病弱少女ノ生命裁判   作:夜琥

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6. 鳥籠の箱庭と赤い蝶:ノアのアトリエ

牢屋敷での生活、2日目の朝。

 

冷たい鉄格子の鍵が開く音が響いた。

 

「……ん」

 

エマは、重い瞼をこじ開けた。

 

身体が鉛のように重い。

 

慣れない環境での疲労が、一晩寝ても抜けきっていなかった。

 

(……朝、だ)

 

上段のベッドから、衣擦れの音がする。

 

ヒロが起き出したのだ。

 

エマは身構えるが、ヒロはエマの方を見ようともせず、無言でベッドから降り立った。

 

その手には、小さなノートと一本の赤色の万年筆が握られている。

 

(あ……あの万年筆)

 

エマの記憶の奥底が、ちくりと痛む。

 

それは中学時代、ヒロが大切にしていたものだ。

 

なぜか、その万年筆を見ると、胸が締め付けられるような切なさを感じる。

 

「……ヒロちゃん、おはよう」

 

エマが勇気を出して声をかけると、ヒロは動きを止め、鏡越しに冷ややかな視線を投げかけてきた。

 

「……ああ、おはよう」

 

挨拶を返したあと、ヒロは洗面台に向かい、冷水で顔を洗い始めた。

 

拒絶の意思は固い。

 

だが、挨拶を返さないのは「正しくない」ことであるため、無視されるようなことはなかった。

 

ヒロが洗面台の鏡越しに、チラリとエマの顔色を確認する。

 

その様子に、エマは気付いた。

 

(……心配、してくれてるのかな。……ううん、そうじゃないか)

 

エマは小さく溜息をつき、重い身体を引きずってベッドから出た。

 

今日もまた、息の詰まるような一日が始まる。

 

***

 

食堂での朝食後、エマは仲間たちと合流した。

 

今日は本格的な探索を行う予定だ。

 

「おはようございます、エマさん。……顔色、昨日よりは少し良さそうですね?」

 

メルルが、心配そうにエマの顔を覗き込む。

 

「うん、ありがとうメルルちゃん。昨日はよく眠れたから」

 

嘘だった。慣れない環境でほとんど眠れなかった。

 

だが、メルルに心配をかけたくなくて、エマは精一杯の笑顔を作った。

 

「さあ、今日は探検です! この屋敷の謎を解き明かしましょう!」

 

シェリーが元気よく号令をかける。

 

「はいはい、ついていきますわよ。どうせ暇ですし」

 

ハンナも、まんざらでもなさそうだ。

 

一行が最初に向かったのは、2階にある図書室だった。

 

カビ臭い室内に、難解な言語で書かれた本がずらりと並んでいる。

 

「……やっぱり、読めませんわね」

 

ハンナが分厚い本をパラパラとめくり、パタンと閉じる。

 

「でも、絵ならわかりますよ! 見てください、これ!」

 

シェリーが、机の上に広げられた一冊の豪華な本を指差した。

 

そこには、禍々しくも神々しい挿絵が描かれていた。

 

13人の魔女らしき人物が手を取り合って輪を作り、その中心に、「大魔女」と思われる存在が降臨している図だ。

 

「これ……『サバト』じゃないでしょうか?」

 

「サバト?」

 

エマが首を傾げると、シェリーが得意げに解説を始めた。

 

「魔女が集まって行う儀式のことです! 多分、この絵は『大魔女』を呼び出すための儀式を描いているんじゃないかと!」

 

「大魔女……」

 

ゴクチョーの言葉を思い出す。

 

『大魔女さえ見つかれば、皆さんの呪いを……』

 

「もしかして、この牢屋敷って、その『大魔女』を復活させるためにボクたちを集めたのかな?」

 

エマが呟くと、ハンナが身震いした。

 

「やめてくださいまし! 生贄にされるなんて、まっぴらごめんですわよ!」

 

「ふむ……。あながち間違いじゃないかもしれませんねぇ」

 

シェリーは目を輝かせている。

 

「私たちの魔法が強くなったら、大魔女を呼べるようになる……とか? だとしたら、ここは魔女の養殖場ってことになりますね!」

 

「養殖場って……あなた、デリカシーがなさすぎますわ!」

 

二人の漫才のようなやり取りを聞きながら、エマは挿絵の「大魔女」をじっと見つめた。

 

胸の奥に、黒い澱のような不安が広がる。

 

(……大丈夫。みんながいる)

