本当に全部のイベントが可愛いですねこの娘は。すっかり狂わされてしまった。とはいえ他にも好きな娘は大勢いるのです。なのでそろそろ別の娘でも書いてみたいな……とも。例えば世代で言うと97クラシック世代が一番好きなんですよね。
図書室で、少女は一人本を読んでいた。中世ヨーロッパを舞台にした、騎士物語。一人の下級騎士と、彼に想いを寄せる大貴族の令嬢のお話。二人はそれぞれ相手を深く想っているが、お互いにその想いを胸に秘め、故に相手の気持ちを知らない、いわゆる両片思いの恋物語。
(あの時の私達も、そうだったのでしょうか)
そんな風に思いながら、彼女はその小説にのめり込んでいく。彼が一番好きなのは本能をむき出しに走るワタシ、そう思い込んでいた自分。トレーナーとしての立場から、守りたかったという事以上の事を言おうとはしなかった彼。お互いに、踏み込み切れなかった。少なくとも自分は、完全に彼の気持ちを読み違えていた。
物語は佳境に向かって行く。騎士は戦争に出征し、令嬢は彼の身を案じて彼に一枚のスカーフをお守りとして託す。戦は大敗するが、彼は傷を負いながらも無事に生きて帰る。功を上げられなかったと己の非力を詫びる彼に対して、令嬢はただ貴方が無事でよかったと涙を流す。血や汗を吸い、ボロボロになったスカーフを、彼女は愛おしそうに撫で、そして遂に彼に対して想いを告げ、物語はフィナーレへと向かう。
読み終えた彼女は、深く息を吐いて本を閉じた。ストーリー自体は陳腐と言っても良い程の王道だったが、細かな描写が見事で、夢中で読んでしまっていた。特に心理描写が素晴らしく、ぐいぐいと引き込まれてしまった。
(途中から、騎士の顔がトレーナーさんに置き換わってしまっていたのは、ちょっとはしたなかったかも)
そんな事も思いつつ、彼女は本を棚に戻す。司書席に座っていたロブロイに軽く一礼して、図書室を出た。時計を見ると、もう夕刻になりつつある。彼は今日は、後輩の手伝いをしていると言っていた。
「運動場に、いらっしゃるかしら」
そう呟きながら、彼女は軽い足取りで校舎を出て、グラウンドに向かった。彼は、いた。
「もう少し、スタートの練習は必要かな。君のスピードは十分、GⅠでも通用すると思う。ただスタートで失敗しちゃうと、後は中々難しいからね」
そんな風に、ウマ娘に指導している彼の顔色は、すっかり良くなっていた。ただ、サングラスだけは外せない。ほとんど異常は無くなった彼だが、唯一虹彩の色だけは戻っていなかった。最も、視界自体は問題ないのだとも言っていた。
「まあ、確かにメイクデビューは残念だったけど……他の娘達もかなりハイレベルだったからね。おちついて、成長していこう」
そんな風に優し気に語り掛ける彼の口調は、かつて自分に向けられていたものと同じだった。以前の時分なら、或いは彼女に対して嫉妬心を燃やしてしまったかもしれない。しかし、今の彼女にはそれはない。大丈夫。彼は、私を愛してくれている。
「あれ? スティルちゃん? どうしたの?」
不意に、声を掛けられた。声をかけてきたのは、彼の後輩で、あの娘を担当しているトレーナーだ。スティルは思わず、えっと声を上げていた。
「お気づきに、なられたのですか?」
「いや、お気づきも何も、そりゃ立っていれば……」
彼は不思議そうにそう言う。しかし、スティルにとっては中々の事件だ。彼女はとにかく目立たなかった。店で店員に声をかけても気がつかれない、なんて事もしょっちゅうあった。しかし、彼は気がついた。彼が特別、そういう注意力を有する人という事なのか、或いは。
(……“あの子”の、おかげでしょうか)
あの後、彼女は自分の中に溶けて、内に潜った。彼女の存在感は圧倒的だった。それが時には疎ましくさえ思えた。そんな彼女は、今自分の内に潜み、表層に出てくる事は無い。しかし、確かに自分の内にある。言うなれば、常に少しだけ、彼女が出ているとも言える。ひょっとしたら、その分だけ自分の存在感とでもいうべきものが、強まっているのかもしれない。
「先輩に、何か用事だった?」
「あ、いえ。特にそう言う事では無いのですが」
「まあ、そうだなぁ。こっちの仕事も一旦終わったし……ちょっと、待っててね」
そう言って、彼はスティルのトレーナーの方へと向かう。
「先輩、こっちは終わりました。すみません、ずっと見て貰って」
「ああ、大丈夫だよ。この子は凄いな、間違いなく今度のティアラ路線の本命の一角になれるよ」
