病弱少女ノ生命裁判   作:夜琥

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8. 安らぎと不穏の狭間で

ミリアと別れた後、エマは一人で中庭に残り、大きく伸びをした。

 

空は灰色の雲に覆われていて、太陽の位置さえはっきりしない。

 

けれど、ミリアと少し心が通じ合えたおかげか、気分は晴れやかだった。

 

「さてと……次はどこに行こうかな」

 

牢屋敷での生活は、不気味なほど自由だ。

 

「監房滞在時間」以外は、基本的にどこへ行っても咎められない。

 

エマは少し考えてから、まだよく見ていないエリアを探索してみることにした。

 

***

 

中庭を抜け、エマはゲストハウスエリアへとやってきた。

 

ここには「火精の間」「水精の間」「地精の間」と名付けられた、独立したコテージのような建物が並んでいる。

 

本館の重厚な石造りとは違い、少しだけリゾート地のような開放感があるが、やはり人の気配がなく寂れている。

 

(このあたりは、昨日も来たけど……)

 

エマは足を止め、ゲストハウスを見上げた。

 

昨日、ここで沢渡ココと会ったことを思い出したのだ。

 

あの時、ココは顔色の悪いエマを気遣って、のど飴をくれた。毒舌でぶっきらぼうだけど、根は優しい子だ。

 

『ヒロっちはヤバいから気をつけろ』

 

ココの忠告が、ふと頭の片隅で反芻する。

 

彼女の魔法【千里眼】が見たという、ヒロの殺意。

 

(……ううん、そんなはずないよ)

 

エマは首を振って、その思考を打ち消した。

 

今日のヒロちゃんは、みんなのためにリーダーシップを発揮していた。

 

昔と変わらない、責任感の強い、ボクの自慢の幼馴染だ。

 

きっとココちゃんの見間違いか、何かの冗談だったに違いない。

 

エマは気を取り直し、エリアの奥へと進んだ。

 

その「水精の間」の前にあるベンチで、一人の少女が足を組んで座っていた。

 

宝生マーゴだ。

 

彼女は手元のタロットカードを弄びながら、じっと本館の方角、少女たちが集まっている場所を眺めていた。

 

「あら、エマちゃん。散歩?」

 

エマが近づくと、マーゴは視線をこちらに向け、妖艶な笑みを浮かべた。

 

「うん。マーゴちゃんは何してるの?」

 

「見ての通り、少し休憩してるのよ」

 

マーゴは楽しそうにカードをシャッフルし、一枚だけテーブルに伏せた。

 

「みんな、必死ねぇ。不安を押し殺して……『私たちは仲間だ』って、自分に言い聞かせてる」

 

マーゴの視線は冷ややかだった。

 

そこに同情の色はなく、どこか嘲るような響きがあった。

 

「でもね、私は信じないわ。友情だの絆だの、そんな耳触りのいい言葉なんて」

 

「え……?」

 

「人間なんてね、追い詰められれば誰だって化けの皮が剥がれるのよ。今は綺麗な言葉で飾っているけれど……その裏には、汚いエゴや欲望が渦巻いている」

 

マーゴは伏せていたカードをめくる。

 

『月』のカード。欺瞞や不安を暗示するカードだ。

 

「誰が最初に嘘を吐けなくなるのか。誰が最初に他人を蹴落とすのか。エマちゃんはどう思う?」

 

彼女はうっとりと目を細めた。

 

マーゴの声は弾んでいた。

 

彼女は楽しんでいる。

 

他人の醜悪な本性が露呈する瞬間を、今か今かと待ちわびている――そんな歪んだ好奇心だ。

 

「…そんなことにはならないよ。みんないい人たちだもん。…マーゴちゃんは、みんなのこと、信じてないの?」

 

「信じる? まさか。……期待するから裏切られるのよ。最初から誰も信じなければ、傷つくこともない」

 

マーゴは肩をすくめ、からかうように笑った。

 

彼女の瞳には、決して他人を心の中に入れないという、強固な拒絶の意志と、冷徹な光が宿っていた。

 

「エマちゃんは、どうなのかしらね?みんなを信じる、その無垢な笑顔の下に、どんな怪物を飼っているのかしら」

 

