小雪の降る夜、わたしは嘘をついた   作:クロ

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最終話 お母さん、いってきます

 朝の光は、まだテーブルの端をかろうじて照らすほどだった。

 ストーブの音と湯の沸く匂い。小さな湯気の筋が立ちのぼり、やがて消える。

 

 キッチンに出ると、父がテーブルの前に立っていた。

 すでにコートを椅子の背にかけ、出勤の支度を済ませている。

 その前には湯呑みが二つ――お父さんと、そしてお母さんのもの。

 

 二つとも薄く湯気を立てていて、母の方のテーブルにはわずかに水滴が落ちていた。たぶん、さっき注がれたばかりだ。

 見慣れたはずの情景なのに、どうしても胸の奥がざわついた。

 お父さんが、お母さんの席をそのままにしていることを、わたしは初めて知った。

 

 気づかれぬまま立ち尽くしていると、お父さんが振り向いた。

 

「……毎日、俺より早いな」

 

 目が合った瞬間、声の調子がわずかにほどけた。咎めるわけでもなく、本当に不思議そうに。

 

「今日はね、なんだか早く起きちゃって」

 

 軽い調子で返すと、お父さんは一拍おいて、ふっと息をついた。

 それきり言葉はなく、かわりに茶筒を取って三つ目の湯呑みを持ち出してきた。

 

「待ってろ」

 

 盆を持って戻ってきたお父さんが、わたしの前に湯呑みをそっと置く。

 三本の湯気が静かに立ち上がった。

 小さいころから見慣れていた並び──でもずっと前に、もう出さなくなったと思っていた。

 もしかしたら、知らないあいだにも、父はこの形を続けていたのかもしれない。

 

「……冷めないうちに、飲め」

 

 そう言って、父は向かいに腰を下ろす。

 湯気が顔のあたりで揺れて、表情の奥が少し見えにくい。

 それでも、言葉を探しているのがわかった。

 

 わたしは湯呑みを両手で包み、深く息を吸う。

 香りのなかに、季節の端のような苦味があった。

 

「ねえ、お父さん」

 

 声に出した瞬間、心臓が小さく脈打つ。

 

「……この前、教えてくれたの。お母さんのことを話してくれて、うれしかった」

 

 父の指が一瞬止まる。

 湯気の向こうで、瞳の奥がすこし揺れた気がした。

 でも、何も言わず、ただわたしの方を見た。

 わたしは構わず続けた。

 

「ありがとう。聞けて、よかったなって」

 

 ほんの短い時間、父のまぶたが震える。

 理解してくれたのを感じた。

 その「話してくれた時間」を、今のお父さんが覚えていないことは、分かっている。

 でも、どんな形であれ、わたしがそれを経験した。そして今ここにいる。

 そのすべてを、父は追及しない。

 湯呑みを持ち直し、小さくうなずくだけだった。

 

「……そうか」

 

 その声が、湯気の中で沈む。

 もう一度だけ、うなずいたあと、お父さんは立ち上がった。

 コートのボタンを留めながら、窓の外をちらと見やる。

 目尻のシワの奥に、穏やかな光が差していた。

 

 玄関まで見送る。

 外気がドアの隙間から入りこみ、雪と朝日の匂いが一瞬だけ家の中に流れた。

 コートの襟を上げ、振り向く。

 

「小雪」

「うん」

「今日も冷える。転ぶなよ」

 

 響きは短いのに、どこかあたたかく、懐かしかった。

 わたしは少し驚いて、すぐに笑った。

 

「いってらっしゃい、お父さん」

 

 扉が閉まると、家の中にはまた静かな世界に包まれた。

 

 テーブルの上には、三つの湯呑みが置かれている。

 お母さんの席のものも、お父さんのも、わたしのも。

 背筋を伸ばしたら、ほんの少しだけ、涙が滲んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 坂の上まで来ると、風向きが少し変わった。

 白い粒が頬に当たる。冷たいというより、ただ、静かに降りていた。

 闇が明けきらない曇天の下、街灯の光が細かく滲んでいる。

 

 わたしは欄干の手すりに指をかけたまま、じっとその光を見ていた。

 陽岳さんが言っていたように、今日は休みで人通りがほとんどない。

 けれど、胸の奥は落ち着かなかった。

 

 すべてが終わったはずなのに。

 運命をどうにもできないと何度も思って、それでも諦めきれなかった時間。

 バスが止まり、真夜のお父さんとお母さんも家にいた。

 事故は、起きなかった。

 それは確かに救いの結果で、もう何も失われなかったはずなのに――心は晴れなかった。

 

