――僕は、汗の匂いが好きだ。勿論世間一般には、あまり好まれないというのは分かっている。でも、僕はなんだか好き。仕事に打ち込んでいるおじいちゃんは、いつも汗の匂いがした。汗をかいて、一心不乱に仕事に打ち込む祖父の姿が、僕は好き。
この学園に来てしばらくした頃、こんな話を聞いた。良い匂いのする相手とは、遺伝子レベルで相性が良い。――正直、僕の実感としては、よく分からない。というより、それは違うんじゃ無いか、と個人的には思う。何故相性が良いという話になるのか、と理屈を問えば、遺伝子の多様性を保つ為とか、より強い相手を求める本能が故、だとか。逆に遺伝子的に近しい、例えば親の匂いは嫌う傾向にあるとも聞く。それなら僕はおじいちゃんの匂いが好きなのはおかしいだろう。祖父と孫なのだから。
まあ、そういう傾向はあるかもしれない、けれど。例えば統計学的とか、生物学的にそういう証拠はあるのかもしれない。ただ、それが全てでも無いだろう。何事にも例外はある。
そして、いつしかそんな話も忘れてしまった。トレーナーさんと出会い、練習して、そして最高の仕事を出来た。そうして一度アメリカに渡り、そしてまた、日本に戻った。今では自分はレースの一線からは退いている。トレーナーさんを支えて、後輩にG1レースを勝たせる。それが、僕の今の仕事。
「お疲れ様、今日はここまでにしようか」
トレーナーさんが、そう彼女に声をかける。僕がアメリカから連れてきて、トレーナーさんに引き合わせた娘だ。才能も、やる気も、十分にある。トレーナーさんの指導があれば、G1にだって手が届くだろう。僕も、できる限りのサポートをしたい。僕を慕ってくれた、彼女の為にも。
「お疲れ様。痛いところとかは無い? 無理はしないで」
「はい。ありがとうございます、大丈夫です」
彼女の顔色は良い。無理をしている様には見えなかった。頷いて、タオルを渡す。彼女は気持ちよさそうに汗を拭った。ふわりと香る、汗と制汗剤と、シャンプーの匂い。僕達は競技者だ。だから当然汗をかく。そして、僕達は思春期の女子でもある。汗の匂いを気にする子は多い――僕はあまり、気にしなかったが。
「じゃ、クールダウンして、上がろうか。この調子で、今度のホープフルステークス、目指してみようか。君は意外に長い距離もこなせるかもしれない。場合によっては、ダービーも視野に入るかも」
「本当ですか!?」
彼女は嬉しそうな顔をした。僕は、ちょっと複雑な気持ちもある。僕とトレーナーさんは、かつて仕事場を短距離一本に絞った。それは僕の特性を活かす為で、勿論彼女には彼女の活かし方がある。しかし、やっぱり、少し寂しいと思ってしまった。
彼女はシャワー室に向かい、僕達は共にトレーナー室に戻る。今は二人で、ここを使っていた。
「さっきはああ仰っていましたけど、本当にホープフルを?」
「うん。俺は、それで良いと思うんだけどな。君はどうすべきだと?」
「……そうですね。個人的には距離の適性がどうなのか。ただ、スタミナもある程度ついてきていますし、ありだと思います」
彼女の各種データを見ながら、そんな話をする。この時間が、僕は大好きだった。特別な事は、なくていい。デュランダルさんなどは、何か勘違いしているのかやたらと気ぶっているが、僕は彼女とは違う。……そう言えば、この前映画を一緒に見に行ったとか言っていたっけ。僕は、彼とそういう関係になりたい訳じゃ無い。仕事仲間。あくまで、共に仕事をする、信頼できる相手。それで良い。
そんな事を思いながら、ちらりと時計を見る。そして、あっと声を上げた。
「トレーナーさん。確か、四時半になったら理事長室に行くって話じゃ」
