戦神騎士物語   作:神父三号

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旗持ちのノーラから大剣使いのローランに視点が戻ります。



第10話 ローランの道・少女の力

「あっ……」

 

 ローランがなだらかな山の斜面を下っていた時である。

 

 少し前に雨の中で拾った白髪の少女ナツメが、何かに気づいたように小さく声を上げた。

 どうでもいい雑談を振ってくる時とは明らかに違う声音に、ローランは足を止めて振り返る。

 ナツメはローランが与えたままの外套のフードを外し、しきりに後ろを、山の斜面の上方を気にしている。

 ローランがその視線を追っても、立ち並ぶ木々の彼方には、こちらを気にせず通り過ぎる猪が一頭だけ。

 あまり鬱蒼としていない、比較的開けた山だ。猪の他には何もいない。

 

「ナツメ、どうした? あの猪がそんなに気になるのか?」

「違います。猪じゃなくて、えっと……その、変な感じがしちゃって」

「変な感じ?」

「多分ですけど……ウチらに、何か近づいてきてます」

 

 ローランはナツメのすぐ傍に寄り、何ごとかを話すふりをしながら、感覚を研ぎ澄ませて周辺の気配を探った。

 しかし。

 

「視線、殺気、武の気配……俺はどれも感じないし姿も見えない。お前がさっき見てた、斜面の上の方だろ?」

「はい。上というか、まだ山の反対側を登ってきてるっぽいんですけど……ウチ、これと同じ雰囲気をヴァルゲンの市場で感じたことがあります。多分……魔物の気配、です。一匹だけ、かな……?」

 

 魔物の気配、か。

 ローランはナツメの言葉を繰り返した。

 確かに大商業都市ヴァルゲンの奴隷を売るような市場なら、同じようにして見世物用の珍しい魔物を売ることもあるだろう。

 

 魔物は、魔力を身体に内包する異形の存在だ。

 竜神の国オズワルドの飛竜や山岳国家ビードの怪鳥など、人間に使役される有用な魔物もいる。

 しかし、魔物の多くは熊や猪といった獣よりも遥かに悪辣で凶暴な、人間に害を為す連中である。

 少なくとも、祖国フォルラザで戦時の合間を縫って野山を駆け巡ったローランの経験上は、そうだった。

 屍の怨念を啜って"闇の吹き溜まり"を作る闇の魔物などが、その最たる例だ。

 

「……ナツメ。お前、姿も見えないような遠くの魔物の気配が分かるのか?」

「うーんと……あんまり自信はないんです。ウチの育った山に、魔物はいなかったので……魔物の存在については本やお父さんの話で知ってましたけど。ただ……ヴァルゲンで檻に入れられてた変な魔物の雰囲気と、今感じてるものは少し似てる気がします」

 

 ナツメはローランの問いかけに形の良い眉をひそめ、首をかしげながら答えた。

 清浄な山奥で育った、世間知らずの子供だ。

 魔物の気配に確信が持てないのは、仕方ないことだろう。

 ナツメの勘違いの可能性もあるが、一応は警戒しておく必要がある。

 とはいえ、姿も見えない遠距離から戦神騎士が反応できないような攻撃をしかけてくる魔物は、まずありえないだろう。

 

「真っ直ぐじゃなくて、ふらふらしてる感じなので、まだこっちを見つけてない気がしますけど……」

「分かった。ナツメ、お前は俺の前を歩け。フードはちゃんと被っとけよ」

「……すいません、ローランさん」

「謝る必要なんてない。むしろ、助けられたと思ってるくらいだ」

 

 申し訳なさそうに歩き出したナツメに応じながら、ローランは密かに驚いていた。

 戦神騎士として鍛え上げた自分の感覚すら上回る鋭いものを、何の訓練や戦いも経験していない子供が有しているのだから。

 

