バージョン3.2を終了したときに書いた作品です。
キャストリスと穹が一緒に寝るだけのお話。

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 ――西風が吹いている。

 

 オクヘイマに夜は無い。ケファレの背負う黎明が尽きることのない光を注ぎ、この地を暗黒の潮のもたらす闇から守っている。

 

 けれどそれは夜という時間がないだけのことだ。人間が睡眠を必要とする生物である以上、たとえ明るくても眠りの夜は無くならない。

 

 そう、それがその身に死を宿したエイジリアの女神――キャストリスであっても。

 

「くぁ……」

 

 小さく、欠伸を一つ。永い時を生きてきた身体でも体内時計はいやに正確で、もうそろそろ眠りの時間であることを告げていた。

 

「……眠らなければ、いけないのですね……」

 

 不便なことだと思う。触れれば全ての命を奪ってしまうだなんて大層な力があるくせに、一日の半分は夢に身を委ねなければいけないところは変わりないのだから。

 

 どうせならばいっそ睡眠を取る必要のない体であればと何度思ったことだろうか。そうであれば、自分は人間ですら無いのだと、この呪いと折り合いを付けることもできたろうに。

 

「夜は……寂しいですね」

 

 何度も夜を共にしてきたベットには、大小様々なぬいぐるみが置かれている。それらは全て、夜の物寂しさを紛らわせるためにキャストリスが自ら作ったものだった。

 

 ぬいぐるみに命はない。だから触れても奪わずに済む。命の温もりはそこにないけれど、詰めた綿は柔らかく、キャストリスの体温を中に閉じ込めて自分と同じ温かさを感じさせてくれる。

 

 本当の意味では満たされることのない代替行為に過ぎないとわかっている。それでもそのもふもふとした手触りに、どれほど心を慰められてきたことか。

 

 今夜もまたそうして眠るつもりでいた。キメラを模したぬいぐるみを胸元に掻き抱いて、そっと頭を乗せる。横たわったベッドは相変わらず弔花の香りがした。

 

 ぬいぐるみ。そう、一番新しく作ったぬいぐるみは……。

 

「トリアン様……」

 

 ヤヌサポリスの遺品、トリアンがトリビーと喧嘩するほどに欲しがっていたあの赤い宝石のような工芸品を飾ったぬいぐるみ。彼女のために作ったそれは、ついぞ彼女に渡せないままだった。

 

 時間さえあれば。トリアンが西風の果てに行くのに、あと少しの猶予さえ与えられていれば。

 

 そう悔やんでも結果は変わらない。ただ黎明に照らされたあの花園の中で、彼女のうつしみが静かにオクヘイマを見守っているだけだ。

 

「わたくしは、あとどれほど……」

 

 どれほど見送れば。新たな命の誕生を、それが育まれて、そして枯れゆく様を。使命を背負った英雄たちが、まず結末を見れぬと知りながらなお果てしない旅のために命を捧げ、斃れていくのを。

 

 ……そして一人、取り残されるのを。

 

 心の中に冷たい西風が吹く。あのとき自分の手を取ってくれた老婆は、あんなにも温かかったのに。いずれ皆の向かう西風の果てが、あの陽だまりのような優しさに包まれた地であって欲しいと願うのに。

 

 時折そこは雪花の降り積もる、墓石の立ち並ぶあの墓所ではないかと思えてしまうのだ。

 

 初めて抱擁の喜びを知った場所。初めて自らの手の温かさを教えてくれた場所。

 

 自分が最期を看取った、今はもう暗黒の潮に閉ざされてしまった場所。

 

「……いえ、そんなはずはありません」

 

 誰よりも死を知る自分がそんなことを考えては、いずれ来る死を受け入れながら火追いの旅を続ける仲間に失礼だ。それになにより、自分は死そのもの。自分がそうあって欲しいと願わなくては、死はただ凍えた死神の手のままになってしまう。

 

 救いを、そして新生を。自分の手は命を生み出せないけれど、せめて次の生命の生きる世界を抱きしめるために、この命を使い果たすと決めたのだから。

 

 初めは冷たかったシーツも、キャストリスの体温に馴染んで次第に温かくなってきた。瞼を閉じた先に思い浮かぶのは、それでも消えてしまった彼女のこと。

 

「初めから、わかっていたことです」

 

 火追いの旅は失い続けること。そう覚悟はとうに決めたはずなのに、いざ別れを迎えてみれば、冷静の一つも保てないでいる。

 