「……あっ! まずい、ありがとう!」
彼はさっと顔を青くして、バタバタと外に出て行く。全く、と思わず苦笑が出た。今のうちに、ある程度進めておこう。そう思いながら、資料に再び目を落とす。少しして、ふっと欠伸が出た。
「……眠いな」
最近、ちょっと根を詰めすぎているかもしれない。睡眠時間が減って来ているし、考える事が多くて寝付けない事も増えた。トレーナー業はこれ程に心身を摩耗するのか。まずい、なんとか目を覚まさないと。そう思ったが、遅かった。動くより先に、ふっと意識が途切れた。
――心が、穏やかだった。懐かしいような、落ち着く様な。そうだ、あれはまだ僕がトレセンに入るよりずっと前、本当にまだ、小さかった頃。おじいちゃんの家で、僕はちょっとした熱を出してしまった。夏風邪だったと思う。体が熱くて苦しくて、そしてそんな僕の側におじいちゃんがずっといてくれた。おじいちゃんの手を握って、そうしていると凄く落ち着いた。おじいちゃんの温もりが、匂いが側にあるだけで、僕は落ち着けた。布団にくるまって、僕は寝ていた。三日ほどそうしていたら、いつの間にかすっかり元気になったんだっけ――
「……ん、ん……」
目を、ゆっくりと開ける。そこは、おじいちゃんの家では無く、当然学園の、トレーナー室。側にいてくれたのは、おじいちゃんではなくて――
「あ、起きた?」
「……トレーナー、さん?」
「疲れてたんだね。まだ慣れてない事も多いだろうし、仕方ないよ。今日はこのくらいで、切り上げようか」
そう優しく言われて、自分の状況を自覚した。どうやら、眠ってしまっていたらしい。
「ごめんなさい」
「謝る事は無いよ。俺の方こそ、疲れてるのに気が付けなくて……ごめん」
トレーナーさんこそ、謝る事なんて無いのに。そう思いながら、ふわっと香る匂いに気が付く。気持ちが安らぐ匂いだった。しかし同時に、胸の奥がとくとくと静かに騒ぎ出すのも感じた。何だろうと思いながら、視線を落とすと、自分に何か掛けられている事に気付く。……彼の、上着?
「え?」
「ん?」
思わず、固まってしまった。いつから。いや、多分寝ている自分を気遣って、掛けてくれたのだろうが。
「あ、あの、これ、お返し……します」
「ありがとう。まあ大丈夫だろうけど、風邪ひくと行けないからね」
彼は優しく笑ってくれたが、僕はそれどころでは無かった。朧気になっていった夢が、鮮明になっていく。なんであんな事を思い出していたのか。なんであんな気持ちになったのか。
「ちなみに、僕、どの位……?」
「理事長室から戻ったのが十分位前だから……」
「お、起こしてくれても良かったのに」
「疲れてるんだなって思ったから。それに、上着被せてあげたら凄く……あ、いや、何でも無い」
彼はそう言って、視線を逸らす。ますます、胸の奥が騒がしくなってきた。あの時とは違う。おじいちゃんと一緒にいた時の安らぎと、それとは違う感情とがごちゃ混ぜになって、体がふわふわした。
「あ……ぼ、僕、これで、帰りますね」
「ああ。ゆっくり休んで……また、明日ね」
僕も、彼も、ギクシャクとしながら、そう言い合って。僕は荷物を纏めて、部屋を出た。デュランダルさんの顔が浮かぶ。……彼女と僕は違うと、思っていたのに。
「まさか、ね」
つい、口に出た。口に出した事で、余計はっきり認識してしまった。まさか、いや、きっと、多分、おそらく……ほぼ、間違いなく。こういう時、他の人ならどうするんだろう。ライトオさんなら、多分思った事を全部口に出して、そのまま勢いで更に踏み込んでいくんだろうが。僕はまだ、結論が見いだせない。少し、磨いてみようか。そうすれば、隠れていた模様も見えてくるだろう。