自分は笑い話とか息抜きとか、作るの苦手なんだなってお話書いてて思います。
ローランとナツメは大河川を渡って、大陸東方へと上陸した。
東方は南方と比べてまとまった規模の森や山が少ないようで、必然的に見通しの良い野原を歩くことが増えた。
途中には大商業都市ヴァルゲンと探究の国ラガニアを結ぶものであろう整備された街道もあったが、ローランはあえてそれを使わなかった。
エルフの首飾りを身に着けている自分はともかく、抜群の容貌を持つナツメは人目を引く。
野原を主に歩きながらも、森や山があればできるだけそこを通るようにした。
目指すは大商業都市ヴァルゲンの北、ナツメの故郷の山である。
ヴァルゲンの手前から大きく東へ迂回したのを、大陸東方に入ってから今度は西へ引き返すような道のりだ。
その道中でのことだった。
「……っ!? ローランさんこの雨……!」
「あつっ」
外套から出していた腕に雨粒が当たった瞬間、ローランはその熱さに思わず声をあげた。
すぐさまナツメを振り返ると、既に袖の中に手をしまい、雨の直撃を上手く防いでいた。
野原の草花から、大量の湯気が発生している。
「何だこれは……!?」
北東の方角から分厚い雲が追いかけてきていたので雨が降り始めることは分かっていたが、これは予想外だった。
次第に、焦げ臭い匂いまでもが漂い始める。
燃える雨。
そうとしか表現できないものだった。
まずい。戦士の本能が告げてきた。
「っ、ナツメ!」
「きゃっ」
ナツメを覆い隠すように抱きかかえ、ローランは素早く前方を睨みつけた。
とりあえずの雨宿りに使おうかと考えていた、なだらかな山の低い木々。
そこまで駆けるしかない。
「大袋寄越せ! あと口と鼻覆って、身体丸めてろ!」
「は、はいっ!」
ローランはナツメを抱きかかえたまま、"砂粒"の若者に貰った大袋をかざして雨を防ぎつつ、目標の山めがけて全力で疾走した。
湯気が、はっきりと煙に変わり始めている。
草花が焼けている証拠だ。
大陸の東方では、こんな雨が当然のように降るものなのか。
いや、もしそうならば野原がこれほど緑々しいはずがない。
ナツメだって、沸き立つ煙に目を丸くしている。
次第に、大袋までもが若干焦げ臭くなってきた。
「くそったれ!!」
悪態が口から漏れ出す。
だが山はもう目前だ。とにかく大きめの木を雨避けにできれば──
「……っ、ローランさん! 魔物が山を下ってきてます! 三匹です!!」
ナツメの報告に、ローランは舌打ちした。
急いで山を上り、目についた中で最も大きな木の下に潜り込む。
そしてナツメを下ろし、背負った大剣に手を伸ばして、斜面を見上げた。
どこだ、と問うまでもない。木々のまばらな山だ。
ローランの目にも、慌ただしく駆け下りてくる魔物達が見える。
魔力で青白く輝く長爪を備える、歪な猿型。
ありふれた低俗な連中だ。襲ってきても、何の問題もない。
「……!?」
ローランがそう考えていると、魔物達は斜面の途中にあった洞穴へ入っていった。
木の下にいるより安全だ。
当然の判断ではある。
しかし。
「うひぃぃいぃっっ!? ちょっ、入ってくるなぁぁ!?」
しわがれた老人の声が、洞穴から響き渡ってきた。
「うぉおぉっ!? や、やめっ! ぐわぁぁっ!!」
「誰か襲われてる!? 助けなきゃっ!」
「バカ、お前じゃ無理だ! っ……ああもう、何なんだよ次から次へと!!」
護身用の剣を抜いて木の下から飛び出そうとするナツメを押し留め、ローランは洞穴へと走った。
辿り着き、中を覗き込む。
奥の暗闇に、青白い輝きが複数。
しかし狭い。
屈むほどではないが、大剣が振るえる広さではない。
「おい爺さんっ、無事かー!!」
「おお、お助けぇぇー!!」
ローランは突入した。
転がっている石を拾い、とりあえず魔力の光に向けて投げつける。
『ギヒ?』
奥で魔物の声。
殺気がこちらへと向いた──のも一瞬だった。
振りかぶれず、投石の威力が貧弱だったからだ。
「ま、待てっ!? 来るでないわっ!! うりゃ、うおぉっ、うぎゃっ!」
魔物達はしつこく老人への攻撃を続行している。
ローランは歯ぎしりしながら、敵の背後に迫った。
一匹がこちらを振り返り、迎え撃ってきた。
左右で大きさの違う歪な眼球が、爪の輝きに照らされている。
