようとするでもなく。けれど、ひとこと「わかってるよ」と付け加えてくれたことで、胸がすっと軽くなった。

 

「今日も一緒に行こ」

「うん」

 

 それで、呼吸が戻る。

 坂を上りはじめると、車の音も人の声も途切れ、しんとした瞬間が訪れる。真冬の朝の冷たい空気が、まるで一枚の膜になったように世界を覆う。

 

 それは白い凪と二人で呼んでいる、冬だけの静けさ。

 

 わたしと真夜の足音だけが規則正しく響き、雪の降る音すら吸い込まれていく。

 ただ歩幅を合わせるだけで言葉になる。視線を交わす必要もなく、わたしの落ち込みも彼女の気づかいも、沈黙の中にひとしく溶け込んでいく。

 その静けさにくるまれて、今日をやっと始められるような気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 昇降口にはワックスの匂いがまだ残っていた。

 白い靴底の跡が乾ききらず、光の角度でにじんでいる。外から吹き込む冷気はここには届かないのに、靴箱の隙間から入り込んだ雪の白さが、床の隅に落ちていた。

 

 靴を入れ替え、かかとを揃えて立ち上がる。周りは賑やかで、あくびをしながらひもを結んでいる子や、スマホの光を見せあっている子がいる。誰とも目が合わないまま、列に混ざる。

 けれどそれはいつものことだった。誰も避けないし、誰も特別には扱わない。

 ただ列の中のひとつに混ざっている、ありふれた一人として。

 

 教室のドアが開き、乾いた音が廊下に少し響く。

 中はもう暖房の匂いに満ちて、机や椅子に取りつく気配が散らばっていた。椅子の脚が床を擦る音が重なり合い、一日の始まりを形作っていく。

 

 自分の席に鞄を置こうとしたとき、前を横切った影と肩が触れそうになった。

 

「……あ、ごめんね、小雪ちゃん」

 

 振り返ったのは、隣の列の子だった。名前はすぐには浮かんでこない。ただ浅い笑みを貼り付けて、少しだけ身を引いて通り過ぎていった。

 

「うん」

 

 それだけを返す。ほんの小さなやりとり。

 掲示板のプリントが一枚だけ斜めになっていた。誰かの手が伸びて直したけれど、すぐにまた別の指先で押され、少しだけ斜めに戻ってしまう。

 わたしは目を落とし、机の端を指でなぞって息を整えた。

 

 窓の外では、まだ粉雪が舞っている。

 校庭の隅に植えられた木の枝が、白く薄く縁取られて、輪郭を曖昧にしていた。

 遠くの声も、廊下の足音も、この白の中ではすぐに吸い込まれていく。

 

 お母さんのいない朝でも、教室は同じ音で始まる。

 

 チャイムの前のざわめきは、毎日のかたちのまま重なり合う。

 鉛筆が落ちる音、机をずらすたわいなさ、誰かの囁き。

 先生が扉を開いて入り、点呼がはじまる。名前が読み上げられ、順々に返される声の列に、わたしの名前もふつうの調子で差し込まれる。

 

 黒板のチョークの音が鳴る。

 その音を聞きながら、ぼんやりと指先を見た。

 爪の根もとにまだ薄く、銀のにおいが残っている気がする。

 チョークの粉が舞うのを見ていると、あの金属の光沢が目の奥でちらついた。

 

『小雪、これはね、ただの時計じゃない』

 

 泣きながらそう言っていた顔を思い出す。

 

『時間を、戻せる。眠って……目を覚ました瞬間に、戻れる』

 

 本当なのだと思う。

 お母さんが嘘をつく理由なんて、どこにもない。

 でも――時間が戻るなんて、そんなことが本当にあるんだろうか。

 わたしの知らない“現実”と、“お母さんの言葉”のあいだ。心の中で二つの声が、静かにぶつかり合う。

 

 確かめてみないと何も分からない。

 けれど、確かめようとすること自体が、少しだけ怖いと思った。

 ノートに線を引く。鉛筆の音が耳の奥で遠くなっていく。

 指先に残る金属の感触を、消すようになぞる。

 雪が降り続く窓の外は白く曖昧で、そこに時間の境界があるような気がした。

 

