亀裂の入った黒たまご
何も変哲もない雪景色が、辺りを覆う季節だった。
凍てつく空気は肺を刺し、息を吐くたび白い靄がゆらりと揺らめく。
街は静まり返り、遠くから聞こえる車のエンジン音さえ、雪に吸い込まれていくようだった。
──そんな中、俺は死んだ。
具体的な死因は分からない。
ただ、硬い鉄板に左側から殴打されたような衝撃が、まだ鮮明に思い出せる。
骨が軋み、視界が弾ける。地面と水平に飛ばされた瞬間の浮遊感。
"あ、コレやばい"
そんな感覚だけが、脳裏に焼き付いていた。
まぁ、恐らく猛スピードで走る車に跳ねられたのだろう。
それはともかく。
俺は今、とても困惑していた。
それは"死んだから"という理由では決してない。
むしろ、死という事実を理解するよりも先に、あまりにも異様な"状況"が俺を包み込んでいた。
「起きましたか、残響のネメシス...」
"誰だよソイツ...っていうか、割れかけの、黒たま──”
「...フム、もう少々眠って頂いたほうが良かったかも知れませんね」
"それが
「......中々に愉快な方が来たようですね」
それは、低く響く声だった。
不機嫌そうに腕を組んだかと思えば、今度は不気味な笑みを浮かべる──黒いスーツの大人。
いや、"人"なのか?
その疑問の輪郭はどこか歪で、照明の白さに対して影が濃すぎる。まるで、現実の密度を欠いた存在のようだった。
"...ふざけてる場合じゃなかった。お前、誰だよ"
本来、冗談を言っている場合ではなく、俺が困惑している理由は正にこいつだった。
──なぜ俺がこの、内装施工前の地下室のような場所にいるのか。
──なぜ体がとても寒く、そして微かな吐き気を感じるのか。
どれも気になることには違いない。だが、逆に言えば"気になる程度"だ。
それよりも、目の前の"黒いスーツ"が放つ異様な圧迫感のほうが、遥かに現実的な恐怖、警戒心として俺の脳を支配していた。
「お伝えした所で理解できないでしょうが...私はゲマトリアに所属する“黒服”とでも。そして、私は観察者であり、探求者であり、研究者でもあります」
ゲマトリア──その単語に、引っ掛かりを覚えた。
どこかで聞いたことがあるような、しかし思い出そうとすればするほど霧がかかる。
脳が拒絶するような、妙な既視感。
そんな考えが巡っている間にも、黒服は淡々とした口調で続けた。
「貴方は"この状況を全く理解できていない"という認識でよろしいですね?」
"うーん、まぁ...そうだな。多分死んだ筈なのは覚えているのに、気付いた時にはここで起きてたんだよ"
「なるほど...大凡の状況は読めました。推し量るに──貴方は別の世界から今の肉体に憑依したようです」
"...正気か?"
「えぇ、私は至って正常ですよ」
正常。
その言葉に、俺は呆然とした。
憑依──そんなもの、物語の中だけの存在だと思っていた。
いや、普通に考えれば信じろという方が無理だ。
俺は霊とか魂は信じないし、信じようとも思わなかったからだ。
"...お前の言う、元の肉体の主はどうなったんだ?"
意識を無理やり冷静に戻し、黒服の言う「今の肉体」という言葉に焦点を当てる。
もし本当に憑依という現象が成立するのなら──魂を受け入れる“器”があるはずだ。
俺は警戒を最大限に引き上げ、声を低くして問い詰めた。
「...死亡、と言ったら貴方には伝わるでしょう」
"は?"
こいつ、なんて言いやがった?
俺が黒服の言葉の意味を理解した頃には、俺の心の内にある何かが音を立てて崩れていた。
"死亡...した? それはどういう..."
自身の声は掠れていた。
喉の奥に何か詰まったような感覚。
心臓が早鐘を打ち、冷や汗が背中を伝う。
「文字通りです。この肉体の元の持ち主──門廻カイトは、私の実験の失敗により死亡しました」
なんだそれ。
今実験って言ったか?
