小雪の降る夜、わたしは嘘をついた   作:クロ

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第8話 落とした時間、差し出された手

 二日が過ぎても、真夜は学校に来なかった。

 

 廊下を歩けば、小さな沈黙ができる。

 同じ列の子たちは自然に一歩分、間を空けて進む。

 誰も何も言わない。言葉ではなく、視線の角度で距離をとる。

 「夜風さん」と呼ばれていた声も、いつのまにか消えた。

 当然だ、と自分に言った。

 

 

 あの日以来、時間を戻そうと思ったことは何度もあった。

 けれど指はボタンに触れられなかった。

 もう、怖かった。

 手順も、言葉も、やり方も——全部、自分が間違えた。

 挨拶を返してくれた人が目を逸らし、冗談を言っていた声が遠のいていく。

 「ごめんなさい」を何度言おうと思っても、届く先がもうない。

 

 真夜の両親も、真夜自身も。

 戻しても救えず、手を離せば失われる。結末は同じだ。

 放課後の廊下は薄暗く、掲示板のプリントの端が風に揺れている。

 そこを通るたび、胸が少しずつ焼けたように痛む。

 息を吸うたびに、「また今日も何もできなかった」という言葉が喉の奥に沈んでいく。

 

 校門を出ると、雪がまだ残る坂の上に白い光だけが浮かんでいた。

 ずっと寒いわけでもないのに、指先が痛いほど冷え切っている。

 ポケットの中で時計を握った。

 金属の冷たさが、心の冷たさと同じ温度で馴染んだ。

 

 どうすればよかったのか、お母さんならわかるのだろうか。

 お母さんはこの力を使って、何を見たのだろう。「ほんとうに大切な時だけ」と言われても、いまのわたしは、その時が分からない。

 

 わたしには何もできない。

 そう思っても、頭のどこかでは「もし今押せば、また何かできるかもしれない」と声が囁く。

 

 ポケットから指を抜いた拍子に、手袋が鎖に引っかかった。

 からん、と乾いた音。銀の円が抜ける。わずかに開いたポケットから鎖が鳴って、氷の斜面を跳ねながら転がりはじめた。

 

 あ、と声が出る——。

 時間が止まるとは、こういう感じかもしれない。

 雪面で弾むごとに薄い音が跳ね、胸の奥を削る。

 手からこぼれた瞬間、心臓ごと持っていかれたようだった。

 

 追いかけようとするのに、体が動かない。

 指先に触れた冷たさの残りだけが強烈で、何も考えられなかった。

 胸の奥で何かが潰れた。

 母の声、真夜の顔、すべてが遠ざかっていく映像のように瞬く。

 自分が時間そのものを失いかけている、そんな感覚が足の裏から伝わってきて、喉がひゅっと鳴った。

 

 破片のように光る銀色が、坂の途中で跳ねて止まった。

 そして、誰かの足がすっと割り込んだ。

 

 黒いスニーカー。

 指先が雪を軽くのけて、滑っていた時計に触れる。そのまましゃがみ込み、手袋のない手で拾い上げた。

 

 雪の反射を背負っている、頬の血の気が薄い少年が、こちらを見た。

 見覚えのない顔。けれど制服の袖のラインは同じ、同じ中学の生徒だ。

 髪に光が差して、その目だけが驚くほど静かだった。

 

 視線が合った瞬間、心臓が一度強く脈打つ。

 息を吸う音が、小さな悲鳴のように聞こえた。

 

 少年は何も言わず、右手を差し出した。

 肌色の手のひらの上で、銀の時計が雪の粒を受けて光っている。

 

「……落とした」

 

 低い声。穏やかだが、不思議と耳に残る。

 

「あ……ありがとう」

 

 ようやく声になった。喉が乾いて言葉が掠れる。

 受け取ろうと手を伸ばしたとき、一瞬だけ金属が宙を泳ぎ、彼の指からわたしの指へと冷気が渡った。

 

 時計は思ったよりも冷たくなっていた。

 けれどその重みが戻ってきた瞬間、世界が少しだけ輪郭を取り戻した気がした。

 胸の奥に埋め込まれた心臓が、やっと動き始める。

 

 少年は何も聞かずに立ち上がり、手についた雪を払う。

 

「気をつけろよ」

 

 少し間を置いて、それだけを言った。

 わたしは小さく頷き、時計をポケットに戻す。鎖が布の中で音を立てた。もう二度と離さないようにと、自然に指先へ力が入る。

 坂の下へと去っていく彼に、何かを言おうと口を開きかけたが、声は出なかった。

 

 名前も知らないが、たぶん同学年。

 その背中が見えなくなるまで、足が動かなかった。

 氷の反射が目に残り、心の奥に空洞ができていたはずなのに、不思議と少しだけ温かかい。

 誰も自分に話しかけない中で、初めて言葉をかけられた。胸の中がほんのわずかに軽くなった。

 

 

 

 

 

 翌朝、坂の中ほどで止まった。

 昨日、時計を拾ってくれた少年がやはりそこにいたからだ。制服の襟を立て、信号からやけに離れた木陰で、雪の反射に目を細めていた。

 そういえば、前からこの辺にひとりで立っている姿を時々見かけていた気がする。

 真夜と話して通っていた頃は、ただの風景の一部にすぎなかったのに、今日は輪郭がはっきり見える。

 