 出会った当初痩せこけていたナツメはここ数日、ローランが肉や果実をちゃんと食べさせて、かなり元気になっていた。

 そうして改めて、この少女があまりにも整った容貌をしていることを、ローランは実感した。

 十二歳だと本人は言ったが、それでも明るく笑った時やもの憂げな時など、思わずはっとさせられる瞬間があるのだ。

 しかもこれで、人目を引く純白の髪と真紅の瞳を有しているのである。

 人攫いに狙われて高値で売られるのも当然だと、ローランですら内心思った。

 フォルラザには奴隷を売買したり見目の良い子供を飼う風習はなかったが、他の国ではそんなことはざらにあるのだ。

 滅ぼした国の都に火をつけた時、戦神の軍に礼を言って死を乞うてきた幼い奴隷を見たことだって、一度や二度ではない。

 

 しかし、おそらくは魔物が有している魔力を感じ取ったのだろうが、それでもこの少女の感知能力は異常である。

 ローランの知る限りでは戦神騎士の魔術士であっても、目視できない距離にいる魔物の気配を感じることなど不可能だ。

 そんなことが出来るならば、ビードを滅ぼした時もオズワルドとの攻防も、もっと有効な戦い方が出来ただろう。

 初めてこの少女と出会った時、人間ではなくエルフのような亜人ではないかと疑ったのを、ローランは歩きながら思い出していた。

 

「……ローランさん、ウチ」

「ん?」

「もしかして、変ですか?」

 

 立ち止まって振り返ってくるナツメの瞳が、不安げに少し潤んでいる。

 

「……分かるのは魔物の気配だけか? ヴァルゲンほどの大都市なら、魔術士だってそれなり以上にいたはずだ。そいつらの魔力には、何も感じなかったのか?」

「えーと……それは特に、何も」

「なら、感覚が鋭い程度の話だ。魔物が纏う魔力の気配が分かる人間なんて、いくらでもいる。それこそ、魔術士じゃなくてもな」

「えっ、そうなんですか?」

「イオ……あー、俺の知り合いの魔術士に昔聞いた話だがな。人間よりも魔物の方が、身体の外に魔力を出すのが上手いんだってよ。というより、身体の内に留めておくのが上手くない奴が多い……だったか? とにかくそんな理屈で、分かる奴には魔物から滲み出てる魔力が分かるらしい」

「じゃあ、ローランさんも?」

「いいや。俺には魔力の気配なんて分からん。だから、分かる奴には分かるって言ったんだ。俺はそういうのは、一切分からない奴だ。まあ、魔物が纏う魔力なんてだいたい光ってるもんだから、そういう意味では俺が見ても分かると言えば分かるんだが」

 

 人間が魔術を使えるかどうか、魔力を感じられるかどうか、そしてそもそも魔力をどれだけ有しているかは、努力よりも生まれ持った素質の問題なのである。

 素質が無ければ、魔術の杖をどれだけ振ろうが火の粉一つ出せないし、魔物が滲み出させる魔力だって感じ取れない。

 

 ローランが戦神騎士に叙任されてからまだ日も浅い頃、宴で酔っぱらったイオに『魔術を教えてやりましょうぞー』などと絡まれ、城の庭で教わった通りに杖を数時間、様々な振り方で振ったことがあった。

 そして途中で寝落ちしたあの軽薄で幼稚な先輩を丁重に起こして『何も起きませんが』と問い質したら、あの女は『じゃあ才能無いね、きみ。あはは』で片づけたのである。

 あれが自分とイオの初めての関わりだった。

 こいつは絶対に敬ってやるものかと、その時心に誓った。

 

「そういう感覚の鋭さは、貴重な才能だ。きちんと誰かに師事すれば、魔術士になれるかもしれないぞ、お前」

「…………っ、ぁぅっ」

 

 ナツメは何故か酷く動揺し、自信の両手を握って言葉を詰まらせた。

 赤い瞳が、地面を見つめて揺れている。

 

「……? どうした?」

「あ、いえ……ウチ、魔術は……じゃなくて、魔術士になるとかは……その、考えたことないです」

「そうか。まあいいんじゃないか、それでも。そもそも、ここから大河川越えてお前の故郷の山へ行くまでに、親切な魔術士に都合よく会う可能性なんてほぼないしな」

「……そう、ですよね」

 