 

エマは、シェリーと口喧嘩しながらも楽しそうなハンナや、その様子を見てあわあわしているメルルを見た。

 

***

 

図書室を出た後、エマ達は、気分転換に外へ出ることにした。

 

目指すは、敷地内に点在するログハウス風の建物――「ゲストハウス」だ。

 

「『水精の間』……ここ入ってみましょうか」

 

メルルがドアノブを回すと、ガチャリと音がして扉が開いた。

 

中に入ると、そこには先客がいた。

 

「うっわ、来たよ。ゾロゾロと」

 

ソファでふんぞり返ってスマホをいじっていたのは、ココだった。

 

「ありゃ。ココさんでしたか」

 

「なんでそんな残念そうなんだよ!あてぃしだって、お前らの顔見てテンション下がってんですけど!」

 

「ココちゃん、ここで何してるの?」

 

エマが尋ねると、ココはふあぁ、と大きなあくびを噛み殺しながら、スマホのカメラをこちらに向けた。

 

「配信のネタ探し……ってのもあるけどさ。ここ、日当たり良くてポカポカしてんじゃん? 牢屋敷の中じゃ数少ない、ゆっくり昼寝できる『休憩スポット』なんよ」

 

ココは画面越しにエマたちを品定めするように見回す。

 

「……んー、せっかく起きたし被写体になるか見てやったけど。映す価値あんのは背景だけかな。お前らみたいな地味メン、あてぃしのリスナーに見せらんないし」

 

「地味メンってなんですの! わたくしは高貴な令嬢ですわよ! 映して感謝こそすれ、文句を言われる筋合いはありませんわ!」

 

ハンナが憤慨して詰め寄るが、ココは「はいはい」と適当にあしらい、視線をエマに戻した。

 

「でもさー、エマっちはちょっと使えるかも」

 

「え? ボク?」

 

「そうそう。その死にそうな顔色。薄幸の美少女キャラ? 『監禁生活で衰弱する少女』ってサムネにしたら、再生数稼げそうじゃん」

 

ココはニシシと意地悪く笑う。

 

「どーよ? あてぃしの配信に出てみる気ない? 同情票で投げ銭ガッポガッポかもよ~?」

 

「……遠慮しとくよ」

 

エマが困ったように断ると、ココはつまらなそうに唇を尖らせた。

 

「ちぇっ、ノリ悪いなー。……ま、いいけどさ」

 

ココは、ふとエマの顔をじっと見つめた。

 

その猫のような瞳が、エマの顔色や、痩せた手首、苦しげな呼吸を、値踏みするように――いや、どこか懐かしむように、静かに辿っていく。

 

「……ん? なに、ココちゃん?」

 

エマが首を傾げると、ココはハッとして、バツが悪そうに視線を逸らした。

 

「……別に。あんまりにも辛気臭い顔してるから、ムカつくなーって思っただけ」

 

ココは悪態をつきながら、ポケットをごそごそと探る。

 

そして、小さな包み紙に入った飴玉を取り出し、エマに放り投げた。

 

「わっ」

 

エマが慌てて受け止めると、それはのど飴だった。

 

「あてぃしの喉ケア用だけど、特別にやるよ。……あてぃしのじーちゃんもさ、よくそういう顔して……あー、なんでもねえ」

 

ココは言葉を濁し、プイと顔を背ける。

 

「とにかく、倒れられたら迷惑なワケ。……ほら、早く舐めなよ」

 

「……ありがとう、ココちゃん」

 

エマは、その不器用な優しさに胸が温かくなった。

 

飴を口に含むと、ハーブの香りが広がり、詰まっていた呼吸が少し楽になった。

 

「……でさ、どうなのよ」

 

ココは誤魔化すように話題を変え、ソファに深く座り直した。

 

「ヒロっちとの同棲生活は。息苦しくて死にそうな感じ?」

 

突然ヒロの話を振られ、エマは言葉に詰まる。

 

「そ、それは……」

 

「ヒロっち、ヤバいよなー。正義、正義ってうるさいし。……色んなところで、正しくないって言うけどさ、身体の弱いエマっちのことを追い詰めるほうが正しくないだろ」

 

「ヒロちゃんは……不器用なだけだよ。本当は、みんなのことを考えて……」

 

「ハイハイ、幼馴染の擁護乙。……でもさ」

 

ココは声を潜め、ニヤリと笑った。

 

「あてぃしの【千里眼】は、誤魔化せないよ?」

 