 ポケットの懐中時計をきつく握りしめる。息が白く伸びて、すぐ空に溶ける。

 親友を何度も傷つけた。その記憶は消えない。

 「何も言わなかった」こと、それが一番の痛みとして残っていた。

 最初から打ち明けるべきだった。

 どんなに信じてもらえなかったとしても、話さなければならなかった――あの時計のこと、時間を戻そうとしていたこと。

 

 たとえお母さんに「誰にも話してはいけない」と告げられていたとしても。

 たとえ陽岳さんが「お前に責任はない」と言ってくれたとしても。

 

 言わなかったこと、それ自体がわたしの罪だ。

 真夜を怖がらせ、疑わせ、何度も泣かせてきた。

 「仕方がなかった」で済むことじゃない。

 

 指先に触れた冷えた金属の感触が、懐中時計の輪郭を教える。

 ポケットの内側、布の擦れる音。

 “巻き戻す”ための道具なのに、今だけは、その存在がむしろわたしを過去に縛りつけていた。

 

 ふと、足音。

 気配を感じた瞬間、坂の下の方からひとりの影が揺れた。

 真夜だ。マフラーの色で、すぐわかった。

 

 以前なら、彼女はマフラーの端を軽く叩き、二度コンコンと合図をくれたはずだった。

 でも今日は、その仕草はなかった。

 足を止め、距離をとるようにして立ち、視線をこちらではなく地面に落とす。

 

 その姿を見た瞬間、胸の奥に冷たいものが広がった。

 真夜が不安そうに見える。

 まるで今から、人生がまた崩れるような話を聞かされるのではないか――そんな恐れを背負っている顔だった。

 

「……真夜」

 

 声を出すだけで、息が震えた。

 彼女は反応する。けれど、近づこうとはしない。

 

 少しの間、風の音しかない。

 白い粒子が二人の間に舞い落ちる。

 

 やっと真夜が顔を上げた。瞳が小さく揺れている。

 

「小雪ちゃん……聞いても、いいんだよね」

 

 頷く。声を出す余裕がなかった。

 

「どうして、あの日、うちのお父さんとお母さんを家に留めろって言ったの?

 ……あのとき、すごく怖かった。何が起きるのか分からなかったけど、どうしても嘘だと思えなかった。

 だから仮病を使って休んだ。

 バスが止まって、それで午前中、お父さんもお母さんもずっと家にいてくれた。

 でも……どうして、そんなことを頼んだの?」

 

 雪が、真夜の肩に積もっていく。

 わたしは答えようとして、言葉を探した。けれど、声にならなかった。

 

 真夜は続けた。

 

「それに……学校のことも。急にみんなが小雪ちゃんを避けるようになった。何かされたわけじゃないのに。

 今も嫌われたままで、誰も理由を教えてくれなかったよ。

 でも、どうして? なんでみんな、あんな変な空気になってたの?

 ねえ。わたしが怖いって感じてるの、分かってるよね。何が起きてるの? ……小雪ちゃん、一体何をしたの」

 

 矢継ぎ早に出てくる疑問の全部が、わたしの胸に突き刺さる。

 雪の降る音だけが、二人の間をかすめていく。

 

 真夜の声が震えている。

 その震えは、わたしが何度も時間を戻した夜の恐怖の残り香。

 確かにこの世界に残ってしまった“歪み”だ。

 

 わたしは俯き、手のひらの中にある時計の重みを確かめた。

 答えを探そうとしても、どの言葉も軽すぎた。

 

「……真夜」

 

 声にならない吐息が、風に溶けていく。

 

「全部、話すよ」

 

 言った瞬間、胸の奥がぎゅっと縮んだ。

 その言葉ひとつで、何もかも曝け出す覚悟をしていたはずなのに、口の中が急に乾いた。

 思い返してしまう――あの昼の光。カーテンの間から差す風の音。

 全部一人でやり遂げると心に決めた時、たくさん嘘をついた。

 不安を感じている真夜の顔を見ながら、守るつもりで放ってしまった、これも嘘。

 

 ――なんでもないよ。

 

 あの瞬間に、胸の真ん中にとげが刺さった。

 いまも息をするたび、痛む。

 知っていながら、わたしは何も言わなかった。真夜にそれを信じさせた。

 

 でも、もう逃げない。

 お母さんが、わたしに残してくれた、「本当に大事なときだけ」。

 その意味を、やっとわかった気がする。

 時計を誰にも見せないことじゃない。秘密を守ることでも、巻き込まないことでもない。

 本当に大切な人を、信じること。

 わたしにとってそれは、いま、ここしかない。

 

