小雪の降る夜、わたしは嘘をついた   作:クロ

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第6話 時間を戻しても、何も戻らない

 目が覚める前に、胸の奥だけが先に軋んでいた。

 息を吸うたびに、冷たい空気が喉の奥を削っていく。

 布団から腕を出すと、部屋の空気が痛いほど冷たかった。寝返りを打ったとき視界に見慣れた天井が入り、そこでようやく、自分がまた「戻ってきた」と悟る。

 

 ベッド脇のスマホに手を伸ばして画面を点ける。日付は、あの朝に戻っていた。通知はきれいに消えていて、昨日までの自分の跡がどこにもない。真夜とのメッセージ履歴も、吹雪の日のニュースも、全部。心臓の奥が小さく鳴って、同時に手のひらから体温が逃げていった。

 

 成功した。

 ――そう言っていいのかもしれない。

 けれど、胸の中では全く別の声がしていた。

 

 戻したということは、誰かの時間を奪ったということだ。

 わたしだけが一度分の記憶を持ち越し、残りの全員が知らないまま、世界をやり直している。あるべきもの変えてしまった時、図書室の一瞬が脳裏をかすめる。

 

 掛け布団を押しのけ、ベッドの端に腰を下ろした。

 指先に力が入らない。爪の下が白くなっていく。

 時間を巻き戻すことで、何か取り返しのつかないことをしている感覚があった。真夜の両親のあの瞬間も、クラスの空気も、全部やり直せるはずなのに、背筋を、石を乗せられたような重さが這い上がる。

 

 それに、記憶は消えてくれない。

 誰もあの出来事を覚えていなくても、わたしの中だけには“あった”こととして残っている。

 二度も死なせた。

 二度も泣かせた。

 指を握るたびに、その現実が皮膚の裏からにじむ。

 

 机の上に置いた銀の懐中時計を見つめた。枕元の光を受けて、文字盤の縁が冷たく光っている。

 母の手から渡されたときの重みを、今も正しく受け取れていない気がする。

 「大切なときだけ、誰も巻き込むな」と言われたあの声が、骨の奥でうずいた。

 巻き込んでいる。もう充分に。

 世界ごと、何度も。

 

 リビングのほうから水道の音がした。早番に出る父が起きたのだろう。毎朝ほとんど顔を合わせない。時計を見れば、時刻は五時をまわっていた。

 まだ外は薄暗く、カーテンの隙間からの光は灰色に濁っている。

 今は何をすべきか、考えても答えは出ない。次こそ上手くやらなければ。そう言い聞かせても、頭の中で「上手く」がどんな形だったのか思い浮かばなかった。

 

 布団の上でマフラーの端を探し、指に巻きつける。

 毛糸の感触が冷たさを吸って、動悸が少しだけ落ち着く。

 心のどこかで、もう後ろに道はないことを知っていた。

 時間を戻したという事実は、選択肢ではなく、ただ一方通行の道を生み出しただけだ。

 

 窓の外、雪の層が弱い朝光を返している。

 あの下に、昨日までの“別の世界”が埋まっている気がして、目を逸らした。

 それは、だけが覚えているもうひとつの世界で、そこを歩いていた人たちの笑いや涙のすべてが、雪解けで濁った水みたいに薄れていく。

 

 スマホの画面をもう一度点けて、無意識に真夜の名前を探した。

 もちろん、何もない。消せないはずのメッセージさえも消えている。

 キーボードを叩こうとして、画面に触れる直前。その指先が震えて止まった。

 送る資格なんて、もう残っていない。

 

 時計の針が一段進む音がした。

 胸の奥で何かが沈む。

 もう一度立ち上がらなければならないと分かっている。

 でも、それは“頑張らなきゃ”という前向きな動きではなく、ただ逃げ場がなくなって前に押し出される力に近かった。

 

 瞼の裏に、真夜が振り返る光景が浮かぶ。雪の白さ、凍えた息。

 わたしの言葉が彼女を傷つける直前、ほんの一瞬見えた顔の揺らぎ。

 思い出すたび呼吸が止まる。それでも次は、どうにかしなくてはならない。

 

 ベッドの脇に置かれた制服に手を伸ばす。布地の冷たさに、皮膚の感覚がいっそう鋭くなる。

 この日を何度経験すれば、世界は「正しい朝」になるのだろう。

 ぼやけた視界をこすり、顔を上げる。ほとんど音を立てずにカーテンを開けると、東の空がわずかに青灰色を帯びていた。

 

 冷気が頬に触れる。

 世界はまた、やり直しを始めている。

 でも、わたしはもう、昨日の自分には戻れない。

 

 

 

 

 

 

 

 廊下に出ると、暖房の低い唸りと、湯を注ぐ音が聞こえた。

 リビングの灯りはまだ半分しか点いていない。薄暗い光の中、父が背を向けて立っている。出勤前のスーツ姿のまま、湯呑みを二つ、並べていた。

 その手の動きに迷いが少しだけ混ざっているのを、わたしは不思議な気持ちで見ていた。

 

