小雪の降る夜、わたしは嘘をついた   作:クロ

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第2話 白に削られた街

 夜。玄関の鍵を開けると、廊下はもう暗くしんとしていた。

 電気はついていない。よくあることだ。早番続きで、わたしが帰る頃にはもう寝ていることが多い。

 靴を脱ぎかけたとき、台所の奥から水の音がかすかにした。

 

「……ただいま」

 

 声をかける。少し響いたあと、しばらくして低い「ああ」が返ってきた。

 それだけで廊下は静かに戻る。

 お母さんがいた頃には必ず届いた「おかえり」の響きは、もうここにはない。

 

 リビングの灯りをつけると、机に皿が並んでいた。

 白ごはんと、味噌汁と、漬物が一皿。ラップの跡が皿の縁に残り、味噌汁の表面には薄い気泡がいくつか浮いている。湯気はあるのに、空気の中に温度が広がらない。

 

 お父さんは、スーツの上着も脱がずに椅子に座った。背を少し丸めて、仕事の資料を開いたまま。箸を手にするのもぎこちなく、ただ熱い白米を口へ運んでいる。

 わたしは自分の席に座り、机に鞄を置いた。

 制服のポケットから時計を取り出そうとして、机の端にそっと置く。

 視線を落とすと、銀の光が蛍光灯の下でぼんやり濁った。

 

 お父さんは一瞬だけ顔をあげて、時計を見た。

 指先がわずかに動きかけた気がした。けれど、すぐに手を紙の上に戻す。まるで見なかったことにするみたいに。触れたくないと、そう思っている風に見えた。

 

 沈黙のまま、箸の音だけが響いた。

 味噌汁の香りはあるのに、何も味のしない液体を飲んでいるみたいだった。喉を通るときの温度だけで腹に下りていく。

 お父さんは一口ごとに短い間を挟み、それを刻むように食べ進めていく。

 会話の隙間を作る場所さえなかった。

 

 お母さんがいた頃——

 三人で囲む卓には湯気が立ちのぼり、鍋を取り分ける音がして、時折ため息を重ねるような笑いが混ざった。覚えているはずの生活は、奇妙なまでにすぐ遠ざかる。

 今はただ、皿の縁に箸が当たる乾いた音だけ。

 

「……おかわり、いる?」

 

 勇気を出して聞いてみた。

 

「要らん」

 

 短い返事。声は低く、冷たいわけではない。ただそれ以上の感情が何も通らなかった。

 わたしはそれきり黙った。

 

 夕食は十五分もしないうちに終わった。

 お父さんは茶碗を持ったまま立ち上がり、流しへ持っていく。その背中はただの影みたいで、何も残さなかった。

 

 わたしは机に残された皿へ手を伸ばす。冷めかけたご飯の匂いと、放置された時計の銀色。二つが奇妙に重なって、部屋の奥で揺れていた。

 

 片付けを終えると、父はもう言葉を残さずに書斎へ消えた。

 扉が閉まって、空気がひとつ途切れる。

 

 残された居間は、空洞のように広かった。

 母がいた頃には狭くさえ感じた食卓なのに、今は四方に余白が広がりすぎている。椅子に腰を下ろすと、自分の足音までが響く気がした。

 

 机の端の時計を、両手で包む。冷たい。胸に触れさせたまま、長く息を吐く。

 お母さんから受け取ったときの重さ。

 「大切なときだけ」……その言葉だけが、夜ごとに鮮明になっていく。

 

 でもその「大切なとき」って、いったいいつなのだろう。

 お母さんが病気になったときは、何をしても変えられなかったと知っている。

 この家に足りない温かさも、きっと戻せない。

 

 立ち尽くしながら、時計の蓋を閉じた。

 

 廊下は冷たい風の通り道のようで、部屋に戻るあいだ足音が吸われていく気がした。

 ベッドに沈み込むと、静かすぎて耳がしんと痛い。外は粉雪で、窓に打ちつける音が時折だけかすかに鳴る。

 

 時計を胸に抱いたまま目を閉じた。

 お母さんがいなくなった家。それを思い知らされる、ただの夜。

 

 

 

 

 

 

 

 

 登校の朝、吐く息はすぐに吹雪にちぎれた。

 雪はただ降るだけではなく、風に巻き上げられて真横から叩きつけられる。マフラーで頬を覆っても途端に白い結晶が張りついた。前を歩く人の背中がぼやけて見え、数歩分離れるだけで輪郭を失う。真冬には慣れているはずなのに、今日は街そのものが隠されているみたいだった。

 

「今日、ほんとに授業やるんだね」

 

 横で真夜が声を張った。低い背の上に積もった白が、すぐに肩からこぼれる。

 

「……休みの連絡、なかったよ」

「いつもだよ。こっちはぜんぜん歩けないのにさ」

 

 少し笑って言ったけれど、その声は風にさらわれて耳に届く前に削れていった。

 わたしはうなずくだけにして、足を止めない。

 マフラーを直そうとしたとき、制服の下で時計が揺れた。金属のひややかさが胸に触れる。母が使っていた重みがそこにある。

 

 校門の内側に入ると、外の吹雪がいくぶんか和らいだように感じた。滑らないよう注意深く足元を運んで昇降口に着くと、すでに濡れた靴音の群れでいっぱいだった。

 床には水の跡が広がり、誰かがモップをかけても追いつかない。

 

