レインの意図的に刈り取られた意識は、バケツ一杯の水により強制的な目覚めを迎えた。半裸のレインは頭から水を被ったことで体を震わせた。意識が戻り周囲に目を遣るが意識を奪われる前と変わらず、壁の至る所に付着した血糊が見えるだけだった。
「では、質問の続きだ。クラント博士の所在は?」
視界を声の発生源に向ける。両目の見えない老人が一人。老いを微塵も感じさせないその立ち振舞いは幼少の頃と同じだった。レインは蒸し返したくない思い出が脳裏に甦っては塗り潰した。何度も、何度も。軽く放心状態になっているレインは言葉に反応しなかった。それを見たシャドーは部下に顎で指示を出した。部下は折檻棒を骨が折れない程度の力でレインの胴体に叩きつけた。その衝撃に吊るされた身を揺らし、失った酸素を求め胸部は収縮と拡張を繰り返す。
「レイン、私は下らないことに時間を使っている暇はない。それにお前はすぐに始末される。苦しみながら死にたくはないだろう?」
レインは酸素を十分に取り込むと闇も光も灯さず現実だけを映す瞳をシャドーに向けた。鏡のような瞳にも奥底には強い意志が健在していた。憎しみから生まれた殺意か、逃げ出すという決心か、はたまた喋らないと腹を括ったか、どれにしろ強い気迫にシャドーは一筋縄ではいかないなと感じていた。
「革命軍はお前にとって忠義を尽くすような組織か?それにクラント博士とは出会って間もない筈だ。なぜ、黙り続ける」
折檻棒が十回目の唸りを上げた。レインは文字通り、体に直接問われる。痛みが我慢の限界値を振り切ったのか、低い呻き声が漏れる。乱れた呼吸は独特のテンポで落ち着かせた。折檻棒を持つ付き添いの拷問官は発狂の前兆かと思ったがシャドーは知っている。レインが幼少の頃の拷問を耐えるために身に付けた自己暗示のような呼吸法だと言うことを。
不気味な息遣いが拷問室を反響する中、数時間に及ぶ拷問は保留という形で幕を閉じた。情報を漏らすことはなかったが、その体に残る傷の数々はどれも見るに耐えないものだった。
「中々強情な奴になったものだ。そう育てたのは私だがな」
冷たい鉄格子の中で横たわるレインを一瞥してそう言い捨てる。レインは薄っすらと残る意識で鉄格子を握り絞り出すように声を出した。
「子供達は……どうなる?」
膝で立っているレインに目線を合わせるようにシャドーはしゃがみ込み、
「お前達の時は研究だったが、今回は暗殺者の育成だ。無作為に殺されることはない。全員お前と同じ道を辿ることになるだろう」
腕の力が抜けていき、スルスルと鉄格子を滑り体が冷たい地面に落ちていく。
「鬼畜が……」
心底恨めしそうに呟いた。自分と同じ道を歩むことになる数多くの子供達を救えない無力な自分も恨んだ。拳は握ると激痛を伴い、怒りの声を上げようにも腹に力が入らない。
「化け物に勝つには化け物になるしかないのさ」
そんな惨めな姿を見下ろすように立ち上がり姿を消した。
「まだチャンスはあるかもな」
クラウは去り行くシャドーの背中を目で追い、去ったことを確認すると近寄り言葉を漏らした。鈍痛に目を細めながらも疑問を口にした。
「どういう……ことだ?」
「お前の連れなんじゃないか、お前を拐った時ぐらいから妙な気配があってな」
細めていた目をピクリと動かした。潜入と暗殺の腕ならレインを軽く凌駕してしまう人物、それに大きな心当たりがある。それもパートナーとして連れてきていた。今の今まで怒りと痛みで遥か彼方へと記憶が飛んでいたが。
「普通は……血眼になって……探すんじゃないのか?」
壁を頼りに身を起こそうと試みるが膝の力が抜けて立つどころではなかった。世の常識を言うレインをクラウは笑い飛ばして言い放った。
「俺達が普通なもんか。それに逃げたら狩り出す楽しみが増えるだけだしな」
確かにこれは普通ではないな、そう思わせる言い様にレインは擦り切れそうな声で失笑した。
「まぁ、せいぜい頑張ることだな」
手をヒラヒラと振りまた一人去っていった。これで部屋に残ったのは二人の見張り兵のみとなった。このどちらかがチェルシーなのか、目を凝らして観察するがその程度で見破れるような変装なら今まで生き残ってはいないだろう。となると、後はチェルシーに頼るしかない。縋る思いを胸に目を瞑った。
