病弱少女ノ生命裁判   作:夜琥

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5. 極彩色の毒

「かはっ……! げほっ、ごほっ……! はぁ、……っ、はぁ……」

 

床に崩れ落ちたまま、エマは必死に酸素を求めていた。

 

心臓が内側から掴まれるような激痛は治まらない。

 

浅い呼吸を繰り返すたびに、喉がヒューヒューと鳴る。

 

(苦しい……いたい……)

 

薄れゆく意識の中、エマの目に映るのは、自分を見下ろすヒロの、あまりにも冷たい憎悪の瞳だった。

 

(ヒロちゃん……なんで……そんな目で……)

 

ヒロに睨まれても、エマは後悔していなかった。

 

ただ、その冷たい視線が、痛いほどに心を抉る。

 

「だ、大丈夫ですか!? エマさん!」

 

その絶望的な視界に、涙目の少女が飛び込んできた。

 

メルルだった。

 

「メルル……ちゃん……げほっ……!」

 

「しっかりしてください! わ、私……やります!」

 

メルルは、周囲の目も、ヒロの冷たい視線も気にせず、エマの胸元にそっと手をかざした。

 

ふわり、とさっきよりも強い、温かい緑色の光が灯る。

 

(あったかい……)

 

メルルの手のひらから、優しい温もりが流れ込んでくる。

 

氷で掴まれていたかのように痛んでいた心臓が、少しずつ、少しずつ解きほぐされていく。

 

荒れ狂っていた呼吸が、ゆっくりと落ち着きを取り戻していくのが分かった。

 

「……はぁ……はぁ……。……だい、じょうぶ……もう、平気……」

 

「よ、よかったぁ……!」

 

メルルは、エマの呼吸が安定したのを見て、心底安堵したようにその場にへたり込んだ。

 

エマは、まだ少し霞む目で、自分を助けてくれたメルルに微笑みかけようとした。

 

だが、それよりも早く、二人の間に冷たい影が落ちる。

 

ヒロだった。

 

「……茶番は済んだか」

 

ヒロは、メルルの「治癒」も、エマの「発作」も、すべてまとめて「茶番」だと切り捨てた。

 

その瞳には、先ほどよりも強い軽蔑の色が浮かんでいる。

 

(……ああ。そうか)

 

(ヒロちゃんにとっては、メルルちゃんのこの優しい魔法も、ボクに加担したように見えてるんだ……)

 

エマの心が、再び冷えていく。

 

「……っ」

 

メルルは、ヒロのあまりの威圧感と憎悪に怯え、エマの後ろに隠れるようにして震えている。

 

ラウンジに集まった他の少女たちも、この異常な光景を、遠巻きに、好奇と恐怖の目でひそひそと見ているだけだ。

 

「――みんな、聞いてくれ!」

 

その凍りついた空気を破ったのは、騎士のような少女、蓮見レイアだった。

 

彼女はラウンジの中央に立ち、全員に聞こえるように声を張り上げる。

 

「ゴクチョーの話は、にわかには信じがたい。だが、ヒロくんの行動と、エマくんの発作……そして、メルルくんの魔法。我々は、ここが『普通』ではないことだけは理解したはずだ」

 

レイアは、動揺する少女たちを見渡し、あえて落ち着いた声で続ける。

 

「私たちはどうやら、ここで共同生活を強いられることになる。それがいつまで続くのかはわからないが……今は、ゴクチョーの言った通り、大人しく従うべきだと私は思う」

 

「知り合ったばかりではあるが、私はキミたちをできる限り守りたい。だから、これ以上の危険な行動は、謹んでもらいたい」

 

レイアの言葉は、カリスマ性があり、場の空気を支配していく。

 

だが、エマは、床についた手を強く握りしめた。

 

メルルに支えられ、ふらつきながらも立ち上がる。

 

「……違うよ、レイアちゃん」

 

「……エマくん?」

 

「ヒロちゃんは……殺されかけたんだよ! ボクが止めなかったら、ヒロちゃんは、あの看守に……!」

 

エマは息苦しそうにしながらも、レイアをまっすぐに見つめた。

 