 ああ、そうだ。長い年月の中で摩耗してしまっていたけれど……親しい人との別れとはこういうものなのだった。

 

 その人の声が、笑顔が、涙が、香りが。何気なかったはずの一つ一つが思い起こされては、別れを告げていく。けれどその中には、彼女の体温や肌触りがない。

 

 彼女の肌はどれほど柔らかかったのだろうか。彼女の手の温もりは、自分と触れたなら、どんな風に包み込んだのか。それを自分は知らない。もう二度と、知ることはない。

 

 いずれ失うことは知っていた。けれど失う痛みは、あまりにも久しぶりで。

 

「わかってはいても……こんなに、痛いのですね」

 

 涙は零さない。また明日――いつか西風の果てで、再会できると信じているから。

 

「こんなにも痛いけれど、それでも旅は進み始めた」

 

 ながらく停滞を迎えていた火種の回収も、あの天上からの旅人がやってきたことで新たな展開を迎えた。ニカドリーは討たれ、その火種をモーディスが継いだ。フレイムスティーラーによってサーシスとオロニクスは死を迎えたけれど、火種はまだ燃えている。

 

 そう、全てはあの開拓者――(そら)が来てからだ。直接的にではなくとも、キャストリスにとってそれらは彼がもたらしてくれたものに感じられる。

 

 たった一瞬のこととはいえ、人の温かさを久しぶりに教えてくれた彼。

 

「……彼は、私に触れても呪いに蝕まれることはなかった」

 

 これまでに出会ったことのない人だ。モーディスも死ぬわけではないが、あれは死を拒んでいるだけだ。もしキャストリスが触れれば彼は何度も死に続け、そしてこの世界に送り返され続けるのだろう。

 

 彼は痛痒一つない平気な顔で「なんだ?」とでも言って見せるのだろうけど。それでも彼は死を迎えている。

 

「もう一度、確かめることは……許されるのでしょうか」

 

 今夜はこのまま寝られる気がしなかった。いつの間にか身体はベッドから抜け出して、彼に与えられているプライベートルトロへと向かっていた。

 

 扉の前に着くと、心臓が小さく跳ねた。これから為そうとしていることの重さが、身体にのしかかる。もしかすると悪い方向に向かってしまうのではないかと。

 

 それでも湧き上がる思いを抑えきれず、控えめながらも戸を叩いた。

 

「はーい?」

 

「わたくしです、キャストリスです。……その、少しよろしいでしょうか」

 

「どうぞー」

 

 開けられた扉の先では、寝台に寝そべる穹の姿があった。傍らのテーブルにジュースを置き、サングラスをかけて天井を見上げている。

 

「ああ、これ? バカンスっていう、天外に伝わる由緒正しいリラックス方法だよ」

 

「そうなのですね」

 

 彼の言葉の真偽は気にならなかった。彼はいつもよくわからないことを言うものだし、この状況でも相変わらずなその姿に、少しだけ救われた気がしたのだ。

 

「それで? こんな時間にどうしたの? まだ外は明るいけど」

 

「オクヘイマはいつも明るいですから……その、少しあなたと……」

 

「俺と?」

 

「……話し、たくて」

 

「いいぞ。何を話そうか」

 

 穹がキャストリスを見る。その表情は黒いレンズに覆われてわかりにくいけれど、恐れや嫌悪はないようだった。

 

「その、以前から思っていたのですが……恐ろしくはないのですか?」

 

「恐ろしい? 何が?」

 

「……死と、そしてわたくしが」

 

「え、全然」

 

 あっけらかんと穹は口にした。それがあまりにもあっさりとしたものだったから、尋ねたキャストリスが何と返したものかわからなくなる。

 

「それは、何故……」

 

「何故、と言われても」

 

 目の前の首が傾ぐ。ずり落ちたサングラスから、彼の目が見えた。

 

「可愛い女の子を、どうやって怖がれというんだ?」

 

「かわ……」

 

「俺にとってのキャスはとっても可愛い女の子だよ。抱きしめてしまいたいくらいに」

 

 今度は別の角度からの一撃。怖くないとも、可愛いと言われたのも一体いつ以来だろうか。もしかしたら初めてのことかもしれない。

 

 そんなことに気を取られていたものだから、立ち上がった穹が自然と身を寄せてきているのにも気付かなかった。

 

