一応私の想定ではこれもやはりというか、私の考察する温泉後です。今回は私の作品としては初めて“彼女”を出しました。私は“彼女”はあのエンディングの後には完全に表に出る事は無くなる、その別離のイベントがあの温泉……と思っているので、今までは出してきませんでした。
とはいえ別に紅が消え去るとか死んでしまうって事も無いだろうと。常にスティルの中にいるはいるので、別にスティルに話しかける位は普通にしても不思議はない、と思い直し、こうなりました。
緊張していた。ここに来るのは、初めてではない。“私”が初めて彼に会ったのも、ここだった。最も、この先に入った事は、未だにない。今日が初めてだ。
「ふう……」
大きく、息を吐いた。そして、鍵を鍵穴に差し、ゆっくりを回す。がちゃり、と音がした。
「お邪魔しま~す……」
そう言って、彼女はそっと室内に入る。当然、返事はない。この家主はこの数日、研修の為に家を留守にしていた。そして、今日、彼は帰ってくる。彼女としてはそれを待ちきれなかった。平たく言えば、寂しかったのだ。勿論、学園には友人も何人もいる。それでも、やはり彼と会えない寂しさは、募った。電話をしようか、せめてLANEでも、と思ったのだが、やはり迷惑になってしまうかも、と思ってしまい、結局何も送れなかった。ますます、寂しさは募る。と言う事で、遂に我慢できずに彼の家に一人来てしまった。ここの合鍵は、以前彼から受け取っている。
玄関で靴を脱いで、ふと目を上げる。そこには、大写しになった自分の写真。自分が、秋華賞を勝った時のポスターだった。中央に大きく、自分の名前、スティルインラブと書かれ、その後ろにはターフを走る自分の姿が。家に入ってすぐの、こうも目立つところに貼ってくれている。それが、嬉しかった。思わず口元に笑みが浮かび、気持ちが弾む。
「このまま~離さない~……」
鼻歌を歌いながら、彼女は手に提げてきたレジ袋を机の上に置く。中には肉や野菜などの食材が入っていた。そう、彼女は今日帰ってくる彼の為に、夕食を作ろうとしていたのだった。
「お米は……あった。これ、使っちゃおうかしら」
にこにこと笑いながら、彼女は米を軽く研ぎ、炊飯器にセットする。この辺りの手際は良い。元々料理は出来たし、いつか来るだろう、こういう日の為に密かに練習もしてきた。メニューも考えてある。ご飯とサラダ、味噌汁、それに豚の生姜焼き。以前、彼が食堂で食べているのを見た事がある。きっと、好みなのだろうと思った。
「喜んで頂けるかしら……」
そうウキウキとしながら、彼女は用意を進めていく。最も、彼が帰ってくるのはもう少し後になるはずだ。気が急いて、早く来すぎてしまった。あまり早く作っても、冷めてしまうだろう。
一旦椅子に腰掛ける。いつもは彼がここに腰掛けているのだと思うと、体がぞくぞくとした。いつも、彼が見ている部屋の景色。ここで、彼は色々な事をして、色々な事を思ったのだろう。ふと、悪戯心が湧いた。ちょっと、室内を物色してしまおうか。
「良いわよね、ちょっとくらい……」
そう呟いて、彼女は立ち上がり、部屋の奥へと向かう。きい、と戸を開けると、パソコンとベッドが眼に入った。男の人の部屋というのは初めて見るが、思った以上に整頓されていると思った。
「へえ……思ったより、綺麗……」
