足取りも軽く、一人の少女が廊下を歩いていた。それを見て、大きな眼鏡の少女が声をかける。
「スティルさん、ご機嫌ですね」
「ロブロイさん」
スティルは笑顔で振り返り、嬉しそうに微笑む。
「はい。実は、トレーナーさんにこれを、と」
そう言って、彼女は手に持っていた包みをロブロイに見せる。ロブロイはじっとそれを見て、ああと声を上げる。
「お弁当、ですか?」
「はい。トレーナーさん、以前私が作ったお弁当を美味しいと言って下さって…それで、また、と」
「良いですね。本当に、仲がよろしくて」
「そういうロブロイさんも、トレーナーさんと仲がいいじゃないですか」
スティルが言うと、ロブロイはぽっと頬を赤くする。
「い、いえ、そんな事は……」
「この間、お二人で連れ立って本屋に入られましたよね?」
「な、なんでそれを……!?」
「私、影が薄いのです。ロブロイさん、あの時はトレーナーさんの方をずっと見てらっしゃいましたし……それで、お気づきにならなかったんですね」
あうう、と赤くなるロブロイを、スティルは楽しげに見つめる。二人は別れると、スティルはやがて目的地、トレーナー室に近づく。今日のお弁当も、自信作だ。唐揚げと、ほうれん草のおひたし。それに卵焼きと、アスパラガスのベーコン巻き。どれも丁寧に、手作りした。きっと、彼は喜んでくれる。あの、私の大好きな笑顔で。それを想像するだけで、心が弾んだ。
そして、遂に目的地に辿り着く。あの扉の向こうに、彼が。そう思いながら扉をノックしようとした、その時だった。
「……そんなの、俺は納得出来ません!!」
思わず、びくりと背筋を震わせた。声は間違いなく、彼の声だ。しかし、三年以上を共に過ごしてきて、あんな声を聞いた事が無かった。何かに、怒っている。そんな声。
「……~~、~~……」
部屋の中に、誰か他の人がいる? しかし、その声は彼の怒声に比べて遙かに小さく、扉越しにはほとんど聞こえてこなかった。何を言っているのかと扉に近づこうとした、その時。また、彼の声が聞こえてきた。
「だって、あれだけの成績を残して! それで、どうして評価されないんです!!」
成績? 評価? ひょっとしなくても、彼が言っているのは。
「私の、事?」
思い切って、耳を扉にくっ付けた。すると、部屋の中にいるもう一人の声も聞こえてくる。あの声は、確か樫本理事長代理。
「貴方の気持ちは、勿論分かります。ですが、これは、残念ながら……決まってしまった事、ですので」
「……どこに、掛け合えば良いですか。URAの広報ですか、それとも運営委員……」
「決めたのは広報チームですが……今更言っても、どうにもなるものでもありません。実際、この選定には毎年賛否の声が上がりますし、向こうもそれに慣れていますから。最も、確かに私も、この様な事例は聞いた事がないのですが……。ただ、これはあくまで広報というか、ですし。決して、彼女と貴方の残した成績を、軽んじている訳では」
「俺の事なんて、どうでも良いんです」
押し殺す様な、声だった。声の端々に、怒気が滲む。
「でも、彼女の……スティルの走りは、本当に、美しかった。トリプルティアラを取って、エリザベス女王杯だって。これで、強さだって証明した筈でしょう」
「……本当に、貴方の気持ちは分かるのです。私だって、貴方の立場なら、きっと納得できなかったでしょう。ですから、納得しろ、とは言いません。ただ、これが、決定された事実です。腹は立つでしょうが……私を罵って気が済むのなら、幾らでも、聞きますから」
スティルは、二人の会話を息が詰まる思いで聞いていた。しばらく二人は黙り、そしてがたんと音がした。トレーナーが、椅子に座ったのだと思った。
「……いえ。分かっています。代理が、悪い訳じゃない。それは、分かっているんです」
「……本当に、この度は、残念でしたが。では、私はこれで……」
代理がそう言い、そして足音がこちらに近づいてくる。はっとして、スティルは立ち上がった。しかし、隠れる場所もない。扉が開き、樫本理事長代理がスティルの姿を見て、あっと声を上げる。
「あ、貴方」
「ごめんなさい、その、盗み聞きするつもりは……」