 視線を上げると、真夜が少し前の席にいた。

 姿勢はわずかに前のめりで、ノートをぱらぱらとめくりながら、せわしない指先。

 わたしの視線に気づくと、短く笑ってみせる。その一瞬で、固まっていた肩がほどけた。

 

 今日も、いつもと同じ朝。

 でもポケットの奥で、小さな針が静かに時を刻んでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 放課後。

 図書室のカーテンの隙間から、雪明かりがにじんでいる。空気は乾いて冷たく、鉛筆の走る音やページをめくる紙の擦れが、ひとつひとつ響いていた。

 

 窓際の二席。いつも真夜と並んでいた場所。

 今日は先客がいた。肩をすぼめて参考書にかじりつく同級生。その背の角度を見たとき、胸の奥がわずかに跳ねた。

 ――あの席、いつも空いていたのに。

 そんな些細な残念さと一緒に、昼の授業で浮かべた母の顔がよみがえる。

 

 机の影で、こっそり制服のポケットに触れた。

 銀の懐中時計。布越しに伝わる金属の冷たさ。

 「眠って、目を覚ました瞬間に戻れる」――あの言葉が胸の内側でひらく。

 ほんとうに、戻るんだろうか。

 指先がふと汗ばんだ。

 ピンは打ったばかり。ちょっと試すだけなら。そう思った。

 

 布を押しのけると、ガラス面の奥で針が細く震える。

 押しちゃいけないと分かっているのに、脈拍がそのまま親指を動かす。

 小さな抵抗とともに、ボタンが沈んだ。

 

 ――かちり。

 瞬間、音が遠のいた。

 手の平がひゅっと引かれる。

 まぶたの裏に白い光が走って、次に息を吸った時、空気の匂いが朝になっていた。

 

 襟が冷たい。

 わたしは寝巻きで、家の布団の中に包まれていた。

 窓の外はさっきより青くて、まだ始業前の光だ。

 

 ……戻った。ほんとに、戻ってしまった。

 世界は元に見えるのに、胸の奥では針が一瞬遅れて動いているような妙な揺れが続く。

 

 その日のわたしは、いつもより少しだけ早足で過ごした。

 チャイムの鳴る寸前に席を立ち、教室を抜けて階段を下り、図書室へ。

 扉を押し開けると、窓際の二席はまだ空いていた。

 真夜と一緒に鞄を置いた刹那、ようやく息をつけた。

 

「今日もここだね」

「うん」

 

 いつも通りに、わたしたちは座ることができた。

 放課後の空気は静かで、窓の外ではまだ雪が降っている。

 ページを開くと、鉛筆の匂いと紙の擦れる音が指先に寄り添って、内心でドキドキしていた。

 お母さんの言っていたことは本当だった。ほんとに、時間が戻せる力があるんだ。

 安堵。ほんの少しの高揚が、胸の奥で小さく鳴った。

 

 けれど扉が開く音がして、窓際の方へ向かって一人の生徒が歩いてきた。

 視界の端に、その背中が映る。

 どこか見覚えがある気がして、胸の奥がふいにざわついた。

 

 わたしの横で足音が止まる。

 ほんの一瞬、目が合った。

 その瞳が答え合わせのようにわたしを通り抜けていった。

 何かを諦めるみたいに視線が逸れ、彼女は少し離れた席に腰を下ろす。

 

 静寂が戻る。

 ページがめくられる微かな音だけが続く。

 それなのに、胸の奥に何か小さな棘のようなものが残った。

 

 ――この席、あの人のだった。

 わたしがここにいるせいで、今は座れない。

 

 思考より先に、心臓が小さく跳ねた。

 真夜が隣で何かを書き込む音が聞こえる。

 それでようやく、わたしも鉛筆を握り直した。

 動かしていないと、胸のざらつきが浮かび上がってしまいそうで。

 

 紙の上に線を引く。

 しかし、文字を追っても、目はすぐにそこから滑っていく。

 何かを確かめたかっただけなのに、何を確かめたのかも分からない。

 

 ……大したことじゃない。きっとそう。

 

 呼吸をそっと整えて、視線を落とした。

 それなのに何分過ぎても、指先の奥に冷たい感触が残っていた。

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