そこまで見て、ふと顔を上げると、それが目に飛び込んできた。玄関の近くにあったのは、自分のポスターだったが。そこに貼ってあったポスターに大写しになっているのは、かつてトリプルティアラを制した美しいウマ娘の顔。“まぶたに焼きついた、あの華麗な走りが、鮮やかに浮かび上がってくるだろう”。そんな文言の上に、記された名前。
「メジロ……ラモーヌ……」
胸の奥に、どす黒い感情が一瞬渦巻く。それを必死に押しとどめようとした時だった。
『アナタ、それで良いのぉ?』
その声を聞いて、思わず背筋を震わせた。まさか。聞こえるはずのない、声。瞬間、彼女の意識は自分の内側に潜る。そこには、彼女と全く同じ姿をした少女の姿。
「ど、どうして、貴方が」
『どうしてって。ワタシは、私よ? 別に消え去った訳じゃないわ、アナタの奥に潜んだだけ……。心配しなくても、もう表に出て好きにしようって気は無いから、そこは安心なさい』
かつて、疎んだ。そんな自分の本性。しかし、彼だけは、美しいと言ってくれた。それが、嬉しかった。彼を喜ばせられるのは、自分ではなく彼女なのだと思った事もあった。それが間違いだと気が付けるまでに、本当に時間がかかってしまった。
「じゃ、じゃあ、どうして出てきたの」
『奥手な貴方の、お尻を叩いてあげようと思って』
「よ、余計なお世話……!」
『ワタシだって、あの人を好きだもの。運命の人って思ってるんだから。だから、万が一にも逃がして欲しくないの』
「……それで?」
一応、“自分”の考えだ。聞くだけ、聞こうと思った。
『アナタ、悔しいと思わない? あれだけしてあげたのに、彼の心の中にはずう~っと、あの女が居座ってる』
「それは……しょうがないわ。最初の憧れなんだもの。それは、どうしようも無いわよ」
『あら、じゃあ仮にあの女に彼が奪ら……』
そこで、“彼女”は絶句する。その時のスティルの表情は、あまりにも壮絶で……“彼女”ですら、思わず怯むほどだったのだ。
『と、とにかく。だから、ちゃんと彼を捕まえなさい……」
弱々しく言って、“彼女”は一旦引っ込む。スティルはふうと大きく息を吐きながら、意識を戻す。大丈夫。私はこんな事で、怒ったりは。
そう思った時、今度は本棚の中の本を見つけてしまう。『メジロラモーヌ写真集』。更に彼女の中のどす黒い物が広がっていく。落ち着こう、落ち着こう。
(恋人がいたり、結婚している人が、昔好きだったアイドルの写真集を持っている、なんて、世間じゃ普通の話じゃない。それで一々怒るのは、はしたないわ)
そう思いながら、呼吸を整えようと二度、大きく深呼吸して。そして、ラモーヌの写真集の辺りを見る。そこで、更にある事に気がついた。その周りにあるのは、他にはボートレースの本や、ゴルフの本など……ようは、趣味の本だ。そして、そこに自分の写真集は、無い。少し離れた所には、トレーニング理論の本や、レース戦術の本など、仕事関係だろう本が並ぶ棚。そして、そこにあった。『スティルインラブ写真集』――
「は?」
自分でも驚くほど、ドスのきいた声が出た。また自分の内で、ひっという声が聞こえた気がしたが、もう気にもならない。ラモーヌの本は、趣味の本の間に。しかも、スティルの写真集は、ほとんど開かれた様な様子も無い。本の上の方に、うっすら埃が積もっているからだ。所詮、私の写真集は、仕事で貰って、所持しているだけ……?