 そんな問答を山の斜面で立ち止まったまましている内に、ローランの感覚にも何かが引っかかり始めた。

 気配は中々に上手く消していて、正確な位置は分からない。

 だが、隠しきれない獰猛な殺気がじんわりと届いてきていた。

 そしておそらくそれは、自分に向いていない。

 ナツメが狙いだ。

 

「っ……!」

「心配するな。俺がついてる。振り返るな。そのまま気づいてないふりをして、歩き続けるぞ」

「は、はい」

 

 フードを目深に被り直し、身体を強張らせて歩くナツメの背後を自然に庇うようにして、ローランも歩を進めた。

 殺気が近づいてきて、より鋭くなった。

 さすがにもう、魔物風情が戦神騎士相手に気配を隠せる距離ではない。

 斜面の上、右斜め後方。百歩分ほどの位置。

 

『シャアッ!!』

 

 何かが放たれた。

 ローランは素早く振り向き、戦神の大剣で打ち払う。

 青白い魔力の矢だ。

 

「ロッ……」

「木陰に隠れてろ!」

 

 ローランは拳大ほどの苔むした石を拾い、魔物めがけて斜面を駆け上がった。

 異様に目を見開いた、歪な牝鹿のような顔面の、しかし二足で立つ青毛の魔物。

 右腕が左腕に比して倍ほどに太く、その前腕には大きな穴が空いている。

 なだらかな山だ。互いの間に、戦闘に影響するほどの木や岩はない。

 

『シャシャッ!』

 

 向けられた右腕の穴から、魔力の矢が連射された。

 速い。四本。うち三本の狙いは正確で、全てこちらの顔面。

 残りの一本は、回避先を予測して放っているであろう、本命だ。

 

「小賢しい!」

 

 ローランは大剣を軽く振るって、三本の矢を弾いて直進した。

 回避を予測した一本は当然、かすりもしない。

 魔物は到底敵わないことを悟ったのか、顔を歪ませてさっさと背を向けた。

 その背中に、先ほど拾った石を思いきり投げつける。

 

『ギャァッ!?』

 

 大きく吹っ飛んだ魔物に、一気に追いすがる。

 魔物は腹をくくったのか、上体を起こした振り向きざまに、右腕の穴から小さな矢をありったけ乱射してきた。

 狙いも定めていない、雑なめくら撃ちだ。

 並の戦士ならばむしろ回避しづらい、厄介な反撃。

 しかし。

 

「舐めるな」

 

 ゴッ。

 

 ローランは大剣を勢い良く振り下ろした。

 戦神の加護を受けた、白銀の刃。

 その凄まじい剣圧が全ての魔力矢を消し飛ばし、そのまま相手に届いて、両断した。

 断末魔すらなく、魔物は即死。

 彼方まで飛んだ剣圧が、斜面の上方にある大木を一本断ち割った。

 

「…………」

 

 仕留めた屍を、ローランはまじまじと見つめた。

 おそらくは人間や動物を殺して食う類の、どこにでもいる魔物だ。

 これと全く同じ姿形をした魔物を、何度か狩ったことがある。

 こういう攻撃的で低俗な魔物は人間に決して懐かないため、出くわせば殺すしかない。

 そうして殺しても魔物の肉は宿った魔力のせいで、まともな食い物にもならない。

 一部の魔物の屍は、魔術士が役立てたり商人が高値で取引するらしいが、ローランにとっては縁のない話である。

 撃退に無駄な労力がかかるだけの、矮小で邪魔な存在だ。

 

「ローランさん、大丈夫ですかっ!?」

「問題ない。ナツメ、他に気配はないか?」

 

 駆け寄ってきたナツメがフードを外し、息を殺してきょろきょろと周囲を見渡す。

 

「……何もいないみたいです」

「そうか。よく素早く気づいてくれたな。助かった」

「あ……はいっ! ……えへへ」

 

 ナツメはどこか申し訳なさそうに、しかしそれ以上に嬉しそうに照れて笑った。

 頭でも撫でてやろうかと思ったが、笑顔を見ているとなんだかむず痒くなって、やめた。

 