マーゴは意味深に微笑むと、カードを片付け始めた。

 

エマは少しだけ背筋が寒くなるのを感じた。

 

彼女に見透かされているような気がして、けれど、今のエマには、その意味を深く考えることはできなかった。

 

エマは頭を下げ、逃げるようにその場を離れた。

 

***

 

マーゴと別れ、ゲストハウスのさらに奥へ進むと、石造りの立派な建物が見えてきた。

 

堅牢な作りで、窓には鉄格子が嵌められている。どうやら、重要な物資を保管する倉庫のようだ。

 

普段なら厳重に施錠されていそうな重厚な扉だが、今はなぜか少しだけ開いていて、中からゴソゴソと物音がする。

 

(誰かいるのかな?)

 

エマがそっと中を覗くと、薄暗い室内で夏目アンアンと城ヶ崎ノアが、木箱を漁っていた。

 

「む……これはただのろうそくであるな」

 

「アンアンちゃん、こっちに爆竹があったよ!」

 

「おお! でかしたノア! これがあれば、わがはいの演出がさらに派手になるぞ!」

 

二人は何やら怪しげなアイテムを集めているようだ。

 

埃っぽい空気の中で、二人の目だけが楽しそうに輝いている。

 

「何してるの?」

 

「うわっ! ……なんだ、エマか」

 

アンアンが驚いて振り返る。その手には数本のろうそくが握られていた。

 

「ここ、入っていい場所なの?」

 

「ふふん、扉が開いていたのだから、入ってくれと言わんばかりではないか」

 

アンアンは悪びれる様子もなく胸を張る。

 

「探索していたらたまたま開いていたのだ。これも運命の導きというやつであるな!」

 

「ドッキリの仕込み?」

 

「ククク……それもそうだが、これは芸術のための素材集めである」

 

アンアンは芝居がかった仕草でポーズを決める。

 

「この退屈な牢獄を、わがはいの脚本で彩るのだ。……ノア、ペンキの類はないか?」

 

「ペンキはないけど……あ、赤いインクならあったよ」

 

ノアが棚の奥からインク瓶を取り出す。

 

「よしよし。これを使えば、血文字の演出も可能であるな……」

 

「……ほどほどにしてね? ヒロちゃんに怒られちゃうよ」

 

エマが苦笑いしながら注意すると、ノアが少し怯えたように首をすくめた。

 

「う……ヒロちゃん、怒ると怖いもんね」

 

「だが、芸術に犠牲はつきものである! ……まあ、見つからないようにやるさ」

 

アンアンは悪戯っぽくウインクをした。

 

二人は楽しそうだ。

 

この閉塞的な空間でも、自分たちなりの楽しみを見つけて遊んでいる。

 

その強さが、少しだけ眩しかった。

 

***

 

倉庫を後にし、エマは本館へと戻ってきた。

 

正面玄関の重厚な大扉は、驚くほど軽く開いた。

 

鍵はかかっていない。

 

エマは扉を開けたまま、敷地の境界を見渡した。

 

空は広く続いているが、敷地の境界には巨大な石塀がそびえ立っている。

 

あまりにも高く、威圧的な壁。

 

その向こう側に何があるのか、ここからでは全く見えない。

 

(……ここから出られるのかな)

 

ただ、世界から切り離されているという事実だけが、静かに突きつけられているようだった。

 

エマは小さく息を吐いて、本館の中へと足を踏み入れた。

 

1階の玄関ホールは吹き抜けになっていて、豪華なシャンデリアが吊るされている。

 

正面には重厚な扉があるが、固く閉ざされており、外へ出ることはできない。

 

そのホールの一角、大きな姿見の前で、蓮見レイアが入念にポーズを確認していた。

 

「……顎の角度はもう少し下か。照明が暗い分、表情に陰影がつきすぎる」

 

レイアは真剣な表情で、何度も同じポーズを繰り返している。

 

エマが近づいても、彼女は集中を切らさなかった。

 

「レイアちゃん、すごいね。ここでも練習?」

 

「む……エマくんか」

 

レイアは一瞬で表情を「アイドルの顔」に切り替え、優雅に髪をかき上げた。

 

「当然だとも。私はいついかなる時も、ファンの期待を裏切らない『蓮見レイア』でなければならないからね。たとえ観客が、無機質な石像だけだとしてもだ」

 