『キヒィィッ!』
三本爪による刺突。
それをローランは半身で躱して、伸びきった腕を絡め取り、力任せにへし折った。
絶叫が洞穴に反響した。
そのまま顔面を鷲掴み、首を無理やり捻じって殺す。
『ォゴッ……』
それで残り二匹もこちらを振り返り、向かってきた。
「爺さん、武器は!?」
「ある、あるぞっ! ワシは大丈夫じゃ!」
「こっちに投げろっ!」
「はぁっ!? お前さん、ワシを殺す気か!」
魔物の屍を盾にして残りの二匹の猛攻をやり過ごしながら、ローランは奥の老人と言葉を交わす。
この狭い洞窟の中で、怒り狂って魔力の宿った爪を絶え間なく繰り出す魔物二匹と同時に格闘して殺しきるのは、流石に骨が折れる。
怪我を負えば旅に支障が出るから、避けられる危険は出来るだけ避けたいのだ。
「いいから寄越せってば! 一瞬で片づける!!」
「……っ、ええい!」
暗闇から、洞穴の地面を転がるようにして抜き身の剣が乱暴に寄越される。
ローランは屍を突き飛ばして、それを拾った。
「錆びてるじゃねえかよ……! ったく!」
屍をどけて体勢を立て直した魔物達へと突っ込む。
『キヒヒィィッ!!』
爪。紙一重で避け、錆びた剣先で顔面を貫いた。
即死した魔物が崩れ落ちる。
刃を引き抜く間もなく、さらに爪。
だがローランは冷静に、貫いたままの屍をぐいと持ち上げた。
ズドドッ。
三本爪の刺突が全て、屍に突き刺さった。
最後の魔物が、目を見開く。
そしてもう片方の爪が振りかぶられる──よりも先に、ローランは引き抜いた剣で突きを放った。
眼球を串刺した刃がそのまま、魔物の脳天をぶち抜いた。
「お、おぉ……! ワシの錆び剣で、こうもあっさりと……」
「……はぁ。爺さん、怪我は?」
「へ? ……あ。いたたっ! 腕を何度か斬られとる……じゃ、じゃが心配いらんぞい!」
「なわけねえだろ……ちょっと待ってな」
ローランは三匹の魔物の屍をまとめて担ぎ上げ、洞穴の外に出た。
燃える雨は、いつの間にかやんでいた。
沸き立つ煙の中をナツメが大袋を担いで、こちらに駆け上がってくる。
「ローランさん、大丈夫ですか!? 中のお爺さんは!?」
「腕をやられたみたいだ。大袋をちょっと切って、止血に使う」
「はい!」
ナツメの差し出してきた剣を使って大袋の口を適度に切り、ローランが洞穴の中に戻ろうと振り返った、その時。
「よっこらせ、と。いやー、まったく。死ぬかと思ったわい」
無傷の老人が穴から出てきて、大きく身体を伸ばした。
ナツメが小さく声を上げ、気まずそうに目を背けた。
ローランも、呆れて口を開いた。
洞穴の暗闇と魔物との戦闘で、気づかなかった。
「助かったぞい、旅の剣士よ! 恩に着るわ!」
「……恩より服を着ろよ」
禿げ頭の老人は、なぜか全裸だった。
………
……
…
「まったく、国の犬どもが。相も変わらず、あぐっ、くだらん実験をしおってからに」
「実験? さっきの燃える雨が?」
「うむ。ラガニアの国仕えがやっとるのよ。あぐ、あぐ……いい迷惑じゃわい」
禿げ頭の老人はローラン達が川の民の村で貰った干物にかじりつきながら、愚痴をこぼした。
洞穴の入り口にあぐらをかいたその股座は、止血に使うはずだった大袋の切れ端で隠している。
衣服も外套も纏っていない、正真正銘の全裸である。
痩せこけ、萎びて枯れ木のようになった、老いた裸体である。
ナツメはフードを目深に被ったまま黙りこくって、顔を逸らしていた。
「ごくん……ふぃー、美味かった。こんな美味いものを食ったのは本当に久しぶりじゃわい……ありがたや。さて……お前さんら、炎の魔術くらいは知っとるな?」
「ああ。戦で使われる、定番中の定番の攻撃魔術だな」
「それをあれやこれやで凝縮した……まあ、なんというかな。"炎の魔力の種"とでも呼ぶべきようなものを、雨雲に向けて打ち上げるんじゃよ。さすれば」
「……さっきの燃える雨になる?」
「そういうことじゃ」
「とんでもねえ国だな、ラガニアってのは」
ローランは斜面に立ったまま、後ろを振り返った。
なだらかな山から望める野原は、まだ方々で煙が立ち上っている。
この山も煙は上がっているが、それでも被害は野原と比べて遥かに少なかった。
どうやら雨雲がちょうど山に差しかかったところで、魔術の効力が切れたらしい。