△▽△▽
収容所を後にしたクラウであったがやることは特になかった。シャドーに任されていた仕事は既に“方が付いていた”。それに作戦の立案から指揮まで全てをソラに任せっきりの為、部隊が何をしているのかを把握していないのだ。部隊を纏める位階の人物とは思えないがそれがクラウのスタイルであり、戦闘では先陣を切ってばったばったと薙ぎ倒していく様は大将より鉄砲玉の方がよく似合っている。それでも、鉄砲玉とは違い帰ってくるのがクラウの実力の現れだろう。
自分の客観的な姿などに微塵の興味もないが、クラウは地上行きの貨物エレベーターに乗り合わせた人物に興味を示した。
「何しに上へ?」
上とは即ち王の居所である宮殿へと繋がっているが、地下の殆どはシャドーのものである。そして、自分と同じくシャドーに呼ばれていたソラが乗り合わせた人物だった。いつも通り常態化したつり目には苛立ちも混ぜられていた。だが、ほんの数秒で苛立ちの念は消え手摺に腰を掛ける。
「装備を整えに戻るの」
少なくとも今日は戦闘の類いの仕事はないと記憶している。疑問を抱きながらクラウも手近の手摺に腰を掛けた。その疑問を見通したようにソラが一言告げた。
「仕事じゃないわ。使えない上司の尻拭い、かしら」
互いに目は当たり前として顔すら合わせていないが、その目はマゾでもない限りは自分の罪悪感を痛いほどに責める目だろう。
「随分辛辣な言葉を使うようになったな。使えないとは」
ソラは先程までの皮肉げな笑みの一切を消して、上司の咎められるべき罪を告白した。
「侵入者を逃がしたの貴方でしょう?」
「滅多なこと言うもんじゃない、誰かに聞かれたら斬首刑に掛けられちまう」
そうは言ったが、貨物を運ぶことが主目的のエレベーターのサイズは異常な程に広く、それを確認できる位置にいるクラウの視界には何も映らない。つまりはソラとクラウの二人。
「それは愉快な光景ね」
これまた無表情で残酷な一言を浴びせる。それにやれやれとクラウは首を動かした。逃がした者が脳裏を過っていた。特徴のない、否他人の特徴を借りる存在を。
△▽△▽
遡ること数時間前。
シャドーから言い渡された任務は侵入者を狩り出すことだ。どう考えても自分に不向きな任務であったが、少し見方を変えることにしてみた。レインにここで死なれては困る。やはり、自分の手で斬りたい。“あの日”の決着を付けたい。ならば、自分次第で侵入者を手引きする事も出来るのではないだろうか、その案にはいくつかの危険性が孕んでいる。帝国への裏切り行為ではあることは勿論のこと、侵入者が自分を信用するかどうかは分からない。
「さて、どうしたもんか」
知らぬ間に癖付いた口髭を触る仕草を目に映る人物を観察し繰り返していると、ふと、目が止まった。いつもと違う、そう感じた。確固たる証拠はないがこういった違和感を感じ取る能力こそ第六感と言われている。蓄積された経験や記憶は感じたものから差異を見つけ出す感覚器官として役に立つのだ。それを分かって観察していた訳ではなかったが、偶然とは常に突然やって来るものだ。
感じた違和感とは歩き方にあった。同じ軍で同じ訓練を受けて育った兵達には自然と統一性がある。その一つが歩き方だ。一人の兵からはズレを感じられる。間抜けな侵入者め、と嘲るには少々難易度の高いことだ。寧ろ、パッと見で見分けが付かないレベルに順応していることを称えるべきだろう。その優秀な侵入者に賭けてみることにした。
その後の追跡で自分の直感が当たっていることに気が付いた。本来は警備が居ない筈の地域まで踏み込んでいるのだ。しかし、また妙な違和感が頭を過った。今回は第六感のような不確定な要素ではない。よく考えれば当たり前の話だが──人が居ない。
ーー嵌められたか……。
少なからずしていた作業の音や小声は消えていて、微細な足音でさえ、騒がしく聞こえてしまう。そんな孤独感が増す空間の中、腰に据えてあるリベンジの柄に手を掛ける。向こうもこちらのことに気が付いたのか、冷静を装ってはいるが静かな闘志が感じられた。これも戦士特有の勘の鋭さで感じ取ったものだが一抹も不安には思わない。何せ、その勘に幾度と助けられ、戦場を駆け巡ってきた。今更信じられなくなる程安いものではない。
ーーさて……いつ来る?