「……早いな」

 

 振り向いたお父さんの声は、夜を少しだけ引きずっているようだった。

 

「うん。眠れなくて」

 

 答えると、父は黙って片方の湯呑みを勧めてきた。湯気の白が境界をつくる。

 わたしは寒さをごまかすように両手を添えて、湯気の向こうの顔を見た。

 

 沈黙が続く。

 父は一口すすり、目を細め、それから何かを測るように視線を向けてきた。

 その目に射抜かれるような感覚があった。

 昔は、わたしとお父さんの間にこんな沈黙はなかった。ただの早朝の会話だったのに、空気の置き場が違って感じられる。

 

 ――気づかれている。

 

 喉が鳴るのを自覚した。

 時計は掌の中にあった。真夜の家族を守るために使ってから、ひとときも手放せなくなった。

 父の視線が、それに一瞬触れる。言葉にはならないが、理解されたのが分かった。

 

「……ちょっと、見せてくれるか」

 

 短くそう言って、父はテーブルの向こうに座った。

 そんなことを言われたのは、初めてだった。わたしはためらったが、断る意味が見当たらなかった。

 掌を開き、懐中時計をテーブルの木目の上に置く。

 父はそれを見つめるだけで、手には取らなかった。距離を測るように、視線を微かに揺らす。

 

 この時計だけが持つ特別な力のことは、お父さんも知っている。

 お母さんの死後、二人の間でその話題は一度も出なかったけれど、父はずっと避けていた。亡くなる前、何かがあったのだということだけ、わたしは気配で感じ取っていた。

 だからこそ、いま目の前でその話が始まるような気配がして、膝の上の手が震えた。

 

「……母さんのことを、話しておこうと思う」

 

 思わず息が止まる。もしかして、とは思っていたけれど。お父さんが自分から名前を出すのは初めてだったから。

 

「俺も、時間を戻したことがある」

 

 その一言だけで心臓が跳ねた。

 

「病気が進んで、もう何もできなくなったときだった。どうしても受け入れられなかった。……気がついたら、時間を戻していた」

 

 言葉の途切れ間に混じる息が、湯気の上に落ちて消える。

 

「最初はよかった。死んだ命が戻ってきたのだから。これさえあれば他に何もいらないと、本気で思った。けどな……」

 

 お父さんは言葉を選ぶようにして、細く吐息を落とした。

 

「戻すたびに、お前の母さんは弱っていった……戻した時間なのに、病状が悪化した。説明のつかない恐怖を積もらせるように、どんどん体が持たなくなっていった」

 「……そんな」

 

 声が漏れた。息が浅くなる。

 

「俺には見えていた。何かがおかしくなってるって。でも、やめられなかった。もう一度でも会いたかった。……結局、苦しめただけだった」

 

 湯呑みの表面に落ちた光が揺れ、二人の間に小さな波を描く。

 お父さんは掌を握りしめ、そして静かに開いた。まばらに震える指の隙間を、冷たい光が縫っていく。

 

「時間を戻しても、何も戻らない。……そういうものだ」

 

 淡々とした声だった。

 それだけで、わたしの胸の奥に鉄の塊みたいな重さが沈んだ。

 目の前が霞んで、息を吸うたびに痛みだけが濃くなる。

 お父さんがこんなにも静かに、あのことを語る日が来るとは思わなかった。

 

「お前、いま……その顔は、母さんに似てる」

 

 視線で言葉を受け取った瞬間、胸の奥の何かが崩れる。

 認められてしまった気がした。わたしが同じ過ちを始めてしまったことを。

 

「……なあ、小雪」

 

 名前を呼ぶ声の調子が遠く感じた。

 

「やり直せないことは、ある。……逃げていい。やめてもいい。そうしてくれたほうが、母さんも喜ぶと思う」

 

 言い終えると、お父さんは湯呑みを戻して立ち上がった。

 わたしは何も言えなかった。

 視線を合わせないまま、コートを手に取る。

 出勤の時刻が来たのだろう。玄関のドアを開ける音がして、冷気が足もとを撫でた。

 その背中を見送ることしかできない。言葉を探しても、舌が動かない。

 

 扉が閉じる音のあと、家の中は静まり返った。

 湯気だけが空中に漂い、ゆっくりと形を失っていく。

 リビングに置いてある家族写真も、あの日から伏せられたまま、そこにある。

 

 お父さんの最後の「逃げてもいい」が、耳の奥で何度も反響する。

 体が動かせなかった。

 その言葉がやさしさなのか絶望なのか、まだ判別がつかないまま、わたしは時計の上に手を重ねた。

 

 冷たいガラス越しに、自分の指先が歪んで映る。

 逃げてもいい。……そんなこと、できるわけがない。

 その一言が、堪えていた涙を溢れさせた。

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