見たところ草花を軽く焼け焦がす程度の火力しかないが、それでも凄まじい攻撃範囲だ。
村で貰った分厚い大袋がなければ、ローラン達の外套も焼けていたかもしれない。
装備の整っていない小国の軍勢が布陣や行軍の最中に浴びたならば、到底戦どころではなくなるだろう。
探究の国ラガニアが、大陸東方において有力な国と言われるわけだ。
「探究の国はしょっちゅうこんなことやってるのか?」
「いいや。ワシは三年前までラガニアにおったが、その頃にはもう実用化をとっくにあきらめとったはずじゃ。雨雲に届く高さまで"炎の魔力の種"を打ち上げるのは、多人数でのかなり大がかりな準備がいるからの。久々に見たわい。……まあ確かに、少しはマシな威力になったかのう。じゃが、なんで今さらになって、また試し始めたのやら」
ローランは頭上の雨雲を見上げた。
雨雲は分厚く黒々としたままにもかかわらず、先ほどの燃える雨で力を使い果たしたかのように、もはや一滴の雨すら降らせてこない。
それとも、雨雲ですらなくなってしまったのか。
「……あんた、世捨て人か?」
「ホホ。まあ、そんなもんかな。ごほんごほん!」
老人は傍らにあった細杖を支えに颯爽と立ち上がり、もじゃもじゃの白髭をしごいた。
「ワシの名はヴァッセル! 誇り高き"探究者"ヴァッセルじゃ!! 助太刀に感謝するぞい、若者達よ!」
はらりと、股座を覆っていた布きれが落ちた。
一発張り倒して、そのまま立ち去ろうか。
沈黙の中でローランがそう思案していた時、ナツメが顔を逸らしたまま口を開いた。
「あ、あの……"探究者"って何ですか?」
「ホホ、いい質問じゃなお嬢さん。箱入り娘さんかのう? それはな……」
「とりあえず座って、股を隠してくれるか?」
「なんじゃい、いいところで」
ローランが預かっていたままの錆びた剣を乱暴に地面に突き刺すと、ヴァッセルは素直に布を拾って座り直した。
「"探究者"というのはな。あー……まあ、ここら一帯を支配しとる探究の国ラガニアが誇る精鋭魔術士のことじゃ。……ふん。余所に広く知れ渡っとるのはな」
「……えっと? 本当は違うんですか?」
「いや、特に違わねえだろ」
「違う! 違うんじゃい!!」
ヴァッセルがローランに唾を飛ばしながら、杖先で地面を何度か叩いた。
「お前さんの想像しとる"探究者"は、国の犬どもじゃ! さっきの燃える雨のような、戦争目的の野蛮でくだらん術ばかり研究しとる、"探究"の意味も忘れた愚かな連中よ! 真なる"探究者"ではない!」
「……はあ」
「魔術士とは本来、見識と交友を広めることによって叡智を得るもの。それはまっこと良いことじゃ。正しいことじゃ。確かにラガニアの国仕えの奴らも、その程度はしとる。……じゃが、真なる"探究者"ならばさらにもう一段上の高みを目指すべきなんじゃ。高次の思索の果てに、全く新たな叡智を見出してこそよ」
「……そ、そうなんですか」
「それであんたが見出した叡智ってのが、その腕を治した"治癒"の魔術なのか? 確かにすげえ魔術だってのは、俺でも知ってるが……」
「まさか。これはワシの得意の術にすぎんわい。若い頃からの取り柄じゃ。ホッホ!」
ヴァッセルはそう笑って、自身の両腕を撫でさすった。
魔物の爪によって斬り裂かれていたはずの腕には、血痕どころかかすり傷一つない。
それは、魔術の素質がないローランから見ても、この老人が優れた魔術士である証拠だった。
"治癒"の魔術は、人間が行使する魔術の中でも特に希少な素質を求められる術だ。
かつてのフォルラザの戦神騎士団ですら、この魔術を使える魔術士は三人しかいなかった。
現在生き残っている戦神騎士十人の中では、アレクシスしか使えない。
しかも膨大な魔力を使用するために術士の消耗が激しく、負傷した兵士を片っ端から治してまわるような真似も出来ない。
それほどに使い手と使い方を選ぶ、非常に高度な魔術のはずだ。
だがこのヴァッセルという老魔術士は、まるで疲労した様子もなく朗らかに笑っている。
戦神の魔術士と比較しても、かなりの魔力量である。
ラガニアの"探究者"とはこれほどのものかと、内心ローランは驚いていた。
「……いや。だけど"治癒"を使って平然としてるほどの魔術士なら、普通の攻撃魔術であんな魔物くらい片づけられたろ。"魔力の矢"とか"炎の槍"とかでよ。なんでこんな錆びた剣で」