△▽△▽
チェルシーは自らの存在が悟られたことを知ったのは目的達成を目前に控えた時だった。警備の増員はレインを重要視したのだろうと思ったが、警備兵の口々から漏れる言葉で自分の存在が悟られていることに気付かされた。そして、自分を
ーー反撃に出るには……。
静かに一撃で止めを刺す必要がある。細い通路は横の幅が少なく奇襲に反応しても躱すのは困難だろう。考えに考え、細い通路に差し掛かり相手も射程圏内に入った所で勝負に出た。ここで初めてチェルシーは相手にしている人物をその目に映した。その相手に愕然とした。その相手は依然、下水道でレインに重傷を負わせた男だ。自分では勝てないと防御本能がそう知らしめた奴を相手取っているのだ。だが、もう止まらない。致死性の毒を塗った針は少し前に手から離れてしまっている。最悪だ、それが第一感想と同時に頭の中では助かる未来が想像出来なかった。そして、その想像は半ば当たっていた。
ーーッ……ヤバい!
針を刀で弾かれ、そう思ったのも束の間、殺気を感じることはなかった。それは男が刀をゆっくりと納めていたからだ。
ーー……どういうこと?
「大丈夫だ、殺すつもりはない」
その男がどんな意図で発した言葉なのかは分からない。現時点で一番高い可能性は捕虜ということになるが、
「信じると思うの?」
そう紡がれた言葉が恰幅のいい男兵士から吐き出された為、クラウは一瞬どうしようもない嫌悪感に襲われたが別の可能性を感じていた。例えば、見た目をそっくりそのまま別の誰かになれるような帝具があってもおかしくはない。それが事実であれば、潜入に気付けなくとも仕方ない。自分の持つ帝具よりは強力だな、と自虐的な笑みを浮かべた。そんなクラウを不気味に思ってか、チェルシーは一歩二歩と後ずさる。
「レインの連れか?あいつが人と仲良くしてる所なんて想像もつかないが」
まるでレインが人とは違うような物言いに下腹部が熱くなった。違う、レインは立派な人間だ。人生で激昂した事など皆無に等しいチェルシーが誰かの為に声を張り上げようとした。一呼吸整え、冷静になると激昂を秘めた小声を吐き出した。
「あなたに何が──」
「じゃあ、お前は何を知ってる?」
チェルシーは言葉を詰まらせた。推測だが、目の前の男はレインと旧知の間柄なのだろう。それがどう転べば殺し合うようになるのかは分からないが問題はそこではない。自分はレインの事など何も知ってはいない。にも関わらず、何を断言しようと言うのか。そもそも名前も偽名を使っている可能性は十分にある。年も二十代後半という事だけで正確な数字は知らない。
「下手な同情は傷口を開くだけだ。それにあいつとお前じゃ住む世界が違う」
この言葉でチェルシーの心にピキッと罅が入った。クラウは一面の氷張りに石を投げ込んだようなものだ。割れなかったのはレイン本人の言葉ではなかったからだろう。
「とりあえずはレインを逃がす。まずはそこからだ」
チェルシーはぽっかり空いた穴にやらなければならないことを詰め込み、仕事モードへと切り替えた。
△▽△▽
レインは目を開けると全身に鈍痛が走った。その痛みが寝起きであやふやな記憶と意識をはっきりとさせた。レインは無理を承知で立ち上がると大きな痛みは引いていた。動くのに支障はないだろう。
ーーどうにか逃げ出さないと。
周囲は冬でもないのに冷たくなった鉄だらけで自力での逃亡は絶望的だった。他にも情報を得ようと鉄格子に近付くと鼻腔を刺激する異臭が漂っていた。反射的に鼻を摘まんだ。腐臭だ。あちらこちらから死体の腐った臭いが嗅覚をこれでもかと刺激する。
「捕虜収容所と言うよりは死体置き場だな」
相席しなかったのが不幸中の幸いと考え、少しでも前向きにしようと心掛けた。臭いを我慢しながらも外の様子を鉄格子に張り付いて部屋の把握に努めた。部屋のサイズは広いが仕切るものがなく、入り口からは部屋全体を見渡されるような構造となっている。そして、チャンスと呼べる数少ない隙は三十分に一回訪れる警備の交代位なものだ。やはり、レインが動いてどうこう出来るものではない。
大人しくしているとドアが開いた。それは警備の交代の時間であることを示している。だが、今回はレインに救いの手を差し伸べる人物が収容所に足を踏み入れていた。一緒に入った運の悪い警備の兵やレインにさえ気付かれることなく。
レインはと言うと大きな物音で意識をそちらにずらした所だった。レインの蒼然たる視界には影が一つ、それに伴い足音が一つ。もう一方の人物に何があったかは先程の物音と合わせて考えれば、ある程度の予想は付いた。そして、それが正しいなら、シルエットから浮かび上がる人物は──
「レイン……助けに来たよ」
かなり早足で書いたので誤字脱字があるかも知れません。報告を受け次第直しますのでよろしくお願いします。