「へぇー……プロだね」

 

「ふっ、照れるじゃないか」

 

レイアは満更でもなさそうに笑う。

 

その自信に満ちた振る舞いは、この閉鎖空間においても揺らいでいないようだった。

 

「それにしても、この屋敷の鏡は映りが悪いな。私の輝きを十分に反映できていない」

 

「あはは、そうだね。レイアちゃんの方がずっとキラキラしてるよ」

 

「そうかい? エマくんは見る目があるね」

 

レイアは上機嫌で再び鏡に向き直った。

 

彼女にとって、この牢獄さえも一つの「舞台」に過ぎないのかもしれない。

 

エマはその強さに感心しながら、ホールを後にした。

 

***

 

階段を上がり、2階へ向かう。

 

長い廊下には赤い絨毯が敷かれ、壁には不気味な肖像画が飾られている。

 

その奥にある重厚な扉を開けると、そこは図書室だった。

 

壁一面の本棚には、古びた書物がぎっしりと並んでいる。

 

独特の紙とインクの匂いが漂う静寂の中、二人の少女がいた。

 

橘シェリーと、遠野ハンナだ。

 

「あら、エマさん。ごきげんよう」

 

ハンナが優雅に会釈をする。

 

その手には白いハンカチが握られており、彼女の周りの本棚だけ、妙にこざっぱりとしていた。

 

「こんにちは、ハンナちゃん。シェリーちゃんも」

 

「あ、エマさん! ちょうどいいところに!」

 

シェリーが脚立の上から顔を覗かせた。

 

彼女は手元のリスト、おそらく自分用のメモと本棚を交互に見ている。

 

「今、ハンナさんのリクエストで詩集を探しているんですが……ここの分類、めちゃくちゃなんですよ。歴史書の隣に料理の本があったりして」

 

「そうですのよ。わたくし、勉強のために詩集を読みたかったのですけれど……あるのは埃を被った難解な書物ばかり」

 

ハンナは呆れたように溜息をつき、手元の本をハンカチで丁寧に拭った。

 

「管理が行き届いていないのは良くありませんわ。本が可哀想です。……わたくし、こういう乱雑な状態を見ると、虫唾が走りますの」

 

その動きは迷いがなく、家事に慣れ親しんだ者のそれだった。

 

次々と本を手に取っては埃を払い、綺麗に並べ直していく。

 

「ふふ、ハンナちゃんって、なんだかんだ言ってお世話好きだよね」

 

エマが指摘すると、ハンナはビクッとして、慌てて手を止めた。

 

「なっ……!? ち、違いますわ! これは、高貴なる者の義務……ノブレス・オブリージュですのよ! 汚い環境は心まで貧しくしますからね!」

 

ハンナは顔を赤くして否定する。

 

けれど、その指先はまだ埃まみれの本を気にして動いていた。

 

令嬢として振る舞いながらも、染み付いた「生活感」と「面倒見の良さ」が隠しきれていない。

 

それがエマには、とても微笑ましく思えた。

 

「ボクも手伝うよ! 詩集が見つかれば、ハンナちゃんの機嫌も直るもんね」

 

「エマさん、体調は平気なんですか?」

 

シェリーが心配そうに尋ねるが、エマは力こぶを作って見せた。

 

「うん、すごく元気だよ!それに、ボクも少しでも役に立ちたいし」

 

「そうですか!それは良かったです!では、あちらの棚をお願いできますか?分類もしたいので、本をこのメモに書いている項目に分けてください!」

 

「わかった! 任せて!」

 

「エマさん。無理は禁物ですわよ」

 

ハンナはそう言って、エマにハンカチを一枚手渡してくれた。

 

エマはハンナの隣に並び、棚の本を少しずつ持ってきて、埃を払いながら分類していく。

 

静かな図書室に、本を動かす音と、時折シェリーが上げる声だけが響く。

 

それは、牢屋敷にいることを忘れてしまいそうな、穏やかな日常のひとコマだった。

 

***

 

本の分類が一段落したあと、エマは再び1階へ降りた。

 

ここには「医務室」がある。

 

扉が少し開いていて、中から話し声が聞こえてきた。

 

