ゆっくりと、グラスを手に取る。グラスの表面についた結露が、きらきらと輝いていた。その中には、黄金色の液体。
「……これが、梅酒」
重々しい口調で、レディーススーツを着た短髪のウマ娘が言う。最初は着られているという感じが強かった彼女だが、今はすっかり馴染んでいた。緊張した面持ちで、彼女はそっとそのコップを手にした。
「では、トレーナー……乾杯」
そう言って、彼女――ビリーヴは、微笑みながらグラスを上げる。トレーナーもグラスを上げ、軽くきん、と打ち合わせるのだった。
事の発端は、その日の昼である。一度トレセンを休学しアメリカに渡っていたビリーヴは、再び日本に戻ると少しレースを走った後、引退を決めた。その後は建築業界からの熱いオファーもありつつ、トレーナーの道を志し、トレセン学園の研修生として、かつての自身のトレーナーの元でサブトレーナーとして研鑽を積む日々を送っていた。そして今日、チームの一人が大レースを見事に勝利。それの祝勝会を大いに楽しんだ後、生徒達を寮に帰しつつ、二人はこうしてトレセンから程近い居酒屋に入った、という訳だった。理由は簡単、ビリーヴがそうリクエストしたからである。
「ずっと梅ジュースでしたけど、もう成人もしていますから。今回は……梅酒、呑んでみたいんです」
そう言われて、トレーナーの方に断る理由はない。そういう訳で、二人は今、こうして居酒屋の机を挟んで、相対している。
「じゃあ、人生初のお酒……頂きます」
そう言って、ビリーヴはグラスに口を付け、ゆっくりと呑んだ。
「ああ……美味しい。こんな味、なんですね。思ったより、呑みやすいと言うか」
「梅酒だからね。君が良く飲んでた梅ジュースと、そんなに大きくは変わらないと思う」
トレーナーもそう言いながら、ぐっと梅酒を飲み干した。
「しかし、こうして君とこういう店に入れるようになるとはなぁ」
トレーナーは感慨深げにそう言う。初めて会った時から、もう足掛け五年以上になるか。
「君ももう、成人だものな」
「成人式で泣き出したのには驚きましたけどね」
「だって、なんというかこう、感慨深くてさ……あの子がこんなに立派に、って、いや親でもないのに何言ってるんだって感じだけど」
「……親、ですか」
小さな声でそう呟いた台詞は、トレーナーには届いていない。トレーナーは空になったグラスを置くと、近くのタブレットで次の酒を注文していく。
「トレーナーさん、結構呑まれるんですね」
「うん。お酒は大概何でも呑むかな。特に好きなのはビールと焼酎だけど」
「そうなんですね」
そう言いながら、ビリーヴはゆっくりと梅酒を飲んでいった。トレーナーは少しニヤニヤと笑っている。
「気をつけなよ、初めてのお酒だからね、呑み過ぎないように」
「はい。お爺ちゃん、よく飲み過ぎて次の日頭が痛いって言ってましたから」
「あと、居酒屋のご飯って美味しいんだよ、結構。例えばこんなの、どう?」
そう言いながら、彼が勧めてきたのはアジのなめろうだった。ビリーヴはゆっくりと箸を付け、口に入れる。
「……美味しいですね、これ。生姜が効いていて」
「俺は塩辛なんだかも好きだなぁ。他にも色々あるから、試してみて。お金は俺が持つよ」
「え、良いんですか? 僕、ウマ娘ですよ? そんなあれこれ……」
「いいのいいの。今日はめでたい日なんだから」
そういう彼は、既に酔い始めているように見えた。ビリーヴはそれを見て小さく微笑むと、タブレットに指を伸ばす。
やがて、ビリーヴの顔に朱が差し始めた。しかし、呑んでいる酒の量だけで言えばトレーナーの方が多い。理由は、明白だった。
「トレぇナぁさん。ほぉら、もっとぉ、呑んでくらはいよぉ」
ビリーヴがそう言いながら、トレーナーのお猪口に日本酒を注いでいく。トレーナーの方は、すっかり困惑していた。
「待って、ビリーヴ。ダメだって、明日だって……」
「なんれふかぁ。ぼくがぁ、のんでくらはいっていってるのにぃ」
ダメだ。すっかり酔っている。ウマ娘は毒に強いと言うが、アルコールに対しては人と同じく個人差が激しい。また、人間に笑い上戸や泣き上戸などがいるように、ウマ娘もまた酔った時どうなるかは人によるのだ。しかし、まさかビリーヴが絡み上戸とは。しかも、普段の彼女からは想像できない程に甘えてくる。まるで別人のようだった。
「あの、ね。ビリーヴ、ちょっと、お水でも……」
「トレーナーしゃんが、のんれくれたら、のみあす」
呂律も完全に回っていない。何とかしないと、と、とりあえずその酒を飲み干した。そして、ずいと水の入ったグラスを突き出す。
「ほら、約束。ビリーヴはそういうの、守る子だろ?」
「……ふぁ~い」
彼女は不承不承という様子で、それを飲んだ。これで落ち着いてくれればと思ったが、そうは問屋が卸さない。
「じゃあ、つりはぁ……これぇいきまひょう」