もし人体実験だと仮定するならこいつ相当ヤバいだろ。
"実験って...お前、何をしたんだ"
「詳細は後ほど。今は、貴方の状況を理解していただくことが先決です」
黒服は話題から逃げるようにそう言って、懐から何かを取り出した。
小型のタブレット端末のような物体。
表面には複雑な模様が浮かび上がり、淡い光を放っている。
「これは付近にいる人物の情報を測るオーパーツです。貴方の現在の身体情報を確認して下さい」
画面に映し出されたのは──俺の、いや、"門廻カイト"と書いてある身体データ。
生前の俺とは全く違う身長、体重、血液型。
そして、頭上に浮かぶ不可思議な光の輪──"ヘイロー"と表記されている何か。
"...ヘイロー? これ何だよ"
「キヴォトスに住まう生徒の証です。この世界では、ほぼ全ての生徒がヘイローを持っています」
キヴォトス?
また聞き覚えのない単語だ。
いや、待て。どこかで──
「貴方が元いた世界とは、恐らく全く異なる場所です。ここは学園都市"キヴォトス"。数千もの学園が集まり、生徒たちが銃火器を持ち歩く、そういう世界です」
生徒が銃火器?
何を言っているんだコイツは。
そんなの、戦争じゃないか。
「戦争...という表現は正しくありませんが、まぁ似たようなものです。ただし、ヘイローを持つ生きた生徒は神秘に守られているため、滅多なことでは死にません」
じゃあなんで、門廻カイトは死んだんだよ。
そう言いかけて、俺は口を噤んだ。
黒服の表情が、ほんの一瞬だけ──本当に一瞬だけ、歪んだ気がしたからだ。
「...門廻カイトは、特殊な能力を持っていました。"呪言"と呼ばれる、命令形で相手を物理的に従わせる力です」
"呪言...?"
「えぇ。例えば"止まれ"と命じれば、対象の動きが強制的に停止します。"吹っ飛べ"と言えば、文字通り吹き飛びます」
それって、めちゃくちゃ強力な能力じゃないか。
なんでそんな力を持ってる奴が死ぬんだよ。
「...代償がある故です」
黒服の声が、少し硬くなったように感じた。
「呪言は強力ですが、使用するたびに使用者に反動が返ります。強い命令ほど、強い反動。喉への負担、最悪の場合は命令が跳ね返り、使用者自身が吹き飛ぶこともあります」
黒服は急に深い溜息をした後、続けた。
「...まぁ、彼の場合は殆ど使わなかったので詳しくは分かりませんでしたが」
"...それで、カイトは?"
「私の実験中、"恐怖"を剥がすのに失敗しました。正確には──私が、失敗してしまったと言うべきなのでしょうが」
恐怖を、剥がす?
意味が分からない。
「私は門廻カイトと契約を結んでいました。簡単に言えば、"実験で殺しはしない"という約束です。しかし、私のミスでその契約を破ってしまった。結果、カイトの肉体は死にかけ──」
"待て。死にかけたってことは、まだ生きてたのか?"
「えぇ。しかし、カイトの意識は消えかけていました。その最後の瞬間、彼は呪いを放ったのです」
呪い?
「"消えたくない"──と」
黒服の言葉が、静かに空間に響いた。
俺は──息が詰まった。
消えたくない。
その言葉の重みが、ずしりと表情に沈む。
"それで...俺が、ここに?"
「恐らくは。貴方の願ったであろう"死にたくない"という想いと、カイトの"消えたくない"という想いが共鳴したのでしょう。消えるはずだったカイトの意識は貴方に、死ぬはずだった貴方の魂はカイトの肉体に──そうして、今の貴方が成立しました」
なんだそれ。
なんだよ、それ。
俺は笑うしかなかった。
"はは...マジかよ。異世界転生ってやつか? しかも憑依とか、ちょっと捻りすぎだろ"
「...冗談を言える余裕があるのは、良いことです」
黒服は表情を変えずにそう言った。
いや、違う。
俺は笑いたくて笑ってるんじゃない。
笑うしか、ないんだ。
だって、こんな状況──受け入れろって方が無理だろ。
元の世界には、家族がいた。
仲の良い友達もいた。
普通だからこその、何も変哲もない幸せな日常が、そこにはあった。
それが一瞬で──全部なくなった。
"...元の世界には、戻れないのか?"