「こんな牢屋敷のルール、守る必要なんかない!」

 

「ボクは、ここから出たい……! みんなで、ここから脱出する方法を探すべきだよ!」

 

その言葉に、ヒロがお前がそれを言うのかという視線を投げかける。

 

彼女は、エマにもレイアにも与せず、壁に寄りかかり、腕を組んで冷ややかに傍観している。

 

レイアは、病み上がりの身体で必死に訴えるエマを見て、困ったように眉を寄せた。

 

「……気持ちはわかる。だが、今は穏便に済ませたい。危険な行動を助長するキミとは、行動を共にできないかな」

 

レイアの言葉は、事実上の「グループの分裂」を意味していた。

 

(そんな……)

 

エマは、また「ひとりぼっち」になるのかと、絶望に顔を歪めた。

 

「はいはーい! 私、エマさんについていきますよぉ~!」

 

その空気を読まない明るい声に、全員の視線が集中した。

 

「シェリーちゃん……?」

 

「だって、面白そうな方につくのが私の信条ですから! ルールに従うだけの退屈なグループより、脱獄を目指すエマさんたちの方が、面白そうなにおいがプンプンしてます!」

 

シェリーは、エマのそばに駆け寄ると、その顔をじっと覗き込んだ。

 

「……でも、エマさん。本当に大丈夫ですか? 顔色、真っ白ですよ? 無理は禁物です」

 

「え……あ、うん。大丈夫……」

 

「……ふんっ。わたくしも、あなた側につきますわ」

 

次に声を挙げたのは、お嬢様口調の少女、ハンナだった。

 

彼女はレイアを睨みつけながら、ツン、とそっぽを向く。

 

「わたくし、ああやって偉そうに仕切るヤツが、大っ嫌いなんですの」

 

ハンナは、エマのそばまで来ると、自分のドレスのポケットからレースのハンカチを取り出し、エマに突きつけた。

 

「……え?」

 

「汗、びっしょりですわよ」

 

「あ、ありがとう……ハンナちゃん」

 

「わ、私も……!」

 

最後に、エマの手を、小さな震える手が握った。

 

メルルだった。

 

「私も、エマさんのそばに、いたいです……! 私が、エマさんを、守りますから……!」

 

「メルルちゃん……」

 

メルルの温かい手が、エマの手を包み込む。

 

(メルルちゃんの手……あったかいな……)

 

エマは、メルルと手が触れ合っていると、さっきの発作で消耗した体力が、少しだけ「マシ」になるのを、確かに感じていた。

 

それは、メルルの【治癒】の魔法が、エマの弱った身体に作用しているのだと、エマは感じていた。

 

 

こうして、レイアが率いるグループと、エマを中心としたグループが結成された。

 

それは脱出に加え、病弱なエマを世話するための集まり、という側面が強かった。

 

ヒロは、どちらにも属せず、ただ一人、その光景を眺めている。

 

「行こう」

 

レイアが、自分に従うことを選んだ他の少女たち――ココやミリアたち――に声をかけ、ラウンジの出口へと向かい始めた。

 

その時だった。

 

レイアの後ろで、壁際の柱に隠れるようにしていたアンアンが、ピタリと足を止めた。

 

彼女は、エマが発作で苦しんでいた姿を、誰よりも真剣な目で見つめていた。

 

(……わがはいと、同じ……)

 

同じ苦しみを知る者として、エマの姿に強い親近感を覚えていた。

 

アンアンは、おどおどと数秒迷った後、グループから離れて、エマたちの方へと歩み寄ってきた。

 

彼女は、エマの目の前に立つと、スケッチブックを取り出そうとして……やめた。

 

ぎゅっと唇を噛み、何かを決意したように、俯いたまま口を開く。

 

「……わがはいも、同じだ。……無理は、するな」

 

それは、蚊の鳴くような、か細い少女自身の声だった。

 

その言葉遣いは、普段スケッチブックに書いている尊大な口調そのもの。

 

「え……? 今……」

 

エマがその声と口調のギャップに驚いて顔を上げると、アンアンは「しまった」という顔で口元を覆った。

 