「おっ、そいつは良いですね。やったな、ティアラ三冠トレーナーのお墨付きだぞ。……っと、それはそれとして。恋女房が待ってますから」
「え?」
そう言いながら、彼はスティルの姿を認める。
「あっ、スティル、来てたんだ」
「だから、さっさと行った行った。あんまり待たせちゃ悪いでしょ」
「ありがとうございました、私、頑張りますね!」
後輩トレーナーと、その担当はそう笑顔で彼を送り出す。押し出されるようにこちらに来た彼は、優しい笑みを浮かべていた。
「ごめん、待たせちゃったかな?」
「い、いえ……大丈夫です」
一方、スティルはそれどころではなく。ある程度彼との関係は深まってきたが、流石に他人に“恋女房”と言われるのは、恥ずかしさが勝る。心臓がとくとくとうるさくなり、大好きな彼の笑顔を、真正面から見られなかった。
「何か、行きたい所とか、ある? まだ門限には時間があるし」
「そ、そうですね。そうだ、近くにクレープの販売車が来てるとかで……私、行きたいです!」
「良いね、それにしようか」
そんな風に語り合いながら、二人は学園を出る。とりとめのない話をした。この前食べた、美味しいお菓子の事。昨日見たテレビ番組の事。友達の事。レースの事。そんな事を話しながら、二人は公園の近くを通りかかった。子供たちが、大声ではしゃぎながら遊んでいる。そんな様子を見ると、思わず笑みが零れていた。
「子供って凄いですよね。あんなに楽しそうに、はしゃいで、遊んで」
「確かに。……でも、スティルだってまだ、子供っぽくしてていいと思うけど」
「……私、子供っぽいですか?」
少し口を尖らせて言うと、彼は困ったような笑みを浮かべた。
「いや、うーん……そういう事じゃないけど、何と言うのか」
「……うふふ、冗談です。でも、そうですね。じゃ、子供っぽく」
そう言いながら、彼の腕に自分の腕を絡ませた。
「ち、ちょっと、スティル?」
「もーっと甘えたいでーす、なんて。少し、はしたないですかね?」
「い、いや、そんな事は……」
彼は少し狼狽した様子で、それがスティルには楽しかった。しかしそんな時、事件が起こった。木登りをしていた子が、降りられなくなってしまったのだ。ついつい高く上り過ぎて、いざ降りる段になった時に怖くなってしまう。それ自体はよくある事だが、その子は大分木の枝の先の方まで行ってしまっていた。
「ちょっと、危ないな」
彼はそう呟いて、そちらへ近づく。スティルも心配そうな表情を浮かべて、その子の方を見つめていた。やがてその子は枝の上で泣き出してしまう。なんとかしようと彼が近づいた、その時。スティルの耳が、確かにその音を聞いた。ウマ娘の耳は、人のそれよりずっと良い。その彼女の耳が捉えた、みしりという音。
「トレーナーさん、枝が!」
「え?」
彼が一瞬、止まった。まさにその時、枝がばきりと折れる。その子は枝にしがみついたまま、地面に向かって落ちていく。
「危ない!」
スティルの叫びと、彼が動いたのが同時だった。どん、という音と、子供の泣き声。土煙があがり、そしてすぐ晴れる。トレーナーが、倒れていた。
「トレーナーさん!!」
悲鳴を上げて、スティルは彼に駆け寄る。彼の両腕は、何とかあの子を抱きとめていた。
「大丈夫、大丈夫だから」
彼はそう言って、わんわんと泣いているその子の頭を優しくなでる。
「大丈夫? ケガしてない?」
「だいじょうぶ……だけど、おにいちゃん……おにいちゃんが……」
「俺は大丈夫だよ。これでも、結構強いから」
そう言いながら、彼は身を起こす。その子の友達だろう他の子達も、集まってきた。彼はいつもの様に、優しい笑みを浮かべている。
「元気に遊ぶのは良いけど、気を付けてね」
「……うん。ありがとう、おにいちゃん」
そう言って、その子はぺこりと頭を下げる。良い子だな、と思いながら、トレーナーは立ち上がろうとして、一瞬顔をしかめた。腕や足はすりむいているし、おそらくあの子を抱きとめた瞬間にだろう、肘を痛めてしまったようでもある。特に、あの子が掴んでいた枝の一部が突き刺さり、肉を抉ったのか血が出ていた。しかし、その痛みを態度に出す訳にはいかない。せめて、あの子達の前では。
「トレーナーさん、大丈夫ですか」
スティルが心配そうな顔で、彼の顔を覗き込む。トレーナーは小さく頷いて、何とか笑いかけた。
「大丈夫。ごめんね、心配かけちゃって」
「いえ。でも、血が」
そう言いながら、彼女はトレーナーのシャツの腕を捲る。傷は、中々深そうに見えた。彼は大丈夫と繰り返しながら、公園の水道へと向かう。軽く傷口を洗ったが、血は流れ続けていた。
