小雪の降る夜、わたしは嘘をついた   作:クロ

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第5話 一人きりの失敗

 昼休みになっても、誰も声をかけてこなかった。

 窓際の席でノートを閉じる音だけが残る。背中で椅子の脚が擦れる。廊下の笑い声は、薄い壁を通って別の世界のもののように聞こえた。

 

 隣の机には誰も寄らず、少し遠い席の会話だけが波のように届く。

 わざとじゃない。

 たぶん。ただ、みんなが「どのくらい触れてはいけない話題なのか」を探っているだけ。そう思おうとしても、胸にさざ波のような痛みが広がった。

 理由もなく、指が冷たく固まっていた。

 

 放課後、靴箱の前で立ち止まる。窓から差した光が床に白い形を作り、足元がぼやける。通りすがると、また一つの声が耳に届く。

 

「……やっぱりさ」

 

 かすれた囁きが、雪の粉を連れて背後で消えた。

 わたしは聞こえなかったふりをして、靴を履き替えた。

 沈黙の中で、時計の揺れる感触だけが確かに生きている。

 明日も同じ道を歩くことになる。その予感だけで足が重くなった。

 

 翌日、声の温度はさらに下がった。

 挨拶に返事をする子もいたけれど、その言葉は壁に跳ね返ってすぐ消えた。

 休み時間に立ち上がると、周囲の机が自然に角度を変える。

 文字どおりの無視ではない。誰も悪気があるようには見えなかった。ただ、目に見えない薄膜が教室の真ん中に張られて、自分だけがその内側に閉じ込められたようだった。

 

 雪は止み、空気が乾く。

 なのに頬の奥は冷たい。

 わたしは頬杖をつく代わりにマフラーの端をつまむ。

 

 ――止められなかった。

 それどころか、もっとひどい形で壊してしまったのかもしれない。

 

 放課後、家に着く頃には、指先の色が抜けていた。

 玄関の明かりをつけても、部屋に温度が戻らなかった。

 リビングの隅、机に腰を下ろす。

 カーテンの向こうに電線の影が落ち、雪明かりが床に淡く揺れている。

 ノートを開くと、鉛筆の芯が折れて転がった。紙を撫でれば凸凹が残っていて、そのひとつひとつが昨日までの記憶みたいだった。

 

 〈事故〉という文字を無意識に書いていた。

 その単語は何度見ても現実味がなく、見つめるたびに心臓の鼓動だけが速くなる。

 消しゴムを当ててみると、小さな黒い粉ができた。

 こすった部分の紙が薄く破れて、裏側から光が透けている。

 

 机の上には、スマホと銀の懐中時計。

 スマホの画面には昨日と同じ場所に「未読」の印。

 それを見るのが怖くて視線を逸らした。画面が静かに光を失っていく。

 

 真夜からの最後の報せも、この世界では消えていた。

 時間を戻す前は「お父さんとお母さんが事故にあった」とメッセージが届いて、それを境に返信が止まった。今回は、その一通さえない。知らせることさえ、やめさせてしまったのかもしれない。

 胸の奥がじくじくと熱くなる。わたしは、間違えたのだ――。

 

「っ……」

 

 息が浅くなる。指先を膝の上に重ねたまま、肩を丸める。

 「夜風さん、変なこと言ってた」と言われた言葉が、何度も頭の中で反響する。教室のあの空気の中で、みんなと一緒にいるのがただの偶然じゃなくなった瞬間。

 もし真夜も同じように思っていたら――そう考えた瞬間、喉が詰まった。

 苦しくて、息を吸う音がみじめだった。

 

 マフラーの端で口を覆う。目の前に卓上灯の光が広がり、紙の影が揺れる。書きかけのノートが開いていて、「事故」と書いた文字は薄い鉛色をしていた。

 外の雪は細かく、街灯に照らされて流れていく。風が当たるたびに窓ガラスがきいと鳴った。部屋の暖気と冷気の境目で、世界が折り重なっているみたいだった。

 

「ごめん、なさい」

 

 どうして、あの日あんなふうに言ったんだろう。

 伝えられなかった。勝手に大丈夫だと思い込んでしまった。

 わたしが怖がらせた。わたしが全部、だめにした。

 思考がそこまで辿り着くと、胸がつんと痛んだ。目を閉じても涙がこぼれて、唇の上をすべった。マフラーが湿って、羊毛の匂いが近くなる。

 

 呼吸を整えようと背筋を伸ばす。

 息がこもり、鼓動だけが大きく聞こえる。

 机の上の時計をそっと手に取る。手のひら全体に冷たさが走って、心拍が針の震えと重なった。

 

 もしもう一度戻れたら、わたしはちゃんと伝えられるだろうか。

 今度こそ本当に止められるだろうか。

 

 そんな確信はどこにもない。それでも何かしなきゃいけないと思う。

 そうでもしないと、息をしていられなかった。

 

 ノートの上に時計を置き、両手で包み込む。

 金属の小さな感触が掌に溶ける。

 

「真夜──」

 

 声にならなかった。けれど名前を呼んだ瞬間、胸の奥で何かが動いた。

 このままではだめだ。

 次はちゃんと伝える。

 どうすればいいかは分からなくても、もう一度だけやり直せば、少なくとも彼女の目をまっすぐ見て話せる。

 信じてほしいと願う言葉を、もう一度だけ。

 

 秒針のかすかな音を数えながら、瞼を閉じる。室内の空気がかすかに沈む。

 指の腹に金属の滑らかな感触。

 ひと息吸って、押し込む。

 その瞬間、部屋の空気がわずかに冷えた。

 光も匂いも音も、ひとつの線で切り取られたように変わる。

 世界のどこかに、まだ言葉にならない波紋が生まれている。

 誰も気づかないほど小さな違和感が、雪の層の下で静かに広がっていった。

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