アンアンは顔を真っ赤にして、今度こそ脱兎のごとくレイアたちの後を追い、ラウンジから去っていった。

 

エマは、その一瞬の出来事を測りかねていた。

 

だが、あんなにも他人を拒絶していたアンアンが、わざわざ自分に、声を掛けてくれた。

 

その事実が、ヒロに拒絶された心に、また別の小さな温もりを灯した。

 

(ヒロちゃんとは……もう、ダメなのかな……)

 

エマは、ヒロとの絶望的な断絶を再び突きつけられ、胸を痛める。

 

だが、自分の手を握るメルルの温もりと、隣に立つシェリーとハンナの優しさ、そして今の一瞬の邂逅に、ほんの少しだけ、希望の光を見た気がした。

 

(ひとりぼっちじゃ、ない……)

 

まだ、そう信じてもいいのかもしれない。

 

エマは、仲間たちに支えられるようにして、ラウンジの床から、ゆっくりと立ち上がった。

 

***

 

ラウンジでの騒動から数時間後。

 

無機質な通知音と共にゴクチョーから『自由時間は終わりです』と告げられ、少女たちはそれぞれの監房へと戻っていった。

 

エマの房はヒロと、同室のままだった。

 

ラウンジであれだけの拒絶を示された後でも、ゴクチョーから房の変更が言い渡されることはない。

 

つまりエマは、自分を心の底から憎んでいる幼馴染と、この狭い石室で二人きりの時間を過ごさなければならないことを意味していた。

 

鉄格子の閉まる、ガシャンという冷たい音が響く。

 

その音が、エマと世界を隔絶する合図のように聞こえた。

 

(ヒロちゃん……)

 

エマは逃げるように、二段ベッドの下段に潜り込み、膝を抱えて小さくうずくまった。

 

上段のベッドからは、衣擦れの音ひとつ聞こえてこない。

 

だが、そこに「いる」という気配だけが、重苦しい圧力となってエマにのしかかってくる。

 

背中から放たれる拒絶のオーラ。息を殺すような沈黙。

 

それが、病弱なエマの心をじわじわと蝕んでいく。

 

(……でも、ひとりぼっちじゃ、ない)

 

エマは、震える手で自分の胸元をぎゅっと握りしめた。

 

ラウンジでの出来事を思い返す。

 

面白そうだから、とついてきてくれたシェリーちゃん。

 

ボクのことを心配して、ハンカチをくれたハンナちゃん。

 

そして、震えながらも「守ります」と言って、傷を治してくれたメルルちゃん。

 

最後に、不器用な優しさを見せてくれたアンアンちゃん。

 

こんなボクでも、そばにいてくれる人がいた。

 

その事実だけが、今のエマを支える唯一の希望だった。

 

(そうだ、ボクは「脱出する」って決めたんだ。……寝てなんかいられない)

 

エマは、ポケットから支給されたスマホを取り出し、「魔女図鑑」というアプリを開いた。

 

まずは、この理不尽な牢屋敷のルールを知らなければならない。

 

『囚人は強いストレスを受けると魔女因子が高まり、魔女化が進む』

 

『殺人事件が起きた場合、危険な魔女を処刑するため、魔女裁判を開廷する』

 

『投票にて魔女を決め、その場で魔女を処刑とする』

 

並んだ文字は、どこか現実感がなかった。

 

(殺人事件なんて、起こるわけないよ……。みんな、普通の女の子だもん……)

 

そう否定したいのに、脳裏には、ヒロが火かき棒を振り上げたあの瞬間の狂気と、看守の無機質な殺意が焼き付いて離れない。

 

『完全な魔女になった者は、やすやすと死なない肉体を手に入れる』

 

『完全な魔女になった者は、今持っている【魔法】が爆発的に向上する』

 

『但し、【なれはて】として、いずれ人の形ではなくなる』

 

「魔法……そんなもの、ボクは使えないけど……」

 

エマは首を傾げる。

 

メルルの治癒は確かに魔法のようだった。

 

けれど、自分にそんな力があるとは思えない。

 

疲労感がどっと押し寄せてくる。

 