「……あの」

 自分でも驚くほど小さな声だった。

 彼はこちらを見た。

 

「昨日は……ありがとうございました」

 

 少し間を置いて、「……うん」とだけ返ってくる。

 それきり会話は途切れたが、信号が青に変わったとき、自然と二人同じ歩調で坂を登った。距離は離れていて、わたしが彼の後を追う。朝の空気は刺すように冷たい。けれど、不思議といつもの通学路より静かで、誰も何も言わないことが心地よかった。

 

 学校に着くと、壁のような空気が待っていた。

 教室に足を踏み入れても、誰とも目が合わない。偶然視線が交わっても、相手は慌ててノートにペンを走らせるふりをする。声が掛からないことよりも、人の気配そのものが自分の周りを迂回していくのがつらかった。

 

 授業中、黒板の文字を写しても、目の奥に吸い込まれて形にならない。

 わたしは何度も時間を戻した。

 でも、本当にしたかったことが何か、もう思い出せない。

 救うはずだった友だちは、三度も同じ苦しみを味わうことになった。

 昼休みの光が白く床を照らし、机の上のノートの影が淡く伸びる。その静けさの中で、ふと、「まだ真夜がいてくれたら」と思った。教室に席はあるのに、声をかける相手がいないという現実が、何よりも重たかった。

 

 チャイムが鳴り、椅子をしまう音が重なる。

 友人たちが数人の固まりになって下校していく。その輪を横目に、わたしはただ扉を出た。

 外に出ると街灯がひとつずつ灯り始め、風が雪を細かく舞い上げていた。前を歩く足跡が少なく、薄暗い道には踏み固められた雪の光沢が残っている。

 坂の途中から見下ろす市街は、白い粒に霞んでいた。

 世界の端まで灰色で、音がすべて遮られていた。

 

 掌の中の時計が、制服越しにもわずかに重い。

 時間を戻しても、もう信じられるものはない。

 わたしは友達を傷つけた。戻せばまた同じ痛みを彼女に味わわせる。それをわかっていながら、他に償いの方法が思いつかない。

 誰も怒ってくれない。ただ自分だけが、自分を責め続けている。

 

 曲がり角の先の並木の間に、街灯の白が滲んだ。

 雪はさらに細かく、空気そのものが白っぽく揺れている。

 風が抜けるたびに何かが剥がれ落ちるような気がした。失った信頼とか、言葉とか。拾い上げるより早く風が持っていく。

 足元の雪に小さな音を立てて進むうちに、呼吸が痛くなっていた。

 家へ向かっているはずが、足がどこに運ばれているのか分からない。

 景色の白が濃くなり、世界全体がすりガラス越しみたいにかすんでいく。

 

 真夜のいない時間が、心を壊していく。

 取り返しのつかないことをしたと感じるたびに、何かが擦り減っていく。

 気温がさらに下がり、頬をかすめる風に涙の跡が凍った。

 耐えようとしても、もう力が入らなかった。

 電柱の明かりの下で膝が折れ、鞄が手から滑る。肩からずり落ちたストラップが雪に沈んで、音も消えた。

 

 周囲から視線を感じたが、顔を上げられない。マフラーに顔を埋めて息を整えるが、うまく吸えない。胸がぎゅっと縮んで、吐く息が小さく鳴った。

 

 「真夜……」

 

 声を出した瞬間、喉が焼けたように痛んだ。

 涙がこぼれて雪に吸われ、白の中に染みを作る。

 世界が静かだと思ったのは嘘だった。頭の奥ではずっと、何かが軋んでいる。戻せない現実と、戻した罰の音が。

 もう立てなかった。雪の匂いだけが近い。人目を気にする余裕は残っていない。

 息をすることにも力が要ると思ったのは、たぶん初めてだった。

 

 

 誰かの足音がした。

 雪を踏む乾いた音が、遠くから近づいてくる。

 

 「……君は」

 

 聞き覚えのない声に、顔を上げる。

 

 夜の光に滲んで、昨日の少年の影があった。

 コートの肩に雪をのせたまま、立ったまま動かない。

 わたしを見下ろすでもなく、確かめるように、視線だけがゆらいでいた。

 

 「……どうしたんだ」

 

 返事までは出なかった。

 代わりに隙間風だけが吹き抜ける。

 少年はためらいを一つだけ挟んでから、わたしに手を差し伸べた。

 

 その手は、冷たくも温かくもなかった。

 ただ、目の前に差し出された“現実”だった。

 立たなきゃ、と思うのに、体が持ち上がらない。

 彼は少し身を屈めて、力を使わずに腕を支えるようにしてくれた。

 向けられる視線が優しいとか、慰めだとか、そんな意味を感じている余裕はない。ただ“この場から動かなきゃ”という理性だけが、かろうじて体を動かした。

 

 足元の雪がざらりと音を立てた。

 力の抜けた足を支えられながら、わたしはゆっくりと歩き出す。

 学校へと続く道を避け、脇道の低い塀と造成中の宅地の方へ。

 誰も通らない、人気のない方角だった。

 

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