「うぐ……ワシは、攻撃魔術の素質はからっきしでな。取り柄は"治癒"と魔力感知だけじゃ」
「"治癒"と感知だけって。真なる"探究者"じゃないのかよ」
「ほう? では逆に聞くが、攻撃魔術を五種使えればそれは叡智ある魔術士か? 十種使えれば、五種使える者より叡智があると言えるか? 百種使えれば、エルフにも勝る賢者か?」
ローランは面倒くさくなり、目を閉じて腕を組んだ。
イオを初めとする同朋の魔術士達が、宴で酔っぱらった時。
そんな時に朗々と語り出す高説が、まさにこの類の話だった。
魔術関係の素質が皆無で知識も乏しい自分は、「知らん」の一言しか返せない。
「……ふっ。長じたる者に師事し、杖の振り方と魔力の練り方を学べば使える凡庸な攻撃魔術など、五種使えようが十種使えようが何も偉くないわい」
「よく分からんが、それは攻撃魔術を実際に使えるようになってから吐くべき言葉じゃないのか? あんたからっきしなんだろ?」
「既存の十を学ぶよりも、十を十一にかさ増しするよりも、無から全く新しい一を生み出す。そう……他の誰も会得しとらんような、唯一無二の魔術を新たに生み出す。ワシはそれこそが、魔術士の真なる"探究"だと思うておるんじゃ」
ヴァッセルはローランの指摘を完全に無視して、言いたいことを言いきった。
魔術における革新とは何か、というような話をおそらくしているのだろう。
しかし、それはローランにとって全く縁も興味もない話だった。
なんとなしに後ろのナツメを振り返ると、青ざめた顔を強張らせている。
当然のことだろう。
全裸の痩せた老人が半ば焼けた山で、なにやら謎の高説を垂れているのだ。
ある程度世間を知っているローランから見ても、完全に異常者の類である。
そもそも、何故こんな所に全裸でいるのかがまず理解できない。
理解不能すぎて、はっきり言って不快なほどだ。
世間知らずで繊細な少女には、相当刺激が強いに違いない。
「……分かった。じゃあな、爺さん。行くぞ、ナツメ」
「…………あ、はい」
「待ってくれぇい!!」
ひしっ、とヴァッセルがローランの外套にすがりついてくる。
「……放せ。魔術談義がしたいなら、ラガニアに戻ってお仲間としろよ。俺達は魔術士じゃねえんだ」
「ラガニアの連中はワシの"探究"を理解せずに笑い飛ばし、挙句の果てにとうとうつまみ出しおった!」
「それは多分、あんたの持論とは無関係だろ。全裸の爺さんが外をうろついてたら、どこでもつまみ出されるわ」
「この三年、ワシはこの洞穴を住居とし、うろつく魔物に怯えながら必死に飢えを凌ぎ、なんとかやってきた! 街道に蹲り、物乞いをしたことだってある! お前さんらに貰ったさっきの干物が、どれほどのご馳走であったことか!!」
「……それは同情するけど。でも全裸なのは同情も理解もできねえよ。外套とか服とか持ってないのか?」
「服はない。外套は一応、物乞いで貰ったボロっちいのが洞穴の中にある」
「じゃあせめてそれ着てくれよ。初対面の相手に全裸で話すな。そんなだから……」
「何故ワシが裸にこだわっておるのか、これから語る!」
「いや、いい。興味ねえから。放せって」
「ひぐっ、ぐす……頼む……ずっと落ちこぼれ扱いだったワシの、それでも生涯をかけて辿り着いた"探究"の成果を見てくれぇ……えぐ、う、うぅ……」
とうとう咽び泣き始めた全裸の老人。
ローランは眉をひそめてその猫背をさすり、仕方なく大袋からもう一枚干物を取り出して食わせてやった。
ヴァッセルは涙と鼻水と涎でグシャグシャになった顔で、干物にかじりついている。
「……あのな、ヴァッセルさん。ラガニアでは落ちこぼれだったかもしれねえけど、そもそも"治癒"なんて高度な魔術が使えるなら別にどこでも生きていけるだろ?外套着てヴァルゲンにでも行って、怪我人治して食っていけよ」
「あぐ、確かにこの三年……あぐ、あぐ……幾度となくそれを考えた。んぐ、ごくっ……じゃが、ワシの志す"探究"がそれを許さんかったんじゃ! 頼む……ワシがこのまま野垂れ死ぬ前に、この"探究"の成果を見届けてくれぇ……!!」
「……ローランさん」
ナツメがそっと懇願するような眼差しで、ローランの外套を引いてきた。