「……う。こ、こういう魔物って、どこにでもいるんですか?」

「どこにでもいるし、たまに村や街に入ろうとすることもある……が、いない森や山も多い。お前の暮らしてた山にもいなかったんだろ? 場所によるとしか言えないな。どういう基準で魔物が住処を選んでるのか、俺もよく知らない」

「そうなんですか……」

「ただまあ、魔物がいない土地の方が綺麗な土地だとは言われるな」

 

 それを聞いたナツメが真っ二つになった屍を見つめて、何やら考え込むように俯いた。

 攫われてヴァルゲンに連れ込まれるまで、魔物というものの存在は知っていても、実物を見たことがなかったほどの世間知らずだ。

 ローランが口にした世の中の常識が本当に正しいことなのか、考えているのかもしれない。

 

 

「もし、この子が僕達を攻撃してこなかったら……ただ後ろをついてくるだけだったら……ローランさんはこの子を殺しましたか?」

 

 

 見上げてきた幼い真紅の瞳に、妙なことを聞くものだとローランは唸った。

 とはいえ、『無意味な質問をするな』と一蹴しても、それはこの純粋な少女に対して不誠実だろう。

 ローランは頭の中で考えを一旦まとめてから、口を開いた。

 

「さっきの状況でこいつが近づいてくるだけで何もせず、いずれ離れていったのなら、あえて殺しはしなかった。それは、この山でわざわざこいつをこっちから追いかけて殺す理由が何もないからだ。動物と違って魔物の肉が食い物にならないのは、知ってるか?」

「……はい。本で読んだことがあります」

「ただ俺が故郷に住んでいた頃に、故郷の土地の中で出くわしたら、攻撃してこなくても殺しただろう。……いや、実際にそういう状況で何度も殺したことがある。何故ならそうしなければいずれ、俺の仲間が殺される可能性があるからだ。その理屈は、分かるな?」

 

 ナツメは神妙な顔で頷いた。

 

「もっと言えば、俺達の腹が減ってて魔物の肉が食い物になるなら、その場合は最初のお前の仮定の上でも、俺は殺しに走った。そしてそれは動物を狩って食うのと、何も違わないことだ。お前やお前の父親だって、故郷の山でそうしていただろ」

「……はい。ローランさんの言ってること、よく分かります。……ごめんなさい。ウチ、おかしなこと聞いちゃいました」

「謝る必要なんてねえよ。納得できないことや疑問に思うことがあれば、素直に聞くべきなんだ。少なくとも俺は、周囲にそう教わって育った。……ただ、俺の言ったことが全部正しいとは限らないぞ。お前にはお前なりの考え方が、あってもいい」

 

 頭を下げていたナツメがローランの言葉を聞いて、魔物の屍の前に両膝をついた。

 そして俯いたまま、じっとしている。

 自分の命を狙ってきた悪辣な魔物を、この少女はわざわざ悼んでいるのだろうか。

 思えばナツメを拾ってからのここ数日、ローランが狩って焼いた動物の肉を口にする時も、この子はしばしば悲しそうに目を閉じていた。

 大山脈に住まう山の民が山の恵みに感謝して供物を捧げることがあるという話を聞いた覚えがあったが、彼女もまた、それに近い教えを父親から受けているのか。

 それとも、ナツメ自身の心根の優しさからしている行為なのか。

 だとするならばなおさら、山の中で人攫いから隠れ潜んで辛い人生を歩んでいくのは厳しいことだろう。

 

 明らかに異常なほどの、魔力への感覚の鋭さを持つ少女だ。

 それが判明した今、自分の旅に伴ってもおそらく役に立つだろう。

 もしも故郷の山に連れていって、ナツメの父親が既に死んでいたら、その時は──

 いや、しかし。

 そうすれば今度は、この魔物すら悼む優しい子供を、復讐のための凄惨な道のりに付き合わせてしまう。

 ナツメを傍に置き続けることは彼女の純白な身と心を、夥しい返り血で穢してしまうことに他ならない。

 