「……千里眼?」

 

「あてぃしの魔法。……あてぃしのこと『認識』してる奴、つまり、あてぃしの配信や写真を見てる奴のことを、俯瞰して覗き見れるんだよね」

 

ココはスマホをくるくると回す。

 

「ここに来る前、魔法が発動したんだ。……ヒロっちが、魔女図鑑であてぃしのプロフィール写真を見てた」

 

「えっ……ヒロちゃんが?」

 

「ヒロっち、仕切りたがりだからさ。全員のデータをチェックしてたんだろ。……おかげで、その瞬間の様子、あてぃしには丸見えだったってワケ」

 

ココの瞳孔が、すぅっと細まる。

 

声音から、からかうような色が消えた。

 

「……ヒロっち、何を見てたと思う?」

 

「え……ココちゃんの写真、じゃ……」

 

「ううん。スマホは見てたけど、上の空だった。……ヒロっち見てたのは、エマっちの幻影だよ」

 

「……!」

 

エマが息を呑む。

 

「ブツブツ言ってたよ。『悪』だの『魔女』だの……。『正さなきゃいけない』とかさ」

 

ココは、エマの目をまっすぐに見つめた。

 

「詳しいことまではわかんないけどさ。……ヒロっちはエマっちに『殺意』を抱いてたと思う」

 

「ボクに……?」

 

「そ。…魔女化が進んでるのかもなー…普通の精神状態じゃねーよ、あれは」

 

ココは「信じるか信じないかは、エマっち次第だけどね~」と軽い口調に戻り、ソファから立ち上がった。

 

「気をつけなよエマっち。……あてぃし、エマっちには死んでほしくないからさ」

 

そう言い残し、ココはヒラヒラと手を振ってゲストハウスを出て行ってしまった。

 

「【千里眼】……自分を見ている相手を見返すことができる……まるで深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いている、みたいな能力ですね!」

 

シェリーが興味津々に考察を始めるが、エマの耳には入ってこなかった。

 

(……ヒロちゃん)

 

ココの言葉が、冷たい棘のように心に刺さったまま抜けなかった。

 

***

 

ゲストハウスでの探索を終え、シェリーたちは「他の場所も見て回ります!」と元気よく去っていった。

 

エマは少し疲れが出たため、一人でゆっくりと牢屋敷に戻ることにした。

 

午後になり、人気のない2階の回廊を歩いていると、不思議な光景に出くわした。

 

壁の一角に向かって、ノアが座り込んでいるのだ。

 

その横には、腕を組んで仁王立ちしているヒロの姿もあった。

 

「あ……」

 

エマが足を止めると、ヒロが鋭い視線を向けてきた。

 

「……君か」

 

「ヒロちゃん、ノアちゃん……何してるの?」

 

「壁とお話してるのー」

 

ノアが楽しそうに答える。

 

昨日の落ち込んだ様子はどこへやら、いつもの無邪気なノアだ。

 

「……この場所、マップ上では部屋があるはずなんだが、扉がないんだ」

 

ヒロが不承不承といった様子で説明した。

 

「魔法で隠されているのか、構造上の欠陥か……」

 

「ないなら、描いちゃえばいいよね!」

 

ノアはそう言うと、ヒロの制止も聞かずに、カラースプレーを取り出した。

 

「おい、待てノア! 昨日の今日でまた絵を……!」

 

「大丈夫だよー。ここは広いから、匂いこもらないもん!」

 

ノアはシューッと音を立てて、壁に「扉」の絵を描き始めた。

 

その筆致は迷いがなく、見る間にリアルな扉が浮かび上がっていく。

 

重厚な木目の質感、冷たい金属のノブ。

 

まるで本物がそこにあるかのような、圧倒的な画力。

 

「……すごい」

 

エマが見惚れていると、ノアが描き終えた「絵の扉」を満足そうに見た。

 

「じゃーん! ないから描いてみたよ!」

 

「じゃーん、ではないだろう。こんなところに落書きしたところで・・・」

 

ガチャリ。

 

絵であるはずの扉が自然に開いていった。

 

「ええええっ!?」

 

エマは驚愕の声を上げる。

 

「えー!? 本当に開いた! えー!?」

 

ノアも想定外だったのか、驚いていた。

 

「……ノアの魔法が、何か牢屋敷の不可思議に干渉し、うまく作用したようだな」

 

「ほかのところでも扉の絵を書いたことあるけど、本物になるなんて初めてだよ!」

 