 教室に入る。濡れた衣服の匂いと暖房の熱気が流れ込んで、声が一度に耳に乗る。

 

「道、ぜんぜん見えなかった」

「駅まで親に送ってもらった」

「バス、遅れてたらしいよ」

「うちの親がバス会社だけど、今日はギリ通常運行だって」

 

 それぞれの「大変だった」が浮き足立った声になっていた。雪は毎年のことなのに、今日みたいな吹雪の朝はやっぱり小さな非常事態になる。

 

 わたしは席に座る。真夜は隣に腰を下ろした。マフラーの口元を外し、小さな声で言う。

 

「今日の図書室、きっと空いてるよ」

「……うん」

「帰りに寄ろ」

 その眼差しに、少しだけ温かさが戻ってくる。

 

 チャイムが鳴り、授業は始まる。けれどみんなの集中は散漫だった。窓の外の吹雪を気にして、先生の声が途切れるたびに小声が交わされる。

 

「さっき、救急車すごかったって」

「坂ノ下交差点の近くで音してた」

 

 そんな断片。詳しいことは分からない。ただ耳に入るだけで、雪の音のようにすぐに溶けていく。

 

 二限が終わるころ、後ろの席の子が少し身を乗り出して言った。

 

「近所で事故あったって。車が滑ったとか」

 

 それだけで周りが小さなざわめきを返す。けれど先生が教室に戻ってきて授業が始まればそれとなく収束する。

 不安と日常の境目は、まだ曖昧なまま続いていた。

 

 わたしはノートに線を引きながら、耳を澄ませていた。雪の音は聞こえないはずなのに、窓にこすれる粒の擦過音がずっと残っていた。胸の時計の重みも、机に添えた指先へ静かに伝わっている。ただ世界が遠くなる気配だけが積もっていく。

 

 そんなとき。教室のドアが開き、別のクラスの先生が入ってきた。いつもより硬い足音。前を歩いてきた先生と短く言葉を交わすと、真夜の名前が呼ばれた。

 

「佐野、ちょっと来なさい。荷物を持ってきて」

 

 真夜が驚いたようにこちらを見て、それから鞄をつかんで立ちあがった。

 椅子の脚が床を擦り、緊張が一瞬だけ教室全体に延びる。けれど、すぐに授業が再開した。わたし以外の多くはまた視線を机へ戻す。

 ただわたしだけが、その背中が扉の向こうに消える瞬間まで目で追いかけていた。

 

 吹雪の音は窓の外で絶え間なく響いている。

 でも教室の内側には、言葉を挟めない沈黙が重なっていた。わたしペン先を止め、マフラーの端を親指でそっとつまんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 放課後、昇降口を出ると、雪はまだ重たく落ち続けていた。

 吹雪は朝ほど激しくはないけれど、風が強くて耳を刺す。頭上から崩れ落ちるように舞う白は、ただの粉雪じゃなく、水気を帯びた固まり。頬に当たるたび、鈍い力で押し返される。

 

 わたしはマフラーを口元に押しあて、歩みを速めた。

 真夜は先生に呼ばれて出ていったきり、教室へ戻らなかった。理由は聞けなかった。先生も誰も教えてくれなかった。

 休み時間にスマホを確認した。けれど真夜からの連絡はなく、既読すらついていなかった。不安が胸の奥にちくちく刺さり続ける。

 

 だから、帰る足が自然に彼女の家を指した。

 行ったところで意味はないのかもしれない。けれど、じっとしていることもできなかった。顔を見て、大丈夫って言いたかった。困っているとき、わたしも助けてもらったのだから。今はその番だと、ただそれだけを思っていた。

 

 角を曲がると、真夜の家が見えた。

 門の前に立ち、息を吸う。

 窓はすべて暗かった。外灯の弱い光が門柱の雪を照らしているだけで、中からの生活音はなにも聞こえない。家そのものが、風に削り取られてしまったようだった。

 

 眉をひそめ、門柱に添えた指に力を入れた。

 この時間なら誰かしらの気配があるはずなのに。あまりに静かすぎた。

 呼び鈴を押そうか迷った。押したところで、玄関の奥に人がいなければ意味はないのに。

 寒気が足元から這いのぼってくる。

 

 そのとき。

 ポケットの中で、スマホが強く震えた。

 わたしは慌てて取り出し、画面を開いた。

 宛名は「真夜」。

 

 目に入った最初の文字で、息が凍った。

 

 

 

 

 

『お父さんとお母さん。事故で死んじゃった』

 

 世界から光が抜けていく。

 マフラーに覆われていた口が、冷気に晒される。

 耳の奥で、嫌な高い音が鳴り始める。

 風の音も、誰かの足音も、全部遠くで割れたノイズに変わる。その反対に、自分の心臓の打つ音だけがやけに鮮明で、胸を叩かれるように響いていた。

 

 ほんのさっきまで、「力になりたい」なんて考えていた。

 そんな小さな言葉は、この報せの前で意味を失った。きっと大丈夫なのだろうと。わたしの中で抱えていた僅かな希望は、一瞬で吹き飛んで跡さえ残らない。

 

 震える指先で画面をスクロールし直す。

 けれど、文字は変わらない。門前で立ち尽くす。足は凍ったみたいに動かない。肩に雪が積もる感覚も、遅れてやって来るだけだ。

 

 呼び鈴は押さなかった。白いボタンだけが、薄闇の中で小さく光っていた。

 

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