 重たい拾いものをしたように思う。

 ナツメの魔力感知能力を出会った時に知っていれば、どうせどこかで拾われて重宝されるだろうと、それ以上関わらなかったかもしれない。

 本来の目的地である探究の国ラガニアへの到着だって、大幅に遅れてしまっているだろう。

 ただそれでもあの時、「生きたい」と願ったこの少女を拾って連れ歩いているのは、間違いなく自分の意思なのだ。

 自分がそうしたかったから、そうしたのだ。

 

 とにかく約束通り、故郷の山に連れていく。

 それだけは必ず果たそう。

 そこから先のことは、その時考えればいい。

 とはいえ。

 

「ナツメ、いいか?」

「……はい。もう大丈夫です」

「山で父親の狩りを手伝ったことがあるって言ってたな。何か武器が扱えるのか?」

「いえ、お父さんが作った罠にかかってた兎や子供の猪を、小刀で切るくらいしか……」

「そうか」

 

 ナツメが立ち上がり、不安げに見つめてくる。

 どうしようか迷ったが、ローランは心に決めた。

 

「剣の使い方を、教えておきたいと思う。最初は木の枝で打ち合うことからだ。……お前に覚える気があるなら、だが」

 

 ナツメは端正な顔を強張らせ、視線を泳がせに泳がせ、だがやがて、はっきりと頷いた。

 

 

 

 ………

 ……

 …

 

 

 

 数日後。

 

「うわあ……やっぱりすごい。大きな川……」

 

 ローランとナツメは、大河川を近くで見下ろせる小高い丘までようやく辿り着いた。

 当初の目的地だった大商業都市ヴァルゲンからあえて離れるように大きく東へ逸れ、その上でナツメの体力に合わせてゆっくり移動したために、大河川に到着するまでかなり時間がかかってしまっていた。

 それは仕方ない。

 ただ問題は、どうやってこの川を渡るかだった。

 

「……参ったな。思ってたよりデカい」

 

 ローランは眼下の膨大な水の流れに、思わず呟いた。

 この大河川は大陸の南方と東方の境界になるほどの川である。

 そして同朋の魔術士にかつて聞いた話では、この流れは途中で方向を変え、そのまま大陸の中央と東方、中央と北方それぞれの境界にもなるという。

 大陸南方のフォルラザの都で戦士として生まれ育ち、魔術士のように各地を放浪したこともないローランにとって、大河川を見るのは生まれて初めてだった。

 ヴァルゲンが大河川の巨大な中州を利用して作られた大陸有数の商業都市であることは聞き知っていたし、そういう街作りが出来る時点でかなりの川幅があることは察していた。

 だが、それを踏まえても実物は大きかった。

 向こう岸が、うっすらと霞んでいる。

 

「ローランさん、この川……ウチらどうやって渡るんですか?」

 

 こっちが聞きたい。

 そう言いたくなるのをこらえ、とりあえずローランはナツメを連れて、丘を下っていった。

 川岸まで行って、間近で改めて大河川を観察する。

 綺麗に澄んでいるわけではないが、水面下が全く分からぬほど濁っているわけでもない。

 幅がありすぎるためか、流れの速さ自体は大したことはなかった。

 足さえ底につけば、自分ならば流されることはまずない程度だ。とはいえ、足がつくわけもない。

 何とかして、イカダでも作って渡るか。

 しかし。

 

「ナツメ。ここから水中の魔物の気配が分かったりするか?」

「ん…………はい。今何となく分かるだけでも十一、十二……じゃなくて十三匹います。中でも一匹は……かなり大きい気がします」

「川の、どの辺りまでの気配を感じてる?」

「えっと、真ん中よりちょっと手前くらいまで……ですね」

 