「……ですから、あの薬はもう出せませんっ! アリサさん、飲みすぎです!」

 

「うっせーな! ……眠れねーんだよ!」

 

扉越しに聞こえてきたのは、切羽詰まった様子のメルルと、苛立ちを隠せない紫藤アリサの声だった。

 

エマがそっと中を覗くと、薬品棚の前で二人が言い争っていた。

 

「前渡したやつ、もうねーんだよ。早く次のよこせよ」

 

「だ、ダメです……! あれは強い薬なんですよ? 1週間分をお渡ししたはずなのに、たった1日で飲み切るなんて……身体に毒です!」

 

「……問題ねぇよ。薬には慣れてんだ」

 

アリサの声が、ふっと弱くなる。

 

それは脅しではなく、すがるような懇願だった。

 

「頼むよ……。あれがねーと、ダメなんだ……」

 

アリサは充血した目でメルルを見つめている。

 

その目の下には濃い隈が刻まれていた。

 

ただの不機嫌ではない。薬がないと正気を保てないほどの、極度の不安と依存。

 

この閉鎖空間が、彼女の過去の傷跡を呼び覚ましているのかもしれない。

 

「アリサちゃん、メルルちゃん?」

 

エマが声をかけると、二人が振り返った。

 

「あ、エマさん……!」

 

メルルが救いを求めるように駆け寄ってくる。

 

小動物のように震えていて、今にも泣き出しそうだ。

 

「よ、よかったぁ……。アリサさんが、無理やり強い睡眠薬を持っていこうとして……」

 

アリサは舌打ちをし、乱暴に薬品棚の扉を閉めた。

 

その手には、火傷用の軟膏と痛み止めが握られている。

 

「……なんだよ。文句あんのか」

 

「ううん。……眠れないの?」

 

エマが尋ねると、アリサはバツが悪そうに視線を逸らした。

 

「…別に。ただ、あんな固いベッドじゃ寝付けねーだけだ」

 

「嘘だ。……すごい隈だよ」

 

「うっせーな! ……夢見が悪いんだよ。……クソみたいな過去の夢ばっかり見やがる」

 

アリサはボソリと呟いた。

 

過去の罪悪感。

 

眠れば悪夢に苛まれ、起きれば現実に絶望する。

 

彼女が求めていた「強い薬」は、ただ意識を泥のように沈めるための逃避手段なのだろう。

 

「それに……もしもの時のために、在庫確認もしてたんだよ」

 

アリサは手に持っていた軟膏をエマに見せた。

 

「……ウチの魔法は『発火』だ。……もし制御できなくなって、誰かを火傷させちまったら……薬がなきゃ、取り返しがつかねーだろ」

 

乱暴な言葉の裏にある、繊細すぎる配慮。

 

彼女は自分の魔法で他人を傷つけることを、誰よりも恐れているのだ。

 

「……アリサちゃんは優しいね」

 

エマは素直な感嘆を口にした。

 

「あ? ……何言ってんだ」

 

「だって、自分のことより、みんなの心配してくれてるんでしょ? …アリサちゃんがいてくれて良かった」

 

「は、はぁあ!?」

 

エマの真っ直ぐな言葉に、アリサの顔が沸騰したように赤くなる。

 

予想外のストレートな言葉に、思考が追いついていないようだ。

 

「な、ななな、何言ってんだ! ウチはただ……!」

 

「本当のことだもん。アリサちゃんがいてくれて、本当によかった」

 

「……ッ!」

 

アリサはパクパクと口を開閉させ、視線を泳がせる。

 

威勢のいい態度はどこへやら、完全に虚を突かれて動揺していた。

 

耳まで真っ赤にして、居心地が悪そうに身をよじる姿は、年相応の少女そのものだった。

 

エマは、そんなアリサの姿を見て、ふと自分の過去を思い出した。

 

自分も、誰かに「大丈夫」って言ってほしかった時があった。

 

誰かに、ここにいてもいいんだって、肯定してほしかった時があった。

 

「……アリサちゃん」

 

エマは一歩踏み出し、ためらいがちに、けれど優しくアリサを抱きしめた。

 

「なっ……!? 桜羽、何して……!」

 

「大丈夫だよ」

 