話くらいは聞いてあげませんかと、真紅の瞳が憐れみを滲ませて語っている。
ローランは、大きくため息を吐いた。
「分かったよ。あんたの"探究"の成果って奴を、俺達に見せてくれ」
「おお、おおっ! ありがたやありがたや!!」
ヴァッセルがひれ伏し、地面に禿げ頭を擦りつけた。
ローランはそれをやめさせ、とりあえず話を促す。
顔を上げて座り直した老人の目つきが、変わった。
戦場に望むかのような、鋭い眼差しだ。
「まずは理論の話からじゃが」
「出来るだけ簡潔に頼む。さっきも言ったが、俺達は魔術士じゃねえから」
「うむ。では色々とすっ飛ばして語るが……人間が魔術を行使するために必要な大前提は何か。お前さんらは知っとるか?」
「魔術の素質……というか魔力があること。その上で、魔力を形にするための特別な杖を持っていること。……魔力がない場合は、魔術士が時間をかけて作ったスクロールを持っていること」
「大正解じゃ。やるのう、お前さん。やはりそこらの木っ端な旅人ではないな?」
「……傭兵だ。戦の経験はそれなりにしてきた。そのくらいは知ってる」
「そうとも。人間が魔術を使うためには、杖かスクロール……このどちらかが絶対に必要になる。これは探究の国ラガニアですら大前提とされる、魔術士の常識中の常識。……エルフならば、また話は別じゃが」
「…………っ」
後ろで、ナツメが息を呑んだ。
ヴァッセルの醸す真剣な気配に、圧されたようだ。
「長年の"探究"の果て、この常識をワシはついに覆した」
「……何だって?」
「ふっ。耳を疑うのも無理はない。かの黄金の叡智を誇るエルフの領域に、ワシは人間の身で到達したということじゃからな」
ローランは顎に手をやり、僅かに俯いた。
オズワルドの追撃を逃れるために大陸南方を旅する最中、エルフの老婆と出会ったことを思い出す。
あのエルフは確かに、杖もスクロールもなしに尋常ではない魔術をいくつも使っていた。
魔術士でないローランから見ても、人間には到底不可能な業だった。
眼前の老魔術士は、その域に達したのだという。
「そしてそれが、ワシが全裸であることと深く関わっておる」
「…………何だって?」
「そしてそれが、ワシが全裸であることと深く関わっておる」
真面目な話が、急に方向性を変えた。
神妙に頷く全裸の老人。
やはり立ち去ろうかとローランが考え始めた直後に、ヴァッセルは再び口を開いた。
「人間が己の魔力の有無に気づく方法は、何があると思う?」
「……魔術の杖を振ってみることじゃないか? 少なくとも俺は知り合いにそれをやらされて、自分に魔力がないことを知ったが」
「そうじゃの。人間はエルフや魔物のように、容易く魔力を身体の外には引き出せぬ。そして当然、外に引き出せぬ魔力の存在には自分が気づくことも、他人が気づいてやれることもない。だからその辺の村で生まれ、畑を耕しとるような者どもは、一生その素質に気づかぬ者も多いじゃろう」
「ラガニアでも、とりあえず杖を振らせて素質を見るのか?」
「まあな。一度杖を振って己の内なる魔力の存在に気づけば、その後は漠然とその量や性質も自覚できるようになる。まあ、それは本当に漠然とした感覚じゃがな」
「……はあ。何となく理解できる、ような」
「他にも外道も外道な方法として、血を流させるという手がある。身体の内側に秘められたものを外に出して確認するには、これも手っ取り早い方法じゃからの。じゃが、血に滲む魔力を自他が感じるには、あまりにも大量の血を流さねばならず……」
「っ……!」
ナツメが呻いてふらつき、体勢を崩す。
ローランはとっさに抱き支えて、その場に座り込ませた。
「ナツメ、大丈夫か? 爺さんの話は俺が聞くから、離れて休んでてもいいぞ」
「いえ……大丈夫です。ウチも、聞きます」
「だけどお前……」
「いいんです。聞かせてください、ローランさん」
「すまぬ。お嬢さんには刺激が強かったの。……まあこんな狂った確認方法は、魔術がまともに研究され出すより前の、遥か大昔の話じゃ。流石に今でもやっとるところはワシの知る限りでは存在せんから、安心してくれぃ」
ナツメの様子が一旦落ち着くまでじっと待ってから、ヴァッセルは話を続けるぞと言った。