 分かった、と答えてローランは腕を組んだ。

 二人乗りのイカダを作って漕いだとして、この川幅を渡るのにはそれなり以上の時間がかかるだろう。

 その間に水中から魔物が仕掛けてきたら、イカダではかなりまずい。

 そもそも大河川に潜む魔物の気性や攻撃方法の知識が、自分には一切ないのである。

 ナツメの感知を参考にして、川の半分までに十五匹前後の魔物が襲ってくるという最悪の想定をすれば、渡りきるには約三十匹を相手にする計算になる。

 さらに自分は重たい鎧と大剣を持ち、ナツメは山育ちの子供。

 水中に落ちれば、ひとたまりもない。

 一人でイカダに乗るならば、ギリギリどうにかなるかもしれない。

 だが、ナツメを連れているのだ。

 

 あの魔力の矢を放つ魔物との一戦以降、ナツメとは木の枝で何度か打ち合って剣の稽古をつけたが、はっきり言ってモノになる気がしなかった。

 山で育ったにしては基礎的な体力も膂力も全く足りないし、何より相手に対して果敢に立ち向かおうとする、気迫が出せないのである。

 物心ついた頃から武器の扱いを叩き込まれる自分達戦神の民と比較するのは無意味な話だが、それを考慮せず見たとしても、おそらくナツメに武の才能はない。

 身を守る術を何か覚えるならやはり魔術の方が向いているのだろうが、それをローランが教えるのは不可能だし、何やらナツメは魔術士になるのを拒んでいる感じがあった。

 そして仮に、イカダの上で十二歳の少女が木の枝を握っていても、水中の魔物相手には何の役にも立たない。

 

「……ローランさん。やっぱりウチのことは、もう……」

「うるせえ、ガキンチョ。どうにかする。ただ知恵がいるから、一緒に考えるぞ。一人より、二人だ」

 

 諦めたように呟いたナツメの頭を、ローランはフード越しに乱暴に撫でた。

 見上げてくる眼差しに、明るさが戻った。

 険しい道のりの途中で、大きな川を渡る。

 それだけの話だと思えばいい。

 ローランがにっと笑いかけると、ナツメもにっこりと笑い返してきた。

 拾っただけとはいえこの小さな花を、容易く捨て去りたくはない。

 心の底から、そう思っていた。

 

 

 

 ………

 ……

 …

 

 

 

 ローランとナツメは大河川近くの高所にある森や山を、さらに東へ数日進んだ。

 すると、森の木々の間から、眼下の川沿いに村が見えた。

 さほどの規模ではない村だが、遠目には船着き場のようなものが備わっているようだ。

 

「よし、あそこで何か……ん?」

「魔物に襲われてますっ! 三匹です!!」

 

 ローランが村の異状に気づくと同時に、ナツメが叫んだ。

 村の東側で村人が集まり、かなり大柄な魔物達と向き合っているようだ。

 知らない村だ。本来ならば、助ける義理はない。

 だが、船着き場を持つ村である。

 

「ナツメ、他の気配は!?」

「ありません! あの三匹だけです!」

「分かった! 顔をちゃんと隠して、ゆっくり追いついてこい! 俺は先に村へ行く!」

 

 ローランは大剣を肩に担ぎ、ナツメを置いて森から矢のように駆け出した。

 なだらかな坂道を素早く下り、一直線に村へと走る。

 喧噪が聞こえてきた。

 怯えた声と雄々しい声が、入り混じっている。

 村人が数名、接近するローランに気づいてこちらを指差してきた。

 

「おーい!! 無事かーっ!!」

 

 手を振りながら、声を張り上げる。

 どこの誰だっ、と裏返った震え声。

 

「ヴァルゲンの傭兵だ!! 仕事があって、ここまで来たっ!!」

 

 適当なことを言うと、助けが欲しいと返事があった。

 これで、この村に恩が売れる。

 内心魔物に感謝しながら、ローランは村に入らず東側へぐるりと回った。

 

『グガァァッー!!』

 

 かなり大きな、黒褐色の魔物だ。

 ビードの山騎士が駆る怪鳥よりも、なお大きい。

 体毛や体格から熊の類にも見えるが、鳥脚のように折れ曲がった太く長い脚が、魔物であることを物語っている。

 そして青白い魔力で輝く、下手な剣よりも長い歪んだ爪を四肢に備えていた。

 既に何人かの村人が血まみれで倒れていて、もう身じろぎしていない者もいる。

 武具や農具や銛を構えて対峙している村人達は、皆腰が引けている。

 