エマはスマホを投げ出し、固いベッドに身を横たえた。

 

(ふかふかのベッド……お気に入りの抱き枕……明日着るはずだった高校の制服……)

 

(全部、なくなっちゃった)

 

「お父さん、お母さん、心配してるかな……?」

 

天井のシミを見つめながら、ポツリと呟く。

 

きっと警察に捜索願を出して、必死に捜してくれているはずだ。

 

中学では失敗して、たくさん心配をかけた。

 

だから高校では、もう心配かけないって決めていたのに。

 

なんでボクは、こんなところに閉じ込められちゃったんだろう。

 

「うぅ……うー……」

 

静かな房に、エマの小さな嗚咽だけが吸い込まれていった。

 

***

 

スマホの時計は18時を回ろうとしていた。

 

(もう夕方……。このまま夜まで、ヒロちゃんと一言も話さずに過ごすのかな……)

 

息苦しさに耐えていると、再びスマホの通知音が鳴り響いた。

 

フクロウの鳴き声を模した、不気味な通知音だ。

 

『皆さん、夕食の時間です。食堂へ集合してください』

 

並ぶ牢屋が一斉に開錠される音が、地下空間に響き渡る。

 

その音が合図だったかのように、上段のベッドからヒロが降りてきた。

 

エマは思わず身構えるが、ヒロはエマに一瞥もくれず、さっさと房を出て行ってしまった。

 

まるで、そこに誰もいないかのように。

 

「……はぁ」

 

エマも重い身体を起こし、立ち上がる。

 

お腹は空いているはずなのに、ストレスで胃が縮こまって、食欲はわかない。

 

それでも、食べなければ身体が持たないことは、自分が一番よく知っていた。

 

(行かなきゃ……)

 

エマが房を出て、薄暗い通路を歩き出した時だった。

 

隣の房から、楽しげな鼻歌が聞こえてくる。

 

「ふんふふ~ん♪」

 

(城ケ崎ノアちゃん……だよね)

 

気になって鉄格子の隙間から中を覗き込むと、カラフルな髪の少女、ノアが、地面にぺたりと座り込んで何かをしていた。

 

「あの、ごはんだけど行かないの?」

 

エマが声をかけると、ノアはくるりと振り向いた。

 

手にはカラースプレーを持っている。

 

「のあは今日、ごはん食べないんだよ? まだお絵描きの途中だから」

 

「お絵描き?」

 

「んー……ちょっと待ってね」

 

ノアが立ち上がり、横に移動すると、地面に描かれた絵が見えた。

 

それはスプレーで描かれた、カラフルな蛇の絵だった。

 

「えっ……!?」

 

エマは驚愕の声を上げた。

 

地面に描かれたその蛇が――ぐねぐねと床を這うように動いていたのだ。

 

極彩色の鱗が波打ち、まるで生きているかのように蠢いている。

 

「な、な、何で!」

 

「ええとね、のあの絵、勝手に動いちゃうんだ。絵だけじゃなくて、液体はね、全部勝手に動くの」

 

ノアは困ったように首を傾げ、でも楽しそうに笑う。

 

「蛇なんて描くつもりなかったのにな。やり直さなきゃ」

 

(絵が、動く……? これが、ノアちゃんの魔法……?)

 

メルルの治癒に続き、目の当たりにした超常現象。

 

エマが呆然としていると、通路の向こうから荒々しい怒声が響いてきた。

 

「離せ! クソッ! 離せよバケモンがよぉ!」

 

ビクリとして振り返ると、階段から降りてきた黒衣の看守が、脇に抱えた少女――紫藤アリサを連行していくところだった。

 

「ふざけんな! なんでウチが!」

 

アリサは暴言を吐いているが、身体はガッチリと拘束され、抵抗できていない。

 

(アリサちゃん!? 連れて行かれる……!)