「……信じてもらえないかもしれないけど、見て」

 

 手袋を外す。

 白い息の中で、懐中時計の銀が鈍く光った。

 曇天の色を小さく閉じ込めながら、淡い息のようにかすかに脈打っている。

 何も言わない真夜を見て、わたしは、雪の上で立ち止まった。

 

 真夜の瞳が、わずかに揺れる。

 その表情を、わたしは知らない。

 

「真夜……?」

 

 怖がっているようでもあり、何かに触れそうになっているようでもある。

 唇がかすかに震えて、声にならない吐息が漏れた。

 

『もうやめて!』

 

 ——あのとき、下駄箱の前で。

 払いのけた手。

 その中で滑り落ちた銀の輝き。

 記憶の底から、ほとんど消えかけた痛みがふっと浮かぶ。

 

 真夜はその痛みに、無意識に手を伸ばした。

 掴みとるように、ゆっくりと。

 

 わたしは驚いて息を止めた。

 拒む理由は、ない。そのまま待つ。

 真夜の指先が、雪を溶かすようにそっと時計の縁に触れた。

 

 風が止んだ。

 白い光が、街灯の明かりを滲ませながら揺れている。

 その中で、真夜の瞳がふいに見開かれた。

 

「……っ」

 

 声にならない息。

 顔の筋肉がわずかに引きつって、そのまま彼女は動きを失った。

 瞳の奥で、何かが一気に結ばれていくのが見えた。

 理解よりも早く、それは衝撃として彼女を貫いた。

 

 わたしは思わず後ずさった。

 彼女の肩が小刻みに震えている。

 雪が降り落ちて、髪の上で溶けた。

 

「……真夜?」

 

 尋ねても、応えがない。

 真夜は息を詰めたまま、何かを見つめるように空を仰いで――そして、崩れた。

 

「……ああ……」

 

 手を口元に当て、震える声を押し殺す。

 

「……どうして……知らなかった、わたし……!」

 

 何が起こったのか、理解できなかった。

 彼女の中で、何かの輪が音を立てて閉じたようだった。

 真夜が泣きそうな顔で時計から目を離した、その動作のひとつひとつが、異様にゆっくり見える。

 その顔には、知っているはずのない痛みの影が差していた。

 

「……なんで……」

 

 声が掠れた。

 時計に触れただけで、何かを“思い出した”ように見える。

 そんなこと起きるはずがない。

 取り戻せないはずの時間なのに。

 真夜の唇が震え、ひとつ、息がこぼれた。

 

「……ずっと、怖かったの。あの日から。

 理由もないのに、みんなが変にざわざわして、小雪ちゃんの顔が見られなくなって。

 なのに、心のどこかで“小雪ちゃんを責めちゃいけない”って思ってて……でも、なぜか分からなかった」

 

 言葉が途切れ、破裂するように嗚咽が漏れた。

 呼吸のような、それでも確かな言葉だった。

 

「……違ったんだ。わたし、何も知らなかったんだ。

 怖い、意味がわからないって、そればっかりで。本当は、小雪ちゃんが一番……痛かったのに。

 小雪ちゃんは……何度も、わたしのために……」

 

 ――思い出している。

 わたしが消した、あの時間を。

 

 膝が折れて、雪の上に落ちる。

 両手で顔を押さえ、泣くというよりも、嗚咽そのものが体の奥からあふれ出していた。

 

「お父さんもお母さんも……あの日、本当は死んじゃったんでしょ……?

 何度も、あんなのを……ひとりで……! 気づきもしなかった……!」

「真夜……」

「みんなの目が変わっていったのも、小雪ちゃんのせいじゃなかったのに。

 なのに、わたし……小雪ちゃんを、傷つけてた!」

 

 言葉にならない叫びが喉を焼くように続いて、雪がその上から静かに覆っていく。

 わたしは立ち尽くしたまま、指先がかじかんで動かなかった。

 目の前の景色がゆがむ。

 頭の奥で、ずっと響いていたひとつの言葉が、形を持ってせり上がってくる。

 

 ――取り返しのつかないことは、ない。

 

 お母さんは、そう言いたかったんだと思う。

 どれだけ時間を巻き戻しても、やり直せないことがある。

 全部うまくいくわけじゃない。

 けれど、それでも。

 

「……真夜」

 

 わたしの指が、そっと真夜の腕に触れる。

 冷たい。雪と涙の温度が混じって、目の前の様子がうまく見えない。

 

「ごめんね」

 

 声が自然に漏れた。

 何度も言いたかった言葉。届かないまま、あっという間に失われた時間で、何度も心の中だけで繰り返してきた。

 