 

「ヴァルゲンの傭兵、レオンだっ!! 助太刀するぞ!!」

 

 

 ローランは偽りの名乗りを上げながら草原の石を拾い、魔物の頭部めがけて若干手加減して投げつけた。

 

『グガッ!?』

 

 投石をくらった魔物が大きくよろめき、鳥脚のような脚がふらふらと揺れた。

 魔物の視線が、一斉にこちらに向く。

 そして三匹全ての、四肢の爪の光が増した。

 だが、ビードの怪鳥がそうするように、全身の体毛は輝かない。

 それで、魔物の実力はおおよそ読めた。

 厄介な要素はない。ただ大柄なだけの、低俗な部類だ。

 まとめてかかってきても、その気になれば一薙ぎで片づけられる。

 

 しかし、エルフの老婆に貰った首飾りで武具を偽装しているとはいえ、あまり大勢の前で戦神騎士の武力をそのまま振るいたくはなかった。

 ここは大商業都市ヴァルゲンからそう離れていない、大陸南方の村なのだ。

 治める村長がどういう人物かも分からない。

 もしもオズワルドに肩入れしているか、あるいはその真逆ならば、戦神騎士らしき者が来たということが、この村自体の今後に大きく関わってしまいかねない。

 敗走して最初に訪れた村で身分を明かしたのは、どうしても先立つ物として金が入り用だったからで、本来ああいうことはすべきではないのだ。

 そもそもヴァルゲンの傭兵と名乗った以上、それに相応しい力で戦うしかないのである。

 ただ、手前勝手な手加減によって、村人を無碍に死なせたくもない。

 

 厄介なのは、目の前の魔物ではない。

 この状況で戦うことそのものだった。

 

「気をつけろ、ヴァルゲンのっ! こいつら跳ぶぞ!!」

 

 まとめ役と思しき村の中年男が声を張り上げた直後、三匹の魔物が大きく跳躍した。

 

『グヒィィィッッ!!』

 

 鳥脚の歪な爪がぎらつき、頭上から襲いかかってくる。

 一瞬、オズワルドの飛竜が脳裏によぎった。

 ローランは激昂しそうになった頭を瞬時に冷やし、無様に転がって攻撃を避けた。

 

「弓持ちはいねえのかっ!? 雑でもいいから援護くれ!!」

 

 村人に向けて怒鳴ると、何人かが慌てて矢を放った。

 弱々しい矢だ。当たっても、魔物の体毛に食い込みすらしない。

 しかし、二匹の注意が逸れる。

 一匹だけが姿勢を低くしてローランに突っ込んできた。

 繰り出された剛腕の一撃を半身で躱し、大剣で頭部を串刺しにした。

 

「うわっ、またこっちに来るぞ!?」

 

 即死した魔物の頭から大剣を引き抜いている間に、二匹の魔物が村人達へと向かっていく。

 ローランは再び適当な大きさの石を拾い、跳躍した魔物の胴体めがけて、先ほどよりも強く投げた。

 

『グゲッ』

 

 空中で姿勢を崩した魔物がそのまま落下する。

 もう一匹は自分が村人に襲いかかろうとしていることも忘れ、空中でこちらを睨みつけている。

 横槍を入れられる度に標的を切り替え、優先すべき敵も考えない。

 最初の一匹は比較的賢かったが、やはり図体だけの愚鈍な魔物である。

 ローランの参戦以降、幸いにも村人の犠牲は増えていなかった。

 

『グガガァァァッーー!!』

 

 二匹の魔物は再びローランに迫り、今度は地面すれすれを跳ぶようにして襲いかかってきた。

 ローランはまたも情けなく横に転がり、腕の爪を上手く回避。

 魔物達はばたばたと草原を転げ回るローランにしつこく追いすがっては、爪を振り下ろし続ける。

 

