ヒロちゃんが日本を去ってから、すべてが変わってしまった。
ヒロちゃんという「正義の執行者」がいなくなった教室で、ユキちゃんへのいじめは残酷なほどに過熱していった。
ユキちゃんは、ずっと嫌われていた。
ユキちゃんの近くでは、しきりに不幸が起きたから。
「見たこともない虫が湧いた」
「どぶのような匂いがした」
「花が枯れてしまった」
ユキちゃんが忌み嫌われる理由は、それで十分だった。
あるときは、トイレの個室に閉じ込められた。
あるときは、教科書を破り捨てられた。
あるときは、上履きに画鋲を詰められた。
あるときは、体育倉庫で集団リンチにあった。
あるときは、縛られてさらしものにされた。
ボクは、そのたびに、大好きな友達の悪口を聞かされる。
ひそひそ、くすくす。
嘲笑と悪意にまみれた空気が、ボクの耳を塞ぐ。
ボクは周囲の悪意に耳を塞ぎたかった。
けれど、囚人のように見えない鎖で繋がれ、それすらも許されない。
みんなに合わせて、笑うしかなかった。
嫌われたくなかったから。
たった、それだけの理由。
日を追うごとに、ユキちゃんへのいじめの空気は重くなって、ボクの心臓は鉛のように重くなっていった。
(やめてよ、やめて、やめて、やめてやめてやめて)
(もうあの子をいじめないで)
どうしても、その一言が発せない。
言い返したら、次はボクがターゲットにされてしまうから。
ひとりになるのが怖かった。ただそれだけの理由。
だからボクは、関係のないフリをして「傍観者」になった。
ヒロちゃん、ごめんなさい。
ボク、約束、守れそうにないよ……。
誰よりも臆病な自分を責めて、自分を嫌って、消えてしまいたくなった。
繰り返される日常に絶望し、漆黒の闇がボクを包み込む。
そんなボクの罪悪感を知ってか知らずか、ユキちゃんは、何も言わなかった。
ただ、蔑まれ、貶められ、嘲笑される毎日を、耐えていた。
その残酷な行為は、あまりに徹底的に、長期に及んだ。
「…………っ、はぁ……っ」
強烈なストレスと罪悪感は、ボクの身体を蝕んでいった。
あの日、小学生の時に倒れた時と同じ、胸の痛みと息苦しさが、頻繁にボクを襲うようになる。
学校を休みがちになり、屋上の「秘密基地」にも行けなくなった。
ユキちゃんに、会えない。
いじめがどうなっているのか、ボクは知るのが怖かった。
知ったところで、病室のベッドの上にいるボクには、何もできない。
(ボクは、ユキちゃんからも、ヒロちゃんからも、逃げたんだ……)
そうやって自分を責める日々が続いた。
そして、運命の日が訪れた。
ヒロちゃんが、帰国する日だった。
久しぶりに少しだけ熱が下がったボクは、どうしてもヒロちゃんに謝りたくて、無理をして学校に向かった。
でも、教室の空気は異常だった。
誰も口を聞かず、お通夜みたいに静まり返っている。
そして、ユキちゃんの席にだけ、花瓶が置かれていた。
「……え?」
ボクが状況を理解できずに立ち尽くしていると、ガラリと、教室のドアが開いた。
帰国したばかりの、ヒロちゃんだった。
でも、その顔は、ボクが今まで見たこともないほど、蒼白で、絶望に染まっていた。
「……ヒロ、ちゃん……?」
「…………」
ヒロちゃんは、ボクの声が聞こえていないみたいに、ふらふらとユキちゃんの席まで歩いていく。
そして、花瓶の置かれた机を、信じられないものを見るような目で見つめ……膝から崩れ落ちた。
「……ユキ……嘘だろう……?私は……帰ってきたんだぞ……?」
ヒロちゃんの震える声が、静まり返った教室に響く。
そこで初めて、ボクは理解した。
ユキちゃんが、死んだんだ。
ボクが、逃げている間に。
「……あ……」
ボクが、小さく声を漏らした、その時だった。
ヒロちゃんが、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、明確な、燃えるような「憎悪」が宿っていた。
そして、その憎悪の矛先は……まっすぐに、ボクに向けられていた。
「…………エマ」
地を這うような、低い声。
「……君は……知っていたのか」
「え……?」
ヒロちゃんが、立ち上がり、ボクに詰め寄ってくる。
その目には、涙が溜まっていたけれど、それ以上に強い怒りの色が浮かんでいた。
「ユキの……あの有様を。君は、知っていたのかと聞いているんだ!」
あの有様。
きっと、ヒロちゃんは見てしまったんだ。
ユキちゃんの、最期を。
「……ボク、は……」