「……全部、わたしが悪いの。

 本当のこと、ちゃんと話さなかったから。真夜は何も悪くない。

 今まで黙っていて、ごめんなさい」

 

 涙で濡れた頬が、街灯の下で光る。

 

「……違う。違うよ」

 

 首を振りながら、何度も言う。

 

「わたしが、何も……知らなかったから。知ろうともしなかった。

 小雪ちゃん、ずっと苦しかったのに、それに気づいてあげられなかった。だからこんな……っ」

 

 しゃくりあげながら、震える声が溢れる。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい、小雪ちゃん……」

 

 その声が、わたしの胸を突き抜けた。

 

 真夜を抱き締める。

 震える体を抱え込むと、今度は逆に真夜の腕が、わたしの背中を掴んだ。

 言葉を無くして、互いの声が混ざり合って、どちらの涙かもわからなくなった。

 

 呼吸と呼吸がぶつかって、互いの口もとから白い息が溢れる。

 その混ざる瞬間、世界がやわらかく溶けたように感じた。

 

 腕の中の真夜が震えている。

 わたしの体も同じように震えていた。

 声にならない音が漏れて、涙が滲んでくる。

 長い冬の底で、膝から崩れ落ちて、ようやく誰かと心臓の音を分け合う。

 

 運命の形も、嘘の痛みも、この抱擁の外にはなかった。

 雪が音を吸い、街灯の光が滲んで――

 

 白い凪が、わたしたちを包んだ。

 もう、嘘はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 朝の気配は、まだ眠りの続きのように淡かった。

 天井に反射した白が、静かに揺れる。

 起き上がったばかりの部屋には、冷えた空気と、窓の外で降り続ける雪の気配が滲んでいた。

 

 ベッド脇の机。

 そこに置かれた布包みをそっと開くと、懐中時計が現れる。

 金属の曇りは、指の熱を受けるたびに少しずつ溶けていくようで、拭いている間だけは時間がやわらかく止まる。

 

 ――今日で、ちょうど一週間。

 

 針は変わらず刻み続けている。

 その中の空間だけは、どれほど刻を巡っても変わらないように思えた。

 五回。数えてみると、それだけの時間を過ごした。

 でも体の方がおぼえているのは、もっと長い“日々”だった。

 

 指先に小さな重みを乗せる。

 ダイヤルをつまむ前に、ふと、胸の奥が揺れる。

 これでまた――この「一週間」を本当のものにする。

 もう、戻ることができなくなる。

 

 戻りたいわけじゃない。

 けれど、ここまで積み上げてきた日々のことを思うと、ほんの少しだけ、寂しくなった。

 小学校の卒業式のあと、校舎を背にした、あのときに似た感覚。もう戻れないと分かった時の感じ。

 

 深呼吸をひとつ。

 

「……ありがとう」

 

 指が一拍止まり、息と合わせてダイヤルを回す。

 

 ――かちり。

 

 金属が音を持つ。

 時計の中で、いまが永遠に定点として打たれた。

 世界は何も変わらない。

 でも胸の奥で、小さな針が確かに動いた気がする。

 

 運命は変わった。

 もう、誰かのいなくなる朝へは戻らない。

 後悔も、もうしない。

 わたしは、お母さんの言っていたことの意味を、ようやく知ったから。

 

 布でそっと覆って、懐中時計を静かに引き出しへしまいこんだ。

 学校に行く用意をしてリビングに出ると、机の片隅に置かれた写真立てが目に入った。

 父の出勤でリビングは空っぽになっている。湯呑みもない。

 でも、いつもは伏せられていたその写真が、今日は立てられたままになっていた。

 

 三人。雪道の前で撮った家族写真。

 父はまだ若く、母が笑っていて、幼いわたしは真ん中で白いマフラーを巻いている。

 ――あの頃の冬だと思い出す。

 お母さんと、お父さんの腕の中は、温かかったのだと。

 

 窓の外では、粉雪が舞う。

 世界が真っ白に見えるほどの静けさ。

 

 わたしはコートを羽織り、マフラーを巻く。

 靴を揃えて、玄関に立つ。

 引き出しの向こう、家に置いたままの時計の輪郭が、頭の中に浮かぶ。

 

「お母さん、行ってきます」

 

 声に出すと、家の中の空気が微かに震えた。

 返事はない。けれど、それで十分だった。

 

 ドアを開けると、白い息が外に広がる。

 雪は静かに降り続いている。

 その冷たさを胸いっぱいに吸い込みながら、わたしはゆっくりと、一歩を踏み出した。

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