エマたちは戸惑い流れも、ノアの描いた扉を抜け、中へと足を踏み入れた。

 

そこは埃っぽい物置のような部屋だったが、大きな窓があり、光が差し込んでいた。

 

絵の具やキャンバスも散乱しており、まさに「アトリエ」と呼ぶに相応しい場所だ。

 

「ここなら、誰にも迷惑かけずにいっぱいお絵描きできるよね!ね、ヒロちゃん!」

 

ノアは嬉しそうにくるくると回る。

 

「……あ、ああそうだな。ここなら換気もできるし、存分に芸術活動が楽しめそうだ」

 

ヒロは、ノアの頭をポンと撫でた。

 

「よかったな、ノア」

 

「うん! ありがとうヒロちゃん! 約束守ってくれたね!」

 

ノアがヒロに抱きつく。

 

ヒロは「離れろ」と嫌がりつつも、その手つきは優しかった。

 

その自然な仕草に、エマは胸が締め付けられた。

 

かつて、自分が失敗した時にヒロがしてくれた、慰めと励ましの手つき。

 

それが今は、別の誰かに向けられている。

 

(ヒロちゃんは……やっぱり優しいんだ)

 

その優しさが自分に向けられることは、もう二度とないのだとしても。

 

「……あの、ノアちゃん」

 

エマは、少し息を切らしながら声をかけた。

 

「ボク、少しここで休ませてもらってもいいかな……? ちょっと、疲れちゃって」

 

「うん! いいよー! エマちゃんもここ気に入った?」

 

ノアは無邪気に歓迎してくれる。

 

「うん、とっても良いところだね。ノアちゃんのための部屋みたい」

 

エマは古びた椅子に腰を下ろし、ふぅ、と息を吐いた。

 

全身の力が抜けていくようだ。

 

「んふふー、ここを【ノアのアトリエ】と名付けます!」

 

ノアはそう言って、部屋の散策を始める。

 

「……私は行くぞ。他の場所も見回らないといけない」

 

ヒロはノアに伝えると、エマの方へ顔を向けた。

 

「…………」

 

ヒロは何も言わない。

 

ただ、射るような鋭い視線をエマに向け、そのまま足早に部屋を出て行った。

 

静まり返ったアトリエに、エマとノア、二人だけが残された。

 

「エマちゃん、見て見て!」

 

ノアは、アトリエの隅にあったキャンバスに向かい、嬉しそうに筆を動かし始めた。

 

ノアの筆は、迷いなく動いている。

 

キャンバスの上に、次々と赤い蝶が生まれていく。

 

それは、魔法の光を帯びてキラキラと輝き、まるで生きているかのように美しく、今にも飛び立ちそうなほど完璧な蝶の絵だった。

 

「すごい……。魔法みたい」

 

エマが感嘆の声を漏らすと、ノアは筆先を見つめながら頷いた。

 

「うん。のあの魔法だよ。液体ならなんでも動かせるんだけど……勝手に動いちゃうことも多いんだ」

 

ノアは、キャンバスの中で羽ばたく蝶を指先でつつく。

 

「でもね、蝶々になぁれって念じると、ちゃーんと全部蝶の絵になってくれるの。蝶々なら、のあの言うことを聞いてくれるみたい」

 

「そうなんだ……」

 

「うん。それにね、この蝶々の魔法は特別なんだよ。のあが描くのをやめても、ずっと消えないの」

 

ノアは優しい声で言った。

 

「アンアンちゃん、赤いのが怖いって言ってたから……。だから、血とか、怖い赤色をみーんな蝶々に変えちゃえば、もう怖くないよね?」

 

エマは息を呑んだ。

 

ノアが蝶を描いていたのは、単に得意だからではない。

 

アンアンの恐怖を取り除くための彼女なりの工夫だったのだ。

 

「……ノアちゃん、優しいね」

 

「えへへ、そうかな?」

 

ノアは照れくさそうに笑うと、筆を置いた。

 

「でも……魔法の絵って、綺麗になりすぎちゃうんだよね」

 

ふと、ノアの足元に何かが落ちているのに気づいた。

 

ポケットからこぼれ落ちたのだろうか。クシャクシャに丸められた、一枚の紙切れだ。

 

「あ、何か落ちたよ」

 

エマがそれを拾い上げ、何気なく広げた瞬間。

 

「あっ……!」

 

ノアが弾かれたように振り返り、顔色を変えた。

 