エマはアリサの背中に腕を回し、トントンとあやすように叩いた。

 

「怖い夢、見ちゃうんだよね。……ボクもそうだよ」

 

「……」

 

「そういう時はね、誰かと一緒にいると、少しだけ安心できるんだ。……だから、一人で震えないで。苦しいときはボクと一緒にいよう、ね?」

 

アリサの身体が、ビクリと強張る。

 

けれど、彼女はエマを突き飛ばさなかった。

 

エマの体温が、アリサの冷え切った心を包み込んでいく。

 

荒々しかった呼吸が、少しずつ、少しずつ落ち着いていく。

 

「……バカじゃねーの」

 

しばらくして、アリサはエマの胸元で小さく呟いた。

 

その声には、もうトゲはなかった。

 

アリサはエマの腕から身を剥がすと、乱暴に顔を背けた。

 

顔はまだ真っ赤で、目元も少し潤んでいるように見えた。

 

「もう行く。……ここにいると、調子が狂う」

 

アリサは踵を返し、出口へと向かう。

 

ドアの前で一瞬だけ足を止め、背中を向けたままボソリと呟いた。

 

「……氷上、悪かった」

 

「え……?」

 

「無理言った。……忘れてくれ」

 

それだけ言い捨てて、アリサは逃げるように医務室を出て行った。

 

「……心臓が止まるかと思いました」

 

メルルがへなへなと椅子に座り込む。

 

その目は、驚きと尊敬が入り混じったような色でエマを見上げていた。

 

「すごいですね、エマさん……。アリサさんが、あんなに素直になるなんて」

 

メルルは信じられないといった様子で首を振る。

 

彼女にとって、アリサは予測不能で危険な存在だったはずだ。

 

それを、エマは言葉だけで鎮めてしまった。

 

「魔法みたいです。……どうして、アリサさんの気持ちがわかったんですか?」

 

「ううん、魔法なんかじゃないよ」

 

エマは首を横に振り、少しだけ寂しそうに笑った。

 

「ただ……ボクもそうだったから」

 

「え?」

 

「怖くて、寂しくて、どうしようもなくて……誰かに当たったり、自分を傷つけたりしたくなる気持ち。……ボクにも覚えがあるんだ」

 

病室の天井を見上げていた日々。

 

孤独に押しつぶされそうだった夜。

 

誰かの助けを求めながら、差し伸べられた手を振り払ってしまった過去。

 

「だからかな。アリサちゃんが、泣いてるみたいに見えたの」

 

エマの言葉に、メルルは少しの間、言葉を失ったように瞬きをした。

 

そして、どこか眩しいものを見るような目でエマを見つめ、恥ずかしそうに頬を染めた。

 

「……すごいです。私、怖くて震えることしかできなかったのに……。エマさんは、ちゃんとアリサさんの心を見てたんですね」

 

「そんな大層なものじゃないよ」

 

「いいえ、すごいです。……私、もっとしっかりしなきゃ。怖がってばかりじゃダメですよね」

 

メルルが小さな拳を握りしめ、自分に言い聞かせるように呟く。

 

その姿は健気で、エマは自然と応援したくなった。

 

「うん。メルルちゃんなら大丈夫だよ」

 

「ありがとうございます。あ、ところでエマさんは、体調どうですか? 顔色は……少し良さそうですね」

 

メルルが上目遣いに、心配そうにエマを見る。

 

その瞳は不安に揺れながらも、友人としての純粋な親愛の色を宿していた。

 

「うん、すごく元気だよ!この前は、心配かけてごめんね」

 

「いえ、元気なら何よりです。あ、あの、何かあったらすぐに来てくださいね。私、治療くらいしかできませんけど……」

 

「ありがとう、メルルちゃん」

 

メルルの控えめな笑顔に送られ、エマは医務室を後にした。

 

***

 

窓の外を見ると、いつの間にか空が少し暗くなっていた。

 

夕食の時間が近い。

 

「……戻ろっか」

 

エマは来た道を戻り始めた。

 

足取りは軽い。

 

この牢屋敷は広くて、冷たくて、出口のない迷宮だ。

 

でも、そこにいるみんなの温かさがある限り、ここはまだ悪い場所じゃない。

 

そう信じて、エマは食堂へと向かった。

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