「……別に、それは構いませんよ。貴方にも関係ある事ですし。詳しい事は、貴方のトレーナーに聞いて下さい」
そう言って、彼女はその場を去って行った。スティルはゆっくりと、トレーナー室に入り、彼の方へ近づく。彼の目は、赤くなっていた。普段から、彼の虹彩は赤い。しかし、そこだけでなく、いつもは白い白目の部分も、赤みがかっている。思わず、どきりとした。
「トレーナー、さん」
「……聞いて、いたの?」
絞り出す様に、彼は言った。スティルはこくり、と頷く。
「そっか。恥ずかしいところ、聞かれたんだね、じゃあ」
「あの、樫本さんとは、何を」
「……ヒロイン列伝って、あるだろ」
スティルは頷く。URAが広報活動の一環として作成している、ポスターだ。主に大レースを複数勝ったウマ娘の写真を中心に、何かしらのキャッチコピーが添えられる。例えばミスターシービーやシンボリルドルフの様な三冠ウマ娘達や、ステイゴールド、ナリタトップロードのようなファン人気の高いウマ娘、或いはマルゼンスキーやカツラギエースやアグネスタキオンの様な、衝撃的な結果を齎したウマ娘。そういった者達が選ばれ、ファンからの人気も高い。その中には、当然初代トリプルティアラ、メジロラモーヌの物もある。
「それに……選ばれなかったんだ」
彼の声は、心底悔しげだった。確かに、衝撃的な話ではある。メジロラモーヌ以来の、トリプルティアラ達成。それだけでも、彼女が選ばれるに十分すぎる実績の筈だ。しかし、結果として、彼女は選ばれなかった。理由は、トレーナーにも良くは分からない。だから、悔しいのだ。
「君の……何が」
「……トレーナーさん」
ゆっくりと、スティルが近づいて、机の上に置かれていた彼の拳を優しく包む。
「私は……気にしませんよ」
「スティル、でも」
「私は……私の、走りは、醜い。はしたない。そう、ずっと思い続けてきました。貴方が、初めて、私の走りを……美しいと、言ってくれた。ううん、走りだけじゃ無い。私の全てを、愛してくれた。それで、十分なんです、私は」
それは、紛れもない彼女の本心。彼女が走った理由は、ただひたすら、彼の為だった。
「それでも、俺は……君は、もっと、皆に愛されるべきだと」
「そのお気持ちだけで、私は良いのです。私の為に、あんな風に、怒って下さって」
彼の怒るところを、初めて見た。彼女の知っている彼は、いつも優しく微笑んでいる。かつて彼女が失敗してしまった時や、無理をしようとした時、或いはうっかり練習に遅刻してしまった時も、注意をする事はあっても声を荒げる事は無かった。そんな彼の、初めて聞く怒声。それは、自分の事では無く、スティルインラブの評価の低さを怒るものだった。それが、なんだか嬉しかった。
「これ、作って来たんです。良かったら、召し上がって欲しくて」
そう言って、彼女はそっと、机の端に置いておいたお弁当の包みを差し出す。彼は驚いた様子で、それを見た。
「え? これ、俺に?」
彼はその包みに手を伸ばし、そっと蓋を開ける。
「こ、これ、君が?」
「……はい。その、お口に合えば良いのですが」
「頂く、よ」
そっと、彼は箸を持ち、ほうれん草のおひたしを一口食べる。ぱっと、その顔が輝いた。
「美味しい……凄く、美味しいよ」
「……良かった」
「これ、全部、君が?」
「はい」
「凄いな……本当に、君は」
そう言って、彼はにっこりと笑う。スティルはそれだけで、十分だった。
「何か、お礼をしないとだね……」
「いえ。私が、一番欲しかったものは、もう頂きました」
彼の笑顔。それが、彼女の一番好きなもの。それの為なら、全てを投げ捨ててもいいと思えるほど。最も、今はそこまではしない。しなくても、彼はそれを自分にくれるから。
トレーナーは、あっという間にお弁当を空にした。
「ごちそうさまでした。本当に、美味しかったよ」
「ありがとうございます。良かったら、また作ってきますね」
「うん。楽しみにしてるよ。……逆に、俺も今度、またクッキーでも焼いてくるよ。俺も、好きだからさ、君がお菓子を食べてるところ、見るのが」
彼はそう言って、また笑った。やっぱり彼は、笑顔が一番素敵だ。そう思いながら、スティルも幸せそうに微笑んだ。