「あ、いけません……!」

 

「はーぐっ、と」

 

「あっ……」

 

 言葉とは裏腹に、そっと背中に回された両腕。キャストリスの華奢な肩を包む彼の身体は、筋肉質で力強い。

 

 そして何より、温かかった。自分が今抱きしめられているのだと、キャストリスが遅れて理解するのに合わせるように、穹の体温が伝わってくる。

 

「あ、ああ……」

 

 もう数えるのも億劫になった年月の果て、久方ぶりに知る他者の温もり。あの人は幽冥の花びらになって消えてしまった。けれどこの人は。

 

 一秒、二秒……。されるがままで時を数えても、彼の息遣いは途切れない。身体の一部が、死の気配に侵されていく様子もない。

 

「キャストリス、ずっとこうしたかったんだ」

 

「やはりあなたは、わたくしが触れても死なないのですね……」

 

「もちろん。銀河打者は死にすら打ち勝つ!」

 

 とくとくと伝わってくる鼓動の音。自分のものよりゆっくりと脈を打つそれに意識を傾ければ、不安で早打っていた心臓がゆっくりと落ち着いていく。まるで彼と同調するように、異なるリズムを刻んでいたメトロノームが、同じ時間を、同じ歩調で刻み始めるように。

 

 死の呪いを得た少女キャストリス。彼女は今、初めて普通の女の子として生命と抱擁することができたのだ。それは穹に与えられた数奇な運命と、キャストリスを苛んできた呪いとが絡み合った結果生まれた、彼女への祝福だった。

 

「とても、とても温かいです……」

 

「ピュエロスで丹恒と我慢比べしてきたからね。今日の俺はいつもの三倍は熱いぞ。うっかり火傷しないようにな」

 

「ふふ、わたくしが誰かに触れて火傷するなんて、そんな心配したこともありませんでした」

 

 この指で、手のひらで触れる。その行為はすなわち命を奪うということだったから。そこにあったのは狂ってしまいたくなるほどの罪悪感と、後悔ばかり。

 

 それが自分の火傷で済むのであれば……いくらでもしたって構わない。

 

「……ずっと、寂しかったんじゃないか?」

 

『今までずっと、寂しかったろうねえ』

 

「……あっ……!」

 

 穹の言葉が、キャストリスの心の奥に埋もれていたとびきり優しい記憶を呼び起こす。皆を見送った後、墓場で出会ったあの老婆は彼と同じ言葉を言って、優しく笑っていた。

 

 弾かれるように顔を上げれば、少し見上げる位置にある彼の顔も、また優しかった。心から漏れ出す光を目に湛えて、そっとキャストリスへと注ぐように微笑んでいる。同情とも、憐れみとも違う。かといって忌避や嫌悪でもない。この光をキャストリスは見たことがある。

 

 アミュネッタ。居場所のないキャストリスを拾い、育てたあの人も……キャストリスの手に触れた時、こんな風に自分を見ていたのではなかったか。

 

「……さ、さみしくなんて、ありま、せんでした……」

 

 ようやく気づいた。この光が、愛なのだと。命を奪うことしか知らなかった自分でも、ちゃんと愛されていたのだ。

 

 ただ命を救うことを知らず、死ばかりを見つめて曇った瞳では、その光を見つけられなかっただけで。

 

 どうしようもない感情が胸の内に溢れて、涙となってせぐりあげる。感情の表し方などもうとっくに忘れてしまっていて、不器用な子どもみたいで情けなく思えた。

 

 駄々をこねるような乱暴さで彼の背中を抱きしめても、全く揺らがない。むしろそれ以上の力で抱きしめられて、胸が苦しい。

 

「キャス。辛い時、寂しい時は泣いていいんだ。それは生まれたばかりの赤ん坊でも、千年の時を生きた仙人でも変わらないことだ。今までキャスが知らなかった分、ちゃんと俺が抱きしめてあげるから」

 

「そんなことを、言われたら……わた、わたくしは、あなたにずっと、甘えてしまいます……!」

 

「いいよ。むしろもっと甘えてくれ。キャスはもう俺の仲間なんだ。その仲間が困ってて、俺が助けられるなら……手を差し伸べない理由はないんだから」

 

「きっと、みっともないところを……お見せしてしまいます……っ」

 

「存分に。どんなキャスでも、キャスで、とても可愛い」

 