 

エマは恐怖で足がすくみ、動けなかった。

 

数時間前、ヒロの首を刎ね飛ばそうとしたあの鎌が脳裏をよぎる。

 

(抵抗したら……殺されるかも)

 

助けなきゃ、と思うのに、身体が金縛りにあったように動かない。

 

看守はそのまま、エマたちの前を通り過ぎ、通路の奥へとアリサを連れて消えていった。

 

(どこへ……? 懲罰房、かな……)

 

背筋が凍るような恐怖を覚えながら、エマは逃げるように食堂へと急いだ。

 

***

 

食堂に入ると、すでに多くの少女たちが食事を始めていた。

 

どこか殺伐とした空気の中、一角だけ少し明るい場所があった。

 

「おーい、エマさーん! こっちこっち!」

 

シェリーが大きく手を振り、エマを呼んでくれた。

 

同じテーブルには、ハンナとメルルもいる。

 

「ありがとう……」

 

エマは安堵しながら席に着く。

 

「ビュッフェ形式だったので、エマさんの分も適当に取っておきましたよ!」

 

「あ、ありがとう」

 

目の前のトレーには、ドロリとした色の悪いシチューのようなものが乗っていた。

 

なんの料理なのか判然としない。

 

「うわぁ……超絶まじーですわ……」

 

ハンナがげんなりした顔でスプーンを動かしている。

 

「見た目はアレですが、結構イケますよ!」

 

シェリーだけは、なぜか平気な顔で山盛りの謎料理を食べていた。

 

「あなた味覚ぶっ壊れていますの? これって、あの看守が作ってるんじゃありませんの?」

 

「それを想像すると、なんだかあの看守も可愛く思えてきますよねっ」

 

ハンナが無言でシェリーを見ている。

 

味覚どころか頭自体疑っているらしい。

 

「あの、その看守のことなんだけど……ボク、さっきアリサちゃんが捕まっちゃってるの見ちゃって……」

 

エマが報告すると、メルルが震え上がった。

 

「わ、私も見ました……何があったのでしょうか……うぅ、とても心配です……」

 

「さっき出てってやるって息巻いていましたし、脱走でもしたんですかね?」

 

「禁止時間に外にいたのなら、懲罰房とやらへ連れていかれたのかもしれませんわね……」

 

懲罰房。

 

その響きに、テーブルに沈黙が落ちる。

 

(何か、されるのかな……)

 

エマはおそるおそる、スプーンを口に運んだ。

 

味は……見た目ほど最悪ではないものの、決して美味しくはない。

 

喉を通るたびに、異物感が残る。

 

(生きるために、食べなきゃ)

 

無理やり飲み込んでいると、メルルが自分のトレーからリンゴを一つ、エマに差し出した。

 

「あ、あの……エマさん、あまり食欲なさそうだったので……。リンゴなら、食べやすいかなって……」

 

メルルは恥ずかしそうに俯く。

 

「え……いいの?」

 

「はい……。エマさんには、元気でいてほしいですから……」

 

「ありがとう、メルルちゃん」

 

エマは、メルルの優しさに胸が温かくなるのを感じた。

 

そのままのリンゴを齧ると、甘酸っぱい果汁が口の中に広がり、強張っていた身体が少しだけ緩んだ。

 

ふと、少し離れたテーブルを見ると、レイアを中心としたグループが食事をしていた。

 

その中に、ヒロの姿もあった。

 

ヒロは、隣に座るアンアンに何か話しかけているようだが、アンアンは食事に手を付けず、拒絶するように顔を背けている。

 

(ヒロちゃん……)

 

エマが見ていることに気づいたのか、ヒロがふと顔を上げ、鋭い視線がぶつかった。

 

エマはビクリとして目を逸らしてしまう。

 

(やっぱり、まだ怒ってる……)

 

「あいつ……魔法を使っているにちげーねーですわ」

 

ハンナが、憎々しげにレイアの方を睨みながら呟いた。

 

「女子を誘惑する魔法なんか使って……しかも芸能人だからって、囲いを作って、偉そうに! ムカつきますわ!」

 

「魔法……といえば」

 

エマは、さっき見た光景を思い出した。

 

「さっきノアちゃんが、動く絵を描いてたよ。スプレーで描いた蛇が、床を這ってた」

 

「へえ! 絵を動かす魔法ですか! メルルさんの治癒といい、すごいですねぇ」

 

シェリーが感心したように声を上げる。

 

「ねえ、みんなは魔法、信じてるの?」

 

エマが問いかけると、シェリーはニカっと笑って、テーブルのリンゴを掴んだ。

 

「私は信じてますよ! だって、私の特技、これですから!」

 

バヂュッ!!