俺は震える声で、それだけを尋ねた。
黒服はゆっくりと首を横に振った。
「...不可能です。貴方の元の肉体は既に──」
"...もういい、喋るな"
言葉を遮った。
聞きたくなかった。
それを聞いたら、本当に終わりだと思ったから。
沈黙が、重く降りかかる。
白い照明だけが、無機質に部屋を照らし続けていた。
どれくらいそうしていたのか。
時間の感覚が曖昧になった頃、黒服が再び口を開いた。
「...申し訳ありません」
"は?"
「契約をしていたのにも関わらず、私のミスで門廻カイトは死にました。そして、貴方はこの世界に囚われることになりました」
黒服が頭を下げる。
深々と、まるで機械のように正確な角度で。
なんだよコイツ。
今更謝られても、どうにもならないだろ。
"...で? 謝って済む問題じゃないと思うんだが"
「えぇ、貴方の仰る通りです。ですので──契約を結ばせてください」
黒服が顔を上げ、俺の目をまっすぐに見た。
「貴方がこの世界で生きていくための、全面的な支援をします。身分保証、生活基盤の提供、呪言能力の制御方法の助言──必要なものは全て揃えましょう」
"...代わりに?"
「月に一度、私に経過報告をしていただきます。呪言の使用記録、学園での生活状況、その程度です。あとは──私に敵対しないこと、実験の真相と私の存在を他者に漏らさないこと。それだけです」
随分と軽い条件だな。
いや、むしろ軽すぎる。
"...なんでそこまでする? 単なる罪悪感か?"
「申し訳なさが三割、仕方なさが七割、といったところです」
なんだその配分は。
妙に正直なのか、それとも俺を舐めてるのか。
だが──選択肢は、ない。
俺には、この世界の知識がない。
金もない、住む場所もない。
門廻カイトとしての記憶もない。
ここで黒服の提案を断ったら、俺は──どうなる?
"...分かった。契約する"
「賢明な判断です」
黒服がどこからともなく、一枚の契約書を取り出した。
俺はその紙にそっと触れ、同時に貰ったペンで書き綴った。
"▓▓▓"と。
「では、まずは学園を選びましょう。キヴォトスには数多の学園がありますが、貴方の入学を通すのならば──トリニティ総合学園、ミレニアムサイエンススクール、ゲヘナ学園の三つです」
"...なんで三つなんだ?"
「書類偽装の難易度と、治安の問題です。ミレニアムは最先端の学園のため、書類偽装が非常に困難です。勿論入学すると言うのであれば手を尽くしますが、あまり過信はしないで頂きたい。そして、ゲヘナは治安が悪すぎます。スケバンなどの不良やテロリストが多数存在し、珍しい男子生徒である貴方にとってはあまりにも危険な環境でしょう」
...なら、必然的に──
"分かった、ならトリニティを選ぶ"
「そう仰ると思いましたよ。では、急ぎで手続きを進めてきます。一週間後、貴方はトリニティ総合学園の一年生として入学する手筈になるように」
一週間。
たった一週間で、俺の人生が一から百まで変わる。
"...ところで、黒服"
「はい?」
"俺は、門廻カイトって名乗れば良いのか?"
黒服は少しだけ考え込むような仕草をした後、頷いた。
「えぇ。この世界では、貴方は門廻カイトですので」
そうか。
やっぱり──俺は、死んだんだ。
元の世界の俺は、もう終わった。
そして、門廻カイトの魂も死んでしまったんだ。
これからは──"▓▓▓"として、始まるしかないんだ。
"(...ご苦労さま、門廻カイト)"
──ゆっくり、休めよ。
俺はあるかも分からない魂に、できる限りの優しさを込めてそう告げた。
途中から不定期投稿になると思いますが、どうかご了承下さい。