「……では、お言葉に、甘えます……。うう……うああっ……!」

 

 キャストリスはもう涙をこらえることはしなかった。

 

 初めに愛と触れた時、その死は自分の中に種を蒔いた。氷に閉ざされた大地に埋もれながら、来るかもわからぬその時をただ信じて待っていた。

 二度目に愛と触れた時、その死が凍えた心を温め、積もっていた雪花を溶かした。厚く垂れ込めた雲から一筋差し込んだ光は、ほんの一瞬のものだったけれど、確かに忘れることのできない温もりを、生命を教えてくれた。

 そして三度目。遠く空の果てから運命のように降ってきた星の光は、雲を吹き払ってこの手に注ぎ、消えることはなかった。死は遠く、春が訪れて種が芽吹き、一輪のアンティリンが咲いた。そうして初めて、キャストリスは愛を知った。

 

 種が土の中で待った永い時。それを弔うようにキャストリスは大きな声で嗚咽を漏らしながら、穹の胸に頭を預けて長いこと泣いていた。

 

「俺は幸せ者だな。理由はわからんがキャスに触れられるおかげで、キャスの身体がこんなに温かいことを知ったんだから」

 

『あなたの手は、こんなにも温かいのに……』

 

「……っ! あなたは、ずるいっ……! とても、ずるいですっ……! どうしてそんなに……!」

 

 優しい言葉ばかり。

 

「もしかしたら、仮初のことかもしれないのに……! これが何かの錯覚で、いつか急に死んでしまうかもしれないのに……! わたくしは、死なのに……どうしてっ!」

 

「簡単なことさ」

 

 死は生命の終わりだ。簡単でなどあるはずがないのに、穹はなんでもないように言ってキャストリスの頭を手のひらで包み込む。

 

「死は決して恐ろしいものなんかじゃない。それを俺はいろんな人たちに教わったんだ」

 

 産まれた時からその死を定められていた少女と出会った。戦いのために作られ、存在意義すら失った少女は、それでも蛍のように命を燃やし、生き抜くと決めた。

 

 誰にも看取られぬまま孤独にこの世を去った、開拓の先駆者と出会った。彼は確かに死んだけれど、その開拓の遺志は消えることなく自分たちが受け継いだ。

 

 自らの命よりも娘を想った母と出会った。代償を払ってでももう一度死者に会おうとした、遺された人々とも出会った。

 

 開拓の旅は良いことだけでは無かったけれど、そこには死ではかき消せない輝きを放つ命との出会いがあったのだ。

 

「確かにいずれ死ぬ。でもそれは俺にとって、歩みを止める理由にも、君を突き放す理由にもなりはしない」

 

「そのいずれが、今になってしまうかもしれないのに」

 

「例え今になったとしてもだ。俺は死を恐れない。必然キャスも恐れない。でもキャスが泣き続けているのを見続けるのは……とても怖い」

 

 キャストリスを抱く穹の腕に一層力が籠る。身動きすら取れなくなる力強さにあっと小さく声を漏らしても、緩むことはなかった。それがむしろキャストリスには心地よかった。今までにないほど誰かと密着して、その体温を肌に感じる。もちろん互いの胸も押し付け合うような有様だったけれど、はしたないだなんて思考は挟み込まれる余地がなかった。それくらいに感動が心を満たしていた。

 

(誰かから強く求められることが、こんなにも嬉しいことだなんて……)

 

「……なんだか、夢のようです」

 

「夢?」

 

「ええ。神様が気まぐれに見せてくれた、胡蝶の夢……わたくしという死神が一夜、普通の女の子として過ごす夢……」

 

 かつて小さかった頃にそんなことを思い描いていた。

 

 他の子供達と同じように手を繋いで踊り合えたら。死など知らず、ただ楽しく笑い合えたら。

 

 命を奪うことなく、普通の日々を送れたら。

 

 とうに諦めて忘れかけていた願いが今になって叶ったような、そんな気がした。

 

「けれどこれはきっとただの夢。わたくしの命を奪う力がなくなったわけでは、決してないのです。それだけは忘れてはなりませんから」

 

 心地いいけれど、これは夢。どれだけ続いてほしいと願ってもいつかは覚める。夢に溺れれば溺れるだけ、現実と向き合うのが恐ろしくなってしまう。

 

 だから束の間の夢もここまで。そう諦めて、キャストリスは穹から離れようとした。

 

「……あ、あの」

 