「知っていたんだろう!? 君が、あいつらと一緒に、ユキを見て笑っていたのを、私は知っている!」
ヒロちゃんの言葉が、心臓を突き刺す。
知られていた。
ボクが、「傍観者」だったこと。
みんなに合わせて、愛想笑いを浮かべていたこと。
「ちが……ボク、は……」
「何が違う! 私は君に頼んだ! ユキを頼むと、約束した!」
ヒロちゃんの手が、ボクの肩を強く掴む。
痛い。でも、ヒロちゃんの心の方が、もっと痛いんだ。
「君が……君が見捨てたから、ユキは死んだんだ! 君が、殺したも同然だ!」
(ボクが、殺した)
その言葉が、頭の中で何度も反響する。
「……私は、君を許さない。……一生、許さない」
ヒロちゃんは、ボクを突き飛ばすと、冷たく言い放った。
それは、完全な「絶縁」の宣言だった。
床に倒れ込んだボクを見下ろすヒロちゃんの目は、もう幼馴染を見る目じゃなかった。
汚いもの、許せないものを見る、「正義の執行者」の目だった。
「あ……あぁ……」
ボクの心の中で、何かが完全に壊れる音がした。
大好きだった友達が死んだ。
大好きだった幼馴染に、人殺しと呼ばれた。
ボクの居場所は、もうどこにもなかった。
その日から、ボクは学校に行けなくなった。
部屋に引きこもり、食事も喉を通らず、ただただ泣き続けた。
そして、心と連動するように、ボクの身体も急速に弱っていった。
すぐに再入院が決まり、ボクはまた、あの白い病室に戻ることになった。
ユキちゃんが死んでから、高校に上がる直前までのボクの記憶は、ほとんどが、この病室の中にある。
罪悪感と、身体の痛みと、時折フラッシュバックするユキちゃんの最期、そしてヒロちゃんの憎悪の目。
ボクは、熱にうなされながら、何度も何度も二人に謝り続けた。
(ごめんなさい、ユキちゃん……ごめんなさい、ヒロちゃん……ボクが、約束を、守れなかったから……)
そんな、夢とも現実ともつかない意識の狭間で。
ボクは、"声"を聞いた気がした。
***
『……エマ』
『あなたは、特別なんですよ。 あなたの笑顔は綺麗ですから。
私は、忌み嫌われるもの。
あなたはそんな私と友達になってくれた。私は汚いのに、臭いのに、人を病気にするのに。
無理をした笑顔。あなたの偽善が私は大好き。
あなたが倒れたあの日、気づいてしまいました。
あなたの「時間」が、もう残り少ないことに。
私という「不幸」に蝕まれて、あなたの綺麗な命が、消えようとしていることに。
私が人としての死を選んだのはあなたに、とりつきたかったから。
大好きなエマにはね。 特別な魔法をあげますね。
魔女になって、みんなを殺しましょうね。
あなたの「時間」が、二度と奪われないように。
綺麗なエマ。優しいエマ。良い子のエマ。
これは遊び。どこまで穢れてくれるかな。
……あなたは、私だけのもの』
***
「……はぁ、はぁ……っ」
暗い病室で、ボクは飛び起きた。
汗でパジャマがぐっしょりと濡れている。
心臓が、壊れそうなほど激しく脈打っていた。
とてつもなく恐ろしい「何か」が、ボクを押しつぶそうとしていた。
(……誰かが、死んだ気がする)
(……誰かに、ひどい言葉を言われた気がする)
(……ボクが、悪いことをした気がする)
思い出そうとすると、頭が割れるように痛む。
その痛みが、ボクに「思い出すな」と警告しているみたいだった。
(……やだ、思い出したくない。そんな辛いこと、知りたくない)
ボクは、耳を塞いで、頭を振った。
(……ボクはいじめられていて……辛くて……)
(だから、学校に行けなくなって、病気になっちゃったんだ……)
「傍観者」だった自分。「見殺しにした」自分。「人殺し」と呼ばれた自分。そんな自分はいなかった。
(……ユキ、ちゃん……?)
ふと、誰かの名前が頭をよぎる。
でも、その顔は靄がかかったように思い出せない。
大切な友達だった気もするし、ただのクラスメイトだった気もする。
(……まあ、いっか。思い出せないってことは、そんなに大事なことじゃなかったんだ)
ボクは、自分にそう言い聞かせて、再びベッドに横になった。
こうしてエマは、自分の心を守るために、一番大切な記憶に鍵をかけた。
魔女裁判は起きる?(今後の展開に大きな影響が生じます)
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起きる
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起きない