「……どういう、事よ」
絞り出す様にそう言いながら、更に遠慮は無くなっていく。本棚やケース類を、じろじろとなめ回す様に見ていく。こうなったら、彼がどういう女を好んでいるのか探ってやる。怨念じみた思いで、彼女は本を探す。はしたないという心より、そちらへの関心の方が強くなっていた。
「……あれ以外は、特にそういうのはないのね。まあ、今時……ね」
『な、何が今時なのかしらね……』
また何か聞こえた。無視しよう。
「あ、これ、アルバム……」
ふと気がつき、手に取り、開く。はっと、眼を見開いた。
「……これ、全部、私……」
デビューしてから、URA決勝まで。彼と共に駆け抜けた思い出が、そこに詰まっていた。レースだけではない。無人島でたき火を囲んだ時の写真。ファン感謝祭の写真。ともに遊園地に行った時に撮った写真。
「トレーナー、さん」
胸が、ぽうっと熱くなる。そして同時に、自分がたまらなく恥ずかしくなってきた。勝手に家に入り、部屋を物色し、そして身勝手に嫉妬して怒って。頬がかあっと熱く火照り、思わずアルバムを閉じた。
「わ、私、なんて……なんて、はしたない」
『そ、そうねぇ。ちょっと、程ほどにしておいた方が良いわよねぇ……じゃ、じゃあ、ワタシ、また引っ込むから……』
“彼女”は、すっかり大人しくなっていた。スティルも物色をやめ、トレーナーの部屋を出る。そして再び、料理を再開した。
それから、しばらくして。玄関からがちゃり、という音が響いた。そして、がちゃんという音。あれ? という声がして、もう一度鍵の音。
「うっそ、俺鍵閉め忘れ……?」
そう言いながら扉を開けた彼は、驚きで眼を見開いた。明かりの付いた玄関に立つ、少女の姿を目にしたから。本来いないはずの彼女の姿を見れば、それは驚く。
「え、あ、え?」
「お帰りなさい」
そう言って、スティルはにこりと笑った。慌てている彼はどこか可愛らしい。その姿が見れただけでも、ここに来て良かったと思った。
「ご飯、作ってあります。良かったら、お召し上がり下さい」
「ま、待って、待って。まずなんで、ここに、君が?」
「前に、鍵をいただいたではありませんか」
「そ、それはそうだけど。えっ、わざわざ……?」
そう言いながら、彼は靴を脱ぐ。リビングに入ると、料理がずらり。
「結構、自信があります。どうぞ、お召し上がり下さい。あ、そうだ、お洗濯物あったら、私、貰いますね?」
「待って待って、流石にそんな……」
「……駄目、でしょうか?」
耳をぱたんと倒して、スティルが言う。その顔をされたら、逆らえない。
「う……でも、良いの?」
「はい。私が、したいんです」
彼女はそう言って、鞄を預かる。鞄の口を開いて、洗濯物を次々に出していった。中には当然、下着もある。トレーナーは耳まで赤くしていたが、スティルは今更、これに動揺したりはしない。ただ、そこから漂う彼の汗のにおいには、少しくらくらしたが。
「じゃあ、これ、お洗濯に」
そう言った時に、気がついた。鞄の中に、丁寧に入れられていた、一冊の本。『スティルインラブ写真集』。
「え、これ……?」
「あっ!? いや、その、これは……誓って、変な事には使ってない!」
彼があたふたと言い訳しながら、それを大事そうに鞄から抜き取った。
「ただ、その……恥ずかしい、話なんだけど。ちょっと、寂しくてさ」
「え? 寂しい、って」
「いや、だって……研修をずっとやって、草臥れてセンターの寮に泊まるだろ。まあ個室なのは良いけど、その……君の顔を、ずっと見たくって……」
「れ、連絡して下されば、良かったのに」
「しようと思ったよ! でもさ、君にも都合があるだろうし……同室のネオユニヴァースにも……悪いし……」
彼は真っ赤になって、もごもごと言う。スティルも、頬を真っ赤に染めていた。
「じゃ、じゃあ、私達……同じだったんですね。私も、寂しくて。ずっと、連絡もしようかと思ったんですけど、ご迷惑かな、って」
「……そっか。うん、なんか……そうかぁ。じゃあ、LANEでも送れば良かったなぁ……本当に寂しくてさぁ。そうなる気はして、だからそれ、持って行ったんだ」
「あ……」
本に目を落とす。確かに、その本は大切に扱われていつつも、端が少しよれていたり、ところどころに開き癖もついている。そうか。彼は二冊、持っていたのか。
「……良かった」
小声で、そう呟いた。二人は顔を見合い、ふふと笑う。
「さ、早く食べて下さい。冷めてしまいますから。私はお洗濯を済ませてしまいますね」
「ああ、ありがとう」
そう言って、彼は缶ビールの蓋を開け、サラダに箸を延ばす。その時、ふっとスティルが言った。
「ところで、トレーナーさん」
「うん?」
「……変な事には使ってない、って仰ってましたが。変な事、って、何ですか? 私、分かんないです」
悪戯っぽく、彼女は言った。トレーナーは顔を赤くしたり青くしたり。額からは汗がどっと噴き出し、わたわたと手を振る。
「い、いや、あれは、わす、忘れて!」
「……うふふ」
笑って、彼女は洗濯機に向かう。あのとき感じた闇は、すっかり晴れていた。