「なんだ?」

 

「そろそろ、部屋に戻ろうと思うのですが……」

 

 肩を揺らして腕を解くよう要求する。だが穹が動く気配はなく、力任せに逃れるのは何だか申し訳ない。遠慮がちに込めた力では、彼の心を映したような抱擁は崩せなかった。

 

(……これは、もしかすると離してもらえるまでこのままなのでしょうか)

 

 自分の意思ではどうしようもなく、彼の気が済むまで今の体勢のまま。そう考えるとこの状況はとんでもないように思えてきた。胸の内に灯っていた熱が、急に頬にまで伝播したようだった。

 

「あの、もう離していただけると……」

 

「いや?」

 

「いや、ではありませんが……その、は、はずかしい、です……」

 

「誰も見てないよ」

 

「それはそうなのですが、そうではなくて……」

 

「今日は丹恒も帰ってこないし、このルトロに来る人はいない」

 

「と言いますと……」

 

「二人きりだよ」

 

 二人きり。その言葉が紅潮に拍車をかける。これまで自分は()()()()()事柄とは無縁だとばかり考えていた。読んできた本の中、インクで綴られた文字が語っていた男女の付き合いなんて、自分に訪れることは一生ないのだと。

 

 明るけれど夜、部屋で男性と二人きり。それも我に帰ってみれば驚くほど肌を密着させて、まるで睦みごとのような言葉を掛けられている。こんなのは初めてだった。

 

「あ、あ、あの……! 他の方に誤解されると、あなたに迷惑を掛けてしまいますから……!」

 

「ノーマンタイ。ありよりのありけりだ」

 

「それは一体、どういう……っ!?」

 

 言葉を言い終える前に、ほとんど放り投げられるような勢いでキャストリスはベッドに横たえられていた。ぼふりと身体が跳ね、ベッドに染みついた穹の匂いが呼気に満ちる。穹はするりとキャストリスの傍に潜り込んでいて、まっすぐに覗き込んでくる目と視線がぶつかる。

 

「今日は一緒に寝よう、キャス」

 

「ね、ねね、ねると、寝るというのは……!」

 

「文字通りだぞ? てっきり一人で寝るのが寂しくて来たんだと思ったんだが」

 

「あ……」

 

 確かにその通りだった。穹を抱きしめた喜びですっかり忘れてしまっていたが、ここに来たきっかけは一人の寂しさから彼に思いを馳せてしまったから。

 

「……どうして、ばれているのでしょうか」

 

「意外とキャスは表情が豊かだからな」

 

「わたくしの、表情?」

 

「ああ。甘えたいけど言い出せない子どもみたいな表情だった」

 

「……むう」

 

 子ども扱いしないでほしいと怒るべきか、そこまで自分のことを見てくれていることに喜ぶべきか。迷子になった感情をうまく言葉に表せず、キャストリスは口をもにょもにょと動かした。それを見て穹が微笑むものだから、余計に困る。

 

「さあさ、一緒にお眠りしましょう。引きこもり姫様」

 

「……あなたまでそう呼ぶのはやめて欲しいのですが」

 

「仰せのままに」

 

 穹の両腕は細い体躯を抱き留めたまま。キャストリスは力を抜いて、そっと彼の胸元に頭を預ける。

 

 いい匂いがする。心が落ち着く、この星の大地のような匂い。葬花のように甘く寂しいものではなく、たくましい血と汗の匂い。

 

「……どうか、わたくしが眠るまでは抱きしめていてください」

 

「おうとも」

 

 優しい声にキャストリスは目を閉じた。

 

(今日は安らかに眠れるのですね)

 

 目を閉じればこれまで見送ってきた死者の顔が、嘆きが、死に際にキャストリスへ投げかけた怒りが脳裏を過る。それがとても辛くて目を覚ませば、自分はこんな時にも誰かに触れられないという孤独を知る。

 

 どれほどぬいぐるみで紛らわせようと、眠りが彼女を安らげたことはなかったのだ。

 

 それが今はこんなにも心穏やかで、眠りに落ちるのが惜しいとすら思えてしまう。

 

「おやすみなさい」

 

「おやすみ」

 

 抱擁の中で得る微睡みに、幸せそうな寝息が一つ。どこからか吹いてきた白い花びらがルトロの窓辺に落ち、二人を見守るように幽かに揺れ、そしてまた風に運ばれていった。

 

 


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