 

リンゴが、シェリーの片手で無残に握りつぶされ、果汁が飛び散る。

 

「ひぃっ!? ゴリラ女!!」

 

「ひどいです~! リンゴくらい誰でも潰せますよね?」

 

「潰せませんわよ!!」

 

そう突っ込んだあと、ハンナが得意げに立ち上がり、両手を広げる。

 

「わたくしも信じてますわよ。これがわたくしの魔法ですわあぁっ!」

 

すると、彼女の身体がふわりと宙に浮いた。

 

10センチほどだが、確かに足が床から離れている。

 

「すごーい! 浮いてます!」

 

「ふふん、このまま移動もできますのよ!」

 

ハンナは少しだけ空中を移動して見せたが、すぐに着地し、ぜぇぜぇと息を切らせた。

 

「つ、疲れますのよ……」

 

(みんな、本当に魔法が使えるんだ……ボクにも……何かあるのかな……)

 

エマは、自分の掌を見つめた。

 

メルルに触れられた時の、あの温かい感覚を思い出していた。

 

***

 

「……ごちそうさま」

 

夕食を終えると、どっと疲れが押し寄せてきた。

 

慣れない環境での緊張と、ヒロとの関係。

 

張り詰めていた糸が緩んだのか、身体が鉛のように重かった。

 

(……もう、限界かも)

 

「あ、あの……ごめん、みんな」

 

エマは、食器を片付けながら切り出した。

 

「ボク、ちょっと疲れちゃって……。先に部屋に戻って休むね」

 

「あら、そうですか? まだ時間はありますのに」

 

ハンナが残念そうに言う。

 

「無理はいけません! エマさん、顔色が優れませんし……」

 

メルルが心配そうに覗き込んでくる。

 

「部屋まで送りましょうか?」

 

シェリーも気遣ってくれるが、エマは首を横に振った。

 

「ううん、大丈夫。一人で帰れるよ。……みんなは、ゆっくりしてて」

 

これ以上、みんなに心配をかけたくなかったし、今は一人になりたかった。

 

ヒロとの同室という現実に備えて、心の準備もしたかったのだ。

 

「そうですか……。では、お大事になさってくださいまし」

 

「ゆっくり休んでくださいね」

 

「また明日、探検しましょう!」

 

みんなに見送られ、エマは一人、食堂を後にした。

 

地下へと続く階段へ向かう廊下は、ひんやりと薄暗い。

 

一歩歩くごとに、足が重くなる。

 

(はぁ……。体力、落ちてるなぁ……)

 

ふと、前を歩く小さな背中を見つけた。

 

「…アンアンちゃん?」

 

呼びかけると、少女――夏目アンアンが、ビクリと肩を震わせて振り返った。

 

その手には、いつものスケッチブックが抱えられている。

 

アンアンはエマを見ると、少し驚いたような顔をして、それからバツが悪そうに視線を逸らした。

 

「えっと……アンアンちゃんも、これから房に戻るの?」

 

エマが恐る恐る尋ねると、アンアンは小さく頷いた。

 

「……一緒に行っても、いいかな?」

 

アンアンは少し迷う素振りを見せたが、拒絶はしなかった。

 

エマはほっとして、アンアンの隣に並ぶ。

 

二人並んで、薄暗い廊下を歩く。

 

沈黙が流れるが、不思議と居心地の悪さはなかった。

 

ラウンジで『無理はするな』と声をかけてくれたアンアン。

 

彼女もまた、この不自由な環境に苦しんでいるのかもしれない。

 

「あのね、アンアンちゃん」

 

エマは、ずっと言いたかったことを口にした。

 

「さっきは、ありがとう。声をかけてくれて、すごく嬉しかった」

 

アンアンは立ち止まり、スケッチブックを開いた。

 