「矢を頼む! このままじゃ死んじまう!!」

 

 大げさに張り上げた悲鳴に応じて、援護の矢が繰り出された。

 最初と同じくほとんどは威力も無ければ狙いも甘い雑な射撃だが一本だけ、一本だけ正確で強い矢が、魔物の側頭に突き刺さって即死させた。

 最後の魔物の意識がまた、村人達の方に向く。

 ローランは地面に横たわったまま、大剣で魔物の折れ曲がった片脚を、切断しない程度に斬りつけた。

 両脚を吹き飛ばせはしたが、ヴァルゲンの傭兵を名乗った以上、こうするしかない。

 

『グギィッ!?』

 

 片脚を斬り裂かれた痛みと、まばらに鬱陶しく撃たれる矢。

 魔物は今さら劣勢を察したのか、逃げようとした。

 

「逃がすなっ! また来ちまう! 絶対に仕留めろ!!」

 

 最初にローランに呼びかけてきた中年男が駆け寄り、果敢にも槍を向けて魔物の逃げ道を遮る。

 数人の若者が、それに続いた。

 苛立ちそうに唸りながらも、動きを止める魔物。

 その隙にローランは軽く跳んで、後ろから大剣を振り下ろした。

 刃が脳天に、深々と食い込む。

 それで魔物は歪な両脚を屈して、力無く膝をついた。

 

「はぁっ、はぁっ……」

 

 ローランはわざとらしく荒い息を吐きながら、その場にひっくり返った。

 村人達の歓声と称賛が聞こえてくる。

 

「なんて戦だ……くそっ」

 

 純粋な村人達の反応に、ローランは罪悪感を覚えた。

 自分も味方も敵も騙すような、卑劣な戦いだった。

 手加減のせいで、無駄な犠牲を生んだかもしれないのだ。

 こんな戦い方をフォルラザ時代にすれば、グリムロ副長に殴られるどころか、首を刎ねられただろう。

 青い空が、癪に障る。

 あのフォルラザ滅亡の夜にノーラが言っていた「険しく惨めな道のり」とはまさにこういうものだと、歯を食いしばった。

 

「あんた無事か!? あんな魔物相手に、滅茶苦茶すげえな! おかげで助かったぜ!」

 

 中年男が興奮した顔で差し出してきた手を握り、ローランは身を起こした。

 

「死ぬかと思った……格好つけすぎたよ。まあ怪我してないからいいけどな。俺よりも、村の仲間の手当てに行ってやってくれ」

「あ、ああそうだな! ありがとうよ! 悪いけど、礼はまた後でするからな! 絶対するからな!」

 

 男は慌ただしく若者達に声をかけ、怪我人の手当てや屍の回収を仕切り始める。

 やはり村の若者のまとめ役のような立場なのだろう。

 良い奴そうだ、とローランは思った。

 

「はぁっ、はぁっ……! ろ、ローランさん……無事、ですか……!」

 

 ナツメがようやく追いついてきて、草原に座ったままのローランの傍に膝をついた。

 だいぶ頑張って走ってきたらしく、肩が大きく上下している。

 

「はぁ、はぁ……んくっ……ウチ、ローランさんが殺されちゃうかもって、怖くって……ぐすっ、ひぅっ」

 

 矢を放つ魔物との戦いで一度戦神騎士の力を見せたのに、ローランが手加減して戦っていたことに、ナツメは全く気づいていない。

 こいつに武の才能は無いなと改めて感じながら、ローランは少女の涙を外套のフードを優しく引っ張って拭った。

 

 その後、ナツメはやはり律儀にも殺された魔物達を屍の傍で悼んだ。

 実際に村人を複数人殺め、ナツメから見ればローランすら殺そうとしていた魔物であるというのに。

 自分は別にそんなことに腹を立てはしないが、そうでない者の方が多いだろうことは、早めに教えておかなければならないかもしれない。

 

 村の後始末がひと段落ついたようで、中年男が村長の屋敷へと、ローラン達を招いてくれた。

 差し出された酒は、中々に濃い味のものだった。

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