「この己の内なる魔力への、漠然とした"気づき"の感覚を深化させることが、杖やスクロールを使わずに魔術を行使することに繋がるのじゃ」
「……?」
話についていけず首をかしげたローランの前で、ヴァッセルはあぐらの股座を覆っていた布きれを投げ捨て、両手を合わせて目を閉じた。
そしてそのまま、長々と沈黙し続ける。
急にどうしたのかと思ったが、あまりにも集中した老魔術士の雰囲気に迂闊に声がかけられず、ローランは何となしに空を見上げた。
山の上を覆う黒い雨雲はやはりもう雨を降らせてこず、湿気すら既に少なくなってきている。
"炎の魔力の種"とやらに、力を根こそぎ吸い取られてしまったかのようだ。
「…………どうじゃ。ワシから何かを感じるか?」
「? いや、俺はそもそも魔力感知の素質がない」
「……ウチも特に、何も感じません」
「じゃろうな。じゃがワシは今、しっかりと己の魔力を感じておる。頭から胴へ、胴から脚へ。そして脚から胴へ、胴から頭へと循環する魔力。その確かな流れを」
「……それで?」
「端的に言うと、この非常に繊細で微小な内なる流れを掴むために、肌に触れる衣の感触があまりにも邪魔だったのじゃ。あらゆる方法で試行錯誤を繰り返し、老境に入って半ば"探究"を諦めかけていた、ある日。ラガニアの市場にて閃光のようにその発想が迸り、ワシはそのまま全裸となった。そしてラガニアは、そんなワシを放逐した」
家の中で全裸になればよかったのでは?
ローランはそう思ったが、老魔術士の真剣な瞑想に口を噤んだ。
「え……ちょっと我慢して、家の中で裸になるんじゃダメだったんですか?」
「…………」
「本来ならば杖を握りしめてそれに意識を傾けることで、魔力という形なき力を魔術という形ある力へと変化させ、体外へ放出するのじゃが」
「あの……いえ、すいませんでした」
「ワシはこの全身を循環する魔力の流れをつぶさに意識し、そしてそれを制御して操作することで……操作することで……操作、操作……っ」
ヴァッセルの禿げ頭が、青白い光を放ち始めた。
淡い光はやがて輝きを強め、直視しているのが辛いほどに眩しくなっていく。
ローランは外套の袖をかざしながら、その様子を何とか見つめ続ける。
「かああぁぁぁぁぁーーーーーっっっ!!!!」
ボッ。
禿げ頭から、光の玉が勢い良く打ち上がる。
そしてそれは空中で大きく膨張し、黒く分厚い雨雲の下、山のすぐ直上に、青白い太陽が出現した。
じんわりとした暖かささえ感じるその輝きは、紛れもなく小さな太陽だった。
「す、すげえ。人間が太陽を作るなんて……!」
「ぶはっ。せ、成功じゃ……これぞ我が"探究"の極致、その名も"青の太陽"……ひ、人と話しながらやったのは、初めてじゃったが……ぐふっ」
「あっ、ヴァッセルさん!」
慌てたナツメよりも素早くローランはヴァッセルを抱き止め、その場に寝かせた。
「はぁ、はぁ……ワシは魔力量には自信があるが、それでも一発打ち上げたらすっからかんよ。しばらくは、身動きも……とれんわい……」
「……良いもの見せてもらったよ。こんな魔術見たことねえ。しかも、杖もスクロールもなしでやるなんてな」
「ホホ……もっと褒めぃ。はぁ、はぁ……これが国の犬どもとは違う……真なる"探究者"の見出した……叡智よ」
「ああ、大したもんだぜ。ヴァッセルさん」
「はい……ウチも、すごいと思います。……その、本当に」
三人は雨雲の下で煌々と山を照らす"太陽"に目を細め、だがしっかりと見上げ続けた。
………
……
…
その夜。
ローランとナツメとヴァッセルは焚火を囲み、ローランが仕留めてきた鹿の肉を食べていた。
「んぐ、あの青い太陽……まさか数時間ももつなんてな。ほんとにすげえ魔術じゃねえか」
「ホホッ、普段はもうちょい早く消えるんじゃがな。あれほど眩しくも輝かんし。しかも、あぐっ、"治癒"で既に魔力を消費した後だったのじゃが、んぐ……今日は何やら、調子がよかったわい。久しぶりにまともな、あぐ、がつがつっ、話し相手がいてくれからかのう……」
禿げ頭の老人は焼けた肉を貪りながら、感慨深く夜空を見上げた。
雨雲はとっくに過ぎ去り、月の光が山の斜面を淡く照らしていた。
"探究"の成果を披露出来て満足したのか、ヴァッセルは流石に全裸をやめて外套を纏っている。