サラサラとペンを走らせ、エマに見せる。

 

『気にするな。わがはいの気まぐれである』

 

尊大な言葉遣いだが、アンアンの耳は少し赤くなっていた。

 

エマは思わずくすりと笑う。

 

「ふふ。……そっか。でも、ありがとう」

 

『エマこそ、顔色が悪いぞ。大丈夫なのか?』

 

次のページには、心配の言葉が綴られていた。

 

エマの胸がじわりと温かくなる。

 

「うん……。ちょっと疲れちゃっただけ。休めば大丈夫だよ」

 

『……なら、よいが』

 

アンアンはスケッチブックを閉じ、また歩き出した。

 

言葉はなくても、気遣ってくれているのが伝わってくる。

 

(アンアンちゃん、優しいな……)

 

地下への階段を降り、それぞれの房がある通路へと差し掛かった時だった。

 

「……ん?」

 

エマは鼻をひくつかせた。

 

「なんか……変な匂いがしない?」

 

ツンとする、シンナーのような刺激臭。

 

アンアンも気づいたようで、眉を顰めて鼻を押さえた。

 

その匂いは、奥へ進むほどに強くなっていく。

 

そして、二人の房があるエリアにたどり着いた瞬間。

 

「――!!」

 

エマとアンアンは、同時に息を呑んだ。

 

目の前の房――アンアンとノアの部屋が、異常な光景になっていたのだ。

 

そこは、鮮血のように真っ赤だった。

 

床も、壁も、天井も。すべてが赤いスプレーで塗りつぶされている。

 

強烈なシンナー臭が、換気の悪い地下通路に充満していた。

 

その中心で、ノアは「ふんふふ~ん♪」と鼻歌を歌いながら座り込んでいた。

 

「……っ、……うぅ……」

 

隣で、何かが崩れ落ちる音がした。

 

「アンアンちゃん!?」

 

見ると、アンアンが胸を押さえ、苦しそうに顔を歪めて倒れ込んでいた。

 

「アンアンちゃん、しっかりして!?」

 

エマが駆け寄り、背中をさする。

 

アンアンの顔色は土気色で、呼吸が浅い。

 

「……にお、い……あか……い……」

 

うわごとのように呟き、アンアンの意識が遠のいていく。

 

「アンアンちゃん!」

 

エマが必死に叫んだ、その時だった。

 

「……一体なんだ、これは」

 

鋭く、冷静な声が響いた。

 

いつの間にか、そこにヒロが立っていた。

 

ヒロは、倒れているアンアンと、真っ赤に染まった房を一瞥し、瞬時に状況を把握したようだった。

 

「……この異臭か」

 

ヒロは迷わず房の入り口に歩み寄り、鉄格子越しに中にいる少女へ声をかけた。

 

「ノア!」

 

「……ふぇ?」

 

房の中でスプレーを握っていたノアが、ヒロの声に驚いてようやく振り返る。

 

「あ、ヒロちゃん……?」

 

「そこで何をしている」

 

ヒロは、倒れているアンアンを指差した。

 

「君のまき散らしたスプレーの匂いで、ルームメイトが倒れている。……見えないのか?」

 

「……え?」

 

ノアは、ヒロに言われて初めて入り口の方を見た。

 

そこには、エマに介抱されながらぐったりとしているアンアンの姿があった。

 

「……アンアンちゃん!?」

 

ノアはスプレーを放り出し、房から飛び出してきた。

 

しかし、アンアンの顔色の悪さと、充満する異臭に気づき、足が止まる。

 

「……のあの、せい……?」

 

ノアの顔から血の気が引いていく。

 

「……のあ、お絵描きに夢中で……全然、気づかなくて……」

 

ノアはショックでその場に立ち尽くす。

 

自分の「大好き」なお絵描きが、人を傷つけた。

 

その事実に打ちのめされ、動くことができない。

 

ヒロは、そんなノアの状態を一瞥すると、すぐに見切りをつけた。

 

「今はアンアンが優先だ」

 

ヒロはアンアンを背負って歩き出す。

 

「運ぶぞ。医務室へ行く。……君は、そこで頭を冷やしておけ」

 