「ち、ちょっと!? 待って、それショットガン……!?」
タブレットでの注文を止めようとしたが、ウマ娘の力で阻止される。やがて、運ばれてくる二つのグラス。
「まえにぃ、うわされきいたことあってぇ。やっれみたらったんれす」
「そ、そう……あの、ビリーヴ? 俺も、そろそろきついから……これで、最後にしよう、な? また、こんな機会はあるだろうし」
「えぇ~」
「ええー、じゃなくて。じゃ、最後の一杯だ」
そう言って、彼はガンとグラスを叩きつける。ビリーヴもそれを真似して、二人は一気にそれを飲んだ。トレーナーの目が回り、そして、ふうと大きく息を吐いた。
「ああ……マズい、マズい……ちょっと、これは」
「らいろうふれすか、とれーなーしゃん……?」
「大丈夫、じゃ……ない、かも……」
そう言いながら、トレーナーは水を飲む。このままだと、本当に前後不覚に陥りかねない、と思った。頭は大分フラフラしている。辛うじて、冷静さを保っているという感じだった。
「……あふぅ」
不意にそう言って、ビリーヴはこてんと前に倒れる。トレーナーが慌てて、彼女の顔に手をやった。
「大丈夫? もし、具合が悪い、なら」
「えへへぇ~とれ~なぁさぁん……いま、とれーなー、ひとりじめらぁ……」
その言葉に、どきりとした。今の彼は、チームを率いる立場で、彼女はその下で研修中の身。かつて新人トレーナーと担当として、マンツーマンだった時とは違う。今の状態は彼女が望んだ事でもあるが、しかし寂しさもあったという事なのか。
「そうかぁ。ビリーヴ、寂しかったのか」
「……うん。らめらって、わかってるんれすよ。それはぁ……でもぉ……」
甘えるように言いながら、彼女はトレーナーをとろんとした目で見上げる。その表情に、思わずどきりとさせられた。何を考えている。彼女はあくまで、ビジネスパートナーだ。それを、彼女自身が望んでいる。それを誰よりも知っているのが、己である筈だ。
「ダメだよ。もう、大人だからね」
そう言いながら、彼は立ち上がる。会計を済ませて、退店しなければならない。ビリーヴに肩を貸すようにして、店のレジの方へと向かった。
外に出て、風を浴びると、少し酔いが醒める様だった。二人は歩いて、トレセン学園近くのトレーナー寮に向かう。ビリーヴの部屋の前まで行くと、トレーナーは優しい声で言った。
「じゃ、これで。今晩はこれでおしまい。また、明日ね?」
「は~い……」
そう言いながら、彼女は鍵を取り出し、何とか開錠する。扉を開けて、トレーナーがビリーヴの肩を離した。彼女は転がるように中に入り、ちらりとトレーナーの方を見る。
「それじゃあ……おやすみなさい」
「ああ、お休み……」
そう言って、彼は扉を閉める。戸が閉まった直後、ふうと彼は大きく息を吐いた。危なかった。危うく、越えてはならない一線を越えそうになっていた。
「ダメだ、ダメだ……あの娘の信頼を、裏切る訳には……」
ばくばくとうるさい心臓を、何とか押しとどめようとする。今まで一度たりとも、彼女を「そういう目」で見た事が無いと言えば、嘘になるだろうが。しかし、守らねばならない。自制せねばならない。彼女の信頼を、裏切らない為に。
ゆっくりと、押し入れから布団を出し、敷いた。そこにごろんと寝転がり、ぼそりと呟く。
「……ダメ、だったな」
お酒は、人を虎にする。おじいちゃんはよく、そんな事を言っていた。酔うと、人間はその奥底にあるものを解放する。普段は理性で覆い隠しているものを、表に出してしまうのだ。だから、節度を持って呑むのだと。それを聞いていたから、敢えて、あんなに呑ませてみた。
彼は分かりやすい。すぐに、顔に出る。ただ、それでも全てをさらけ出している訳でもあるまい。特に、“そういう事”に関しては、そうなのかもと思う瞬間は合っても、ビリーヴの方で感じ取れるだけの経験が無い故に、確信を抱けなかった。だから、言葉が欲しかった。行動が欲しかった。それで、あんな手を使った。実際には、彼女はそこまで酔っていない。少なくとも、あんな前後不覚になるほどではない。酒に酔った人達の姿は、何度か見て来ている。それを参考に、演じただけだ。あんな風に喋るのは、かなり恥ずかしかったが。
しかし、あれだけ仕掛けてみても、彼の方は良い反応を返してくれなかった。あくまで仕事仲間として、トレーナーを志す後輩に対しての優しさ。それ以上の言葉を、態度を、発してはくれなかった。
「……僕、やっぱりそういう魅力は、ないのかな。それとも、前に仕事仲間って強調し過ぎた……?」
いつからこんな感情を抱いていたのかは、もう分からない。最初は、あくまで共に仕事をする、信頼できるパートナー。それで、良い筈だったのに。
「でも、諦めませんから、僕」
粘り強く、諦めない。それが、自分の強み。いつか、言わせてみせる。必ず。