「礼を言うぞい、旅人さん方。こんなとち狂った老いぼれの奇行に、最後まで付き合ってくれて」
「自覚あったのかよ……理屈捏ねて裸を見せつけるのが趣味の変態だと思ってた」
「なわけなかろう。ワシなりに真摯に己に課した命題と長年向き合い続け、辿りついた結論が裸で魔力の流れを感じ取ることだっただけじゃ」
「えっ。でもそれなら、魔術の練習をする時だけ裸になって、普段はちゃんと着込んでたらいいんじゃないですか?」
「内なる魔力の流れを正確に把握するというのは、本当に難しくてな。暗闇の中で落とした髪の毛一本を空中でつまむより、遥かに難しい。極力裸でおらんと、すぐに感覚が分からなくなるくらいじゃ。……正直言って、今も脱いでおきたい」
ローランとナツメは、互いの渋い顔を見合わせた。
ヴァッセルは"探究"の成果を認めた自分達に感謝して、外套を身に着けてくれているのだろう。
脱いでもいいと言えばおそらく、この老人はすぐに脱ぐ。
しかし、やはり全裸の他人と接しているのは苦痛だし、不快だ。
ナツメの促すような眼差しを、ローランは無情に首を振って制した。
「ふぃー、ご馳走様じゃ。鹿の肉も久しぶりじゃったなぁ……ワシの錆び剣じゃ到底狩れる獲物ではないしの」
「そうかよ。そりゃよかった」
「……しかし、やはりのぅ。こうしてお前さんらと話しとると、改めてよう分かる。魔術、武術、学問、芸事……そうしたあらゆる人間の研鑽や才能は全て、他人にその価値を認められてこそじゃ」
「っ……」
「ワシら魔術士が見識と交友を広げるために放浪するのも、結局はそこなんじゃろうな。思索を高次に押し上げ、新たな叡智を見出し、無から一を創造しても……それを誰にも見せず、認められずに終わっては意味がない。お前さんらに"青の太陽"を披露して、『すごい』と言ってもろうて……しみじみとそう感じた」
「そういうもんか?」
ホホホ、とヴァッセルはもじゃもじゃの白髭をしごいて笑う。
「うむ、まっことそうじゃ。……お前さん、昼間の魔物達を素手と錆びた剣でさっさと片づけたな? 大したもんよ。ワシは戦の経験がないから戦士の実力など測れんが、魔物三匹を瞬殺するほどじゃ。携えた分厚い鉄の大剣を見ても、相当鍛え上げとるくらいは分かる。そうじゃろ?」
「……まあな」
「じゃが仮に、その大剣を振るう相手が一切いなかったらどうじゃ? 極端なことを言うと、森の木に対してしか剣を振るえなければどう思う? そして、見事に木を斬り倒す様を、傍で見てくれる相手もおらんとする。森の木を孤独に斬るだけで、一生を終えるとする。……どう思う?」
ローランは腕を組み、唸った。
魔術士の垂れる高説は基本的に好きではないが、ヴァッセルの言わんとすることは人間の在り方についての話であり、理解はできる。
「確かに、そんな武力には何の意味もない……かもな」
「ワシはまさに、そういう危うい状況におった。……ラガニアではついぞ形にならなかった"探究"じゃ。良くも悪くも人との関わりをほぼ捨て去り、己の心身の全てを注ぎ込み、この三年間ひたすらに全裸で瞑想を続け、ごく最近になってようやく一応の完成を見た。ついにやり遂げたという達成感は、大いにあった。しかし同時に、この成果を誰にも認められなかったら……という恐怖を背負うことにもなったのよ」
ナツメは黙りこくって俯いたまま、時折焚火に薪を差し入れている。
痩せ萎びた老人は、寂しそうに笑った。
「結局のところ、人間というものは本当に孤独では生きていけんのかもしれん。認めてくれる他者が、寄り添ってくれる他者が……いずれどうしようもなく欲しくなる。『無理解な連中など要らん』『己の"探究"に全てを捧げて、何かを成し遂げられればそれでいい』……ラガニアを放逐された時は、ワシもそう考えとったがの」
ヴァッセルは姿勢を正し、ローランとナツメの前でひれ伏した。
「ありがとう、旅人さん方よ。ワシの"探究"が報われたのは、お前さんらのおかげじゃ。お前さんらのおかげで、ワシの人生はようやく価値を得た。ありがとう、ありがとう……」
ヴァッセルは何度も何度も、ありがとう、ありがとうと繰り返した。
それは決して、大げさに言っているわけではない。
老魔術士の人生の集大成を確かに見届けたことへの、心よりの感謝なのだ。