「どうしましょう、何か……せめて、これを」
そう言って、彼女はポケットからハンカチを取り出し、トレーナーの腕に巻きつける。トレーナーは慌てて、そんな事をしなくてもと言うが、彼女は聞かない。
「ダメです。せめて、この位はしないと。すぐに学園に戻って、保健室に」
「……ごめん。ハンカチ、汚しちゃうね」
「そんな事、どうでもいいです!」
スティルは手早くハンカチを巻いた。真っ白なハンカチは、すぐに赤黒く染まっていく。
「よし……取り合えず、これで。すぐ、行きますよ」
「え、クレープは……」
「そんな事より、トレーナーさんです!」
ここまで語気の強い彼女を、トレーナーは見た事が無かったかもしれなかった。すっかり気圧されて、彼は彼女に従う。トレーナーに肩を貸して、彼女は歩き出した。
「ち、ちょっと待って、流石にそんな事をしなくても」
「足も痛めていらっしゃるでしょう?」
「いや、まあ、うん」
スティルは彼に歩調を合わせながら、学園に戻った。すれ違う生徒たちが何人か驚いた様子でこちらを見てきたが、そんな事を気にする暇はない。そうしていると、不意に声を掛けられた。
「貴方、どうしたの!?」
「アルヴさん」
アドマイヤグルーヴと、エアグルーヴだった。二人は丁度学園を出た所だったが、スティル達を見て駆け寄ってくる。
「これは……ケガをしたのか」
「はい、子供を庇って……それで、一旦保健室に」
「私も手伝うわ。二人の方が良いでしょ。エアグルーヴさん、すみませんが」
「ああ、そうしてやれ。私の方で、一応教務課の方に連絡を入れておく」
エアグルーヴがそう言い、アルヴはそっとスティルと反対側の肩を支える。
「行くわよ、大丈夫?」
「はい。ありがとうございます」
スティルはそう言い、三人はゆっくりとまた歩き始めた。エアグルーヴはその様子を見て、スマートフォンを取り出した。
――保健室の先生は、最初三人の様子を見た時は驚いた様子だった。手早く事情を聞くと、傷口の様子を確かめる。
「結構、深いですね……ただ、血はもう止まりつつあります。取り合えず消毒しておきましょう。数日は気を付けて下さいね、場合によっては病院で処置しないといけませんから」
トレーナーは、大人しく言う事を聞いていた。保健室の先生は、スティルの方を見る。
「このハンカチの応急処置は、貴方が?」
「は、はい」
「そう……しっかりしてるわね、しっかり縛ってあったから、出血量が抑えられたと思う。ハンカチは、ちょっと……もう、使えないと思うけど」
「ごめんな、スティル。後で弁償はするから」
「そんなの、別にいいんです。でも、無事で……」
そこまで言って、はっとした。なんだか、デジャビュのような。
「これ、どうする? 血は不衛生だし、こっちで処分してしまっていいかしら?」
「そうですね。それで、大丈夫……」
あ、と声が出た。血染めのスカーフ。状況は違うが、彼の無事を喜んでいる、私。
「ん? どうしたの? 大切な物だったかしら?」
「あ! いえ、それは大丈夫です。処分して頂いて、大丈夫ですから」
「貴方、どうしたのよ」
アルヴがじっと、スティルの顔を見る。そして、はあと溜息を吐いた。
「貴方。前からそうだったけれど、こんな時まで」
「ち、違います!」
そう口では言ったが、頭の中では次々にあの物語の文章が襲い掛かって来ていた。無事を喜び、ボロボロになったスカーフを愛おしく撫で、そして。
「……スティルさん?」
「あ、いえ。じゃ、じゃあ、私は、これで」
スティルはくるりと背を向けて、部屋を出ようとする。それを見て、トレーナーも言った。
「俺も、もう大丈夫ですか?」
「はい。もう、行って大丈夫ですよ」
「……では」
そう言って、彼も立ち上がる。ふぇ、と少し間の抜けた声を、スティルは出してしまった。
「え? 寮に戻るなら、送っていくし。今からまた、クレープ食べに行く?」
「あ、いえ、あの」
「……もう、私も必要なさそうね」
アルヴはそう言いながら、スティルの方に近づく。
「こんな事言うのは変かもしれないけど。頑張って」
「……は、はい」
顔を赤くして、そう答えた。トレーナーは、良く分かっていないようだ。そんな彼を見て、スティルはずいっと近づく。
「す、スティル?」
「……でも、私もう、気持ちはお伝えしてますからね」
そう言って、彼女はふふっと笑った。かつての自分には、ここまでの事は出来なかったかなと思う。やっぱり、私は少し変わった。その変化は、良い変化だな。そんな風に、思えた。