「だ、ダメっ! 見ちゃダメ!」

 

ノアは慌ててエマの手から紙を奪い取ろうとしたが、エマの視線はすでにその紙に描かれたものに釘付けになっていた。

 

そこには、鉛筆で描かれた蝶のラフスケッチがあった。

 

他にも花や、鳥のようなものも描かれている。

 

キャンバスの上の「完璧な魔法の絵」とは違い、線は震えて歪で、形もどこか不格好だ。

 

だが、そこには確かな温かみがあった。

 

「あ……」

 

見られたことに気づいたノアは、みるみる顔を赤くし、そして泣き出しそうな顔になった。

 

「……見ないで。それ、失敗作なの」

 

「失敗作……?」

 

「うん。……魔法を使わないと、のあ、こんな絵しか描けないの」

 

ノアは、奪い取った絵を背中に隠し、俯いた。

 

「魔法の絵は、誰が見ても『すごい』って言ってくれる。……でも、のあが自分で描くと、こんなに下手くそになっちゃうんだ」

 

ノアの声が震える。

 

「魔法が使えるようになってから……のあが自分で一生懸命描いた絵は、全部魔法で塗りつぶされちゃうの」

 

「『お前の絵はダメだ』って言われてるみたいに……勝手に、綺麗な魔法の絵に上書きされちゃうんだ」

 

「でも、たまに……こうやって魔法がかからずに、自分で描けることもあるんだ。……下手だけど」

 

ノアは背中に隠した絵を、くしゃりと握りしめた。

 

「のあ、アンアンちゃんに綺麗な赤を見せたい。……でも、魔法で作った完璧な絵で、いいのかな?」

 

「もし、魔法が解けて……のあの本当の、下手くそな絵を見られちゃったら……アンアンちゃん、『なんだ、魔法がないとこんなもんか』って……がっかりするんじゃないかな」

 

それは、ノアの抱える「原罪」であり、トラウマだった。

 

魔法というヴェールが剥がれた時、そこにいる「ただの自分」を見られ、失望されることへの怯え。

 

エマは、立ち上がり、ノアのそばに歩み寄った。

 

そして、背中に隠されたノアの手を、そっと包み込んだ。

 

「……ボクは、こっちの絵も好きだよ」

 

「え……?」

 

ノアが驚いて顔を上げる。

 

「魔法の蝶々は、確かに綺麗で完璧だ。でも、さっきの鉛筆の絵からは……ノアちゃんが、一生懸命アンアンちゃんを喜ばせようとした気持ちが、すごく伝わってくるよ」

 

エマは、ノアの目をまっすぐに見つめた。

 

「線が震えてても、形がちょっと変でも……この絵には、ノアちゃんの『心』が入ってるもん」

 

「……心……」

 

「うん。魔法も、ノアちゃんの一部だよ。その魔法を使おうと思った『心』も、この鉛筆の絵を描いた『心』も、全部ノアちゃんだけのものなんだ」

 

「偽物なんかじゃない。……だって、ノアちゃんはこんなに真剣に、アンアンちゃんのために悩んで、描いてるんだから」

 

エマの言葉は、ノアの心の奥底にある氷を、じんわりと溶かしていくようだった。

 

「……がっかり、されないかな?」

 

「されないよ。アンアンちゃん、きっとわかってくれる」

 

エマは優しく微笑んだ。

 

「自信を持って。魔法の蝶々も、鉛筆の絵も……ノアちゃんが描いたものなら、きっとアンアンちゃんも好きになってくれるよ」

 

「…………うん」

 

ノアは涙を拭い、顔を上げた。

 

握りしめていた手描きの絵を、そっと広げる。

 

しわくちゃになった蝶が、まるで笑っているように見えた。

 

「のあ、描くよ。魔法の蝶々も、のあの気持ちも、全部込めて……最高の『赤』を描いてみる!」

 

ノアは再びキャンバスに向かった。

 

その背中からは、迷いが消え、アーティストとしての力強い輝きが放たれていた。

 

魔法の光と共に、ノア自身の情熱がキャンバスに叩きつけられていく。

 

(よかった……)

 

エマは安堵の息を吐き、窓の外の青空を見上げた。

 

ヒロとの距離はまだ遠いが、この場所には確かに「希望」の種が撒かれていた。

 

その温かい光景を胸に刻み、エマは静かにアトリエを後にした。

魔女裁判は起きる?(今後の展開に大きな影響が生じます)

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