ヒロはノアにそう告げると、エマのことを無視して、医務室に向かおうとする。

 

「あ、あの、ヒロちゃん……ノアちゃんは……」

 

エマがおずおずと尋ねると、ヒロは冷たい視線を投げかけた。

 

「ショックで動けない人間を連れて行っても、足手まといになるだけだ」

 

「……っ、でも!」

 

ヒロは、アンアンを背負ったまま、スタスタと歩き出した。

 

エマの横を通り過ぎる瞬間、低く呟く。

 

「……君もだ。そこで突っ立ってるだけの偽善者は、邪魔なだけだ」

 

エマにだけ聞こえる声で吐き捨てた。

 

ヒロは、呆然とするノアと、唇を噛み締めるエマを残し、アンアンを背負って暗い通路の向こうへと消えていった。

 

「…………」

 

残されたのは、シンナーの匂いと、不気味な赤い部屋。

 

そして、立ち尽くしたまま動かないノアだった。

 

ノアは、虚ろな目でアンアンが倒れていた場所を見つめている。

 

(どうしよう……)

 

エマは、ヒロの冷たい言葉に胸を痛めながらも、目の前の少女を放っておくことはできなかった。

 

自分も、何度も倒れて、周りに迷惑をかけたことがある。

 

その時の申し訳なさと、自己嫌悪。

 

今のノアは、きっとその渦中にいる。

 

エマは、そっとノアのそばに近寄った。

 

「……ノアちゃん」

 

「…………」

 

ノアは反応しない。

エマは、ノアの震える手に、自分の手を重ねた。

 

「……アンアンちゃん、きっと大丈夫だよ。ヒロちゃんがついてるもん」

 

「……でも……のあ、悪いこと、した……」

 

ノアが、消え入りそうな声で呟く。

 

「のあ……お絵描き、大好きなのに……。大好きなことで、アンアンちゃんを苦しめちゃった……」

 

「……うん」

 

エマは優しく頷く。

 

「ノアちゃんの絵、ボクも見たよ。すごく綺麗で、楽しそうで……ノアちゃんが絵を大好きなのが伝わってきた」

 

「……ほんと……?」

 

ノアが、ゆっくりと顔を上げる。

 

「うん。だから……その大好きな絵で、誰かが悲しい思いをするのは、ノアちゃんも一番悲しいよね?」

 

エマの言葉に、ノアの瞳が揺れる。

 

「……うん。……悲しい。……のあ、アンアンちゃんとも仲良くしたかったのに……」

 

「大丈夫だよ」

 

エマは、ノアの目をまっすぐに見つめた。

 

「ノアちゃんが、お絵描きと同じくらい、アンアンちゃんのことも大切に思ってるなら……きっと、伝わるよ」

 

「……伝わる……?」

 

「うん。……だから、謝ろう? 『ごめんね』って伝えて、また一緒に笑えるように」

 

エマが背中をポンと叩くと、ノアの瞳に光が戻った。

 

「……うん!」

 

ノアは涙を拭い、力強く頷いた。

 

「のあ、行く! アンアンちゃんに、ごめんなさいって言う! ……お絵描きも、アンアンちゃんも、どっちも大好きだから!」

 

ノアは、エマに一度だけ深く頷くと、ヒロたちが去った方向へ向かって、全力で駆け出した。

 

その小さな背中が見えなくなるまで、エマは見送った。

 

「……よかった」

 

エマは、一つ息を吐いて、壁に寄りかかった。

 

その時、くらりと目眩が襲う。

 

「っ……」

 

シンナーの匂いのせいか、それとも緊張が解けたせいか。

 

(ボクも……もう、限界かも……)

 

エマは、重い足取りで自分の房へと戻った。

 

ヒロはまだ戻ってこない。

 

誰もいない静かな房で、エマはベッドに倒れ込んだ。

 

今日一日で起きた様々な出来事。

 

恐怖と、絶望と、そして小さな希望。

 

それらが混ざり合い、エマの意識を深い眠りへと誘っていった。

魔女裁判は起きる?(今後の展開に大きな影響が生じます)

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