それが強く伝わってくるからこそ、ローラン達はヴァッセルの気が済むまで感謝の言葉を受け続けた。
しばらくして、老人は頭を上げた。
「……ヴァッセルさん、これからどうするんだ?」
「まだ当分は、全裸で山籠もりじゃな」
「でも"青の太陽"は完成して、"探究"はやり遂げたんでしょう? 故郷に戻れなくても、ヴァルゲンに行くとか……」
「確かに完成はした。一応は、な。しかし、ワシはこれをもっと突き詰めていきたいんじゃ。例えば、全魔力を放出する太陽ではなく、ごく小さな魔力で作るような蝋燭の灯りほどに制御する。それを頭からではなく、指先から出してみる。そしていずれは、衣を纏っていてもそれを可能にする。……要は試してみたいことが、まだまだあるのよ。ホホホッ!」
これが、"探究者"か。
ローランは禿げ頭を輝かせて朗らかに笑う老人を見つめながら、笑みをこぼした。
この"探究"は確かに、そう容易くは他人に認められるものではなかっただろう。
今日の出会いだって、ただの偶然でしかないのだ。
ヴァッセルの言うように、"青の太陽"すら誰にも見せられずに一生を孤独に終える可能性だってあった。
これから先の進歩が本当に可能なのかも、定かではない。
進歩よりも、老いた命の尽きる方が先かもしれない。
たとえ進歩を果たしたとして、再び他人にその成果を見せられるとは限らない。
だから本当は、ローラン達が"青の太陽"の完成を見届けた時点で、もう満足したっていいはずだ。
余生は希少な"治癒"の魔術を駆使して、大いに金を稼いで過ごしてもいいはずだ。
にも関わらず、ヴァッセルはさらなる"探究"の厳しい日々を、前向きに始めようとしている。
これが、"探究者"なのだ。
「ふわぁ……むにゃむにゃ。よいしょっと。すまんが、ワシは洞穴の中で寝るぞい。大して寒い夜ではないからの。いつも通り、裸で寝たい」
「……ああ、分かった」
「おやすみなさい、ヴァッセルさん」
「おやすみじゃ、旅人さん方。別れの挨拶は不要。むにゃ……魔力を、ごっぽり使い果たしとる。一度寝たら、昼まで起きんと思うからな」
「ん。じゃあな、俺達は朝には出発する」
「どうかお元気で。病気にかかったりしないようにしてくださいね」
「うむ、ありがとう。……さらば」
錆び剣と杖を手に、ヴァッセルは洞穴の中へと戻っていった。
ローランはいつも通りナツメと、二人きりになった。
焚火がパチパチと弾ける音が、なだらかな夜の山に響く。
横を見た。
ナツメの真紅の瞳が、ぼんやりと火を見つめている。
人間は、孤独では生きていけない。
寄り添ってくれる他者が、どうしようもなく欲しくなる。
そう語った老人の寂しそうな笑みを、ローランは思い返していた。
その言葉は、自分の心の在り方を考えさせるものでもあった。
同期のノーラが掲げる、戦神の旗。
再起と復讐を目指す、十人の戦神騎士。
生き残った兵士達。
同盟者の"砂粒"。
ローランは、決して孤独ではない。
ナツメを故郷の山に送り届けて一人旅に戻っても、志を同じくする同朋がいるのだと、いつでも感じることができる。
確かな心の拠り所がある。
しかし、ナツメは。
山に戻っても、その先は。
ナツメの父親だって、おそらくはもう──
「大丈夫です、ローランさん」
ナツメが、焚火から視線を移してきた。
「ウチは、大丈夫ですから」
そんなわけがないだろ。
そう言ってやることも出来ず、ローランは少女の取り繕った笑顔を見つめるほかなかった。
………
……
…
ローラン達は大河川を渡って上陸した大陸東方を、ナツメの故郷の山目指して、西へ西へと歩いた。
ナツメは、口数がどんどん減っていった。
微笑むことすら、なくなっていった。
しかしローランは、剣の使い方だけは教え続けた。
食事も、できるだけしっかりと食べさせた。
手を握ってほしいと言われれば、そうした。
それだけしか、してやれなかった。
そして。
「……山が」
呆然と呟くナツメ。
ヴァルゲンからそう遠くは離れていない、北のまとまった山地。
そこに分け入っていくらか進んだ、小高い山の頂上。
前方の低い山、約束の目的地。
その上半分が、どす黒い暗黒に覆われている。
"闇の吹き溜まり"だ。
屍の怨念を啜る、闇の魔物の巣。
「お父さんっ!!」
ナツメが叫び、駆け出した。
最悪の予想は、的中していた。