昼休みになっても、誰も声をかけてこなかった。
窓際の席でノートを閉じる音だけが残る。背中で椅子の脚が擦れる。廊下の笑い声は、薄い壁を通って別の世界のもののように聞こえた。
隣の机には誰も寄らず、少し遠い席の会話だけが波のように届く。
わざとじゃない。
たぶん。ただ、みんなが「どのくらい触れてはいけない話題なのか」を探っているだけ。そう思おうとしても、胸にさざ波のような痛みが広がった。
理由もなく、指が冷たく固まっていた。
放課後、靴箱の前で立ち止まる。窓から差した光が床に白い形を作り、足元がぼやける。通りすがると、また一つの声が耳に届く。
「……やっぱりさ」
かすれた囁きが、雪の粉を連れて背後で消えた。
わたしは聞こえなかったふりをして、靴を履き替えた。
沈黙の中で、時計の揺れる感触だけが確かに生きている。
明日も同じ道を歩くことになる。その予感だけで足が重くなった。
翌日、声の温度はさらに下がった。
挨拶に返事をする子もいたけれど、その言葉は壁に跳ね返ってすぐ消えた。
休み時間に立ち上がると、周囲の机が自然に角度を変える。
文字どおりの無視ではない。誰も悪気があるようには見えなかった。ただ、目に見えない薄膜が教室の真ん中に張られて、自分だけがその内側に閉じ込められたようだった。
雪は止み、空気が乾く。
なのに頬の奥は冷たい。
わたしは頬杖をつく代わりにマフラーの端をつまむ。
――止められなかった。
それどころか、もっとひどい形で壊してしまったのかもしれない。
放課後、家に着く頃には、指先の色が抜けていた。
玄関の明かりをつけても、部屋に温度が戻らなかった。
リビングの隅、机に腰を下ろす。
カーテンの向こうに電線の影が落ち、雪明かりが床に淡く揺れている。
ノートを開くと、鉛筆の芯が折れて転がった。紙を撫でれば凸凹が残っていて、そのひとつひとつが昨日までの記憶みたいだった。
〈事故〉という文字を無意識に書いていた。
その単語は何度見ても現実味がなく、見つめるたびに心臓の鼓動だけが速くなる。
消しゴムを当ててみると、小さな黒い粉ができた。
こすった部分の紙が薄く破れて、裏側から光が透けている。
机の上には、スマホと銀の懐中時計。
スマホの画面には昨日と同じ場所に「未読」の印。
それを見るのが怖くて視線を逸らした。画面が静かに光を失っていく。
真夜からの最後の報せも、この世界では消えていた。
時間を戻す前は「お父さんとお母さんが事故にあった」とメッセージが届いて、それを境に返信が止まった。今回は、その一通さえない。知らせることさえ、やめさせてしまったのかもしれない。
胸の奥がじくじくと熱くなる。わたしは、間違えたのだ――。
「っ……」
息が浅くなる。指先を膝の上に重ねたまま、肩を丸める。
「夜風さん、変なこと言ってた」と言われた言葉が、何度も頭の中で反響する。教室のあの空気の中で、みんなと一緒にいるのがただの偶然じゃなくなった瞬間。
もし真夜も同じように思っていたら――そう考えた瞬間、喉が詰まった。
苦しくて、息を吸う音がみじめだった。
マフラーの端で口を覆う。目の前に卓上灯の光が広がり、紙の影が揺れる。書きかけのノートが開いていて、「事故」と書いた文字は薄い鉛色をしていた。
外の雪は細かく、街灯に照らされて流れていく。風が当たるたびに窓ガラスがきいと鳴った。部屋の暖気と冷気の境目で、世界が折り重なっているみたいだった。
「ごめん、なさい」
どうして、あの日あんなふうに言ったんだろう。
伝えられなかった。勝手に大丈夫だと思い込んでしまった。
わたしが怖がらせた。わたしが全部、だめにした。
思考がそこまで辿り着くと、胸がつんと痛んだ。目を閉じても涙がこぼれて、唇の上をすべった。マフラーが湿って、羊毛の匂いが近くなる。
呼吸を整えようと背筋を伸ばす。
息がこもり、鼓動だけが大きく聞こえる。
机の上の時計をそっと手に取る。手のひら全体に冷たさが走って、心拍が針の震えと重なった。
もしもう一度戻れたら、わたしはちゃんと伝えられるだろうか。
今度こそ本当に止められるだろうか。
そんな確信はどこにもない。それでも何かしなきゃいけないと思う。
そうでもしないと、息をしていられなかった。
ノートの上に時計を置き、両手で包み込む。
金属の小さな感触が掌に溶ける。
「真夜──」
声にならなかった。けれど名前を呼んだ瞬間、胸の奥で何かが動いた。
このままではだめだ。
次はちゃんと伝える。
どうすればいいかは分からなくても、もう一度だけやり直せば、少なくとも彼女の目をまっすぐ見て話せる。
信じてほしいと願う言葉を、もう一度だけ。
秒針のかすかな音を数えながら、瞼を閉じる。室内の空気がかすかに沈む。
指の腹に金属の滑らかな感触。
ひと息吸って、押し込む。
その瞬間、部屋の空気がわずかに冷えた。
光も匂いも音も、ひとつの線で切り取られたように変わる。
世界のどこかに、まだ言葉にならない波紋が生まれている。
誰も気づかないほど小さな違和感が、雪の層の下で静かに広がっていった。